関東大震災の虐殺100年によせて7

 ベトナムから米軍が撤退して50年。しかし、今も地雷や不発弾の処理は先が見えないほど深刻だという。

 米軍はベトナムに500万トン以上の爆弾を投下した。その不発弾でこれまでに4万人以上が亡くなっており、今でも年間千人近くが命を落としている。母親が不発弾で脚を失い、アメリカへの恨みを抱えつつ、アメリカが9割を救出するNGOで撤去作業に従事する青年をNHKニュースが取り上げていた。

ベトナム中部クアンチ省は、不発弾の密度が最も高い地域だ(NHKより)

グエン・ドゥック・チエンさん(32)は、若い頃不発弾で脚を失った母と暮らす(NHKより)

 「私たちは早く除去しようとしていますが、終着点がいつ来るかはわかりません」というNGO代表の言葉に、アフガニスタン、イラクや現在戦争がつづくウクライナのことを思った。戦闘が終っても、戦争の災禍は何十年も消えないのだ。
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 関東大震災直後、各地で武装した自警団が血眼になって「朝鮮人狩り」を行う狂乱のなか、朝鮮人と疑われたり、自警団の暴行に反発したりした日本人が殺されるケースも少なくなかった。千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)で起きた「福田村事件」も自警団に日本人が襲われたケースだった。

 大震災から5日が過ぎた9月6日のこと、香川から行商に来ていた薬売りの一行が、福田村にある利根川の渡し場にやってきた。事件の発端を、元高校教諭石井雍大さんらの研究成果を基にして2009年の『四国新聞』はこう記す。

《渡し賃の交渉過程で異変が起きた。「言葉が変」「朝鮮人じゃないか」。半鐘が鳴る。生存者の証言によると、駐在所の巡査を先頭に、自警団が「ウンカのごとく」集まったという。

 「どこから来た」。一行は抗弁する。「四国から」「日本人じゃ」。言い訳するほど「聞き慣れぬ言葉」に不審が募る。巡査が本署の指示を仰ぎに場を離れたのが悲劇の始まりだった。(略)「やっちまえ」の怒号とともに惨劇の幕が開く。》」

、「言葉が変」などと怪しまれ、二十歳代の夫婦2組と2歳から6歳までの子ども3人、24歳と18歳の青年の9人(妊婦のお腹にいた胎児を入れて10人とする説も)が惨殺された。

takase.hatenablog.jp


 薬の行商人一行は被差別部落出身だったが、そのことが理由で殺されたのではない。ただ。一行のうち生きのこった6人は、部落差別を理由に「言っても仕方ない」と泣き寝入りした可能性がある。一方、現場近くの地域では、あまりにもおぞましい事件なので、たとえ知っていても、しゃべってはいけないという空気があって、長く事件はほとんど知られずにきた。

 一部の人により調査がはじまったのは1980年前後。地道で困難な事実の掘り起こしを続けるなか、2000年3月には香川県で「千葉福田村事件真相調査会」が、同年7月には千葉県で「福田村事件を心に刻む会」が設立され、2003年にはこれらの人々が中心になって、野田市の円福寺に追悼慰霊碑を建立した。ここに集まった人々は事件を検証して語り継ぎ、人権尊重を啓発しながら交流を重ねており、今年の追悼式には香川から被害者遺族なども参加したという。

 今年6月20日には野田市長がはじめて事件に言及し弔意を示している。

《関東大震災直後に香川県の行商団9人が福田村(現在の野田市)で自警団に虐殺された「福田村事件」から今年で100周年となることに関し、同市の鈴木有市長は20日の市議会一般質問で「被害に遭った人たちに謹んで哀悼の誠をささげたい」と弔意を示した。同市が公式の場で福田村事件の被害者に対して哀悼の意を表したのは初めて》(千葉日報https://www.chibanippo.co.jp/news/national/1073258)

 映画『福田村事件』を製作した森達也監督が福田村事件を知ったきっかけは、02年の新聞記事で、事件の追悼慰霊碑建立の動きを読んだことだった。

今年の追悼式(栃木裕さん提供)

 どの映画評でも絶賛されている『福田村事件』だが、「追悼慰霊碑保存会」の人々からは批判の声が上がっているという。6日に野田市で行われた「関東大震災福田村事件100年犠牲者追悼式」での「主催者からのメッセージ」では、碑の建立から20年にわたって事件を語り継いできた努力してきた関係者への感謝を述べた後、以下のようにわざわざ映画に触れている。

 《その長年にわたる積み重ねを「ちっちゃな慰霊碑」、「福田村事件」は「歴史の闇に葬られていた」などと語る映画監督や書き手に対して、私たちは憤りを覚えずにはいられないことを皆様にもお伝えしておきたいと思います》

追悼式主催者からのメッセージ(栃木裕さん提供)

 また、映画制作の過程で、香川の被差別部落の住民側とのあつれきも生じた。『埼玉新聞』8月28日の記事は「映画化の動きは地域を翻弄した」と書く。

 2020年冬、森監督が取材のため地域を訪れ、その様子を地元テレビ局が放送。そのため地域が特定され、ある出版社が地域の動画を公開、その影響がすぐに差別になってあらわれたという。

埼玉新聞8月28日の記事(栃木裕さん提供)

 「追悼式」に参加した私の友人の栃木裕さんは、FBで森監督をこう批判している。

 《森達也がこの慰霊碑を「ちっちゃな慰霊碑」と罵倒し、保存会として抗議したが、森は無視を続けている💢 しかも勝手な解釈で映画を作製、公開した。香川では地域が晒されて被害者家族・遺族が大きな不安の中に叩き落とされている‼︎

 私も5日にこの映画を観たがイライラした。

 ハンセン病、三味線弾いたり大道芸人のような派手な口上の辻売り、正信偈(浄土真宗のお経 被差別部落には真宗門徒が多い)の読経、水平社宣言を御守りにして、それを誦じる、、、、、

 取ってつけたような「被差別部落」のステレオタイプの薄っぺらいなイメージがペタペタとランダムに貼り付けられていた。(略)

 さまざまな障壁を超えて20年前に追悼供養墓碑を作った香川県や野田市の皆さんの感情を逆撫で、愚弄し、見下す森達也の態度はどんな事があっても許されない。(略)

 森の映画によって「福田村事件」が多くの人に周知されたのではない‼️

 慰霊碑保存会をはじめとした人々の辛苦があって慰霊碑が出来、市川さんらの精力的なフィールドワークによる啓発活動が裾野を広げていった結果として今日がある事を忘れないようにしよう》

 栃木さんはかつて屠場労組の委員長をつとめ、部落差別の問題にも詳しい。一昨年『屠畜のお仕事』を出版している。
https://mainichi.jp/articles/20210803/ddm/012/070/058000c

 かつて森監督が屠畜を取り上げたさい、描き方に異論があり意見を言おうとしたら「検閲だ」と拒否されたことがあったという。その当時から森監督の姿勢は変わっていないと栃木さんは言う。

 ここに紹介したのは私が接した一部の人たちの意見だが、映像作品の制作手法、関係者への向き合い方、テーマの表現方法など、さまざまなことを考えさせられる。

 

 さて、関東大震災で殺された日本人たちは少なくないが、その中には、福田村事件のように狂乱する自警団によって偶発的に殺されたのではなく、狙われた標的として意図的に殺害された人たちがいた。
(つづく)

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