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デジタル人材のためのブックレビュー(Michael Lopp『ソフトウェア開発者のキャリアハンドブック』)

docomo Solutions PLUS の「デジタル人材のためのブックレビュー」で Michael Lopp『ソフトウェア開発者のキャリアハンドブック』を公開。

この「デジタル人材のためのブックレビュー」は3人の持ち回りで、ワタシはテックカルチャー担当、平たくいえば「変化球担当」だという自覚があるが、それでもオライリーの本取り上げてみたいじゃない、と思っていたところに『Being Geek』の改訂版にあたる本書の刊行を知り、これは取り上げないとな、と思った次第である。

昔、『Being Geek』を田村さんにご恵贈いただいたのに、それについて何も書けなかったお詫びの意味もある。

今回は珍しく原稿に何点か修正が入った。例えば、今回の文章における「ギーク」や「ナード」の注釈はワタシが書いたものではない。そして、表現自体書き換えられたものとして、「人口に膾炙する」がある。まぁ、この言い回しは ChatGPT をも狂わせるようなので仕方ないのかもしれない。

さて、こちらには、外に出す書評に書けない苦言も書いておく。

『ソフトウェア開発者のキャリアハンドブック』は『Being Geek』の改訂版にもかかわらず、新たに誤植が入り込んでいる。例えば、142ページに「私は元来、楽天的な人間である。それが正確の第一の特徴と言ってもいい。」という文章があるのだが、言うまでもなくここの「正確」は「性格」が正しい。

『Being Geek』の136ページに同じ文章があるが、こちらではちゃんと「性格」になっている。改訂版で、しかも同じ文章で誤植を入れ込んでどうすんのよ。あともう一カ所同様のケースを見つけたと思ったが、今それを特定できないのでこれ以上は書かない。

長年電子フロンティア財団の事務局長をつとめたシンディ・コーンの回顧録『プライバシーの守護者』

www.eff.org

電子フロンティア財団(EFF)のポッドキャストで、長年 EFF の事務局長をつとめ、先ごろ回顧録 Privacy's Defender を出したシンディ・コーンが、出版を記念してコリイ・ドクトロウを聞き手に特別対談を行っている。

思えば、この本の刊行を最初に知ったのもドクトロウの Pluralistic で、数年前にはコーンが聞き手でドクトロウがゲストの対談もあったっけ。

今回の対談は、彼女の本の副題にあるように「デジタル監視との30年もの闘い」について、1990年代のクリッパーチップ論争などの「暗号戦争」、2000年代の NSA(国家安全保障局)による大規模監視などに対して彼女が政府や大企業にどう対峙してきたかが語られている。

そして、プライバシーが「隠し事をする権利」ではなく、表現の自由や民主主義を支える本質的な価値であること、そしてそれを護るために不可欠な努力が必要なことを、初期のインターネットの先駆者たちのエピソードを交えながら語っている。

今更だが、EFF がなければ今のインターネットはずっと早くに米国政府に都合のよいものに変えられていただろう。そうした意味で、シンディ・コーンのようにその第一線で闘ってきた人には深い敬意を感じる。彼女はEFF を離れるが、デジタル権利のために戦い続けるとのこと。

監視国家化・権威主義化が著しい米国において、EFF の重要性は減じていないし、そうした意味でコーンの回顧録は邦訳が出てほしいが難しいかな。

ジェフリー・エプスタインにノーと言えた3人の科学者

www.science.org

2008年に未成年者の児童買春で有罪判決を受け、2019年に性的人身売買の容疑で逮捕された直後にニューヨーク市の拘置所で自殺した富豪ジェフリー・エプスタインについてのファイルが公開され、いろんな著名な科学者の名前が登場して波紋を広げているが、彼が取り入ろうとした科学者の多くは、確固たる地位と十分な研究資金を持っていた。

では、なんでエプスタインの誘いを断らなかったのか? Science 誌が、エプスタインにノーと言えた3人の科学者に取材し、どうして彼らがエプスタインとの関わりを拒んだのかを尋ねている。

まず進行がんを専門とするデヴィッド・アガス医師だが、彼の TED Talk を見たエプスタインが2012年にメールを送ってきた。

アガスはネットでエプスタインについて調べ、2008年の有罪判決を含む彼についての詳細を知る。後に彼が送ってきたメールに記載されていた名前のリストにあった知り合い数人に連絡を取ると、皆、「あいつはろくでもないヤツだから近づくな」と言ったそうな。

その後もアガスはエプスタインからニューヨークで会いたいという依頼メールを何度も受け取るが、多忙を理由にアシスタントに断らせ続ける。

それは2019年にエプスタインが再び逮捕されるまで続いたが、なんでアガスは会う気がない理由を率直に伝えなかったのか?

