なぜ、山本周五郎を40年も読み続けているのか
時代小説が好きという記事の最後に、「なぜ私がこんなにも山本作品に魅かれるのか、その源が分かったような気がする」と書きました。
それは、山周の本に出てくる主人公のような生き方がしたい、ってことだったのだと思います。
それがどんな「生き方」なのかと問われれば、いま私が持っている言葉で一番当てはまりそうなのは、「信念のある生き方」ってことになるでしょうか。
私が山周の本を一番読んでいた時期は高校から大学にかけてでした。かれこれ30~40年前になります。言ってみれば“多感”な時期ですよね。あるいは、“生き方”に迷う時期と言ってもいいかもしれません。
そんな時期に出会った山本周五郎。いま考えれば、その本の中に自分の生きていくべき道を探していたのかもしれません。
当時、「信念」という言葉を自分の意識の中に登らせたことは無かったと思いますが、それでも山周の作中の人物が訴えかけて来たことは、そして私が受け取ったことは、彼らの信念だったのだと思います。
松本守正さんのワークショップの内容を紹介した中で、「信念ってカッコイイ」ということに気が付いたって書きましたが、自分では気が付かないまま、高校生の頃から「信念ってカッコイイ」って思っていたということのようです。
信念がカッコイイというよりも、信念を持って生きる人、信念のある生き方に魅力を感じる、カッコイイと思うってことだと思います。
世間から「けちんぼ一家」と噂され、路地の出入りにも、子供たちから「やあいけちんぼ」などと悪口を云われながら、何の縁もゆかりもない源さんのために家族全員で耐え、正しいと思うことをやる勇気。
そして、その家に泥棒に入った“勇さん”は、そこで初めて本物の愛を見つけるのです。
「四日のあやめ」の五大主税介(ごだいちからのすけ)も信念の人です。妻が知らせなかったばかりに、決闘の場に行かず、そのために武士としてこれ以上はないという惨めな立場に追い込まれる五大主税介。
自分は何も悪くないのに、そして妻に全ての非があるのに、世間からの耐え難い嘲笑をすべて自分が受け止めます。どんな非難の眼にも嘲笑の声にも挫けることなく、いつも凛として、門人たちから指南を拒絶されても、主君から任された清明館の師範を勤め続けます。
そして彼は、離縁を迫ってきた妻の兄に向って言います。
「おれは悪評されだしてからだいぶ成長した。これまで褒められてばかりいたが、悪く云われだしてから初めて、いい気になっていた自分に気が付いた。それだけでも成長だし、これからも成長するだろう、悪評の続く限りおれは成長してみせるよ」
この「悪評の続く限りおれは成長してみせるよ」という言葉、最近出会った中でこれほど私の心に響いた言葉はありませんでした。
この言葉に、これからの私の生き方を懸けてみたいと思っています。
なんで時代小説なのでしょうか。
うまく言葉で表現できる自信がないのですが、端折って言えば、作者の伝えたいことをストレートに受け取れることができるから、かな。
多分、実際にその時代(江戸時代とか)に生きていれば、それはそれで複雑な状況もあったのだと思いますが、少なくとも小説で知る世界は、生き方と言うか、求めるものがシンプルなように思います。
武士は一生武士だし、農民は一生農民なわけです。その枠の中で一生懸命生きる。その生活というか人生の中心となるのは自分を見つめること、そして人と関わることに尽きるのではないでしょうか。
その生の中で求めるとモノとは、例えば“道”ということ。典型的なのは武士道でしょう。山本周五郎の著作の中には「婦道小説」というのもあります。
もちろん、成功を望んでいた人もたくさんいたことと思いますが、“道”を究めたい(それがどんな“道”であれ)という人を描き出し、それをすんなりと受け入れることができるのが時代小説の良さなのではないかと思います。
例えば、「かあちゃん」のお勝さんのような生き方は、もしかしたら現代に生きる私たちには絵空事のように思えるかもしれません。そんなのあり得ないでしょ、って。
でも、表に現れる形は違うとしても、本質的にお勝さんが行ったような行為というのは、現代でも十分にあり得ることなんだと思います。それを現代社会を背景に描き出すのは難しいというだけで。
五大主税介の生き様を、現代社会の中で表現するのはそれこそ難しいことでしょう。でも、時代劇と言う舞台を借りて表現した時、作者の思いは鮮やかに浮き上がってきます。そして、その思いが現代では何の意味も無いかといえば、決してそんなことはないわけです。
江戸時代であろうと、現代社会であろうと、決して廃れることのない真実、そして人として求めるべき真の姿。お金も、名誉も、地位も、そして肉体さえも取り去ってしまった後に残る人としての“魂”。
あなたは誰ですか?
あなたは何を求めて生きているのですか?
あなたの使命は何ですか?
そして、あなたの信念は何なのですか?
