ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

玉音放送

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

耐え難きを耐える

子供の時、映画などでたまたま聴いたセリフをいつまでも憶えていることがないだろうか?
例えば、私には、こんなものがある。
「攻撃こそ最大の防御なり。最大の攻撃とは無抵抗なり。つまり、何もしない者が一番強いんだ」
イギリス貴族の男が祖父から聞いた話という設定だったが、どれくらい真面目に言ったのかは不明だ。
まるで、禅の公案だが、これが禅の公案であれば、答を出さないといけない。
なぜ、無抵抗が一番強いのか?

このことで私は、昭和天皇の玉音放送の有名な言葉を思い出す。
「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び」
これはつまり、「これから無抵抗な日々を送る」ということだ。
そして、日本人の大半が天皇の言葉に従い、抵抗しなかった。
天皇も、マッカーサーに抵抗しなかった。
そうしたら、その後は勝ち続けた。
日本も、ドイツや朝鮮のように分割されて当然のところが、なぜかアメリカ一国の支配となり、そのアメリカの手厚い保護を受けて発展の一途を辿った。
これは無抵抗の勝利である。

マハトマ・ガンジーのポリシーを「無抵抗主義」と言うのは誤りで「非暴力主義」だと言う人もいるが、まあ、無抵抗主義と言っても、そう間違いではないと思う。
とにかく、それで様々な意味で勝利を収めたのだ。
ガンジーが『バガヴァッド・ギーター』を愛読していたことはよく知られているが、『バガヴァッド・ギーター』では、クリシュナ神はアルジュナ王子に戦うことを要請している。
ただし、それは、アルジュナが戦う運命にあったからだ。
一方、ガンジーは戦う運命になかった。
ガンジーが抵抗しなかったのは、何よりも運命に対してである。

そして、何もしないことの強さを最も肯定するのが、老子、荘子の「無為自然」だ。
これも、つまりは、運命に対して逆らわないことだ。
だから、荘子は「思慮分別、是非好悪を捨て、なりゆきにまかせよ」と言うのだ。
かといって、老子も荘子も、怠惰になることを奨めている訳ではない。
そもそも、老子は君主の道を説いているのであり、その中には、当然、戦争も含まれている。
つまり、クリシュナ同様、戦うのが運命であれば戦うべきなのである。
巡音ルカさんの人気曲『Just Be Friends』(作詞作曲編曲はDixie Flatlineさん)にある歌詞、
「分かってたよ 心の奥底では 最も辛い 選択がベスト」
のようであることに、幸運が潜んでいる。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことがベスト、あるいは、唯一の道かもしれない。
そして、それは案外に気分が悪いことではないのだ。
つまり、感情よりも奥深い感覚に従うということだが、それは、意外にも安らぎを感じさせる。
泣き叫ぶ心を無視し、内なる予感に従えば、予想外の奇跡も起こる。
つまり、「神様の奇跡が起こる」って唱えればいいってことだし、やはり、この言葉の力が分かるのである。








耐え難きを耐え、忍び難きを

じっとしていて真理が浮かんでくることはない。
心や身体、あるいは、その両方を躍動させている時、真理は気付きとして現れる。
あるいは、真剣な疑問に対し、「こうだろうか?」「それともこうだろうか?」と問い続けた時に、突飛な真理が出てくることがあるかもしれない。
そして、真理を感じた時には深い感動があるが、それを偽物の高揚感と区別出来なければならない。

こう言葉で言うと難しいが、美しいものに見とれていたり、離れていた故郷に戻ってぼんやり散歩したり、無心に修行をしている時に、何か大切なことに気付くことがあるものだ。
だが、それも、普段の生活あってこそのもので、当たり前の生活には、苦しいことや辛いこと、あるいは、厳しいことも多い。
人生はある意味辛いものだ。
老人が尊敬されるのは、そんな人生に長く耐えてきたからだ。
もし、ろくでもない老人がいたなら、それは、その老人が人生の辛いことから逃げてばかりいたからだろう。
人生は、早いうちに苦労しておくことに限る。
若い時の苦労は思い出すと楽しいが、歳を取ってからの苦労は屈辱でしかない場合が多い。
これは厳しい言葉だ。
碇シンジ君が「逃げちゃ駄目だ」とよく言っていたのは、彼は大事なことをよく覚えているということだ。いったい、誰に教わったのだろう?

