私が知る人生の唯一の法則は「無になり切れば(想念を消し去れば)不可能はない」だ。
これについて、2400年前の中国の賢者、荘子が、非常に美しい論を展開している。
それを、荘子が書いたそのまま(誌的で美しいが誤解し易い)ではなく、普通の言葉で書くと次のようになる。
音楽には、自然の音楽と人間の音楽がある。
自然の音楽とは、風が起こす様々な音だ。たとえば、ゴゴ―とか、ヒューとか、ザザザザとか表現されるような音だ。
人間の音楽とは、人間が楽器を演奏する音だ。
だが、これらを超える音楽がある。
それは、天の音楽だ。
自然の音楽や人間の音楽は、耳が聴こえれば、誰でも聴ける。
しかし、天の音楽を聴くことが出来る者は滅多にいない。
(ちなみに、天の音楽は、耳が聴こえなくても聴ける)
天の音楽を聴くことが出来れば、高次元の世界に入り、不可能はなくなり、全て思うがままだ。
では、天の音楽を聴くには、どうすれば良いのだろうか?
それは、いっさいの思惟を去り、虚心になり切ることだ。
思惟(しい。しゆい)とは、「思うこと、考えること、思考」で、哲学では「感覚、知覚以外の認識作用。分析、総合、推理、判断などの精神作用」のことだが、単に、「考えること」「想念」と言って良いだろう。
つまり、想念を消し、虚心になれば、天の音楽を聴ける。
そして、天の音楽を聴くとは、万物があるがままに調和した世界に入ること・・・現代的には、高次元の世界に入ることだ。
そうなれば、不可能はなくなり、全ての望みが叶う。
ただ、賢い人なら、こういうことに気付くかもしれない。
「思考を消したら何も望まないので、望みが叶うも何もないのでは?」
いや、そう尋ねる者は、世俗の人間としては賢い・・・つまり、小賢しくても、本当に賢くはない。
なぜなら、本当の願いとは、考えるものではなく、想念を捨てた時、自然に起こるものであるからだ。
想念を消した時に起こる願いは、いかなることでも叶うのである。
尚、「田舎荘子」とも言われる『猫の妙術』は、荘子のエッセンスをうまく捉えていてお奨めである。
これについて、2400年前の中国の賢者、荘子が、非常に美しい論を展開している。
それを、荘子が書いたそのまま(誌的で美しいが誤解し易い)ではなく、普通の言葉で書くと次のようになる。
音楽には、自然の音楽と人間の音楽がある。
自然の音楽とは、風が起こす様々な音だ。たとえば、ゴゴ―とか、ヒューとか、ザザザザとか表現されるような音だ。
人間の音楽とは、人間が楽器を演奏する音だ。
だが、これらを超える音楽がある。
それは、天の音楽だ。
自然の音楽や人間の音楽は、耳が聴こえれば、誰でも聴ける。
しかし、天の音楽を聴くことが出来る者は滅多にいない。
(ちなみに、天の音楽は、耳が聴こえなくても聴ける)
天の音楽を聴くことが出来れば、高次元の世界に入り、不可能はなくなり、全て思うがままだ。
では、天の音楽を聴くには、どうすれば良いのだろうか?
それは、いっさいの思惟を去り、虚心になり切ることだ。
思惟(しい。しゆい)とは、「思うこと、考えること、思考」で、哲学では「感覚、知覚以外の認識作用。分析、総合、推理、判断などの精神作用」のことだが、単に、「考えること」「想念」と言って良いだろう。
つまり、想念を消し、虚心になれば、天の音楽を聴ける。
そして、天の音楽を聴くとは、万物があるがままに調和した世界に入ること・・・現代的には、高次元の世界に入ることだ。
そうなれば、不可能はなくなり、全ての望みが叶う。
ただ、賢い人なら、こういうことに気付くかもしれない。
「思考を消したら何も望まないので、望みが叶うも何もないのでは?」
いや、そう尋ねる者は、世俗の人間としては賢い・・・つまり、小賢しくても、本当に賢くはない。
なぜなら、本当の願いとは、考えるものではなく、想念を捨てた時、自然に起こるものであるからだ。
想念を消した時に起こる願いは、いかなることでも叶うのである。
尚、「田舎荘子」とも言われる『猫の妙術』は、荘子のエッセンスをうまく捉えていてお奨めである。
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