「権力者を怒らせたくなかったから」と彼は言う。「彼を裁くのは私の仕事ではないし、私は対立を好むタイプでもない。また、私は道徳家でもないし、全容を知っているふりをするつもりもなかった」と彼は語るが、ネットで目にしたような経歴を持つ人物とは会わないつもりだったし、その単純な判断は正しかった。

『デモクリトスと量子計算』(asin:4627872011)の邦訳があるコンピューター科学者のスコット・アーロンソンがエプスタインと出会ったのは、2010年に彼が MIT の助教授を務めていた頃のこと。

量子コンピュータの能力と限界を研究しているアーロンソンは、エプスタインの過去を知らず、自分の研究への資金提供を申し出た金持ちに興味をそそられた。またエプスタインがアーロンソンの同僚とつながりがあったのも知っていた。

アーロンソンは自分でネットを調べる代わりに、それより彼にとって信頼できる情報源である母親に相談した(かーちゃんかよ……)。彼女は少し調べて、エプスタインに巻き込まれないよう警告した。

母親がいなければ、プロジェクトのキックオフとなるワークショップで講演をしていたかもしれないとアーロンソンは認める。「そうしたからといって、私が共犯者になったとは思いません。でも、まあ、私にとってとても恥ずかしいことになっていたでしょうね」

『量子力学の奥深くに隠されているもの コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』(asin:4791773160)や『この宇宙の片隅に 宇宙の始まりから生命の意味を考える50章』(asin:479177020X)の邦訳がある理論物理学者のショーン・キャロルは、エプスタインと言葉を交わしている。

2010年当時教授だったカリフォルニア工科大学の関係者が、彼と妻を夕食に招待した際に、ホストがエプスタインに電話をかけ、キャロルにつないだ。その時、彼はエプスタインの犯罪歴について知らなかった。

ビッグバンやダークエネルギーといった話題について話した2分ほどの会話はキャロルに特に印象を残さなかったが、話をしたことを科学ライターの妻にしたところ、その周囲の人々含め「呆れた顔」をしたという。

数ヶ月後、キャロルはエプスタインがカリブ海に私有すうる島にある自宅で開催される科学会議への招待メールを受け取った。興味を惹く内容だったが、彼は招待を断った。なぜか?

その会議に妻も招待されていたが、彼女も会議に参加できるか尋ねたところ、「他の奥様方とショッピングでもしてればいいんじゃない」てな答えで、その性差別的な態度に夫婦は嫌悪感を抱いたからだ。

当時、既に彼が有罪判決を受けた性犯罪者だと知っていれば、断る決定はずっと容易だろうが、その当時エプスタインは有名人ではなかったし、深く調べようとは微塵も思わなかったという。

キャロルは金に困ってはいないので、資金援助の誘惑は自分には問題ではなかったという。「人生の最期において、自分が何者かは、成し遂げたことの積み重ねで決まる。お金をどれだけ持っていたかだけじゃないんだ」とキャロルは語る。

うーん、最後に引用したショーン・キャロルの言葉はカッコいいが、「資金援助の誘惑」に抗えない科学者はいくらでもいるだろうし、この3人の話を読んでも、相手の素性はよく調べましょう以上の教訓は導き出せないように思う。ちょっとしたタイミングなどの問題で迂闊にエプスタインの申し出に乗ってしまい、今になって後悔している人も多いのかも。

ネタ元は Boing Boing。

ジョン・ル・カレの息子が『カーラの選択』で『寒い国から帰ってきたスパイ』と『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』をつなぐ

yamdas.hatenablog.com

ジョン・ル・カレの息子であるニック・ハーカウェイが、『寒い国から帰ってきたスパイ』と『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の間を埋める本を書いていることを昨年夏に紹介している。

そして、「これは早川書房から邦訳を期待したいですな」と書いたが、それから一年も経たないうちに『カーラの選択』として邦訳が出るのを知る。

原書刊行からは一年半くらいとはいえ、早川書房は毎度ながら仕事が速い。

そうそう、ジョン・ル・カレといえば、彼の小説のドラマ化である『ナイト・マネジャー』の10年ぶりの復活が話題とな。

スピルバーグ、コッポラ、ルーカスという「ハリウッド最後の王たち」の有害な友情?

