四面楚歌
「四面楚歌」とは、「すっかり敵に包囲されてしまい、周りには敵対する者しかおらず、誰も助ける者がいない状況」を意味する故事成語である。逃げ場がなくなったことによって「あたふたする」というニュアンスを込めて用いられやすい。
「四面楚歌」の由来
「四面楚歌」は、古代中国の歴史書「史記」における項羽と劉邦の戦いに基づく故事成語である。時は紀元前、楚の将軍であった項羽は、漢の将軍であった劉邦と覇権を争っていた。項羽軍は劣勢に置かれて籠城作戦を取った。ある夜、城の四方から楚の国の歌が聞こえてきた。城は劉邦が率いる漢軍に包囲されているはずである。項羽は、すでに漢軍の中に多くの楚人が取り込まれている、ということは、楚国はすでに漢軍に降伏したのだ、と悟った。援軍が来ないことを悟った項羽は籠城作戦を解いて漢軍に斬り込んで果てた。こうして5年余り続いた戦(楚漢戦争)は決着した。劉邦は天下を統一し、前漢を建国した。
四面楚歌の類義語・対義語
四面楚歌の類語としては「孤立無援」「万事休す」などが挙げられる。場合によっては「絶体絶命」も類語として使える。俗な表現としては「総スカン」や「フルボッコ」などとも言い換えられる場合が多い。四面楚歌の反対語には「同じ目的のために協力する」という意味で「一致団結」や「和衷共済」などの表現が挙げられる。
「四面楚歌」を英語でいう場合、故事に基づき直訳するなら Chu song from four sides のような表現になるが、「敵中に身を置いている」という趣旨を述べるなら amidst enemies のように表現すればよい。
四面楚歌
「四面楚歌」とは・「四面楚歌」の意味
「四面楚歌」とは、中国の秦漢時代の出来事に題材を採った故事成語で、「周りを敵に囲まれて、孤立無援で助けのない状態」を意味する四字熟語。教材として高校の漢文の教科書に多く掲載されるほか、短文の中でも的確に状況を伝えられる表現として、国際・社会・政治・経済などを報じるニュース記事などにも用いられ、ビジネスシーンをはじめとした日常生活の中でも使用される頻度が高い言い回しの一つである。「四面楚歌」の語源・由来
「四面楚歌」は、司馬遷が編纂した中国前漢時代の史書「史記(項羽本紀)」に見られる紀元前202年の史実に由来している。史実とは「垓下の戦い」をさし、直接その部分に触れた原文は「項王軍壁垓下。兵少、食尽。漢軍及諸侯兵、囲之数重。夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰、「漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。(項王の軍垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重なり。夜漢軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰はく、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや)」と記されている。以下に概要を示す。秦代の末期、「楚」国の項羽と「漢」国の劉邦が中国全土の覇権を争っていた。戦いは漢軍が優勢で、防戦に回った楚軍は垓下(現在の安徽省宿州市霊璧県)に追い詰められるとそこに砦を築いて立てこもった。楚軍に残された兵士の数は少なく、食料も次第に底をついてくる中で、砦の周囲は幾重にも多勢の漢軍に固められており、楚軍は劣勢を極めた。膠着状態が続いたある夜、砦にいる項羽の耳に、項羽の故郷である楚の民謡を歌う歌声が響く。その歌声が聞こえてくるのは楚軍を取り囲んでいる漢の軍勢の中からである。これを聞いた項羽は「すでに故郷の楚は漢軍によって占領されてしまったか。それにしても何と多くの者が漢に寝返ってしまったことか」と嘆いた。
周りを囲む漢軍が楚の歌を聞いた項羽は敗北を覚悟し、愛妾の虞美人をはじめ配下の腹心らと最後の宴席を開く中で、「垓下の歌」を詠んで別れを告げる。最期の場所を求めて砦の包囲を突破した項羽は烏江にたどり着くと、船を用意して待っていた宿場の船頭に、川を渡って敵を振り切り捲土重来を期すよう勧められるが、楚の若者を大勢死なせてしまった自分が、どうして今さら一人でおめおめと帰ることができようかと笑って答え、自分で首を刎ねて死んでしまった。項羽の死で楚と漢の戦いは終結し、漢の劉邦が天下を統一して前漢を築いた。
