「意味」とか「表象」とか「自由」とかいったような、あるのかないのかはっきりしないけどあると思われるものを、物理的世界像の中に位置づけようという、いわゆる自然主義・自然化プログラムの本
あるのかないのかはっきりしないけどあると思われるもの*1を扱うのが、まさに哲学だと僕は思っているので、おうおうこれは面白そうだぞと思って読んだ。
前半戦は、表象とは何かという話
もっというと、志向性の自然化
進化の過程で人類は表象を獲得してきた、ということで、主にミリカンの議論が紹介される。あと、ドレツキ。
後半は、前半での話を踏まえて、自由意志と決定論は両立するっていうデネットの議論、さらに決定論を受け入れた上での道徳(責任や罰)について、デネットとペレブームの議論
〆は、人生の意味について、というか、人生の無意味について。人生って実は無意味なんじゃないかって思っちゃうことがあるけれど、これについてネーゲル論文を紹介しながら、考える。
刊行当初から、この本を『哲学入門』と呼んでしまってもいいのかみたいなことが話題になっていたような気がするのだがw
確かにこれは、哲学全体(?)を俯瞰して、これはああで、あれはこうで、と教科書的に解説している本ではない。『○○入門』ってタイトルでイメージされる本というのは、大体そういう本だろうと思うので、そういう意味ではまあ確かにちょっと違う。
この本で書かれている内容と同じような内容が書かれているものを探そうと思ったら、「心の哲学」関係だろう。さらにその「心の哲学」の中でも自然主義*2という立場に強くコミットして書かれている。
そんなに偏ったのが『哲学入門』でいいのかと思う向きもあろうが、とはいえ、そもそも全く偏りなく『哲学入門』なる本を書くなんてどだい無理な話だし、大学で○○入門みたいな講義をとったとしたら、広い○○の中でも特にその先生が主にやってる分野についての講義になることは往々にあるし、むしろ「今まさに自分はこういうことやってんだよ」ってことを見せてもらった方が、「面白そう」といい導入になったりするわけで
そういう意味では、別にこれが『哲学入門』って銘打ってても全然いいのでは、と思った。
まああとは難易度の問題で、この本、タイトルと表紙だけだと本当にどういう本かの情報が少ないので、全くのゼロから初めて哲学の本を読むぜっていう人には、ちょっとむずいかもしれない。入門とはあるけれど、入門者よりは、ある程度はこれまで哲学を勉強したことある人を対象にしてないか、と思わなくもない。
この本を読むと、何かしらあーだこーだ言いたくなるのではないか、という気がしていて、その点ではとてもよい「入門」なのではないかとも思う。
個人的には、扱っている問題(特に前半の表象や情報)も、それを解決するための自然化というプログラムも、関心があるもので、大雑把なスケッチとしては賛同するところが多い。
とはいえ、それで本当に問題が解決されたのか、というと疑問が残る。
2〜4章が一番面白い。まず、ミリカンやドレツキについての詳しい解説って今まであまり読んだことがなかったので、それが単純に勉強になる。その上で、疑問点とか気になり出すので。
第1章 意味
チューリングテスト、中国語の部屋、古典的計算主義(表象を認めるかつ思考の言語仮説)の話して
表象の自然化へ
「表象が何かを意味する」のはどのようにして、か
解釈主義(解釈者が表象を解釈することで意味が生じる)は、問題を先送りにしているだけなので却下
→意味を因果関係だけを使って解明したい=自然化
因果意味論
→「表象間違いの不可能性」と「ターゲット固定問題」という問題がある
ルース・ミリカンの目的論的意味論
(1)「本来の機能」という概念で表象間違いを説明する
(2)「本来の機能」を自然化する
「本来の機能」は、人工物であれば制作者の意図によって定まる。生物であれば、進化論で説明される
(3)本来の機能の自然化を、意味の自然化に当てはめる
目的論的意味論への批判
(1)人間のもっている表象全般を扱えるか
→進化論で説明できるのは最低限の部分だけでいい。学習で説明されるものなどが、その上に段階的に積み上がっていく
(2)ピエトロスキの思考実験
(3)フォーダーの反論
(4)スワンプマンの思考実験
第2章 機能
この章では、2つの話がなされている。
1つは、章のタイトルにあるとおり「機能」の話
もう1つは、哲学の方法についての話
まず、哲学の方法についての話
「概念分析」と「理論的定義」を対置している。
で、分析哲学者は概念分析ってやってるけど、哲学は本来、理論的定義を行って概念を作っていくのが仕事なんじゃないのという。そうした哲学を、戸田山はあとがきで「概念工学」と名づけてもいる。
戸田山の概念分析への批判は、概念分析の評価として哲学者の直観が使われていることに向けられていて、実験哲学についても簡単に触れられていたりする。
ここで戸田山の言っている「哲学は概念を作ったり改訂したりするものじゃないか」という議論自体は、全くその通りだと思う。一方、分析哲学は概念分析ばかりで全然そういうことしてないじゃないかっていうのはちょっと分からない。
