エチオピアの少女を養子としたアメリカ人作家ザンの「アメリカ」を巡る物語。
オバマが大統領選挙に勝った頃のロサンジェルスやロンドン、あるいはザンが書く小説の中のベルリン、ロバート・ケネディが大統領選に向けて活動中のワシントンなどを舞台にして物語は進んでいく。
新作を書けなくなっている作家のザンと盗作スキャンダルに巻き込まれた写真家のヴィヴの夫婦には、12歳の息子(パーカー)と、2年前に養子として迎えた4歳の娘(シバ(ゼマ))がいる(なお、娘だけ黒人で3人は白人)。上述の事情を抱えているのでそもそもそこまで裕福なわけではないのだが、折悪く、サブプライム問題の煽りを受けて、家が差し押さえられそうな危機を迎える。かと思えば、シバの産みの母親を探しに単身アジスアベバへと渡ったヴィヴが音信不通となり、新たに雇った子守のモリーともどもシバまで行方不明になって、とザンは次々とピンチに陥っていく……。
海外文学読むぞシリーズ、再びのエリクソン。
エリクソンの作品としてはこれまで、
デビュー作の『彷徨う日々』(1985年刊行、1997年日本語訳)スティーヴ・エリクソン『彷徨う日々』(越川芳明訳) - logical cypher scape2
第3作の『黒い時計の旅』(1989年刊行、1990年日本語訳)
スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』(柴田元幸・訳) - logical cypher scape2
第4作の『Xのアーチ』(1993年刊行、1996年日本語訳)
エリクソン『Xのアーチ』 - logical cypher scape2
を読んできたが、本作は飛んで第9作目(2012年刊行、2015年日本語訳)となる。
現在、エリクソンの長編小説は全部で10作あるようだが、日本語訳のある作品としては最新作ということになる。
(なお、刊行順に翻訳が進んでいないところがあって、第8作にあたる『ゼロウィル』は2007年に刊行されているが、日本語訳が出たのは2016年である)
今までも、エリクソンの作品は次に何を読もうかと逡巡していて、どれも読みたいような気がする一方で、どれも決め手に欠けるところがあったのだけど、今回、本作が家族小説であるというところが気になって、読んでみることにしたのは、自分の側の変化もあるだろう。確か、本作や『ゼロウィル』の日本語訳が出た頃は『ゼロウィル』の方が気になっていたんだけど。
エリクソンというと「幻視」というキーワードがすぐに上がるが、本作はそういった要素は(メタフィクショナルな仕掛けはあるものの)薄めである。
そして、物語の大枠としては、白人の家族が黒人の孤児を育てようとする話でもある。
エリクソン作品は、あらすじを追うのが難しかったりするが、本作の場合、上述したようにザンが次々と家族を巡る危機に遭う、という大枠のあらすじがあって、その点では話を追いやすい。
もっとも途中で、1960年に時代が遡り、ジャスミンという黒人女性を主人公にしたストーリーが突然始まり、これが次第にメタフィクショナルな仕掛けへと繋がっていくことにはなるのだが、それでも最終的には、わりとわかりやすいハッピーエンドへと至るようになっている。
アメリカ
本作は「アメリカ」がテーマになっている。『彷徨う日々』や『黒い時計の旅』はそれほど「アメリカ」ということは表だっていなかったと思うが、『Xのアーチ』は、ジェファーソンとその愛人であるサリー・ヘミングスの物語だったので、この作家にとって「アメリカ」というテーマはそれなりにずっと続いているものなのだろう。
そしてここで「アメリカ」として問題になっているのは、白人と黒人のことである。だからこそ物語は、オバマが大統領選に勝利したところから始まる(なお、『黒い時計の旅』で「ヒトラー」と明記されなかったように、本作でも「オバマ」や「ケネディ」あるいはそれだけでなく実在の人物について固有名詞は明記されない。ただ、分かるようには書かれている)。
ただ、人種差別の話というよりは、黒人の子を白人家族が育てるというところに、共生の理念を見ようとしているというか。物語自体は、養子一般について言えそうな話ではあるんだけど、ルーツから離れて新たな家族とともに生きることができるようになるまで、を描こうとしている感じ。
