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プログラミングをする必要がなくなった後に人間に何が残るのか?

あらかじめお断りしておくが、以下、ほぼ妄想に基づくポエムである。

note.com

先月話題になったブログエントリであり、ワタシも読んでいて、自分が書いた「次世代のプログラミングツール、未来のプログラミング言語の方向性について」と「未来のプログラミングについて再考(機械学習とソフトウェア2.0、配管工プログラマ、オープンソースでは十分でない?)」との議論の近さを感じていたら、ちゃんと引き合いに出されていてありがたく思った。

たまたまだが、これが公開された数日後に AWS のノーコードツール Amazon Honeycode が発表され、俄かに「ノーコード」が話題になった。

aws.amazon.com

jp.techcrunch.com

jp.techcrunch.com

個人的には、このプロジェクトの紹介動画にでてきたのが、VA Linux の創業者にして、オープンソースバブル期(佐渡秀治さんの文章に詳しい)の象徴の一人であるラリー・オーガスティン(Larry Augustin)なのに驚いた。彼は今 AWS の VP なんだね。

余談はさておき……と書きかけて、いや、これは余談ではないのかもしれないと思い直した。

「オープンソースソフトウェア」だからといって、それに関わる人間全員がソースコードの読み書きができなければならないという理屈はない。しかし、突き詰めれば、プログラミングができれば、ソフトウェアを通じて世界を変える自由が誰にもあるというのがオープンソース/フリーソフトウェアの意義と言えるだろう。

その「オープンソース」という言葉の誕生に関わり、その界隈の中心人物だったラリー・オーガスティンがノーコードツールのアナウンスを行うというのが、象徴的なことに思えるのである。

それで思い出すのは、卜部昌平さん(GeekOut、Rubyist Hotlinks)の一連のツイートである(最初の2016年のツイートを除き、Amazon Honeycode の発表を受けたものだろう)。

これが印象的だったのは、「コードを書かなくなる未来」を卜部昌平さんのような本物のプログラマは否定的に考えているのでは、という勝手な思い込みがあったからだ。しかし、卜部昌平さんは「プログラミングなんてものは人間がやるべき作業ではない」とまで言い切っている。その代わりに「専門性の発揮されるポイントが変わ」るべきだ、と。

しかし、そうなって、卜部昌平さんが書かれるように「LinusがOS書いてるから俺はOS作らなくていいや」とならずに「誰もがOSを作れてしかるべき」というように専門性の発揮されるポイントが変わるかというと、ワタシは少し懐疑的だったりする。

mizchi.dev

そのあたりを考える上で、mizchi さんのエントリにあるように、ノーコードをきちんと分類してみるのは有用だし、その上での「ノーコードはプログラミングをしないことではない」「ノーコードは形を変えた現代のRPGツクール」という結論は分かるように思う。やはり確実に限界はある。

「ビジュアルプログラミングに未来はあるか」という点については、「次世代のプログラミングツール、未来のプログラミング言語の方向性について」で書いたように、既存のプログラミング言語のパラダイムに視覚的メタファーを適用しているだけのビジュアルプログラミングの未来は明るくないだろう。「パンチカード」から脱却できたとき、「ブルーカラー」「配管工」タイプのプログラマーはノーコードに移行できるのかもしれない。

さて、mizchi さんのエントリにおける分類にかけているものが一つあるとワタシは思っていて、それは「未来のプログラミングについて再考(機械学習とソフトウェア2.0、配管工プログラマ、オープンソースでは十分でない?)」でも触れた、機械学習を付加した新しいソフト工学の体系である Software 2.0 の文脈である。

そこではソフトウェアはニューラルネットワークの重み付けとして記述され、プログラマの仕事は(コードを書くことではなく)データを集めることなどになっていくという見立てだが、機械学習周りを中心とした様々な取り組みはあるものの、現実はまだ人工知能にコード作成を任せるところまでは至っていない。が、こちらが本格的な成果をあげる段になったら、「ブルーカラー」「配管工」タイプに留まらず、「ホワイトカラー」「アカデミック」タイプのプログラマの仕事もそちらに移るのではないかという予感がある。

そうなったとき、プログラマにどんな仕事が残されているのだろう。その残された仕事はクリエイティブなものだろうか。

もちろんクリエイティブな仕事が残されている、と自信をもって答える人も多いだろう。ここからはワタシの妄想になるのだけど、ワタシがここで連想するのは、経済学者のポール・クルーグマンがかつて行った未来予測である。

 経済学者ポール・クルーグマンは、いつもながらのちょっと嫌みな調子でこう語る。「“高度”な知的作業は、エキスパートシステムやAIで代替されるかもしれないが、オートメ化した機械の掃除は、機械で代替できまい。人間がそうした“非熟練労働”に専念し、しかも高い賃金を(機械から)もらうことは可能なはずだ」。だがいずれ、そうなるだろう。

山形道場 連載6-10回

 クルーグマンのもっと気軽な文章ってのはいろいろあって、とっても楽しい。主なとこは『クルーグマンのよい経済学 悪い経済学』(日本経済新聞社)や最新作Accidental Theorist(1998, W. W. Norton. どこが版権とったのかな)で読める。なかでも注目したいのが、『よい経済学 悪い経済学』に入ってる「技術の復讐」ってやつ。この文でこの人は、人間が世界の主役でなくなる日を本気で考えている。「『知的』な仕事なんてコンピュータでもじゅうぶんにできる。人間にしかできない仕事ってのは、実は掃除とかメンテナンスとかの肉体労働的な雑用だ!」半分はホラ話としてだけど、半分以上はまじめに。スタニスワフ・レムやウィリアム・ギブスンが直感でつかんだのと同じ未来を、かれは経済学者としての視点で見通してる。

P. Krugman "The Age of Diminished Expectations" Translator's Note

ノーコードが実用に足るかとか議論しているレベルをこえ、人間がプログラミングを行う必要がなくなったとき、人間には「掃除とかメンテナンスとかの肉体労働的な雑用」しか残っていないのではないかという恐怖があるのだ。

それでも「高い賃金を(機械から)もらうことは可能」ならよいのかもしれない。でも、本当にそう都合よくいくだろうか?

yamdas.hatenablog.com

ここで取り上げられている、膨大な量の学習データをひたすらラベル付けする安月給の人間のホワイトカラー非正規労働者の仕事を指す「ゴーストワーク」は、既にそのコンピュータのための露払いである「雑用」の未来を一部先取りしていると言えなくないだろうか。彼らは日常的にサービス残業を強いられ、労働条件に対する要求が繰り返し退けられており、とてもではないが恵まれた仕事環境には思えない。

ワタシの未来予測が暗いのは、もちろんひとつにはワタシが性格が暗い厭世家だからというのもあるが、人間観が古いのもあるだろう。ニコラス・カーが『オートメーション・バカ』において、ロバート・フロストの詩「草刈り」を引いた上で宣言する、労働とは物事を成し遂げる手段以上のものであり、それは思索の一形態であり、ガラスを通さず世界を直接見ることであって、「われわれをわれわれにしているのは労働なのである」という考えをワタシも支持しているのだ。バカにされるでしょうけど。

そうした意味で、プログラミングという労働が人間の手に残された未来のほうが、それがなくなった未来より良いのではないかとワタシは信じたいのである。

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