www.independent.co.uk

ポール・フィッシャーの The Last Kings of Hollywood の書評だが、17歳だったジョージ・ルーカスが自動車事故で死にかけたが生還し、「誰も生き延びれるはずのない事故を自分が生き延びたのには何か理由があるのかもしれない」と考えた話から始まる。

この本の主人公であるジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラ、スティーヴン・スピルバーグの三人は、ルーカス以外も人生のはじめに傷つきながらハリウッドにやってきた。コッポラは幼少期にポリオで1年間寝たきりだったし、スピルバーグは後にも長く影を落とすユダヤ人いじめに耐え抜かねばならなかった。

この3人を取り巻く人たちの証言を基に書かれた(主人公の3人はインタビューを拒否)この本は、1972年から1977年にかけて、あらゆる興行記録を塗り替え、大衆映画の地図を一新した彼らの壮大なビジョン、そしてそのビジョンが衝突し、お互いをむしばみ、ついには飲み込んでしまうまでの物語であり、彼らの葛藤に満ちた競争的で時に有害な友情関係を追った本とのこと。

コッポラとルーカスといえば、当初ルーカスの企画だったのにコッポラが懇願してルーカスが折れた『地獄の黙示録』が知られるが、これを引きずったルーカスがコッポラに対抗するためにブドウ園を買った話は知らなかった。スピルバーグがルーカスの『アメリカン・グラフィティ』に激しく嫉妬し、後に『スター・ウォーズ』の音楽を聴いた時、ルーカスがジョン・ウィリアムズの最高傑作を盗んだと確信した話もまた然り。

そして、この3人の先駆者がハリウッドから自由になれたのには、彼らを支えた女性たちの仕事があった。 1969年から1983年までルーカスと結婚していたマーシア・ルーカスは、『スター・ウォーズ』を編集で救い、アカデミー賞を受賞した(が、何十年もの間、歴史からその功績は消し去られていた)。メリッサ・マシスンは10代のベビーシッターとしてコッポラ家にやって来て、7年間にわたり彼の世界に深く関わることとなり、最終的には『E.T.』の脚本を執筆した(そして、ハリソン・フォードと結婚する)。後にスピルバーグと共にアンブリン・エンターテインメントを共同設立し、後にルーカスフィルムを率いることになるキャスリーン・ケネディは、スピルバーグの周囲で彼に「ノー」と言える唯一の人物だった。

この本は、これらの女性たちに正当な評価を与えており、彼女たちの才能を利用しながら功績を認めなかった「ニュー・ハリウッド」革命に対する静かな告発になっている、と本書を評価している。

「ルーカス、スピルバーグ、そしてコッポラは、間違いなく映画を変えた。彼らが望んだ通りに変えたかどうかは、全く別の問題だが」と記事は締めくくられている。

マーティ・シュプリーム 世界をつかめ

元から行くと決めている映画は、公開初日の金曜夜にレイトショーで観るのが通例である。しかし、以前から大評判になっている本作の場合、福岡市中心部すらキャナルシティ博多や博多駅のシネコンでは公開初日でも1日2回上映でレイトショーなし。TOHO シネマズ天神では上映すらなし。アカデミー賞9部門ノミネートのティモシー・シャラメ主演作ですらこうなんだから、洋画は厳しいっすねぇ……それでもレイトショーをやってるシネコンに出向いたが、そのシネコンで最も小さなスクリーンが割り当てられており、観る前からなんだか気分が下がったよ。

しかし、最低で最高だったな!

としか言いようがない映画である。なんちゅう始まり方、タイトルの出し方だと言いたくなる最初から、主人公のマーティ・マウザーが警察から逃げ回り、金策に駆けずり回り、不倫相手だろうが友達だろうがトラブルに巻き込んでだいたいひどい目にあわせ、見事なラケット捌きで卓球もやる2時間半で、この容赦ないアップダウンの連続、冷静に考えると前作『アンカット・ダイヤモンド』とだいたい同じ話じゃないかとも思えるのだが、結末はまったく違うし、やはり本作におけるティモシー・シャラメの存在感は素晴らしいものがある。

しかし、本作並びにそのプロモーションにおけるティモシー・シャラメのキャラ変は驚きで、それについては辰巳JUNKさんのポストを読んでもらうとして、『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』でも才能の磁場で周りを巻き込んでいたが、あれではボブ・ディランを殊勝に演じている印象があった彼が、本作に主人公さながら世界中を駆け回って自らを映画の宣伝マシンにしたのはすごいことである。