2歳の時に引き取られて、現在は4歳という年齢設定があって、その年から引き取られた当時のことを具体的に覚えているわけではないのだけれど、でも、悲しみの感情だけは残っていて、その悲しみを捉え直す話というか。
忘れられてしまったが残存している悲しみを抱えて生きることこそに「アメリカ」を見いだそうとしているラストになっている。
ところで、アメリカがテーマの作品だが、物語のほとんどはロンドンかベルリンが舞台になっている。
音楽
本作は、音楽小説でもあるし、サンプリングや剽窃がキーワードともなっている。
まず主人公のザンは、本業は小説家だが、海賊放送をしているコミュニティFMでラジオDJをしていて、音楽にかかわっている。
また、娘のシバは、身体から音楽が流れるという特殊体質の持ち主で、家族は彼女のことをラジオ・エチオピアと呼んでいるのだが、エチオピアの音楽もそこに関わってくる。
そんなシバのお気に入りは、なんとデヴィッド・ボウイなんだけど、実はボウイも登場する。
物語の途中から、1960年代に遡ってジャスミンという女性を中心にした話が始まるのだが、その中でジャスミンはデヴィッド・ボウイのマネージャー的な仕事をすることになるのである。
そもそもが本作のタイトルである「君を夢みて」自体が、ヴァン・モリスンの曲名をそのまま借用しており、この曲の歌詞が引用されている箇所も出てくる。
アメリカのロックについて、ある程度知っておいた方が本当はより読めるのだろうけれど、自分は全然知らないので、そこらへんはちょっとよく分からないところがあった。
デヴィッド・ボウイも作中では名前が出てこないので、知っている人は、書かれ方ですぐに誰か特定できるのだろうが、自分は全然分からないまま読んでいた。
さて、サンプリングやリミックスみたいなテーマやキーワードもよく出てくる。
ザンは文学の衰退についてという講演を依頼されるのだが、その中で、聖書の福音書というのは、次々と書き換えられていった過程なのだ、という話をしている。
また、ザンが書いている小説の主人公であるXは、まだ発表されていない『ユリシーズ』を何故か未来から手に入れてしまったことで、それを剽窃しようとする。(しかし、未来から剽窃とは剽窃になるのか)
そして、ヴィヴは、盗作の被害にあっているのだが、裁判費用が工面できないためうやむやになってしまっている。(何事もはっきりさせようもするヴィヴの性格にしては、このあたりは何だかはっきりしない)
またこの作品自体が、断章形式をとっており、断片化=サンプリングを意識しているように思われる。章わけはなされておらず、1行空きが多用されている。1行空きによってシーンが変わるだけでなく、同じシーンの中でも途中で1行空きが入ることがある。前半は、物語はおおむね線状に進むが、後半になるにつれて、異なる時間・場面がこの1行空きによって次々繋がれていくようになる。
文学、物語、ひいては歴史はみな、サンプリングされ、盗まれ、構築されるものだという、言ってしまえばポストモダン的な考えが反映されているのかもしれない。
あらすじ
物語は、オバマが大統領選挙に勝利するところを、ザンが家族とともにテレビで見ているところから始まる。
彼らは、ロサンジェルス郊外の渓谷地域に暮らしている。
4歳児のシバの反抗期っぷりがなかなか。兄のパーカーとは逆のことをやりたがり、テレビがどこかで覚えた悪態台詞を叫びまくる。
なお、彼女のエチオピアでの名前は「ゼマ」で、賛美歌というような意味らしいのだが、ザンは「シバ」と呼んでいる。
(ちなみに、ロサンジェルスの渓谷に住んでいる、黒人の少女を養子にとっている、妻が盗作被害にあう、というのはエリクソン自身のプロフィールと一致しているらしい)
ザンは久しぶりに小説を書いている。売れないアメリカ人小説家Xを主人公にした小説だが、決して私小説ではない。Xはベルリンに行きネオナチの青年たちに暴行を受ける。倒れていると、黒人の少女がXの様子をうかがう。彼女は一冊の本を落としていく。彼女の母親とザンは、かつて一度だけ会ったことがある。
サブプライム問題で家が差し押さえられそうになっているが、ザン夫婦は子どもたちにはそれを隠しながら、生活している。そんな折、ロンドンでジャーナリズムの教鞭を執っている、ザンの知人でありヴィヴの元恋人からの講演依頼を受けて、家族揃ってロンドンへ旅行することになる。