以上に見られるように、垓下の戦いから烏江で項羽が自刎して果てるまでが「四面楚歌」という故事成語の生まれた由来とされている。すなわち敵に囲まれた砦の四方から楚の歌が聞こえたことで、周囲が全て敵になったことを悟った項羽の心理をもとに、「孤立無援の状態」を示す四字熟語の意味が生まれたものである。漢軍に楚の歌を歌わせたのは、項羽率いる楚軍を垓下にまで追い詰めながら、強固な砦を築いて籠城する敵軍に手を焼いた劉邦側が、これをせん滅するために仕掛けた心理戦であったが、その策にはまり、すでに楚の国が漢軍によって占領されてしまったと誤解した項羽の悲劇がその下敷きとなった。このような史実を背景に、現代にも生きる「四面楚歌」という故事成語は、「逃げ場のない状態」や「孤立無援の状態」のような意味を示し、マイナスの立場に置かれている状況をたとえる言葉として用いられるようになった。
「四面楚歌」の熟語・言い回し
「四面楚歌」は「逃げ場がなく孤立無援」という意味である。その意味を表す熟語や言い回しは他にも複数あるが、四面楚歌という状態を正しく理解しておかなくては誤用に通じるケースもあるので注意が必要である。四面楚歌の状態とは
四面楚歌とは本来、敵に囲まれて孤立し、周りに味方がいないために助けを求められない状況をさしていう。故事成語を基に、この四字熟語を現代で使用するとすれば、周囲にいるのが反対者や敵対者ばかりでどうにも手の打ちようがない状態を示す場合などに用いるのが適切である。注意が必要なのは、四面楚歌の状態に置かれているのは、必ずしも個人だけに限られるものではないという点である。すなわち、四面楚歌の状態に置かれるのは個人の属するグループや組織、企業、さらには国家などに広がるケースもあり、数の多少によらず周囲に囲まれて孤立しているのであれば四面楚歌の状態にあるのだといえる。たとえば「政策を立案する際の基本方針に違いが生じたことで、我々のグループ7名は派内で四面楚歌の状態にある」などという言い方も可能となる。
また、四面楚歌の状態は事の善悪に依らないという点も重要である。善い行いをしているものが四面楚歌の立場に置かれることがあれば、悪業を行っているものがその状態に置かれる場合もある。そのため「意図的な価格の不正操作が露見したことで、市場の中で四面楚歌の状態に置かれているのがあの企業の現状だ」などという言い方も成立する。四面楚歌の状態にいるものが常に正しく、周囲にいる反対者が常に悪だという考え方に立ってこの故事成語を用いるのは間違いとなる。
さらに四面楚歌とは、反対者に囲まれていて、四方八方どちらを向いても味方がいない状態をさすのであって、少数でも周囲に賛成者がいる場合には使わないのが一般的である。たとえば「政策を立案する際の基本方針に違いが生じたことで、我々のグループ7名は派内で四面楚歌の状態にあり、他には無派閥の数名だけにしか理解が得られていない」とした場合は、完全なる四面楚歌の状態にあるとはいえず使い方としては適切ではない。
以上の注意点を踏まえたうえで、「四面楚歌」の熟語・言い回しとしてふさわしいものを挙げる場合は、「孤立無援」「無援孤立」「孤軍奮闘」「十重二重に囲まれる」などがこれに該当する。「単孤無頼」「一身に味方なし」などの言い回しは、対象が個人に限定されている点でふさわしいとは言えない。
「四面楚歌」の使い方・例文
「四面楚歌」の使い方としては、文学作品に用例が見られる。たとえば「失敗もその通り、世の中で何某が大いに失敗したと四面楚歌の声が聞こえても、本の当人はどこを風が吹くかという顔をしていることがたまさかある(新渡戸稲造「自警録」)」、「お福さまは四面楚歌の中にいて、あるいは側妾の地位からおろされるかも知れないという臆測が江戸屋敷ではされている(藤沢周平「蝉しぐれ」)などである。日常的な使用例としては、「リストラで退職して以来、彼は家にいて家事もせず子どもには小言を言うばかりで、家庭内では全く四面楚歌らしいよ」「何も悪いことをしていない自分がなぜこのような四面楚歌の状態に陥るのか、理由がわからない」「そのキャプテンは、チームにとって良かれと思い、みんなに厳しい練習メニューを課したことで、いつの間にか四面楚歌の状態になってしまった」「今さら四面楚歌を嘆いても、もともと自分の身から出たサビなのだから仕方がない」「金持ちでも横柄な人は、コミュニティーの中で四面楚歌の状況に陥りやすい」などを挙げることができる。
