ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』田村均訳について、
以前、高田さんが
ウォルトンにおける想像の対象 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
という記事を書き、田村氏が、「表象体の対象(an object of a represenation)」と「想像活動のオブジェクト(an object of imagination)」は別の概念であり、ゆえに、後者についてはobjectを対象とは訳さずオブジェクトと訳すとしていることに対して、このような区別はないと批判した。
これに対して、田村氏本人から、やはり区別はあるとして以下の反論が書かれた。
田村均「事物と私たちの想像論的なかかわりについて : ケンダル・ウォルトンの「想像活動のオブジェクト」の概念をめぐって」『名古屋大学哲学論集』13: 1–21 (2017).
さらにこれに対して、松永さんより
ウォルトンの「想像の対象」と「表象の対象」 - 9bit
という記事が書かれており、ここでは、やはりこの2つの区別はないということを高田さんとは別の点から論じている。
ウォルトンの、「対象」に関する議論は、以前自分が読んでいた時にも、なんかよく分からないなあと思っていたところでもあり、個人的な整理も兼ねて、以下にメモを残しておくことにしたい。
また、以下では敬称略で書くこととする。
ちなみに、いつでも手のひら返しする準備は出来ている
最初の印象
高田、田村、松永による主張をそれぞれ読んだ際に、最初、どれに対しても「確かにウォルトンはそんなこと言ってたよなあ」と納得していたが、むろん、高田・松永と田村とでは解釈が対立しているので、3人ともが全く正しいということはない。
その上で最初自分は、どちらかといえば田村寄りであり、また、松永の主張があまりピンときていなかった。
だが、検討するにつれて、松永の指摘が田村の主張を崩す上でかなりピンポイントで妥当なものだということが分かった。
また、松永によって4月9日に書かれた追記については、全面的に首肯するところである。
個人的な見解
想像のobjectと表象のobjectを区別する理由は、やはりないのではないか。
ただ、確かにウォルトンは、objectという言葉に対して、普通とはちょっと違うニュアンスを付け加えているところはある。
とはいえこれは、松永が追記で指摘した通り、対象が想像活動の中で果たす役割なりなんなり(機能とか特徴とか言ってもいいかもしれない)であって、定義ではないのではないかと思われる(というか、ウォルトンは個々の概念に対して、必要十分条件による定義を避けている傾向があるように思う。そもそも一番基礎になるはずの「想像」について定義でてきないって言ってるし)
ウォルトンにおける想像と表象について
ウォルトンは、フィクションについて説明する時に、まず「想像」とは何かというところから説明を始める。
ちょっと面倒なので詳しい説明は省略するが、切り株を使った想像とか人形やおもちゃのトラックを使った想像とか小説や絵を使った想像とかが出てくる。
切り株や人形やおもちゃのトラックや小説や絵は、想像の小道具と呼ばれる。
小道具のうち、想像を機能としてもっているものを特に「表象」と呼ぶ。
つまり、想像には色々な種類の想像があるのだけど、その中に、表象を使わない想像と表象を使う想像があるということになる。
ウォルトンが表象のobjectという時、表象を使う想像のobjectと解するのであれば、概念上、区別するものではなさそうだなという感じがする。
さて、想像のobjectと表象のobjectを区別すべきかどうかについて、論点は以下である。
まず、高田は以下のように述べている。
想像のケースでも表象のケースでも、「対象object」という語はそのごく標準的な意味、つまり「xがyの対象であるのは、yがxについてのものであるちょうどそのときである」という仕方で使用されている。これは別にウォルトンの特殊な語用などではなく、志向性が哲学で扱われる際の標準的な仕方だろう
http://at-akada.hatenablog.com/entry/2016/11/04/230902
これに対して、田村は以下のように述べる。
おそらく批判者は、「そのものについての想像活動を命令する」という言葉から、想像活動の向かう先(志向的対象)になるものがあることは自明であり、したがってそれが想像活動のobjectである、というように推論したと思われる。この推論は、想像活動の object の標準的な意味に関しては成り立つが、そのウォルトン的な意味に関しては成り立たない。つまり、表象体の object を捉える想像活動の志向的対象が、ウォルトン的な意味での想像活動の object であるということには必ずしもならない。
田村論文 第19節
田村は、想像のobjectには、標準的な意味のほかにウォルトン的な意味があって、標準的な意味では、想像のobjectと表象のobjectは区別されないという高田の批判は確かに成り立つが、ウォルトン的な意味では、成り立たないとしている。
