私のようなコンピュータープログラマーは、顧客からデータの提供を受けることがよくある。
ある時、数万件の商品データをExcelのデータでもらい、本格的なデータベースシステムのデータに変換したら、何かエラーが出た。
おかしな(不合理な)商品価格があるらしい。
商品価格が決まっていない場合、そこに、0も何も入れていないことはよくあるが、それとは違うようだ。
それで、元のExcelのデータを調べたら、商品価格が入るべきところに、「その都度、担当者が決定」と書かれてあるのを見て、私はもの思いに沈んでしまった。
聞けば、そのデータを作った人は、自分でも「プログラムを組む」と言う。
私は、業務を混乱に陥れたくなかったら、その人にプログラムなんか作らせてはいけないと思ったが、しばらくその会社と関わっているうちに、私の思った通りだということが分かった。彼は「真面目な、隠れたトラブルメーカー」だった。
その担当者は、例の商品の価格について、「実際に、その都度、担当者が金額を指定しなければならない」ことがいかに必要なことかを主張するのだが、それなら、全ての商品の価格について、そんなことが起こりうると考えなければならなくなってしまうことを説明すると、彼は、「たったの1つの商品のためにそんなこと考えるのはおかしいじゃないですか」と言う。
私が、「本当に1つですか?」と尋ねると、「いや・・・、まあ、本当にたまにある程度だ。本当に稀なものなんだ」と言う。
よく聞いてみると、それは単に風習に過ぎず、ただちに廃止すべきことだった。
また、彼の仕事のあちこちに、本来はすぐに改めるべき、そんな奇妙な「独自のやり方」があった。
オバマ大統領が、アメリカ人全てがコンピュータープログラミングを学ぶべきと言ったらしいが、「ちゃんと」プログラミングを学べば、ものを正しく考えるようになれる効果はあると思う。
それは、最近では、多くの優れた人達が指摘している。
「少数の大切なものを保存する」とか、「少数意見を尊重する」というのと、「いままでそうだったから」「個人的にそうしたいから」少数のものに特権的例外を認めるというのはまるで意味が違う。
コンピュータプログラミングを学べば、それが純粋にして明晰なこととなる。
コンピュータープログラミング自体は、例外というものを認める考え方はある。しかし、本当に例外とすべきかを考えることは強要される。
ただし・・・残念なプログラムを書く人も少なくは無い。
しかし、プログラムを書けば、考え方のおかしさは明らかになる。ただ、それを指摘されて素直に受け入れたり、その考え方で痛い目にあったら何かに気付くかどうかは、そうなるよう切に願うだけである。
ある百貨店で、駐車場の出入り口に車を止めて買い物をする人がよくいる。
別に駐車場が一杯だというのではなく、むしろ、大いに空いていることがほとんどだ。
そんなことをする者に、特に悪意はないのである。
その者は、「ちょっとの間だから」問題ないと思っているのだ。あるいは、本当に「こんなことをしていいのは俺様だけ」と思っているのだ。
その者は「本当の馬鹿」なのだ。
歩きタバコや、最近問題になっている歩きスマートフォンも全く同じで、そんなことをするのは、単に救いようのない馬鹿なのである。
そして、彼らに、自分達のやっていることがいかに愚かなことであるかを理解させるのは、彼らの脳には不可能なことに違いない。
彼らには、いかなる仕事も、いかなる人間的な営みも無理である。
人と昼食に行って、こんなことで何度か驚かされたことがあった。
ある人が、ラーメンを注文する際、「モヤシ多めや!(モヤシを普通より沢山入れろ)」と言い添えた。
この人もまた、ものを考える能力のない人なのである。
また、かなり偉い人だったが、定食を注文する際、その定食にはパスタが含まれていたのだが、彼は真面目に、「スパゲティをちょっと多めに入れて下さい」と店員に言った。
彼に悪気はない。しかし、どうしようもない馬鹿なのである。
彼は良い人だった。概ねでは・・・
しかし、自分が嫌いなタイプの相手には態度が露骨に豹変する。
そして、無用なことでわざわざ苦労を背負い込む人だった。
「残念な思考力の持ち主」になってはならない。
他にどれほどの美点があろうと、あるいは、成功哲学を修得しようと、思考に致命的な欠陥、弱点があれば、それで人生台無しである。
コンピュータープログラミングの学習がそれを克服してくれるのかどうかははっきりしないが、可能性は大きいと思う。
サイバーエージェントの社長が、何か意図があったのかは分からないが、「英語よりコンピュータープログラミングを学ぶことの方が大事」と言っておられたが、それは当たり前のことと思う。
実際、企業などで社員の英語教育に躍起になる人には、残念なものの考え方をする人が多いと思う。
ソフトブレーン創業者の宋文州氏が、「会議を英語でやる会社って、大事なことは裏で日本語で話し合って決めているんだ」と暴露しておられたが、言われなくても、普通の思考力があれば分かることだ。
日本語でさえ、「私はこういう意味でいった」「私はこういう意味に受け取った」と後で言い争うなんてザラだ。言葉なんて慎重に話しても3割も伝わらないもので、齟齬だらけだと認識すべきものだ。
それを慣れない外国語でやればどういうことになるか・・・それが重要な案件であればどうなるか、考えるだに恐ろしい。