ビジネスシーンでは「会議での失言以来、部長の状況を一言で表すなら、四面楚歌だね」「ハラスメント体質が露呈して以来、彼の部署は会社内で四面楚歌の状態だ」「彼は優秀だが部署内での態度が良くない。このままでは四面楚歌だよ」「社内のコンプライアンスに違反したのだから四面楚歌は覚悟しています」「いくら彼に非があったとしても、四面楚歌の状態が続くのはよくない。病気になるよ」などという使用例が考えられる。
四面楚歌
四面楚歌とは
四面楚歌とは、まわりが敵や反対者ばかりで孤立した状態を指す四字熟語。四面楚歌の語は、中国楚漢戦争における項羽という人物に由来している。類語には、「背水の陣」や「孤立無援」などが挙げられる。四面楚歌の使い方の例としては、「核実験を行ったA国は、各国から制裁を受け四面楚歌の状態だ」や「社長の意に逆らったBさんは今、社内では四面楚歌である」などといった文章が挙げられる。一般に四面楚歌と結びつけられる人物などの対象を、哀れむニュアンスで用いられることが多いが、対象に対して批判的に用いられる場合と対象に同情するように用いられる場合に分かれる。例えば、最初の例だと筆者はおそらくA国のことを批判していると考えられる。反対に後の例では、Bさんに同情しているような文意が読み取れる。話者がBさんの知人であった場合などは、そうであろう。いずれの場合も良い文脈で使用されることは少ない。
類語としてあげた背水の陣では、「我々は今や背水の陣だ。しかし失うものは何もない。全力でやろう!」といったように肯定的な文脈で使用されるケースも存在するが、四面楚歌にはこういった使用は考えにくい。話者が自らの状態を四面楚歌だと発言する場合、それは諦めや悲哀を表現する。四面楚歌がそうしたネガティブな意味を持つのはその語源と関係が深い。
四面楚歌の語源
四面楚歌の語源は、中国楚漢戦争における垓下の戦いにある。紀元前203年、楚軍と漢軍ともに情勢不利を抱えていたため、両者の間で盟約が結ばれた。漢軍の劉邦は、「楚軍を今のうちに滅ぼすべきである」という軍内からの進言を受け、盟約を破り項羽率いる楚軍へと追撃を行なった。先鋒に30万の兵をつけた漢軍に対し、楚軍の兵はわずか10万ばかり。両軍は現在の安徽省宿州市霊璧県にあたる垓下で戦闘になる。序盤こそ好戦していた楚軍だったが、兵力の差からたちまち劣勢に追い込れ、大敗してしまう。破れた楚軍は防塁へ籠り、漢軍はその周りを包囲した。夜になると、幾重にも防塁を取り囲んだ漢軍は楚の歌を歌った。項羽は四方から響く漢軍の歌を聴き、その敵の多さを知り愕然とする。この時の項羽の、敵軍に周りを囲まれ孤立した状態を模して、四面楚歌という語が用いられるようになった。当然のことながら楚軍は破れ、項羽は戦死した。項羽がこのような救いようのない状況にあったことこそ、現在、四面楚歌が多くの場合、ネガティブな文脈でしか使用されないことの原因であろう。
戦勝を諦め、死を悟った項羽は愛妾である虞美人、愛馬である騅とともに別れの宴席を設け、これらに惜別の詩を読んだ。その後、項羽は夜を突いて八百の兵とともに南の囲みへと進軍する。楚軍はみるみるその数を減らしたが、項羽は怯むことなく戦い続けた。項羽は1人で数百人の漢軍を殺し、最期は漢軍にいた旧知である呂馬童の前で、自ら首をはねて死んだとされている。項羽にはそうしたある種の英雄的側面があるものの、現在の用法ではそうした側面を強調した肯定的ニュアンスで使用されることは少ないようだ。ただし、先述したBさんの知人の発言のように同情的な文意では、対象を称えるような意味を持たせることも可能である。
例えば、社長の意に逆らったBさんの行動が、彼の知人にとっては「自らの保身よりも社のことを考えた大英断である」というように映った場合、四面楚歌という言葉はやや肯定的なニュアンスを帯びる。しかし四面楚歌は項羽になぞらえて救いようのない状態を指していう場合が多いため、Bさんを讃えたこの発言も、「Bさんは社をクビになる」、もしくは「何かしらの処分を受ける」などという未来は変えられないと発言者は思っているという意味を含意しているといえる。
しめん‐そか【四面×楚歌】
四面楚歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 06:01 UTC 版)
