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哲学史とキリスト教――『ヨーロッパ思想史』 金子 晴勇

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うえしん
   ヨーロッパ思想史 ――理性と信仰のダイナミズム 筑摩選書 金子 晴勇

   ヨーロッパ思想史 ――理性と信仰のダイナミズム 筑摩選書 金子 晴勇



 西洋の哲学史を読むとき、私たち日本人はキリスト教の実感的理解を得ることがたいへんにむずかしく感じるのではないだろうか。キリスト教的な哲学者を飛ばして、近代的な哲学者だけの理解にとどまるのではないだろうか。中世の哲学者となるとアウグスティヌスやトマス・アクィナスが必ず紹介されているのだが、私たちはしっかりと理解できているだろうか。

 宗教的ではない哲学者だけの理解に満足するのではないだろうか。けれど西洋はキリスト教どっぷりの世界であり、近代の哲学者といわれるデカルトやスピノザだって神なしの世界など描けなかったし、近くはヘーゲルやキェルケゴールまでも信仰者といえるのである。破壊的になったのは、フォイエルバッハやニーチェ、マルクスのころであって、宗教はそれだけ強力な存在感をもっていたのである。キリスト教なしに西洋は理解できないのに、私たちには根本的な実感が欠けているのである。

 私は言葉を捨てる禅的な理解の上でキリスト教神秘主義に近づいたが、西洋のキリスト教というものは実感的な理解がまるで阻まれているのである。どうすればリアルなキリスト教的世界観の内面に近づけるだろうか。絵空事のフィクションとしか思えず、どうしてそんな概念世界をほじくり回せたのか、ナゾでしかないのである。

 この本はキリスト教思想史を研究してきた著書によるものであり、哲学史というよりキリスト教思想史の上に哲学者が接ぎ木されたような本である。キリスト教思想史がおもなのだが、それでも西洋哲学史として通用するというのは、西洋がいかにキリスト教世界なのかという証拠でしかない。

 教父思想や中世霊性思想をとりあげているところなど、キリスト教思想よりの思想史である。でも哲学史であってもアウグスティヌスやルターは必ずとりあげるので、哲学と宗教は混然一体としている。ある意味、他国の宗教史であるという面を封印して、近代科学世界としての体裁をとりたいのかもしれない。

 さいごのほうで現代社会の理性、合理主義、進歩主義のはてにおちいった混迷や荒廃が描かれているが、そういった意味で近代合理世界の問い直しやキリスト教の再検討の意味がわかる本ではないだろうか。現代は宗教が滅んで、経済的な価値だけが突出し、ただ労働マシーンや生産マシーンのような生を送らざるをえない。量的・数量的で均質になった世界は、ただ機械的な生の中で人間らしさを失わざるをえないのである。だがキリスト教的な因習的な世界に希望を見出せることはないだろうが。

 理性や合理性の批判や懐疑はたえずおこなわれてきた。ホルクハイマーやエーリッヒ・フロムとかを思い出す。しかしキリスト教知性に学ぶということも、現代人にはむずかしいのではないだろうか。西洋はどこでまちがったのかという歴史の問い直しなら読み返されるかもしれない。キリスト教がやり直しを教えてくれるとは、現代人はとてもではないが思えないのではないだろうか。

 私がおこなっている神秘思想の探究はただ一身の安寧だけをめざしていて、社会的なことまで視野に入れることはない。この本もそのために読まれた。私の問いというのは、キリスト教は神秘思想からどうしてそんなに離れたのかという疑問なのである。その心の安寧が社会へと還元できるのかは、問える段階にはいたっていない。手を広げる余裕までないのである。

 本書をどれだけ読解できたかというと、やはりどうしてそういう風に考えるのか、私にはわからないという呆然感のほうが多かった。ロジックの展開についていけない。とくにキリスト教のロジックにおいておかれることが多い。実感的な理解はまだまだ向こう岸にあるようだ。



 キリスト教霊性思想史 金子 晴勇

 キリスト教霊性思想史 金子 晴勇



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人を裁かないこと――『出家とその弟子』 倉田 百三

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うえしん
   出家とその弟子 倉田 百三

   出家とその弟子 岩波文庫 倉田 百三



   出家とその弟子 倉田 百三 ebook

   出家とその弟子 倉田 百三 ebook



 スマホのバッテリーがもたないので電車で読む本としてチョイス。ちょうど京都一周トレイルで比叡山に登るところだったので、親鸞ゆかりの地としてはよいめぐりあわせだったかも。