その一方、ヴィヴはシバの産みの母親の行方をずっと気にしていた。シバは、生まれてすぐに母親がいなくなり、父方の祖母に育てられたが、祖母も高齢を理由にシバを孤児院に入れていた。ヴィヴは、エチオピア在住のジャーナリストに、この母親の行方を探すよう依頼していた。ある時、そのジャーナリストから、ヴィヴからこの祖母宛への生活費の送金が、人身売買疑惑を招いているというメールが届き、連絡がとれなくなる。
ヴィヴは、その責任感からアジスアベバへ行くことを決意する。
ロンドンに残ったザンは、パーカーとシバをつれてロンドン観光をするが、ロンドン塔とか明らかに受けがよくない。とあるパブで食事をとっていたとき、黒人女性がこちらを見ていることに気付く。
子守りが必要になることを、講演を依頼してくれた知人に相談した後、ホテルにモリーという女性が子守りとして現れる。
ヴィヴからメールが送られてこなくなる。
庭園の迷路で、シバが一瞬迷子になる。そのとき、シバはザンではなくモリーの名前を呼び続ける。
ホテルのバスルームで、パーカーと同じように愛されていないと泣くシバ。
大学での講演
そして、シバとモーリーが揃って姿を消す。とともに、パーカーがネットの掲示板で、ベルリンのブランデンブルク門の近くにヴィヴがいる写真を見つける。
ザンは悩んだ末に、ヴィヴを探すためにパーカーを連れてロンドンを離れる。ユーロスターの乗り換えで降りたパリでは、トラックに何度も突っ込む異様なタクシーを見かける。クレジットカードが1枚使えなくなり、もう1枚も限度額が下げられていることに気づきながら、ベルリンでは、かつて壁があったところにある安宿に泊まる。
ヴィヴ探しは当然ながら難航する。その上、掲示板から写真が消えている。ある夜、ホテルからパーカーが逃げ出し、それを追いかけるうちにザンも道に迷い、青年たちに暴行されて携帯電話をなくす。まるで、ザンが書いた小説にでてくるXのように。
家も、ヴィヴも、シバも、パーカーも幻だったのではないかと嘆くザン。
1960年代のロンドン、未来においてモリーがシバを見つけることになるパブで、ジャスミンとその恋人は、とあるアメリカ人男性と出会う。エルヴィス・プレスリーもビートルズも分かっていないようなこの男を、何故かホテルへの帰路につきそうことになる。南アから戻ってきたばかりでロンドンを経由してすぐにアメリカに帰ると話し、子どもの頃に、駐英アメリカ大使館に住んでいたことがあるとのたまうこの男を、ジャスミンは訝かしむが、後になって、実はロバート・ケネディであったことに気付く(ロバート・ケネディは上院議員時代にアパルトヘイト下の南アを電撃訪問しており、また、父親は駐英大使であった)。
ジャスミンは渡米し、ロバート・ケネディの選挙事務所で働くようになる。
ロバート・ケネディの選挙活動は、ロックバンドの熱狂にたとえられている。また、ロバートは、空虚な、つまり、人々の期待にそうような振る舞いをする空虚さというか、そういう人物として描かれているが、これは、後々のザンによるオバマ評とも通じ合ってくる。オバマについても異様な熱狂によって歓迎され、その熱狂のゆえに、極端な形で失望されていくと。
この選挙活動中の熱狂のさなか、民衆に押し倒された10代の少年をジャスミンは助けているのだが、この少年がザンである。
ロバートは暗殺され、ジャスミンは政治の世界を去り、音楽事務所へと就職すると、とある大物アーティストのもとへ行かされる。赤毛の歌手で、ナチス式の敬礼をしたことで物議をかもしていた(つまり、デヴィッド・ボウイである)。
ボウイのもとには、ジムという歌手がいて、ベルリンでレコーディングをする予定だから住むところを探しておいてほしいとジャスミンは頼まれる。このジムというのは、ドアーズのジム・モリスンのようだ(ライブ中に性器を出したというエピソードが記されている。なお、作中の年代が明記されていないのだが、もしかしすると実際の歴史的にはジム・モリスンすでに亡くなっているのでは?)。
ベルリンの壁の近くにあるスタジオでレコーディングを行い、ボウイとジム、さらに《教授》と呼ばれる男とジャスミンはともに暮らし始めることになる。(この《教授》が誰なのかよく分からないのだけど、ブライアン・イーノなのか?)