しまいには不遜なキャラが抜けないまま(?)、オペラやバレエについて余計なことを言っちゃったのはアレだが、ワタシは本作の彼の演技はオスカーに値すると思う。が、アカデミー会員にはまったく愛されないでしょうな(苦笑)。

それにしてもタイラー・ザ・クリエイターやアベル・フェラーラ(!)をよく引っ張り込んだもんだ。

本作は1950年代はじめが舞台だが(その質感を実にしっかり映像化しているし、なので主人公がだいたいスーツにネクタイ締めてるのも良かった)、そんなの関係なく流れる New Order の「パーフェクト・キス」、そして最後の Tears For Fears の「ルール・ザ・ワールド」も良かった。

しあわせな選択

なめとんのか、Google。

それはともかく、↑に書いたように、元から行くつもりの映画は、公開初日の金曜夜にレイトショーで観るのだが、本作は都合がつかずに公開2週目の鑑賞となった。

前作『別れる決心』は一緒に観た人が寝てしまったし、正直ワタシにも分からんところが多々あった。本作はそこまででもなかったが、会社をリストラされて無職になった主人公が、再就職の障壁になる存在を消そうとする大元のプロットが破綻しているように思った。

しかし、主人公をはじめとして本作に登場する中年男性たち、おそらく映画の設定上はワタシと同じくらいか、ちょっと年下くらいの設定なのかな。彼らは往々にして、失業による家長としての自信の剥奪、夫婦(のセックス)の問題、そして飲酒の問題を抱えており、これは他人事ではないのである(まぁ、ワタシは賃貸暮らしですが)。

上に書いたように乗り切れないところがある映画だが、見事なブラックなコメディとなっているのは確かである。終わり方も作劇上のセオリーを裏切っており、しかし、同時に虚ろさがあってよかったと思う。

エンドロールで、コスタ=ガヴラスに本作が捧げられており、『Z』や『ミッシング』など政治的な題材の作品の印象が強い監督なので正直ピンとこなかったのだが、調べてみたら本作は彼のおよそ20年前の作品と同じ原作なのね。

我々の知るコンピュータープログラミングの終焉、そしてその後コーダーはどうなるか

『Coders(コーダーズ)』(asin:4822289796)の邦訳があるテクノロジージャーナリストのクライブ・トンプソンが、いよいよ現実的になってきた「人間によるプログラミングの終焉」の話題について長文の取材記事を New York Times Magazine に寄稿している。

記事は、90年代に育ち昔ながらのプログラミングを学び、後に4つのスタートアップの共同創業者となった機械学習エンジニアが、今ではコーディングを Claude Code にほぼ任せているが、テストを怠ることがあるので、「十戒」のごときプロンプトファイルに厳しい警告を追加している話、そしてそのプロンプトの中に「pytest に失敗するコードをプッシュすることは許されず、それは恥ずかしいことだ」という文言があることにトンプソンが、「恥ずかしいことだ」という文句が役に立つのか訝しく思うところから、コンピュータプログラミングは80年の歴史の中で多くの変化を遂げてきたが、これはこれまでで最も奇妙な変化だろうと指摘する。

何十年もの間、コーディングは魔法のようなものと見なされ、そこそこの能力さえあれば終身雇用が約束されていた。もし卓越した才能(と運)があれば、大金持ちになれた。シリコンバレーのお偉方たちは2010年代を通じて、衰退産業に身を置くアメリカの労働者に対して、「コーディングを学ぶべき」と説教してきた。

ホワイトカラーの労働者は、シリコンバレーの連中が自分たちの仕事を自動化してしまうのを恐れてきたが、今ではコーディングそのものが自動化されつつあるわけだ。

で、重要なのは、それに動揺し、自信を失うプログラマーもいるが、トンプソンが数十人のソフトウェア開発者に話を聞いてみると、「生産性が10倍から20倍、いや100倍にも跳ね上がっている」と豪語するスティーブ・イェギをはじめとして、彼らの多くはこの事態に奇妙なほど興奮していたという。これは大規模言語モデルが仕事にもたらす影響について、大多数のアメリカ人が中立的あるいは懐疑的なのと著しい対照をなしている。

