映画が、他の芸術様式と比べて、より広くより強く人々を捉えるのはどのようにしてなのか、という論文
ラマルク+オルセン編『美学と芸術の哲学:分析的伝統:アンソロジー』 - logical cypher scape2に収録されている。初出は1985年。
映画についての、リアリズム的説明を退けて、画像的再現(pictorial representation)、可変的フレーミング(variable framing)、erotetic narrativeによって説明する。
また、ここでいう映画(movie)は、映画全般(film)ではなく、その中の一ジャンルを指しているが、詳しくは後述。
ノエル・キャロルはアメリカの有名な美学者で、映画研究を行っている人。
メディウムスペシフィックな議論を批判し、映画を、moving imageとして捉え直すということをしていて、いわゆる分析系じゃないだろうところでも言及されている感じがする。
個人的には、渡邉大輔『イメージの進行形』 - logical cypher scape2とか、三輪健太朗『マンガと映画』 - logical cypher scape2とかで名前を見かけた。
ラマルク+オルセン編『美学と芸術の哲学:分析的伝統:アンソロジー』 - logical cypher scape2に関して言うと、2年以上前にイントロダクションだけは読んでいて、収録論文については、いくつか読み始めたものはあったのだけど(シブリーとかウォルハイムとか)、どれも途中で断念していた。
まさか、このアンソロジーの中で一番最初に読み終わったのが映画論文とは、自分でもちょっと意外だった
以下、内容要約
この記事では、内容に応じて節を区切るけれど、論文では節区切りはない。
従来の理論
映画の理論は、リアリズムにとらわれていた
例えば、バザン。存在論的にも、心理的にも、リアリズム
現代の理論家は、存在論的なところではバザンを批判してるけれど、心理的なところでリアリズム
でも、リアリズムを使って、映画の何を説明したいのか。
映画が20世紀の支配的芸術形式になったこと=映画の力を説明したい
イントロダクション
- Moviesについて
ここでいう映画Moviesは、映画(filmやcinema)全般のことではなくて、映画(filmやcinema)の中の一ジャンルを指す
ハリウッドの古典様式のような、大衆向けの映画
メディウムの力ではなくて、ジャンル・様式の力について論じる
(以下、ことわりなく「映画」と書いている場合は、基本的にはfilm、cinemaではなくmovieの方を指しているものとする*1 )
ここで知りたいのは、"Red River"や"Psycho"や"Blue Thunder"のような映画の何が、"King Lear"のような芝居や"Middlemarch"のような小説よりも、多くの観客を強く引きつけているのかということ
- 映画の力
(1)広くひきつける=幅広い観客に対してaccessible
(2)強くひきつける=描かれていることがとても明晰(clarity)
画像的再現pictorial representation
まず重要なのは、映画が画像的再現であること
画像的再現は、指示対象と類似していることによって、何を描写しているのかが分かる
画像は、言葉と違って、それが何を意味しているのか理解するのに、スキルを習得する必要がない
外国人で言葉が分からなくても、絵は分かる
絵を見れるようになるのに訓練はいらなくて、普通の物体を認識する能力と絵に描かれているものを認識する能力が同じ→現実に見たことがないものであっても、絵から認識することができる
映画は、動く画像的再現だけれど、訓練がいらないという点では同じ。
これが、accessibleであることの説明
絵を理解するのは、コードとか慣習とかの問題だという考えがある
例えば、人類学において、非西洋人が絵を理解できなかった話とか
→しかし、証拠がはっきりしない
→絵にするという習慣が分からなかっただけで、絵に何が描いてあるかは分かったとも
むしろ、子どもや動物でも、絵を理解する能力があるという証拠の方を重視したい
私たち自身、言葉を習ったようには、絵を習ったことがないということを思い出すべき
デコーディングや推論を仮定してしまうのは、心のコンピュータのメタファーで捉えてしまうせい。コンピュータが、絵を理解するのにそういうことしているとしても、人間も同様とは限らない。
現代の記号論的な映画理論家は、映画を画像的再現というよりはコードや慣習とみなそうとしている。
しかし、「何かが慣習的であるなら、それは文化的産物である」は正しいが、その逆である「何かが文化的産物であるならば、それは慣習的である」は必ずしも正しくないのに、映画理論家たちはそう思ってしまったせいではないか。
