お会いするのは何年かぶりだから、さすがにちょっと老けたかなと思った。でも、せっかちに歩く姿も、甲高い声で熱く語る姿も、昔とちっともかわらない。「1993年からだから、ずいぶん長いですよね」。そう言われて指を折ってみれば15年。その間に、何度も彼に会い、語り、彼と彼の成果について実に多くの記事を書いてきた。

 彼とは、中村修二氏のことである。最初に出会ったとき彼は、地方の中小企業に勤務する一技術者だった。ところが、1年も経たないうちに、カリスマ研究者と呼ばれるようになり、やがて「日本としては初めての企業人ノーベル賞候補」と目されるようになる。その彼から「会社を辞める」という連絡をもらったのは、1999年末のこと。地方企業の技術者から米有名大学の教授へと転身し、一躍全国区のヒーローになった。

 その彼が古巣の会社からトレードシークレットで訴えられ、その反訴というかたちで、いわゆる「中村裁判」が始まる。その当初は、「技術者の地位向上を訴え古巣企業と闘う戦士」、つまりは強者に立ち向かう弱者として技術者から熱狂的な支持を受けた。ところが、一審判決が出たあたりから世間の雰囲気は一変する。「部下の成果をわがものにした上司」「大した発明でもない特許で地方の中小企業に巨額の補償金を要求するガメツイ人」、つまり弱者から搾取する強者といったイメージが流布され始めたのである。そして、裁判が痛み分けのような結果で終わり「褒貶半ばする」といった状況のまま、世間は少しずつ彼のことや、あの裁判のことを忘れていくのだろう。

それが彼を熱くする

 ともあれ、目まぐるしい15年だった。その間に多くの事件があって、そのたびに彼が世間に与えるイメージは変わっていった。けど、彼自身のどこが変わったわけでもない。言っていることだって同じ。少なくとも、会社を辞めてから彼は一貫して同じことを願い、訴え続けてきたように思う。

 今でも訴えたいことの一つは、もちろんあの裁判のことである。よほどその結果には不満が残るようで、それに関して語り始めたらとまらない。しかしそれらは、ちょっと書けなかったり書いても詮ないことだったりするので、とりあえず置いておこう。そして、それに負けないくらい彼を熱くさせるのが、技術者の地位と処遇に関する問題である。もう企業人でなくなって随分年月が経つので、その思いも少しは冷却したかと思っていたのだが。

 日本でお会いした数日前、彼は中国に立ち寄り、そこである企業家と会食する機会があったらしい。その企業家は中国人なのだが、最初は日本で起業し成功を収め、その後中国に帰り、現在は中国で企業を興して経営しているのだという。

 「彼が言うわけですよ、日本で会社を経営するのは楽ですよと。業績が悪くなったら給料を減らせばよい。また悪くなったらさらに削る。こうしてどんどん給料を減らしていっても、社員はほとんど会社を辞めない。こんなに会社経営が楽な国はないって。中国で同じことをやったら、社員はあっという間に霧散して一人もいなくなる。米国だって同じ。だから、経営者は第一に社員の処遇を考えなければならない。処遇の改悪はぜったいにできないから、本業で業績を上げることを真剣に考え、取り組まざるを得ないわけです」