山本周五郎の本は、私にそんなことを問い掛けているような気がします。
それは、山周の本に出てくる主人公のような生き方がしたい、ってことだったのだと思います。
それがどんな「生き方」なのかと問われれば、いま私が持っている言葉で一番当てはまりそうなのは、「信念のある生き方」ってことになるでしょうか。
信念のある生き方に憧れて
山周の本に出てくる主人公は、みんな「信念の人」なんです。自分の信じる道を、人からどう言われようと貫き通して生きていく。たとえそれがどんなに苦しい道であっても。
そんな時期に出会った山本周五郎。いま考えれば、その本の中に自分の生きていくべき道を探していたのかもしれません。
当時、「信念」という言葉を自分の意識の中に登らせたことは無かったと思いますが、それでも山周の作中の人物が訴えかけて来たことは、そして私が受け取ったことは、彼らの信念だったのだと思います。
松本守正さんのワークショップの内容を紹介した中で、「信念ってカッコイイ」ということに気が付いたって書きましたが、自分では気が付かないまま、高校生の頃から「信念ってカッコイイ」って思っていたということのようです。
信念がカッコイイというよりも、信念を持って生きる人、信念のある生き方に魅力を感じる、カッコイイと思うってことだと思います。
お勝さんや五大主税介の生き様に魅せられて
「かあちゃん」に出てくるお勝さんも信念の人です。直接会ったことも無い源さんのために、三年近くもお金を貯めて、お店を出すための元手を作ってあげようとする生き方。世間から「けちんぼ一家」と噂され、路地の出入りにも、子供たちから「やあいけちんぼ」などと悪口を云われながら、何の縁もゆかりもない源さんのために家族全員で耐え、正しいと思うことをやる勇気。
そして、その家に泥棒に入った“勇さん”は、そこで初めて本物の愛を見つけるのです。
「四日のあやめ」の五大主税介(ごだいちからのすけ)も信念の人です。妻が知らせなかったばかりに、決闘の場に行かず、そのために武士としてこれ以上はないという惨めな立場に追い込まれる五大主税介。
自分は何も悪くないのに、そして妻に全ての非があるのに、世間からの耐え難い嘲笑をすべて自分が受け止めます。どんな非難の眼にも嘲笑の声にも挫けることなく、いつも凛として、門人たちから指南を拒絶されても、主君から任された清明館の師範を勤め続けます。
そして彼は、離縁を迫ってきた妻の兄に向って言います。
「おれは悪評されだしてからだいぶ成長した。これまで褒められてばかりいたが、悪く云われだしてから初めて、いい気になっていた自分に気が付いた。それだけでも成長だし、これからも成長するだろう、悪評の続く限りおれは成長してみせるよ」
この「悪評の続く限りおれは成長してみせるよ」という言葉、最近出会った中でこれほど私の心に響いた言葉はありませんでした。
この言葉に、これからの私の生き方を懸けてみたいと思っています。
なんで時代小説なのか
時代小説が好きとはここで書いた通りです(ここ数年、英語本のヒストリカルロマンスに嵌っているのですが、考えてみればこれも時代小説です)。なんで時代小説なのでしょうか。
うまく言葉で表現できる自信がないのですが、端折って言えば、作者の伝えたいことをストレートに受け取れることができるから、かな。
多分、実際にその時代(江戸時代とか)に生きていれば、それはそれで複雑な状況もあったのだと思いますが、少なくとも小説で知る世界は、生き方と言うか、求めるものがシンプルなように思います。
武士は一生武士だし、農民は一生農民なわけです。その枠の中で一生懸命生きる。その生活というか人生の中心となるのは自分を見つめること、そして人と関わることに尽きるのではないでしょうか。
その生の中で求めるとモノとは、例えば“道”ということ。典型的なのは武士道でしょう。山本周五郎の著作の中には「婦道小説」というのもあります。
もちろん、成功を望んでいた人もたくさんいたことと思いますが、“道”を究めたい(それがどんな“道”であれ)という人を描き出し、それをすんなりと受け入れることができるのが時代小説の良さなのではないかと思います。
私たちが心の底で求めているものは、江戸時代も現代も変わりはないのでは
この“道”とは、“信念”に通じるものがあるように感じます。例えば、「かあちゃん」のお勝さんのような生き方は、もしかしたら現代に生きる私たちには絵空事のように思えるかもしれません。そんなのあり得ないでしょ、って。
でも、表に現れる形は違うとしても、本質的にお勝さんが行ったような行為というのは、現代でも十分にあり得ることなんだと思います。それを現代社会を背景に描き出すのは難しいというだけで。
五大主税介の生き様を、現代社会の中で表現するのはそれこそ難しいことでしょう。でも、時代劇と言う舞台を借りて表現した時、作者の思いは鮮やかに浮き上がってきます。そして、その思いが現代では何の意味も無いかといえば、決してそんなことはないわけです。
江戸時代であろうと、現代社会であろうと、決して廃れることのない真実、そして人として求めるべき真の姿。お金も、名誉も、地位も、そして肉体さえも取り去ってしまった後に残る人としての“魂”。
あなたは誰ですか?
あなたは何を求めて生きているのですか?
あなたの使命は何ですか?
そして、あなたの信念は何なのですか?
山本周五郎の本は、私にそんなことを問い掛けているような気がします。
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