 この戯曲はさいしょどのような物語がわかりかねたが、親鸞一行が雪の冷たい夜に一夜の宿を断られるところからはじまる。親鸞の放蕩息子の善鸞が出てきて、また親鸞の愛弟子の唯円が遊女との禁じられた恋に落ちて、寺の僧たちから追い出されそうになるところが、いちばん盛り上がりを感じるところだった。

 これらは人を裁かないこと、許すことに収斂してゆく物語であった。一夜の宿を断られて、凍える雪の夜に親鸞は杖で打たれるのだが、後悔した家の者がふたたび招き入れて、親鸞は恨んだが、許すことが語られる。寺の僧たちは遊女との恋に落ちた唯円をつまみ出そうとするが、親鸞は「悪人こそが許されなければならない」ということを説いて、僧たちをとどめることに成功するのである。しかし息子の善鸞だけは臨終の間際まで会うことはなく、息子はさいごまで仏を信じることを拒むのである。

 親鸞の主要な教えである「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」が説かれている本なのである。ただ私はだれが救われるのかという問題にさっぱり意味を見い出せないのだが、この世で善行や徳をつまないと極楽に行けないという通念でも行き渡っていたのだろうか。親鸞の問題意識にさっぱり同感できないから、私はこのあたりの仏教観は親しみを感じることがない。

 人を裁くな、許せという教えは、たぶんこの世にはなんの判断も区別もないということをいっているのだと思う。人間が考えるような善い行い、悪い行いというのは、ただ人間の考えや判断の中にあるものだけであって、このような判断は実在しないというのが仏教の教えであると思う。

 人間の判断などこの世界には実在しない。ただ人の頭の中にある観念である。人の判断や区別など実在しないということを、悪の行いをとがめたり、裁いたりするなという具体例であらわしているのだと思う。判断や行為が前面に出すぎていて、抽象的な言語の分節がないということをいったりしないのである。

 私は言葉なんて捨ててしまえという禅の立場に立つので、人間の苦悩や判断することをすべて無用なものとして切り捨てるほうに傾いているから、人間の苦悩を前面に出してくる展開には、無益さを感じるくらいである。人間は言葉で考えたり、いったことが現実にあると思う。そんなものは実在しないものであるから捨ててしまえというのが、禅である。苦悩が前面に出てくると、まるで苦悩のヒロイズムや苦悩の崇拝がおこりそうで、私としては「喝!」と一喝したくなるのである。

 遊女のひとりがいう。

「けれど泣いたとして、どうもなるのではなし、くよくよ思うだけで損だと思って、一切考えない事にしてしまったのよ。今日一日がどうにか過されさえすればいいと思うことにしたのよ。だって行く末の事を案じだしたら、心細くて、とてもこうやってはいられなくなりますもの」



 この遊女のように割り切れれば平安が訪れるのだろうが、人は考えたり、判断することによって、もっとよい未来や境遇を得ようとして悩むことになる。考えることによって解決や打開策を見つけなければならない。考えや判断を捨ててはならないのである。そうして苦悩や憂うつは去ることはないのである。

 言葉や考えがどこにも実在しないものであること、幻のように存在しないものであること、そういったことを腹の底から実感しないと人は考えることをやめられないのだろう。私たちは言葉や考えが目の前に実在するという思いから、離れられることはないのである。そうして言葉でつくりだした幻想や虚構にいつまでも苦悩させられるのである。言葉の実在感を去らせるというのは、私たちにはそうそうできるものではないのである。

 この本は大正時代にベストセラーとなり、海外にも翻訳されて、ノーベル文学賞をうけたロマン・ロランに絶賛されている。道ならぬ恋が主題になっているような仏教書がなぜ大正時代にベストセラーとなったのかと思うが、私は仏教的な救いよりか、恋の苦悩のほうに引き寄せられたように思うのだが、当時の人は賢明に仏教の本質こそをつかんでいたのだろうか。禅的なものを知ってなかったら、私は恋の苦悩の表面を読むだけにとどまっていたと思う。



 新版 歎異抄―現代語訳付き 角川ソフィア文庫 千葉 乗隆

 新版 歎異抄―現代語訳付き 角川ソフィア文庫 千葉 乗隆




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言葉のフィクションのドツボ――『神に挑んだ6人の世俗哲学者』 L.W.ベック

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うえしん
   神に挑んだ6人の世俗哲学者 スピノザ ヒューム ジェイムズ サンタヤナ