アニール・ダッシュも、これについてプログラマーが AI と接した経験が、他の多くの職業で起きていることと正反対だからではないかと分析する。他のクリエイティブ分野では、LLM が仕事の中で最も人間らしい部分を奪い、単調な作業だけを残すのに対し、コーディングの世界では、LLM が単調な作業を奪い、人間らしい、魂のこもった部分を残してくれるというわけだ。

ここから記事は、コーディングは骨の折れる作業を自動化する「抽象化」の試みの歴史の話になるが、生成 AI の登場がさらに高い抽象化レベルへの昇華を実現した。そしてコーダーは、今や建設作業員というよりは建築家に近い存在になった。エージェントが機能するコードを非常に迅速に生成してくれるので、機能についての判断に重きを置けるようになったということだ。

AI との協働を学ぶとは、つまりは AI との対話を学ぶことだが、もともと仕事中は他人とできるだけ話さないのを好む内向的な人々にとっての安息の地だったコーディングという仕事全体が、AI という「異星の生命体」との絶え間ない対話に占められているのは、新しい時代の予期せぬパラドックスではないか、というトンプソンの指摘は面白い。

この後記事は、小さなソフトウェアを一から個人が気ままにコーディングするのと、成熟した企業で数年(あるいは数十年)前に書かれ、すでに数百万行に達しているコードに機能を追加するのとは環境がまったく異なり、後者では AI にコーディングを完全に任せるのは難しいという話に移り、その代表的存在である Google や Amazon などでの取材内容が、記事を現実に引き戻している。

そして、シリコンバレーに押し寄せる大規模な解雇の波(過去4年間で、70万人以上のテック系従業員が解雇されているそうな)、そしてエントリーレベルのコーディング職を AI が侵食しており、ジュニア開発者が最も大きな打撃を受けるというおなじみの話題に移る。

ソフトウェア関連の雇用数はむしろ増加する可能性があると指摘する向きもあるが、ベテランプログラマーは、何十年もかけて「良質で効率的なコードとはどんなものか」について確かな感覚を培ってきたからこそ、自信をもって AI を活用でき、エージェントが作成したコードの問題をすぐに見抜けるわけで、次の世代の開発者はコードに対するその直感的な感覚を養うことができるか、という問題は残る。

「我々の知るコンピュータープログラミングの終焉」話は既にいろいろなところで語られているが、さすがクライブ・トンプソンというべきか、バランスのとれた記事になっており、一通りの論点を網羅している印象である。

現在プロのコーダーが感じる高揚感と不安に入り混じった感情は、他の分野にも当てはまることで、言語と情報を扱う仕事であれば、レトリック、システム思考、そして AI の出力に対する懐疑心の組み合わせこそがホワイトカラーの仕事の基盤になり、もっとも技術的に難解に見えたスキルこそがもっとも容易に自動化され、我々の仕事は「評価」に重きを置くようになる、というのはそうなんだろうな。

「抽象化は私たち全員に迫りつつあるのかもしれない」という一文で記事は締めくくられている。

ネタ元は Slashdot。

AIが可能にする新たなアプリケーションの予兆

www.oreilly.com

AI によって新しい種類のアプリケーションが生まれるだろうとは思っていたが、それが具体的にどんなものになるかは想像もつかなかった、とマイク・ルキダスは書く。

その新たなアプリケーションは「スマート〇〇〇」なんかではないよ、とルキダスは先回りする。ましてや広告を押し付けられるなんて真っ平で、本当に期待する「スマート」デバイスは今のところない、と彼は書く。

けれども、最近になって想像もできなかったようなアプリケーションが登場している。

例えば(↑のエントリでも名前が出てくる)スティーブ・イェギの AI コーディングエージェントを指揮できるオープンソースのマルチエージェント型ワークスペース管理ツール Gas Town は、ルキダスにも想像はできたかもしれなかったが、5年以内に実用化されるとは思ってなかった。

そして、ローカルで動作するパーソナル AI エージェント OpenClaw(ただ、買い物や旅行の計画を任せるまで信用はできないが)。

さらには、エージェント向けのソーシャルネットワークが登場するとは本当に予想外で、Moltbook にどんな意味があるのか自分には正直分からない、とルキダスは認める。Moltbook を眺めるのは、ある種の観戦スポーツみたいですらある。

そして、AI エージェント向けの巨大なマルチプレイヤーオンラインゲーム SpaceMolt が登場した。これは Moltbook と同様に AI だけの遊び場である。