同年9月、項羽は、劉邦からの提案を受け、鴻溝を境に西側を漢の領地とし、東側を楚の土地とした上で、劉太公と呂雉を返還することで劉邦と盟約を結ぶことを承諾する。盟約は結ばれ、項羽は軍とともに東に帰る。この時、漢軍が盟約を破り、項羽の後背を襲った。項羽は、韓信と彭越の軍が合流していない漢軍を打ち破った。 劉邦は、韓信と彭越を再度誘い入れ、韓信・彭越・劉賈(劉邦の親族)が漢軍と合流。楚の大司馬の周殷も楚に反して漢軍につき、項羽のいる垓下に集まってきた。また、項羽の軍も陳において灌嬰・樊噲らに敗北する。 漢5年(紀元前202年)12月、垓下では、韓信の兵力30万を始めとする諸侯連合軍に対し、項羽軍は10万ばかりであった。項羽は、一度は韓信を攻めて退けるが、左右から攻められ苦戦するところを再度韓信に攻められ、敗北する(垓下の戦い)。項羽は垓下に拠ったが、兵は少なく、兵糧も尽きていた。この時に城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聞こえてきた。これを聞いた項羽は「漢は皆已に楚を得たるか?是れ何ぞ楚人の多きや」と嘆いた。ここから四面楚歌の言葉が生まれた。項羽の兵は、漢軍が楚の地を全て得たものと考えた。 その夜に項羽が本陣で酒を飲んだ時、虞美人 に送った詩が垓下の歌である。 「力は山を抜き,気は世を蓋う。時、利あらず、騅、逝かず。騅の逝かざるを奈何にす可き。虞や、虞や、若を奈何んせん!」 (私の)力は山を抜き、(私の)気は世を覆うほどである。(だが)時勢が味方せず、(愛馬の)騅も(疲れて)進まない。騅が進まないのに、どうしようか。虞よ、虞よ、お前をどうしたらよいか! 項羽が数回歌うと、虞美人も唱和した。項羽は落涙し、側近も泣き、仰ぎ見るものもなかった。 項羽は手勢八百余騎を率いて漢軍の包囲網を南へ突破する。漢軍の灌嬰は騎兵五千で追撃した。項羽らが淮水を渡る時には手勢が百余騎にまで減っていた。陰陵県に着いた時に道に迷い、道を尋ねた田父に騙されて、沼沢の地に陥り、漢軍に追いつかれる。項羽は東に転じ、東城県に着いた。この時、28騎にまで減っていた。項羽は脱出できないと考え、従う騎兵たちに語った。 「私が兵を起こして8年。わが身は70余回戦った。(私が)当たった敵は破れ、討った相手は降伏し、いままで敗北したことはなかった。そして、覇王として天下を有したのだ。そうであるのに、今はこのように追い詰められている。これは、天が私を滅ぼそうとしているためであり、戦い方のせいではない(此天之亡我、非戦之罪也)。今日、まことに死を決した。願はくば、諸君のために決戦を行い、必ず三度勝とう。諸君のために、囲みをつぶし、(敵)将を斬って、(敵の)旗を倒すことで、諸君に天が私を滅ぼすのであり、戦い方のせいではないということを知らせよう」 項羽は28騎を4隊に分け、1隊を率いて四方に向かう。漢軍の一人の武将を斬り、包囲を突破する。さらに、漢軍の一人の都尉を討ち取り、百人近くを殺した。項羽の部下は2騎を失っただけであった。 項羽は長江を渡ろうとして、烏江(うこう、現在の安徽省和県烏江鎮)という所までやってきた。烏江の亭長に、 「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人が住んでいます、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。願わくは大王、早く渡ってください。今は私一人が船を出し、漢の軍は至っても渡ることはできないでしょう」 と言われたが、項羽は 「天が我を滅ぼすのに何故渡ろうか?私が江東の子弟八千人を率いてここから西へ出発し、今一人として帰る者が居ない。たとえ江東の父兄が哀れんで私を王にしようとも、私に何の面目があろう?たとえ彼らがそれを言わなくとも、どうして私一人が心に恥を感じずにいられようか」 と断った。項羽は自分の乗馬である騅を烏江の亭長に譲り渡し、従卒を下馬させ、漢軍を迎え撃ち、項羽みずから数百人の敵兵を討ち取った。この戦いで十数か所に傷を負った項羽は、追っ手の中に旧知の呂馬童がいるのを見つけると、 「漢は私の頭に千金と一万戸の邑を懸けていると聞く、旧知のお前にその恩賞をくれてやろう」と言って、自らの首を刎ねて死んだ。享年31。
※この「四面楚歌」の解説は、「項羽」の解説の一部です。
「四面楚歌」を含む「項羽」の記事については、「項羽」の概要を参照ください。
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