実際のところ、概念の改訂みたいなことは分析哲学でも普通に行われていることなのではないか、と。八木沢『分析哲学入門』の概念分析についての章でも、概念が人工的に規定されることがあると書かれているし。
あと、直観に対する批判は当然だけど、そこまで全面的に直観ばっかでもないと思う。(常識と直観はちょっと違うかもしれないけど、)『ワードマップ現代形而上学』にも常識が修正されることがあると書かれている。分析哲学系の議論だと、直観的に正しいと思われることをいくつか並べるとパラドクスが生じるので、どれかの直観を取り下げようみたいなことがよくある。
直観も使うけど、理論全体の辻褄も、評価基準としては重要で、戸田山は評価基準をそれのどっちかで方法を2つに分けてしまっているけど、実際には両方使うのではないか、と。
まあ、とはいっても、自分は分析哲学の実際の営みには決して詳しくはないから、ここで批判されているようなことも多いのかもしれないけど。
ちなみに、この本の中でも、概念分析や直観に依拠した議論が行われていたりする。
機能の話
意味とか機能とか目的とかというのは、「今そこにないもの」との関わりがあるという点で似ている、と。
ミリカンは、機能を起源論的に説明する
あるアイテムが「いまやっていること」ではなく、アイテムの歴史によって、機能を説明する。
人工物であれば作者の意図、生物であれば進化というように。
ミリカンがここで説明したい機能というものは
・同じ機能をもっているメンバー同士が、同じ性質を共有していなくてもいい(缶切りは、缶を開けるために作られたなら、どんな素材でも形でもいい)
・機能を現に果たしていたり、可能でなくてもいい(心臓は、疾患によって機能不全に陥っても、心臓である)
このような特徴のある「機能」というものを、統一的に説明できるのが「起源論的説明」
こういう理論は、雑多な現象を統一的に説明できるので、よいとされる
ミリカンの起源論的説明に対して、カミンズの因果役割的説明というライバルがいる
これはシステム全体の中でどのような役割を果たしているかによって、機能を説明する
しかし、因果役割的説明では、ミリカンが作りたい、実際にはそういうことができないもの(全然缶を切ることのできない缶切りとか)を含めた理論としては役に立たない。
ミリカンの説明とカミンズの説明は、どちらが正しいか、というよりは、目指す目標が異なる。
機能の話を聞いて思いだしていたのは、ウォルトンだった。
ウォルトンも、本来の機能、みたいなことをいう
表象は、本来の機能が表象であるなら、実際には誰にも読み取られてなくても表象だ、みたいな。
でも、どうしたら本来の機能なのかの説明は曖昧だった気がする。
ミリカン−戸田山の起源論的説明に則れば、人工物の本来の機能は制作者の意図によって定めるけど、ウォルトンは制作者の意図は関係ないっていう。
そういえば、以前ミリカンの「バイオセマンティクス」を読んだ時も、ウォルトンのことを想起していたけど、その時は消費者視点を重視しているのが似ているなあと思ったので、今回と想起したポイントが違った
ここでは、意味を機能から説明して、機能を自然化することで意味も自然化する、という二段階の論証をしているけど、そこまでいかずとも、機能と人工物は関係が深そうなので、機能ってのは注目すべきものなのかもしれない
第3章 情報
第1章と第2章はトップダウンの議論、第3章はボトムアップの議論で、これが第4章で繋がる、という流れになっている。
この章は、たいそう面白いんだけど、まとめはあっさりいくことにする。
「情報」という言葉が、多義語であることを確認する。
(A)知識をもたらすものとしての情報
(B)確率と関わる、情報量としての情報(シャノン)
(C)アルゴリズムに関係している情報(チェイティン)
この章ではまず、シャノンの情報理論を解説して、Bの意味での情報というのを明らかにした上で、ドレツキが、Bの意味での情報とAの意味での情報を結びつけたことを解説している。
ある情報源があるメッセージを流す確率=情報量
ある信号rがある内容Pを伝える=rという条件でPである条件付き確率が1
Pが複数会っても条件付き確率が1であれば、1つの信号が複数の内容を入れ子状に伝える
出来事から出来事へと情報が流れる(解釈者は必要ない)
知識はその流れの中で生じる
因果関係によって情報の流れが生じるけど、情報の流れと因果関係はイコールではない
最初の、「情報」が多義語ってのは、なんか10年以上前に読んだ『新世紀デジタル講義』の立花隆のにも色々と書いてあったなあと思い出したりした
あと、シャノンの情報理論とかを最初に読んだのって自分の場合は、『ユーザーイリュージョン』だったかなと思うのだけど、そこではアルゴリズムの話もしていたような気がするなあと思うのだけど、上でいう(C)的な情報のことだったのかどうかはもう定かではない
第4章 表象
志向性の2つの特徴
(1)「について」性
(2)間違い可能性
ドレツキの情報理論は、(1)だけに着目したもの