報道のほとんどは嘘と心得ているので、瞬間瞬間のイメージで言うのだが、大相撲の貴乃花親方は、本当に散々な目に遭っているなあと思う。
だが、わざわざ痛い目に遭うと分かっていることを遭えてやっているところに、宿命から逃げない心の強さは感じる。
そこが、彼の現役時代の活躍を知らない人も惹き付けるのだろう。
まあ、男前だしね(笑)。
しかし、あせり過ぎると大抵のことは失敗する。そんなところも見せてくれてるような気がする。
昭和天皇の玉音放送の中の、日本人なら誰でも知っているフレーズがある。
「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ(たえがたきをたえ、しのびがたきをしのび)」
それにより、「太平ヲ開カム(平和な世の中を造る)」。
平和のためには、人々が本当に大切なこと、つまり、真理を見なければならない。
そのためには、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことも必要である。
逃げずに遭えてまな板の上で料理されるのは厳しいことではあるのだけれど、いつかはやっておかないといけない。
神はいかなる重みにも耐えるのだそうだ。









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「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の直前部分が最重要な言葉だった

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」は、日本国民に対し、第二次世界大戦の敗北と敵への降伏を、昭和天皇がラジオを通じて、その肉声で知らせたメッセージの一部であることを、ほとんどの日本人が知っていることと思う。

さて、現在のあなたも、「耐え難きを耐えざるを得ず、忍び難きを忍ばざるを得ない」状況なのではないだろうか?
いや、人間はいつだって、「耐え難きを耐えざるを得ず、忍び難きを忍ばざるを得ない」状況なのだ。
これを決して忘れてはならない。

ところで、昭和天皇のメッセージは、その「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の部分ばかりがリピートされるということが行われてしまっていて、それが天皇陛下の言葉の重要部分だと誤解した、あるいは、している人が多いに違いない。
もとより、この全文は長く、しかも、非常に格式ある高度な文章で、普通の人には難解であろう。だが、その文章としての内容は、簡単に言えば、「なぜ降伏しなければならないのか」を細かく説明し、その後で、「今後はこうしましょう」という提案と自らの意志を付け加えたものだと言って良いと思う。

ところで、この文章(「玉音放送」といわれる)には、非常に素晴らしいところがあるのだが、それに誰も気付かない。そして、言わない。
しかし、それが、上にも述べたように、「耐え難きを耐えざるを得ず、忍び難きを忍ばざるを得ない」状況にあるあなたを救うのである。
その重要で真理を秘めた部分とは、実に、「耐え難きを耐え、忍び難きを」の、まさに直前の部分なのである。
これが、あなたや全人類を救うのである。
その文章はこうである。

朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ

意訳すれば、「わたくしは、運命に従い、耐え難きを耐え、忍び難きを忍びます」となる。
大切なのは、「耐え難き・・・」の直前の、

時運ノ趨ク所

である。
時運・・・時の運、星の巡り合わせ、すなわち、運命である。
わたくしは、それに従います。それに逆らいません。それをあるがままに受け入れます・・・と陛下は仰られたのである。そして、愛する国民にも、そうあるよう願われたのであると思うのだ。
だが、実際は、どう思おうが、それは受け入れざるを得ないというのが事実である。
なぜなら、この世で何が起ころうとも、それははるか昔から決まっていた、決して避けられない運命でしかないからだ。
それは、どんな人間が、あるいは、どれだけの人間がどのようなことをしようと、決して変えられなかった必然なのだ。
そして、人間が持つ想いのたった1つの違いは、それを受容するかしないか、言い換えれば、あるがままに認めるか認めないかだけである。
運命を無心に受け入れることができるか、そうでないかだけの違いなのである。

全てをあるがままにまかせ、無心に受け入れる者には、神々すら地に伏して敬うという。
起こることを起こるままに許す者には、鬼神すら道を譲るという。
言うならば、我々は、鏡のような心を持たねばならない。
来るものは、そのまま映し、去ってしまえば、何の痕跡も残さない、鏡のような心だ。
そうであるなら、傷付くことは決してない。
心の鏡に何が映るか?
黒住宗忠は、それは全て天照大神に任せよと言った。そうすれば、面白いこと、楽しいことばかりであると。
法然は、それを全て阿弥陀如来に任せるという意思を示し、その意思を確認し、そして、その意思を揺るぎないものにするために、常に念仏を唱えよと言ったのだ。
私は、弥勒菩薩が、その名を呼ぶ者に対し、即座に示してくれる法力とは、受容の意思を持つことを助けてくれることだと思っている。
それこそが、人類究極の目標である。
なぜなら、そのような者は、万物の実相たる道(タオ)と一体化しているのであり、自らが神そのものであるのだからだ。
京都広隆寺の、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)は、まさに、「受容」を表しているのだと私は思う。だから、これを見る人々は魂を引き込まれ、真の平安を得て、いかなる困難にも打ち勝つのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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