重要なのは、こういうアプリケーションができたおかげで、我々は皆一年前なら手を出そうとも思わなかったようなソフトウェアを書いている、ということ。上に名前を挙げたプロジェクトは、これから何が可能になるかを垣間見せるものであり、ソフトウェア開発の未来に向けた概念実証(proof of concept)だとルキダスは捉えている。

スティーブ・イェギが Gas Town を実際の「製品」にするかもしれないし、どこかの企業がそれを実現するかもしれない。重要なのはそこではなく、予定よりも数年早くそれが既に公開されているということが重要なのだ。そして、本当に恐ろしいのは、十分なビジョンさえあれば、誰でも Gas Town のようなものを構築できるという事実。

本当に AI エージェントのソーシャルネットワークやオンラインゲームが必要かは分からないが、これこそ将来のアイデアへの出発点だというのが重要であり、これから先見の明を持つ人が何を作り上げてくれるかルキダスは楽しみにしているようだ。

そうそう、スティーブ・イェギは、昨年秋に『The DevOps ハンドブック』(asin:4822285480)、『The DevOps 勝利をつかめ!』(asin:4822295966)、『Wiring the Winning Organization』(asin:4800593174)などの邦訳で知られるジーン・キムと、ズバリ Vibe Coding という本を共著していたんだね。

国書刊行会を讃えよ!

news.yahoo.co.jp

先週話題になった記事だが、確かにワタシも三省堂と三省堂書店を同じ枠でとらえていた。これを受けて以下の投稿をした。

すると、国書刊行会の公式アカウントから反応をいただき、恐縮した。

「昔からよくある誤解」なのか(笑)。

まぁ、ワタシ自身も「国会図書館の出版社」にしてはヘンな本を出すなとは昔から思っていたが(失礼)、いや、「国会図書館の出版社」だからこそ、時に採算度外視にも見える本を出せるのではないかと自分を納得させてきた覚えがある。

実際、ワタシは最近、何度も国書刊行会を讃えている。

えらいぞ、国書刊行会!

ルー・リードの未発表原稿や写真をまとめた『ルー・リード 俺の太極拳』が来月出る - YAMDAS現更新履歴

ありがとう、国書刊行会!

80年代ニューヨーク文化のヒップスターだったジョン・ルーリーの回想録『骨の記憶』が今月出る - YAMDAS現更新履歴

国書刊行会というとオカルト関連の翻訳本の印象が強かったが、邦訳が出てほしいが日本での売り上げを考えると難しいかな、と思っていた音楽系の翻訳書を出してくれるのはありがたい話である。

レンタル・ファミリー

本作の HIKARI 監督が手がけた作品では、『TOKYO VICE』や『BEEF/ビーフ』といったドラマを既に観ており、その手腕は承知しているつもりだ。彼女が全編日本で撮ったブレンダン・フレイザー主演の映画というので期待して観た。

やはり、ブレンダン・フレイザー良かったなぁ。彼のことは嫌いになれない。

フレイザー演じる主人公が、「レンタル家族」として他人の人生の中で仮の役割を演じる仕事をやるという設定から割と予想できる展開が見られて、これ好きだけど想定内に収まる映画かもと思ってたら、途中、平岳大演じるレンタルファミリー社の社長の家庭に関するくだりがツイストになっていて、作品を引き締めている。また、「レンタル家族」として依頼主の家族の信頼を得ることが、お互いにとっての悲しみにつながりうるところも描かれている。

柄本明演じる老優の家を意を決して尋ねる「弁護士」二人、そしてそこに現れる「警察」のくだりが意外なクライマックスになっている。

昨年末観た『殺し屋のプロット』に似た構図の登場人物が出てくるところなど、ストリップ含めたセックスワークの扱いにオリエンタリズムを感じてしまうところがなくはなかった。が、主人公の白人俳優が出演する歯磨きのコマーシャルの質感が実に「日本的」で、このあたりしっかり作っていると感じた。

あと余談だが、主人公の素性がバレるところ、あれくらい扮装してて分かるかぁ? と正直思った。

「P2Pとかその辺のお話R」の久方ぶりの更新、そして「ポスト・アメリカのインターネット」

p2ptk.org

皆の者、P2Pとかその辺のお話Rがおよそ9か月ぶり? の更新だぞ!

