北村薫著 「円紫さんと私」シリーズ
南箱根で三日間を過ごしてきましたが、庭仕事の時以外は北村薫さんの本を読んでいました。
たまたま南箱根に向かう前日に、本棚から北村薫さんの処女作「空飛ぶ馬」を引っ張り出して来て、読み出したらこれが面白くて。で、この「空飛ぶ馬」から始まる「円紫さんと私」シリーズの本を持って出かけた次第です。
日常の何気ない情景の中に潜む謎に、円紫師匠が理に適った“おち”をつけてくれる、というのがお決まりのパターンですが、その大きな特徴は殺人事件が一つも出てこない推理小説となっている点です。
謎解きの推理小説なので、小説の面白さがそのストーリにあるのは当然なのですが、そのストーリーの前に北村さんの語り口の巧みさ参ってしまうんです。
「空飛ぶ馬」は短編集ですが、収録されている最初の短編「織部の霊」の冒頭の書き出しは、こんな感じです。
出だしからもう北村さんの世界に引き込まれてしまうというか、〈私〉の世界に「私」も一緒に生活している感じになってしまうんです。
シリーズの中の一冊「秋の花」の解説は宮部みゆきさんが書かれているのですが、その表現を借りさせてもらえば、「作者の筆力が、個別の作品を立ち上げてゆくということではなく、一つの世界を丸ごとつくりあげるという方向に向けられている」ということなのでしょう。
宮部さんは、解説の中でこんなことも言っています。
いや、まさにその通り。〈私〉が、男性を「かっこいい」なんてことをいうと、もうドキドキしてくるんですよね(もちろん、焼き餅でね)。
それほどに彼女、あるいは他の登場人物も含め、その存在感が濃いのです。
このシリーズの主人公<私>は、私(うーん、紛らわしい)がこれまでに出会ったヒロインの中で、間違いなく「好きなヒロインベスト5」に入ると思います。
それだけに、シリーズの最終作(?)「朝霧」の最後の二行が気になって、気になって。
本を読みながらストーリーを楽しんでいるのは勿論なんですが、人物や景色や情景などの生き生きとした描写に酔いしれてしまいます。
どうかすると、ストーリーを追うよりも先に、様々な描写の方に意識がいってしまっている自分がいて、どうなんだろこれはって思っていたのですが、今回読み返してみて気がつきました。
(当たり前のことなんで恥ずかしいですが)優れた描写力があるからこそ、そしてその描写に注意を向けるからこそ、人物や景色や街がリアルな存在感を持って私に迫ってくるわけであり、その結果としてストーリーに没頭していく自分がいるんですね。
季節一つとっても、考えてみると小説を読む中で“季節”に注意を向けたことは、北村さん以前にはそれほどなかったように思います。
乱暴な言い方だけど、(もちろん季節の設定はあるにしても)例えばある事件が起きるのが夏だろうが冬だろうが、それほど話の流れには関係ないというのが殆どのように思います。
「空飛ぶ馬」の中の表題作「空飛ぶ馬」は、クリスマスというのが物語の大きな要素になっているので当然としても、その他の短編のどれにも、その中にリアルな季節を感じるんです。
季節を感じるということは、時の流れを感じるということでもあります。このシリーズ、<私>の19歳の春(大学二年生)から始まって、五作目の「朝霧」で社会人一年生に(そして、20代半ばに)なるまでの成長物語でもあるわけですが、その時の流れを<私>と一緒に生きて来たような気になります。
「六の宮の姫君」の中で卒論に追われる<私>は、卒業後の就職先である出版社の仕事で鎌倉に行くことになるんですが、途中、江ノ電の長谷駅で降りて長谷寺に向かうシーンがあります。
たまたま、少し前に長谷駅の前を歩いたこともあって、今回印象に残ったのですが、相模湾が一望できる長谷寺の展望台で、<私>はある思いに襲われます。
卒業を間近に控えた<私>の決意に強い共感を覚えます(いや、私に出来ているかと言われれば・・・・・ですが)。
隅々まで神経が行き渡っているというか、隅々にも生命が宿っているような気がします。それだからこそなのか、推理小説なのに何度読み返しても面白いし、読み返すたびに新しい発見があるように思います。
余談になりますが、「六の宮の姫君」は芥川龍之介の短編「六の宮の姫君」にまつわる歴史上(?)のミステリーに挑んでいくわけですが、芥川龍之介と交友関係のあった佐藤春夫、志賀直哉、谷崎潤一郎、そして菊池寛などが登場(引用)してきます。
その中で、芥川賞・直木賞の生い立ちを初めて知りました。それぞれ芥川龍之介、直木三十五の名前に因んでというのは知っていましたが、夭逝してしまった二人の友人である菊池寛が、その創設者とは知りませんでした。
また、菊池寛は文芸春秋社の創設者でもあるわけですが、日中戦争勃発時には、なんと『文芸春秋』誌上で戦争批判をしているんです。それがどれほど大変なことかは分かりますよね。
このことが、先に引用した〈私〉の「私のような弱い人間に・・・・・」という思いに繋がっていたんだとは、今、これを書きながら気がつきました。
たまたま南箱根に向かう前日に、本棚から北村薫さんの処女作「空飛ぶ馬」を引っ張り出して来て、読み出したらこれが面白くて。で、この「空飛ぶ馬」から始まる「円紫さんと私」シリーズの本を持って出かけた次第です。
<私>に恋してる私?