そこで問題は、想像のobjectにそのようなウォルトン的な意味があるのか、ということになると思われる。
objectについて
ウォルトンのいうobject、特に彼が表象のobjectという時、1つ気をつけておきたいことがある。
これについて松永は
想像/表象の対象の話は、シャーロック・ホームズやドラえもんを「虚構的対象」と呼ぶような言葉づかいや考え方とウォルトンの理論とのちがいが顕著に出るケースなんだろうと思う
と述べているところがある。
ウォルトンは、彼自身の存在論的立場から、シャーロック・ホームズやドラえもん、あるいはゴッサム・シティのように実在しないものについては、それを対象objectとは呼ばない。
彼が、objectと呼ぶものは、全て実在するものである。
表象の対象objectという時、特にこの表象というのは、小説や絵のことをさしており、さらに、表象によって虚構的真理が成り立っているものと説明されているところから、シャーロック・ホームズなども表象の対象objectになっているように考えてしまいたくなるが、そうではない。
ウォルトンの説明の中では、ドン・キホーテは実在していないので対象objectではない、というようなことが述べられている。
実在するものが、フィクションや想像に対してどのような寄与をしているのか、という観点で見ていった方が理解しやすいのかもしれない。
田村の議論について
田村は、20〜22節において、想像のobjectと表象のobjectは相互に独立であることを論証している。
ここでは、「想像のobjectである→表象のobjectである」及び「表象のobjectである→想像のobjectである」それぞれの反例を示すことで、表象のobjectと想像のobjectのあいだに必要十分条件が成立してない、つまりこの2つが同値ではないことを示している。
- 想像のobjectである→表象のobjectである
これについて田村は、『ワイアット・アープ』はケヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成しないので、ケヴィン・コスナーは想像のobjectであるが、表象のobjectではないとしている(21節)。
これに対しては、松永による反論によって崩されるだろう。
つまり、『ワイアット・アープ』はケヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成している、である。
実は、松永について自分が最初に違和感を覚えた箇所の1つがここなのだが、考えてみれば、これはもちろん成り立つ。人形遊びにおいて、「この人形は赤ん坊だ」という虚構的真理が成り立つのと同様に、『ワイアット・アープ』において、「ケヴィン・コスナーはワイアット・アープだ」という虚構的真理が成り立つからだ。
ケヴィン・コスナーについての虚構的真理について注意すべき点はあるが、既に松永が指摘している通りなので省略する(ケヴィン・コスナーかつワイアット・アープである人物がいるわけではないなど)。
- 表象のobjectである→想像のobjectである
田村は、ワイアット・アープは表象のobjectではあるが、想像のobjectではないと述べる(20節)。
しかし、その理由は、ワイアット・アープはウォルトン的な意味では想像のobjectになっていないから、というものである。
しかし、ウォルトン的な意味なるものが、想像のobjectという言葉に含まれているのかという点で、対立が生じているのであるから、ウォルトン的な意味があるから違う、というのはどうも論点先取に見えてしまう。
(ちなみに、標準的な意味ではワイアット・アープが想像のobjectでもあることを認めている(第17節))
objectのウォルトン的な意味
ここで、田村がウォルトン的な意味としているものについて確認しておこう。
ウォルトンの議 論の筋道を追うかぎり、想像に生き生きとした実体性を与えるというウォルト ン的な意味においては、ワイアット・アープは観客の想像活動の object として 想定されるものではなかった。
(田村論文 第20節)
つまり、「xがyの対象であるのは、yがxについてのものであるちょうどそのときである」が、対象の標準的な意味だとすると
「xがyの対象であるのは、xがyに生き生きとした実体性を与えるものであるちょうどそのときである」が、対象のウォルトン的な意味だと言い換えることができるのではないだろうか。
さて、これについては田村も検討している。
ここで持ち出されるのは、ウォルトンがpp.26-27であげている2つの事例である。
すなわち、(1)演劇と映画とアニメーションの事例と、(2)エルサレムについての受難物語の事例である。
(1)演劇と映画とアニメーション
ここで言われているのは、実在する役者が、想像を生き生きとしたものにするということである。
演劇では、観客の目の前に生身の役者がいて、想像に実体性を与えている。
映画では、目の前にあるのはスクリーンに投影される映像だけれど、この映像は想像のobjectではなくて、やはり役者が想像のobjectであり、役者が想像に実体性を与えている。そして、アニメーションには、想像のobjectがないので、映画や演劇の方が生々しい、と。