ワタシは某所で heatwave_p2p さん(通称:熱波ちゃん)らと歓談する機会が定期的にあり、お元気されているのは存じていたのだが、やはり氏の翻訳読みたいなぁというのはずっと思っていた。

今回訳された文章は、ワタシも「監視国家化・権威主義化する米国、テクノオリガルヒ、ポストアメリカ的インターネットの可能性」で紹介したコリイ・ドクトロウの講演である。

そうした意味で、個人的にもとてもありがたい文章と言える。みんなも読もうな!

テクノロジーのメタクソ化――我々が依存するプラットフォームやシステムの劣化――には多くの原因がある。競争の崩壊、規制の虜、テック労働者の力の粉砕。だが何にもまして、メタクソ化は迂回禁止法による相互運用性の禁止の結果なのだ。

相互運用性を阻止し、汎用コンピュータに宣戦布告することで、我々の政策立案者はメタクソ化を促進する環境を作り出し、企業がクソになることに報酬を与え、すべてがクソになるメタクソ世(エンシティセン)を招き入れた。

メタクソ化に終止符を打とう。計算手段を掌握しよう。我々が依存するサービスやファームウェアの、互換性のある、フリーでオープンで監査可能な代替手段を構築しよう。

ポスト・アメリカのインターネット » p2ptk[.]org

さて、コリイ・ドクトロウ『Enshitification』の邦訳は今年出るかねぇ。

Spotifyの終焉――音楽ストリーミングが廃れるまで秒読み段階なのか?

joelgouveia.substack.com

著名な起業家をインタビューするデヴィッド・センラの人気ポッドキャスト Founders Podcast の第391回に音楽プロデューサー、インタースコープ・レコードやビーツ・エレクトロニクスの共同創業者として知られるジミー・アイオヴィンが登場し、Spotify や Apple Music について「ストリーミングサービスは、私から見れば、廃れるまであと数分といったところだ」と断言したという。

この言葉に Joel Gouveia は衝撃を受けたが、アイオヴィンの話を聞くうちに彼の主張は完全に正しいと気づいたという。

まず、最初に率直に語るのは、音楽業界のほぼ全員が(そこで働く人々を除いて)Spotify を嫌っているという事実である。このプラットフォームはアーティストからあらゆるものを搾り取り、コミュニティ形成を積極的に阻害している。なのに、健全な利益率を維持するのに苦戦している。

ストリーミングビジネスモデルは根本的に破綻しているというわけだが、その終焉がなぜ避けられないのかについて解説している。

まず、かつて20世紀は、RCA、ポリグラム・レコード(親会社はフィリップス)、CBS(親会社はソニー)といったメジャーレーベルは、著作権だけでなくハードウェアも所有しており、音楽の消費手段の全てを支配していた。

しかし、今日では Apple、Google、Amazon、Spotify などのテック大手企業が流通網、ハードウェア、そして最も重要な顧客データを握っている。確かに主要メジャーレーベルは早期に Spotify の株式を取得する契約を結んだが、エコシステムを支配できるわけはなく、レーベルは流通経路を失い、ダニエル・エクのサーバー上でコンテンツを提供する存在へと格下げされてしまった。

レーベルがフォーマットの支配権を失うと、テック企業は製品をコモディティ化し始めた。

ここが動画配信との違いで、例えば Netflix における『ストレンジャー・シングス』のような他社との差別化になる武器が、音楽配信には欠けている。アイオヴィンは「今の音楽ストリーミングは公共サービスだ」「どのサービスも同じで、もし一社が価格を下げれば、他は終わりだ。独自の提供価値がないから」と語るが、今や音楽は水道水や電気と区別がつかないという。

そうなると、消費者は無意識にその価値を低く見積もるようになると Gouveia は書く。

そして、通常のテックビジネスは、固定費が比較的安定しているため、加入者が増えれば利益率が指数関数的に上昇するが、音楽配信は収益の約70%を権利者(レーベルや出版社)に支払うため、コストがユーザー数に比例して増加するという逆の仕組みになっている。

アイオヴィンは「ストリーミングサービスは厳しい状況だ。利益率はゼロで、まったく儲かっていない」と述べている。

このモデルを成立させられるのは、音楽配信がプライム会員を継続する道具になる Amazon や、スマートフォンを売るための手段である Apple や Google だけであり、一方で Spotify や独立系音楽ストリーミング企業はかなり厳しい状況にある。そして、プラットフォームの利益率が構造的に圧迫されると、アーティストが真っ先にその被害を被る。