北村薫さんの本は、以前、「ターン」を紹介しました。その際にこの「円紫さんと私」シリーズにも少し触れているので説明の繰り返しになりますが、このシリーズは物語の進行役である〈私〉と、事件を明快で合理的な説明で解決していく落語家・春桜亭円紫師匠の二人を主人公としたミステリー小説です。日常の何気ない情景の中に潜む謎に、円紫師匠が理に適った“おち”をつけてくれる、というのがお決まりのパターンですが、その大きな特徴は殺人事件が一つも出てこない推理小説となっている点です。
謎解きの推理小説なので、小説の面白さがそのストーリにあるのは当然なのですが、そのストーリーの前に北村さんの語り口の巧みさ参ってしまうんです。
「空飛ぶ馬」は短編集ですが、収録されている最初の短編「織部の霊」の冒頭の書き出しは、こんな感じです。
眠い---といえば高校生の頃は、朝起こされる時本当に眠かった。時間だよといわれてから、夢うつつで過ごす数分間。起きようか、いや、もう十秒。地獄の責め苦と至福の法悦の間を揺れ動く大きな振り子に水色のパジャマを着てまたがり、ゆうらりゆうらりと揺れていた私。あの頃の毎朝の、枕にした頬ずりくらい気持ちのいいものはなかった。髪の毛が額や耳をすべり、なじんだ枕は私の顔の形をはっきりと覚えてくれていた。
出だしからもう北村さんの世界に引き込まれてしまうというか、〈私〉の世界に「私」も一緒に生活している感じになってしまうんです。
シリーズの中の一冊「秋の花」の解説は宮部みゆきさんが書かれているのですが、その表現を借りさせてもらえば、「作者の筆力が、個別の作品を立ち上げてゆくということではなく、一つの世界を丸ごとつくりあげるという方向に向けられている」ということなのでしょう。
宮部さんは、解説の中でこんなことも言っています。
男性ファンならば、一度〈私〉とお茶を飲んでみたい! 古本屋めぐりをしてみたい! という方がいるのでは? 彼女は本当に可愛いし、とても聡明だけれど、小利口ではない。今時めずらしいお嬢さんです。
いや、まさにその通り。〈私〉が、男性を「かっこいい」なんてことをいうと、もうドキドキしてくるんですよね(もちろん、焼き餅でね)。
それほどに彼女、あるいは他の登場人物も含め、その存在感が濃いのです。
このシリーズの主人公<私>は、私(うーん、紛らわしい)がこれまでに出会ったヒロインの中で、間違いなく「好きなヒロインベスト5」に入ると思います。
それだけに、シリーズの最終作(?)「朝霧」の最後の二行が気になって、気になって。
本を読みながら季節の移り変わりを実感するなんて、そうそうないですよ
人物だけでなく、街や季節さえも、その存在感を主張しています。本を読みながらストーリーを楽しんでいるのは勿論なんですが、人物や景色や情景などの生き生きとした描写に酔いしれてしまいます。
どうかすると、ストーリーを追うよりも先に、様々な描写の方に意識がいってしまっている自分がいて、どうなんだろこれはって思っていたのですが、今回読み返してみて気がつきました。
(当たり前のことなんで恥ずかしいですが)優れた描写力があるからこそ、そしてその描写に注意を向けるからこそ、人物や景色や街がリアルな存在感を持って私に迫ってくるわけであり、その結果としてストーリーに没頭していく自分がいるんですね。
季節一つとっても、考えてみると小説を読む中で“季節”に注意を向けたことは、北村さん以前にはそれほどなかったように思います。