(2)エルサレムの受難物語
エルサレムについての物語を聞く時に、エルサレムについて知らない人は、自分がよく見知った街になぞらえることによって、想像に実体性を与えていた、と。
ここでは、鑑賞者の見知った街が、想像活動の対象objectになっている。
この2つの事例は、確かに、対象objectが、想像に生き生きとした実体性を与えるという役割を果たしていることを述べている。
それは間違いないが、ではこれが、対象objectの定義たりえているかといえば難しい気がする。
つまり、ここでは「objectであるならば、必ず実体性を与える」かどうかと、「実体性を与えるものであるならば、必ずobjectである」かどうかという、必要十分条件が検討されてはいないからだ。
「実体性を与える」ことによって、想像のobjectと表象のobjectは区別されるか
さらにいえば、ここを論拠として、想像のobjectと表象のobjectを区別するのはさらに難しいように思える。
映画の事例についていえば、ここで「想像のobjetではない」とはっきり述べられているのは映像の方である。では、映像は何なのかと言えば、想像を促すものprompterなのである。
映画の事例では、想像を促すものと想像の対象が違うよ、ということを説明するために挙げられており、想像の対象と表象の対象が違うということを説明する事例にはなっていない。
映画の役者が、想像の対象ではあるが表象の対象ではない、ということが明示されていればよいのだが、そのようなことはないし、映画の役者もまた表象の対象になりうることは松永の指摘通りである。
エルサレムの事例はどうだろうか。
エルサレムが、受難物語という表象のobjectであることは確かだろう。そして、エルサレムが、生き生きとした実体性を想像に与えていないことも確かだ。しかしこれは、表象のobjectは実体性を想像に与えない、ということに過ぎない。
ここで、表象のobjectは実体性を想像に与えていないのだから、想像のobjectではない、とは言えない。既に述べた通り、これは論点先取のおそれがある。
逆に、表象のobjectが実体性を与えていることもある。
これは『キングコング』におけるニューヨークの事例だ。
これを田村は、表象のobjectを想像のobjectとしても利用する事例であるとしている。
表象のobjectは、実体性を与えていることもあれば、与えていないこともあるということだ。
では、想像のobjectでありながら実体性を与えないものはあるか。
あるいは、実体性を与えながら想像のobjectではないものがあるか。
これについては、ウォルトンの挙げてる例から判定できるものはないように思える。
松永の指摘を挙げるなら
田村は「想像活動のオブジェクト」のvivacityを強調するが、それは反射的表象(たとえば演劇)や描写(たとえば映画)のケースではそうなるというだけの話である。
http://9bit.99ing.net/Entry/78/
としており、これが当てはまるのであれば、実体性を与えながらも想像のobjectではないものがあるといえる。
ただ、松永追記にあるとおり、ウォルトンはobjectが「当の想像にsubstanceを与える」と述べている。単にvivacityなのではなく、substanceであることが重要なのだと考えると、「描写」の存在を反例と単純にみなしてよいのかどうかは疑問である。
反射的表象は、対象の一種のはずなので、対象の中でも反射的表象に限るということであれば、想像のobjectでありながら実体性を与えないものがあるということにはなるが、そこまで言えるのかどうかは難しい
区別は実際曖昧だと田村も認めているのではないか
例えば映画『ワイアット・アープ』において ワイアット・アープは観客の想像活動の object ではない と、ウォルトンが明示 的に言うかというと、恐らくそういうことはない (7)
(田村論文 第17節)
(ア)の命令が表象体の object にかかわり、(イ)の命令が想像活動の object にかかわる。ウォルトンはこの二つを区別しているのである。その区別の提示 は期待されるほど明瞭ではないが、二つを混同してはいない。
(田村論文 第23節)
この2つの区別を、ウォルトンは明示的に記していない。これは、上の2つの記述からして田村も認めるところだろう。
しかし、映画の事例とエルサレムの事例から分かる通り、ウォルトンは、対象について、生き生きとした実体性を与えるという働きがあることを論じている。
ウォルトンがこのことをわざわざ論じているのは何故か、と考えた際に、これが対象objectの定義なのではないか、あるいは、このことを汲んだ形で訳すことによって、ウォルトンが対象objectという言葉にこめたニュアンスをはっきり示すことができるのではないか。
そのように考えた場合、対象objectをあえて「対象」と訳さずに「オブジェクト」と訳し分ける理由は見えてくる。