文化的産物だけど慣習じゃないものはある。例えば、鋤。文化的産物だけど、慣習的なものじゃない。慣習っていうのは、他の形もありえてその中から選ばれたものだけど、鋤の場合、その形状について、自然に適合させる必要があって、他の形がありえたわけじゃない(けど、文化的産物)。
こういうのは、文化的慣習(cultural convention)じゃなくて、文化的発明(cultural invention)
画像的再現も、文化的発明
何を意味(stand for)しているかは決めることができるかもしれないけれど、何のように見える(look like)かは決めることができない
この主張は、リアリストの主張と何が違うのか
バザンは、観客がイメージと指示対象を同一化しているという
現代の理論家は、イメージが現実のイリュージョンを伝えるという
本論は、イメージが何を意味しているか、訓練を受けていない人でも認識できるという主張であって、見る人が、represenationと指示対象を同じものとみなすという主張ではない。
また、リアリストは、映画が写真であることを重視するけれど、本論では、映画特有のテクノロジーを重視しない
可変的フレーミング
映画が、小説よりもaccessibleであることは説明できたけれど、演劇と比べてaccessibleなのはどうしてか
映画特有のdevice(装置、仕掛け、工夫)=可変的フレーミング、による
これは、客の注目をよりコントロールできる
もちろん、演劇にもそういうdeviceはあって、映画と同じものもたくさんある。
フレームが動くというのは、物語と関係ないところが見えないということ
演劇だと、客が眼を動かしてアクションを追うけれど、映画だとカメラが動くので、普通の客なら見逃すことがない。
可変的フレーミングには2つのやり方がある
(1)カッティング=ショットの中にカメラの位置移動を含まない
(2)カメラ移動=ショットの中にカメラの移動が記録されている
カッティングやカメラ移動を使って、3つのdeviceがある
(1)indexing
対象に向かってカメラが動くことによって、見るべき方向を指し示す
(2)bracketing
フレームの外のものを排除する。bracketされると、それに対して注意を向けることができなくなる
(ただし、あえて重要なものをフレームの外におくという手法もある。例)フリッツ・ラングの"M")
(3)scaling
カメラを動かすことで、フレームの中での物の大きさを変えて、注意を向かわせる
劇場にも、技術的には同様の仕掛けはある(でも一般的にはなってない)
また、こうした可変的フレーミングを使わない映画(film)もある。
ただし、映画(movie)は観客の注意をコントロールするために、可変的フレーミングに頼っている
可変的フレーミングは、映画movie特有のものではないけれど、映画の力を説明する鍵となる
アクションとその細部を広げて詳らかにする
可変的フレーミングは、距離を変えたり、アクションをはっきりさせる速度や流れで、見せる
アクションを、目立つ要素にブレイクダウンさせて、分かりやすくさせる。
一方、演劇では、リアルタイムの速度で進むし、距離も一定。
確かに、演劇も、単純化された動きをするので、日常生活でのアクションよりも分かりやすいけれど、映画の方がさらに分かりやすい。
映画の経験は、日常生活の経験とは異なる。アクションや出来事が分かりやすいという点で。
リアリストの理論と異なり、現実のイリュージョンとはなっていない
画像的再現と可変的フレーミングによって、映画の力を説明したが、これらは映画cinema特有の特徴というわけではないが、映画movieの力を説明するのに役に立つ特徴である
erotetic narrative
さらにもう一つの特徴として、ナラティブがある
ナラティブは、情報を組織化させる手段。
実践的推論(行動の理由についての推論)は、人の行動を分かりやすくさせる。映画のナラティブも実践的推論を反映している
筆者は、Pudovkinの理論に多くを拠っている
Pudovkin(Kuleshovの弟子)は、アメリカ映画American moviesを研究した。何がロシア映画Russian filmsよりポピュラーにさせているのか。
前のシーンと後のシーンとの関係について
疑問と答えの関係になっている
サメが出てきて人が襲われるシーン→サメは見つかるのかという疑問
→行方不明者はサメに襲われたのだと誰かが理解するシーンが答えになる
実際のハリウッド映画はもっと複雑だし、またこの特徴も映画に固有のものではないけれど
疑問と答えというナラティブのモデルを、erotetic narrativeと呼ぶことにする
あるシーンが、顕著な疑問として機能するなら、観客はそれに対する答えを期待する
erotetic narrativeには、色々なタイプに疑問を分類できるけれど、その中の1つとして、マクロクエスチョンとミクロクエスチョンがある
ミクロクエスチョンは、次のシーンで即座に答えができるようなもの