で、あるときジャスミンは幻覚剤をもられて、3人とセックスし、誰かとの間の子どもができる。
この子どもというのがモリーであり、モリーは、シバと同じく身体から音楽が流れる特異体質で、どんなに迷子になってもジャスミンは必ずモリーを見つけ出すことができた。
ボウイがジャスミンの似顔絵を落書きした本があって、モリーはその本を読んでいないが持ち歩いていて、ある時、ネオナチに暴行されて倒れている男を見つける。ネオナチに絡まれたくないのでモリーは逃げ出すが、本を落としてしまう。
このエピソードが、ザンの書く小説の中に何故かあるのだが、時代が違っていて、モリーが落とした本というのが、何故かまだ出版されていなかった『ユリシーズ』で、ザンの書く小説の中では、小説家Xは、未来から剽窃する作家となっていく。
さて、モリーは翌日になって本を探しにいく。本は見つかるが、ジャスミンの似顔絵だけ破りとられている。そして数年後、ジャスミンはネオナチによって殺されてしまう。
アジスアベバのヴィヴは、ジャーナリストがシバの母親かもしれないとした女性の写真を手に入れる。ジャーナリストによれば、その女性はシバの母親と思われたが、亡くなりそうで、しかも、結局母親ではなさそうだという。その写真を父親に見せると「違う」と言われる。
滞在資金が底をつき始めて、ロンドンに戻ることにする。手に入ったチケットはパリ経由の飛行機。パリで、空港から駅までタクシーに乗るが、その運転手が頭がおかしくなって突然トラックに何度も衝突するので、慌てて逃げ出す(つまり、ザンとパーカーは、パリでヴィヴでニアミスしていた)。
タクシー車内に荷物を置いてきてしまったのでわずかなお金の持ち合わせしかなく、ヴィヴはユーロスターに無賃乗車する。ブリュッセルで車掌に見つかるが泣き落とししてロンドンまでは辿り着く。とはいえ、ロンドンで保安員らに詰められて、ヴィヴはザンに電話をするがザンではなく知らない男が電話にでる(ベルリンでザンは携帯電話を盗られている)。結局、元恋人を呼び出して運賃を払ってもらう。彼もザンと連絡がとれていない。
ザンの滞在しているホテルへ行くと、シバも行方不明になっていると聞くが、モリーとシバはその後また姿を現してホテルに滞在しているという。
ヴィヴからするとモリーは正体不明の女で、なおかつ、このとき、死の床に伏せっていた。シバはモリーの側から離れようとしない。
(ところで、ヴィヴの元恋人はヴィヴから、シバの母親かもしれない女性の写真を見せられて、モリーだと思う。一方、ヴィヴは写真の女性とモリーは似ていないと感じる上に、その写真自体が消え失せる)
モリーは亡くなり、ザンとパーカーがロンドンに戻ってきて家族は再会を果たすことになる。シバはしばらくの間一人で寝ている(ロンドンに来た当初は、ザンと同じベッドで寝ていた)。が、数日後、パーカーに声をかけられて、パーカーと一緒に寝るようになる。
シバは、生まれた直後に実の母親と別れ、その後、育ててくれた祖母とも別れ、さらに2歳の時に孤児院で親しんでいたスタッフとも別れ、何度も別れを繰り返しているが、これらを直接的には覚えていない。そしてまた、今度はモリーとの別れを経験することになるのだが、しかし、ここで訣別が果たされることで、育ての家族と本当に家族になっていく道が選ばれることになる。
家族はロサンジェルスに帰ってくるが、家は既に差し押さえられている。ザンは密かに忍び込んで、家財道具をトラックに積み込む。かつて、パーカーが幽霊が出るといっておびえていた橋のたもとに仮住まいする。
(まだロサンジェルスにいたとき、ザンは銀行のオペレーターが自分を罵っている幻聴を聞くのだが、今度は、逆にザンがオペレーターを罵ってはとぼける、という逆のやりとりがなされたりする。パーカーと橋のエピソードも前半の方にあって、前半であったエピソードを踏まえた描写がなされることで、物語が終わりに近付いていく演出がなされている)
最後、ザンはシバに対して、シバじゃない名前をつけようか、と訊ねる。シバは名前をめぐる夢を見る
その名前は、どこにも属さない人々のためのものであり、かつて人々が自分の所属する場所にちなんでつけていたように、まず自分の所属を探している人々のためのものであり、思い出せないが、忘れることのできない出来事を嘆きつづける悲しみのためのものである。少女と兄と母親と父親が船から岸に降りると、その名前は、楽園でも天国でもなく、ユートピアでも約束の地でもない。むしろ、ダメージを受けた名前である。かつて誰かがそれを最初に口にすると、すべての人を魅了したが、その後、それを汚して、ハイジャックして、搾取して、質を落として、中身のないものにして、その価値を見下しながらもその名前の響きだけを愛でている。
その名前とはすなわち「アメリカ」なのだ。
このくだりはまあ感動的でもあり、この作品をうまくまとめてくれているところでもあるのだけど、「アメリカだ。」って断言されて終わるので、「アメリカ人だったらこのラストでスタオベなのかもしれないけど、俺アメリカ人じゃないしなー」って若干鼻白んでしまうところがないではなかった。
ただ、ここでいう「アメリカ」はもちろん国家としてのアメリカを指すのではなく、理念としての「アメリカ」であって、それはアメリカ人以外でも共有しうるものだろう。