また、対象objectの定義の中に、「生き生きとした実体性を与える」を組み入れた場合、しかし、「生き生きとした実体性を与え」てはいないように思われる対象objectがあることも分かる。その違いとして、表象のobjectと想像のobjectが区別されたのではないか。
しかし、「生き生きとした実体性を与える」ことが、対象objectの特徴や効果であるということは言えても、定義とまでは言えないと考えるのであれば、この区別はもちろん成り立たない。単に、そういう効果を発揮しない対象objectもあるというだけの話になる。
実体性substanceとは何か
ウォルトンの議論として分かりにくいのは、これが一体何なのか必ずしも判然としないからなのではないか
先ほどの「描写」の議論とも重なってくるが、例えば、VRによって与えられた触覚は、触覚についてのvividさ(生き生きとした感じ)を与えるだろう。これは、触覚の「描写」だと言えるが、さらに想像に「実体」っぽさを与えているようにも思える。
しかし、触覚を与えるVR装置は、映画における映像と同じく、想像のobjectとはなっていないだろう。
とすればこれは、実体性を与えるが、想像のobjectではないもの、と言えるかもしれない。
が、そもそもウォルトンが言っている実体性はそういう意味ではなく、VRによって与えられる触覚も、映画における映像、あるいはアニメーション映像と同じようなものだとも言えるかもしれない。ただ、そうだとすると、じゃあその実体性とは一体何なのか、ということが気になってくる。
想像のobjectでありながら、実体性を与えないものはあるのだろうか。
これは結構難題で、想像のobjectであれば実体性を与える、と言ってしまってもいいような気はしているのだが。
あえていうならば、鑑賞者自身かもしれない。
極度に没入感の高い映像やVRを鑑賞している時、もちろん「自分がそれを見ている」という虚構的真理は生成されるので、鑑賞者自身は想像の対象となっている。というか、鑑賞者自身が想像の対象となる、というのはウォルトンの理論にとってかなり重要なポイントだ。
ただそこではおそらく、生身の自分のままでは決して見たり体験したりすることのできないものを鑑賞していることになるはずで、自分の存在は、想像に対して「生き生きとした」「実体性」に寄与しないのではないか、という気がする。
もっともこれについて、田村は
こうして想像活動の object は、その実体性によって、私たちの想像に一定の制限を与えるものともなっている。例えば、スーパーマンごっこでスーパーマン役を割り振られた子どもが、スーパーマンなら飛んでみろ、と周囲の子どもに強要されたとき、想像活動の object としての自己は、その実体性(身体)の制約を通じて、その子の虚構世界での振る舞いを制限するだろう。
(田村論文 第39節)
「実体性」は、「生き生きとした」とはむしろ逆の、「制限」という形でも働く、ということを述べている。
ただ個人的には、先に挙げた映像体験において鑑賞者自身は、「生き生きとした」方向だけでなく、「制限」という方向でも、あまり寄与しなさそうだなという感じがする。
もっともここらへん、何ともいえないところで、映像鑑賞やVR体験において鑑賞者の身体はほとんど何も寄与しないとしても、少なくとも鑑賞者自身が「視線を向ける」ことは、想像に「実体性」を与えそうだとも言える。加速度センサーを用いたHMDによるVRなどは、特にその傾向がありそうだ。
ごっこ遊びと実体性
ウォルトンが、フィクションをごっこ遊びとして説明することの肝は何か
というと、フィクションというのがまるっきり現実とは切り離されてあるのではなくて、何らかの意味で現実とも繋がっているということにあるのだろう。
それは例えば、小道具が虚構的真理を生成している、という考えに現れている。
切り株をクマだと考えるごっこ遊びをしている間は、現実に切り株が2つあれば、クマも2頭いることになるし、もし切り株がなければ、クマもいないということになる。現実にどのようになっているのかという状況が、虚構の内容にも影響を及ぼしている。
あるいは、鑑賞者自身も対象となるという考えもそうだ。
「鑑賞者自身がワイアット・アープが銃を撃っているところを見ている」ことが虚構的真理になる、と述べることで、鑑賞者(という現実世界の住人)と虚構世界とが結びつくことが可能になる。
ここで興味深いものが、反射的表象reflexive representationと呼ばれるもので、表象自体が表象されているもののことを指す。
例えば、『ガリバー旅行記』は、読者の読んでいる本それ自体が、ガリバーが書いた本であるという体になっている。
鑑賞者自身が対象となっているケースや、反射的表象のケースは、まさにそれが対象であり、想像に実体性を与えていることが、鑑賞体験における面白さのもとになっているのだろう。
役者と登場人物
ところで、この話のもう一つ分かりにくいところは、映画や舞台の例において、役者と登場人物の両方が、対象となっているところだろう。
例えば田村が出している例として『ワイアット・アープ』がある。
田村は、『ワイアット・アープ』における想像の対象はケヴィン・コスナーで、表象の対象はワイアット・アープであると述べる。