   神に挑んだ6人の世俗哲学者 L.W.ベック



 私の神秘思想観というのは、神は無であり、それは言葉のない世界を意味しており、言葉はフィクションであり、そんな世界はないといったことをいったのだと考えている。言葉がなければ平安の心境にいたれる。人間は実在しない言葉のフィクションの世界に苦しめられれているのだ。

 西洋の知識人の中でそういったことをいった人はいないかと探している。神秘思想家のエックハルトやシレジウスには、そういった片鱗が垣間見れる。キリスト教は象徴的なフィクションをつくりすぎて、深層にたどりつけない。哲学者の中にはいないかとこの本を手にとってみた。

 図書館で借りたこの本には『神に挑んだ』という副題はついていなかった。「神に挑んだ」といったタイトルをつけたほうが、インパクトは増えるだろう。

 とりあげられた哲学者は、スピノザ、ヒューム、カント、ニーチェ、ジェイムズ、サンタヤナである。

 この本は神とのつき合い方をどうするかと考えた哲学者をとりあげたように思える。スピノザやジェイムズは擁護したように思えるし、カントは理性ではわからないと放り投げ、ヒュームも信仰でしかムリだといい、ニーチェは道徳が人間の成長を止めると非難した。

 スピノザは神を放り投げたのではなく、機械論的宇宙論で神を説明づけようとした。時計のような宇宙論なら創造者は必要ないではないかという世界観に対し、その枠組みの中で神を位置づけようとした。ただしその神はキリストのような人格神ではなく、神が全であるような汎神論である。

 ニーチェは宗教が人々を服従させる道具だとして非難した。道徳は天才や優れた人をつぶして、人類の進歩をもたらさないのだ。だからキリスト教的な奴隷道徳を終わらせなければならないといった。ニーチェは仏教やインド哲学の影響もうけており、真理は解釈でしかないといったサンサーラの言及もおこなっている。言葉のフィクションは実在しないとまではいっていないと思うが。

 ジェイムズはこの本ではじめて知ったように思うが、事実かどうかより、宗教的世界による不死や人間の理想、大望とかもっているほうが人々は幸せになれるのではないか、そういう方便の意味で宗教を肯定したということである。

 自己啓発もこの用途で使われているのであって、ウソっぱちの願望成就を語ってもそれで人が幸福になれればいいじゃないかという使い方をするものである。事実うんぬんより、メタ視点で効用がうたわれているのである。科学的な事実だけを問題にしなければならないと思っていたら、ぎゃくにメタ視点は抜け落ちるのである。

 これらの哲学者は私が求めているような言葉の非実在性を語ったわけではない。私が探している知識は、マンハイムの知識社会学やバーガー・ルックマンやガーゲンのような社会構成主義がいちばん近いかもしれない。世界はどう描かれているかというメタ視点である。

 言葉の世界は実在しないといったのが東洋哲学の出発点だと思うのだが、西洋は言葉で世界を構築する以外のメタ視点をもとうとしないのである。西洋で言葉の世界はフィクションであるといったのはキリスト教神秘主義であると思うのだが、神との合一という象徴的フィクションを用いる宗教にその真意を見出すのはむずかしい。

 ハイデガーは「隠れたる神」を救い出そうとしたといわれるが、プラトンやギリシャ哲学は言葉でフィクションをつくりだす方向ばかりに走ってしまった。ソクラテスも神秘主義者と見ることはできるのだが、言葉の無に悟ろうとしたのではなく、弟子のプラトンは言葉の創造ばかりに向かってしまった。

 ただ言葉の構築やフィクションの方向に進んだからこそ西洋文明は進展し、東洋は停滞に止まったといえるので、人間の想像力に重石を乗せるのは、考えものなのかもしれない。ただし言葉の非実在性も理解したうえでの言葉の使い分けができるようなら、申し分ないのだろうが。

 人間は言葉で語ったことが現実にあると思う。けれどそれは実在しないものである。このワナやクレバスに落ちないようにしようとしたのが東洋哲学や世界宗教の起源だと思うが、象徴にすぎない神が実在するというワナのコースをひた走ってしまった。

 人類は言葉の仮想現実から抜け出すことはできないのだろうか。神や宗教という信仰に走ってしまったからこそ、人類は言葉は実在するというドツボからよけいに抜け出せなくなったのである。



 キリスト教神秘思想史 1 Louis Bouyer

 キリスト教神秘思想史 1 Louis Bouyer




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