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ある時、数万件の商品データをExcelのデータでもらい、本格的なデータベースシステムのデータに変換したら、何かエラーが出た。
おかしな(不合理な)商品価格があるらしい。
商品価格が決まっていない場合、そこに、0も何も入れていないことはよくあるが、それとは違うようだ。
それで、元のExcelのデータを調べたら、商品価格が入るべきところに、「その都度、担当者が決定」と書かれてあるのを見て、私はもの思いに沈んでしまった。
聞けば、そのデータを作った人は、自分でも「プログラムを組む」と言う。
私は、業務を混乱に陥れたくなかったら、その人にプログラムなんか作らせてはいけないと思ったが、しばらくその会社と関わっているうちに、私の思った通りだということが分かった。彼は「真面目な、隠れたトラブルメーカー」だった。
その担当者は、例の商品の価格について、「実際に、その都度、担当者が金額を指定しなければならない」ことがいかに必要なことかを主張するのだが、それなら、全ての商品の価格について、そんなことが起こりうると考えなければならなくなってしまうことを説明すると、彼は、「たったの1つの商品のためにそんなこと考えるのはおかしいじゃないですか」と言う。
私が、「本当に1つですか?」と尋ねると、「いや・・・、まあ、本当にたまにある程度だ。本当に稀なものなんだ」と言う。
よく聞いてみると、それは単に風習に過ぎず、ただちに廃止すべきことだった。
また、彼の仕事のあちこちに、本来はすぐに改めるべき、そんな奇妙な「独自のやり方」があった。
オバマ大統領が、アメリカ人全てがコンピュータープログラミングを学ぶべきと言ったらしいが、「ちゃんと」プログラミングを学べば、ものを正しく考えるようになれる効果はあると思う。
それは、最近では、多くの優れた人達が指摘している。
「少数の大切なものを保存する」とか、「少数意見を尊重する」というのと、「いままでそうだったから」「個人的にそうしたいから」少数のものに特権的例外を認めるというのはまるで意味が違う。
コンピュータプログラミングを学べば、それが純粋にして明晰なこととなる。
コンピュータープログラミング自体は、例外というものを認める考え方はある。しかし、本当に例外とすべきかを考えることは強要される。
ただし・・・残念なプログラムを書く人も少なくは無い。
しかし、プログラムを書けば、考え方のおかしさは明らかになる。ただ、それを指摘されて素直に受け入れたり、その考え方で痛い目にあったら何かに気付くかどうかは、そうなるよう切に願うだけである。
ある百貨店で、駐車場の出入り口に車を止めて買い物をする人がよくいる。
別に駐車場が一杯だというのではなく、むしろ、大いに空いていることがほとんどだ。
そんなことをする者に、特に悪意はないのである。
その者は、「ちょっとの間だから」問題ないと思っているのだ。あるいは、本当に「こんなことをしていいのは俺様だけ」と思っているのだ。
その者は「本当の馬鹿」なのだ。
歩きタバコや、最近問題になっている歩きスマートフォンも全く同じで、そんなことをするのは、単に救いようのない馬鹿なのである。
そして、彼らに、自分達のやっていることがいかに愚かなことであるかを理解させるのは、彼らの脳には不可能なことに違いない。
彼らには、いかなる仕事も、いかなる人間的な営みも無理である。
人と昼食に行って、こんなことで何度か驚かされたことがあった。
ある人が、ラーメンを注文する際、「モヤシ多めや!(モヤシを普通より沢山入れろ)」と言い添えた。
この人もまた、ものを考える能力のない人なのである。
また、かなり偉い人だったが、定食を注文する際、その定食にはパスタが含まれていたのだが、彼は真面目に、「スパゲティをちょっと多めに入れて下さい」と店員に言った。
彼に悪気はない。しかし、どうしようもない馬鹿なのである。
彼は良い人だった。概ねでは・・・
しかし、自分が嫌いなタイプの相手には態度が露骨に豹変する。
そして、無用なことでわざわざ苦労を背負い込む人だった。
「残念な思考力の持ち主」になってはならない。
他にどれほどの美点があろうと、あるいは、成功哲学を修得しようと、思考に致命的な欠陥、弱点があれば、それで人生台無しである。
コンピュータープログラミングの学習がそれを克服してくれるのかどうかははっきりしないが、可能性は大きいと思う。
サイバーエージェントの社長が、何か意図があったのかは分からないが、「英語よりコンピュータープログラミングを学ぶことの方が大事」と言っておられたが、それは当たり前のことと思う。
実際、企業などで社員の英語教育に躍起になる人には、残念なものの考え方をする人が多いと思う。
ソフトブレーン創業者の宋文州氏が、「会議を英語でやる会社って、大事なことは裏で日本語で話し合って決めているんだ」と暴露しておられたが、言われなくても、普通の思考力があれば分かることだ。
日本語でさえ、「私はこういう意味でいった」「私はこういう意味に受け取った」と後で言い争うなんてザラだ。言葉なんて慎重に話しても3割も伝わらないもので、齟齬だらけだと認識すべきものだ。
それを慣れない外国語でやればどういうことになるか・・・それが重要な案件であればどうなるか、考えるだに恐ろしい。
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