ミクロクエスチョンが従属するかたちで、マクロクエスチョンがある
全ての顕著な疑問に答えが出たときが映画における「終わり」
成功したerotetic narrativeは、描かれた行動について知りたいことを全て教えてくれる
事実上全ての疑問に答えが出る
(「事実上」としたのは、"Invasion of the Body Snathers"のように観客に対して意味深な疑問が残されるエンディングもあるため)
erotetic narrativeは、日常生活と違って、アクションや出来事を分かりやすくして、コンパクトにまとめている
erotetic narrativeと可変的フレーミング
erotetic narrativeは、他の方法で補強させる
可変的フレーミングで観客の注意を向ける
「ジョンは撃たれたのか」という疑問→銃をクローズアップさせることで答える
たいていは、視覚的ではなくてダイアローグとかで示されることが多いけれど、そういうものにたいしても、視覚的に、疑問をより目立たせたりする
可変的フレーミングとerotetic narrativeの関係
あるショットの中で、indexingなどによって、観客が「最初に」注意を向けるものが、ナラティブの進行において「最も関係している」ものである(ここでいう関係とは、疑問と答えのこと)
これが原則
例外もある
例えば、スリラーだと、重要なもの(例えば殺人鬼)を隠して、見えるのを遅らせることもある
でもこれは反例ではない。観客を注意させて、ナラティブの流れをコントロールしている。
まとめ
(1)広くひきつける=幅広い観客に対してaccessible
→画像的再現、可変的フレーミング、erotetic narrativeの使用による
(2)強くひきつける=描かれていることがとても明晰(clarity)
→erotetic narrativeとそれを調和させる可変的フレーミングの機能による
人間の認知能力にかかわる範囲で議論した
異なる文化、人種、性別、年齢、教育的背景をもった人々に対して、映画がaccesibleであることを説明するためには、映画の力が人類という種の特徴を結びついてないといけない
ただし
(1)我々は、人々が映画意外の形式に強く反応しないと主張しているわけではない。映画以外の形式の方に強く反応する人たちがいることと両立する。
(2)映画の力について、ここで議論してきたもの以外の手段があることも否定しない。例えば、マーケティング構造とか
映画の力についての、完璧な説明ではない
音楽とか、まだ分析すべき要素はある
また、今後は、ある特定の作品やジャンルが、特定のグループに対して力をもつことも説明したい
その場合は、社会学、人類学、心理学などが、その探究には役立つだろう
感想
movieとfilmを、訳し分ける日本語がないので、どちらも映画として、必要に応じて、movieやfilmというの補足として入れたのだけど、どっちも同じ語にしちゃうとちょっと分かりにくいかも。
さて、ここでいう映画movieって、三輪『マンガと映画』の中で言われた「映画的様式」にかなり近いのではないかな、と思った。
三輪がいうところの「映画的」って、いくつかの特徴があげられているけど、その中の1つとして、読者の注意をコントロールして物語を一意的に伝達するスタイルのことで
映画の中にも、「映画的」なものと「非映画的」なものがあるとしている。
これ、『マンガと映画』を読んでいる時には、なんなく理解できる点ではあるんけれど、いきなり「映画的」な映画と「非映画的」な映画があるって言われたら、何のこっちゃってなりそう。
これを、movic filmとnon-movic filmがあるって言い直すと、少しは分かりやすくなる?w
movieとfilmって言ったときに、英語ネイティブにとって、どれくらいニュアンスが違うのか分からない(日常的にはただの同義語として使われてそうな気もする)ので、movic filmとnon-movic filmと言ったところでピンとこないかもしれないけれど、それでも、別の言葉を使っているので、movieとfilmで使い分けしてるんだなっていうのは分かるから、日本語よりは分かりやすい気がする。
メディウム固有の特徴ではなくて、様式の特徴について論じるよ、どういう効果があるかという観点から論じるよっていう、論の立脚点という意味でも、『マンガと映画』と似ている(この言い方はもちろんアナクロニズムで、むしろ三輪がノエルの方に似ているないし影響を受けているんだろうけど)。
moving imageについては、この論文ではそんな触れられてない感じだったなあ
キャロルの96年の著作に"Theorizing the Moving Image"ってのがあるらしいが
あ、あと、このアンソロジーと同じシリーズに、キャロル編で"Philosophy of Film: An Anthology"ってのがあるみたい