乱暴な言い方だけど、(もちろん季節の設定はあるにしても)例えばある事件が起きるのが夏だろうが冬だろうが、それほど話の流れには関係ないというのが殆どのように思います。
「空飛ぶ馬」の中の表題作「空飛ぶ馬」は、クリスマスというのが物語の大きな要素になっているので当然としても、その他の短編のどれにも、その中にリアルな季節を感じるんです。
季節を感じるということは、時の流れを感じるということでもあります。このシリーズ、<私>の19歳の春(大学二年生)から始まって、五作目の「朝霧」で社会人一年生に(そして、20代半ばに)なるまでの成長物語でもあるわけですが、その時の流れを<私>と一緒に生きて来たような気になります。
時代に拠らない不変の正義を見つめることが出来るだろうか
シリーズ五作の内、三作が短編集、二作が長編なんですが、その長編の一つ「六の宮の姫君」の中で、裏磐梯に旅行に出かけた<私>は、泊ったペンションで思わぬ本に出会い、帰るときにこんなことを言います。一度は親しく手にした本が、紅葉の時も雪に埋もれる時もそして緑滴る時も、空の高い、私からは遠く離れた湖畔のペンションの本棚に、確かに置かれていると思うのは、そう、ちょっといいことである。
こういう感覚というか表現に魅了されてしまうんです。「六の宮の姫君」の中で卒論に追われる<私>は、卒業後の就職先である出版社の仕事で鎌倉に行くことになるんですが、途中、江ノ電の長谷駅で降りて長谷寺に向かうシーンがあります。
たまたま、少し前に長谷駅の前を歩いたこともあって、今回印象に残ったのですが、相模湾が一望できる長谷寺の展望台で、<私>はある思いに襲われます。
私のような弱い人間に、時代に拠らない不変の正義を見つめることが出来るだろうか。それは誰にも、おそろしく難しいことに違いない。ただ、そのような意志を、人生の総ての時に忘れるようにはなるまい。また素晴らしい人達と出会い自らを成長させたい。内なるもの、自分が自分であったことを、何らかの形で残したい。
卒業を間近に控えた<私>の決意に強い共感を覚えます(いや、私に出来ているかと言われれば・・・・・ですが)。
これからも何度も読み返していくことでしょう
書きながら自分でも何を伝えたいのか分からなくなってきましたが、一つ言えるのは、北村薫さんの本は、「一言一句見落とせない」ってことでしょうか。隅々まで神経が行き渡っているというか、隅々にも生命が宿っているような気がします。それだからこそなのか、推理小説なのに何度読み返しても面白いし、読み返すたびに新しい発見があるように思います。
余談になりますが、「六の宮の姫君」は芥川龍之介の短編「六の宮の姫君」にまつわる歴史上(?)のミステリーに挑んでいくわけですが、芥川龍之介と交友関係のあった佐藤春夫、志賀直哉、谷崎潤一郎、そして菊池寛などが登場(引用)してきます。
その中で、芥川賞・直木賞の生い立ちを初めて知りました。それぞれ芥川龍之介、直木三十五の名前に因んでというのは知っていましたが、夭逝してしまった二人の友人である菊池寛が、その創設者とは知りませんでした。
また、菊池寛は文芸春秋社の創設者でもあるわけですが、日中戦争勃発時には、なんと『文芸春秋』誌上で戦争批判をしているんです。それがどれほど大変なことかは分かりますよね。
このことが、先に引用した〈私〉の「私のような弱い人間に・・・・・」という思いに繋がっていたんだとは、今、これを書きながら気がつきました。
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