これ素直に読めば、俳優は想像の対象であり、キャラクターは表象の対象になっている、という区別のように思われるが、ちょっとそうではない。
例えば、『シャーロック』において、ベネディクト・カンバーバッチは対象であるが、シャーロック・ホームズは、実在しないので、対象ではない(既に述べた通り、ウォルトンが採用する存在論において、実在しないものは表象の対象とならない)。
ただ、この役者と登場人物って違うよね、という常識的な直観が、ではこれをどのように区別するかということで、想像の対象と表象の対象という区別に仕立てあげられているような気もする。
『ワイアット・アープ』におけるワイアット・アープは、『ワイアット・アープ』という表象の対象である。これは問題ない。
次に、ワイアット・アープは、『ワイアット・アープ』を鑑賞している人の想像の対象であるか。
これについては、既に述べている通り、標準的な意味であれば、想像の対象であることは田村も認めているところである。
田村は、ウォルトン的な意味において、つまり「生き生きとした実体性を与える」という点で、ワイアット・アープは想像の対象にならないとしている。
ところで、『キング・コング』におけるニューヨークのように、表象の対象が想像の対象のように「実体性を与える」ことがあることも、田村は認めている。
ではなぜ、ニューヨークはokでワイアット・アープだとダメなのか。
あるいは、『戦争と平和』におけるナポレオンであればどうなのか。
田村の議論を追う限り、おそらく見知っているかどうかを一つのポイントとしているように思われる。ニューヨークは見知っている街なので、想像に実体性を与えるが、ワイアット・アープは見知っていないのので、実体性を与えない。一方、ケヴィン・コスナーという俳優は、少なくともその映像を通してではあるが、直接見えているので、想像に実体性を与えている、と。
しかし、そもそもニューヨークが『キング・コング』に実体性を与えていて、それがニューヨークが見知った街だからだとして、その時の見知っているは、かなり広い意味で解釈してよさそうである。
つまり、渡米したことのない日本人にとっても、ニューヨークであることは、『キング・コング』の想像に対して実体性を与えているように思われる。
『戦争と平和』におけるナポレオンの事例(あるいはこれは普通の日本人にはなじみにくい例だと思うので、例えば司馬遼太郎の小説における新撰組や坂本龍馬に置き換えてもよいと思うのだが)も、鑑賞者は決して、歴史上の人物を直接見知っているわけではないけれど、そうした人物が対象となっていることで、想像に実体性を与えているように思われる。
ワイアット・アープが実体性を与えていないように思えるのは、歴史上の人物としてはマイナーだから、というくらいしか理由が思いつかない。
だとすれば、理論上は、ワイアット・アープが、ウォルトン的な意味でも想像のobjectになることもありうるように思える。
『ワイアット・アープ』におけるケヴィン・コスナーは、『ワイアット・アープ』を鑑賞している人の想像の対象である。これは問題ない。
次に、ケヴィン・コスナーは、『ワイアット・アープ』という表象の対象であるか。
繰り返しになるけれども、『ワイアット・アープ』は、ケヴィン・コスナーについての虚構的真理を生成しているという松永の指摘により、これは表象の対象であると考えたいのだが、
今、、twitter上で、松永・高田両名による、反射的表象の検討の中で、俳優は表象の対象になっていないこともあるのではないか、という指摘が出てきている。
ちょっとこの議論は、自分にはよくつかめないでいる。
ここは、演劇で使われる舞台装置や大道具・小道具は、想像の対象にはなっているが、表象の対象にはなっていないのではないか、と問えるのかもしれない。
想像の対象と表象の対象の外延は一致しているのか問題
どの立場をとるかによって、外延が変わってしまうので、外延から攻めていくのは難しい気がしたのだが
俳優や舞台装置・大道具と、登場人物(ワイアット・アープやナポレオン)・作品の舞台(ニューヨークなど)とは、何か違うグループに属しているような感じはする。
ただ、その違いを表現する適切な方法として、想像の対象と表象の対象を使ってよいのかどうか、というのは自分にはよくわからない。
両者とも、想像の対象であり、なおかつ表象の対象である(つまりこの2つの概念に区別はない)としても、実体性を与えるやり方が、ワイアット・アープとケヴィン・コスナーとでは異なる、という可能性は十分ある。
仮のまとめ
表象の対象が、想像の対象ではないということを断定できるものはないのではないか、ということで、表象の対象と想像の対象とが完全に独立した概念である、という考えは否定できる気がする。
だが、想像の対象と「実体性を与える」ということとのあいだにはわりと強いつながりがあって、高田や松永が反論するほど、切り離せないような気もしてきている。
「実体性を与える」というのが、あくまでも想像の対象の効果や特徴であって、定義ではないとしても、実体性を与えるのに想像の対象ではないものや、想像の対象ではあるのに実体性を与えないもののよい例がうまく思いつかないからである。