アイオヴィンの音楽ストリーミングサービス批判の主眼は、それがアーティストとファンが交流できる「文化の拠点」となることに完全に失敗している点である。現実には、Spotify はアーティストがファンと関係を築くことを望んでいない。Spotify が望むのは、リスナーが Spotify と関係を築くことだけなのだ。

だから Spotify はリスナーデータを死守するし、アーティストは、スウェーデンのテック企業にとって無給の従業員に過ぎない、と Gouveia は辛辣に書く。

さらに悪いことに、音楽ストリーミングサービスの財務メカニズムは、中堅ミュージシャンに不利にできている。

現行の「比例配分」支払いシステムでは、すべてのサブスクリプション収入が巨大なプールに集められ、市場シェアの合計に基づいて分配される。そして、その大半は、単に世界で最も多くの再生数を誇るという理由だけで、トップ1%のポップスターに流れ込む。

本当にアイオヴィンが語るように Spotify が廃れる寸前であり、ストリーミングが最終形態でないというなら、何がそれに取って代わるのか?

音楽ストリーミングサービスが一夜にして消えるなんてもちろんありえないが、進化する音楽経済で生き残ろうとするアーティストやマネージャーにとっての答えは直接所有(direct ownership)だと Gouveia は書く。そして、ファンと直接つながる独自の「文化的拠点」を築くこと。

Spotify のプレイリスト掲載でわずかな収益を期待するのではなく、ファンを非公開 Discord サーバーへ誘導するなりして、高利益率のグッズやレコードやライブの指定席券で ARPF(ファンあたりの平均収益)に注力することですね。

我々は「マス・オーディエンス」の終焉と「マイクロ・コミュニティ」の誕生を目の当たりにしている、と Gouveia は書く。

音楽業界は過去10年、100万人に一度曲を聴かせるやり方に固執してきたが、次の10年は、1000人に永遠に愛される方法をアーティストが模索する時代となるだろう、と Gouveia は記事を締めているが、うーん、それ「千人の忠実なファン」論で、着地点自体は以前から言われている話ではある。

この記事で少し軽蔑的に語られる「音楽=水道水」という話は、およそ20年前に「水のような音楽」を唱えた『デジタル音楽の行方』を訳した人間として、複雑な気持ちにさせられるものがある。

ネタ元は Slashdot。

80年代ニューヨーク文化のヒップスターだったジョン・ルーリーの回想録『骨の記憶』が今月出る

yamdas.hatenablog.com

ジョン・ルーリーの回想録を取り上げたのは2021年秋で、これ絶対邦訳出てほしいなぁと思いながら、正直諦めかけていた。

調べものをしていて、『骨の記憶 ジョン・ルーリー回想録』として今月邦訳が出るのを知った。

ありがとう、国書刊行会!

【本書に登場する人物(一部)】
ジャン=ミシェル・バスキア アンディ・ウォーホル ジム・ジャームッシュ トム・ウェイツ ヴィム・ヴェンダース ヴェルナー・ヘルツォーク デヴィッド・バーン ポール・オースター アート・リンゼイ マーク・リボー オーネット・コールマン マーティン・スコセッシ ウィレム・デフォー デボラ・ハリー ラメルジー ロバート・フリップ マドンナ ジャック・スミス クラウス・ノミ カズ・マキノ

骨の記憶 ジョン・ルーリー回想録|国書刊行会

このリストを眺めるだけでおおっとなるところがある。

『グッド・アンセスター』の著者が語る「日本はいかにして最大の都市を崩壊から救ったか」

kottke.org で知った TED-Ed の動画だが、『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』(asin:4751530704)、『生活の発見 場所と時代をめぐる驚くべき歴史の旅』(asin:4845916045)の邦訳で知られるローマン・クルツナリックが、「日本はいかにして最大の都市を崩壊から救ったのか」を語っている。

これねぇ、先月知って日本語字幕がついたら紹介しようと思いながら、本文執筆時点で12言語の字幕がついているが、ついぞ日本語字幕がつかないので我慢できなくなった(笑)。

要は江戸時代の話で、一世紀におよぶ戦国時代という内戦の時代が終わった後、徳川幕府の統治により江戸は歴史上最も持続可能で効率的な都市の一つへと変貌を遂げたことを語るものである。

当然ながらこの動画は徳川幕府の政策を全肯定するものではないが、生態系崩壊の危機にあった江戸が、繁栄する文化の中心地へと変貌を遂げたことは、我々が消費と廃棄に突き動かされるのでなく、限られた資源を最大限に活用する経済を構築できることを思い出させてくれると説いているわけですね。

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