ドレツキ的な意味で情報を伝える記号を自然的記号と呼ぶ。
しかし、自然的記号は生物にとっては使い勝手が悪い。条件付き確率が1っていうのが厳しすぎる
そこまでは厳しくないが、偶然の一致でもないような緩やかな「つながり」がいい
局地的反復自然記号というのが、生物にとっても使いやすい
ドレツキは、局地的反復自然記号を生みだすメカニズムによって生じたのが志向的記号と考える
これに対して、ミリカンは記号消費者の観点を入れなければならないとする
記号消費者のために真なる表象を生みだすのが、志向的記号生産者の機能・目的となる
結果として、自然的記号を生みだすことになるが、それは目的ではない
消費者という視点を導入することで、ターゲット固定問題や抽象的な対象の表象の問題が解決できる
自然的記号は、入れ子状になってて色んな情報を同時に運んでるけど、志向的記号は、消費者が利用するために作られるので、消費者が利用したいものだけを担っているから。
伝統的哲学は、因果性を原理とする物理世界と志向性を原理とする精神世界を分けてきた
→志向性を自然界の中に入れる(自然化)
このあたりからむずいなー
内容がむずいのではなくて、これで表象の説明としてオッケーかどうか考えるのが。
心的表象がどうやって生まれてきたのか、という大雑把なラフスケッチとしてはいいように思える。
しかし、これによって志向性とは何か、ということが分かったかというと、分からないままだと思う。
表象は心的表象だけでなく、言葉とか絵とか色々あるけど、そういうのもこれで説明できるのだろうか。自然的記号ではないし。条件付き確率1でなく、ある程度緩められた「つながり」でよく、また淘汰だけでなく学習などの繰り返しのプロセスを経ればよい、と言っていて、それによって基本的な心的表象だけでなく他の表象も説明できるということなのかもしれない(1章でも言ってた)。
つまり、心的表象以外の表象の志向性は、反復学習とかあるいは社会において繰り返し使われてきたという習慣によって、それなりの確率で、出来事とつながっているから、「について」性が生じている、ということだろうか。
これって自然化?
あと、起源論的説明って、何かを説明することの一面でしかないように思う。
「ティンバーゲンの4つの何故」とかあるけど、究極要因だけでなく至近要因も知りたいじゃん?
第5章 目的
3章で、自然界はそれだけで(解釈者なしで)情報の流れが生じている、しかしその情報っていうのは、確率1だから、間違いようがない、ということが
4章で、生物が生産し利用している記号(志向的記号)は、間違い可能性を持つ、ということが論じられた。
5章では、では何故「間違い可能性」が必要だったのかが問われる。間違った表象は使えないけど、間違いうる表象は使い道がある、と。
間違いうる表象というのは、「いまそこにないもの」の表象で、それは目的手段推論に使える
「オシツオサレツ表象」(ミリカン)=記述面と指令面が一体化している表象
記述面と指令面の分化
「準事実的表象」
(1)同一の対象を記述する表象(複数の知覚から同一の対象であることがわかる)
(2)空間的配置
(3)時間的配置
目標の表象と知覚表象を比べるために、同じコードを使うようになる
「ダーウィン型生物」「スキナー型生物」「ポパー型生物」(デネット)
ポパー型生物のようにシミュレーションするためには、否定形が使える表象が必要(ミリカン)→文に似た構造が必要
目的手段推論能力は、他人の心を理解する能力や言語能力の副産物か?
むしろ、目的手段推論能力の方が適応的で、他人の心を理解する能力や言語能力の方がそれを利用している
目的手段推論能力と言語の進化的起源の問題は厄介、と戸田山も書いているけど、このあたりは、どの能力がどの順序でどう組み合わさってきたのかは、色々なシナリオがありえそう。経験的に解決される問題ではないかと思う。
第6章 自由
自由意志と決定論の問題について、デネットによる両立論を紹介する
自由は「他行為可能性」と「自己コントロール」に分析される
自己コントロールには、むしろ決定論が必要。非決定論的な、つまりランダムな場合、そもそもコントロールできない。
理由は、因果によって説明できる
外的環境や内的メカニズムは、行為を決定する要因ではあるが、だからといって環境やメカニズムが行為をコントロールしているわけではない(エアコンの自動的な温度調整は、外的環境(気温)によって決定されてるけど、エアコンを気温がコントロールしているとはいわない)。むしろ、コントロールを失うというのは、そうしたメカニズムに損傷があるとき(アルコール依存症とか。意志に反して酒を飲んじゃうのは、メカニズムに障害が発生しているせいであって、決定論のせいではない)
人間と人間以外の動物の自由さの違い=自分の理由を知ることができる(反省)
決定論と宿命論を区別する→反省的検討は違いをもたらす
フランクファートの議論を使って、他行為可能性は自由に必要ないことを示す
決定論であることと不可避的であることを区別する
デネット流の自由意志の議論は、もっともなものだと思う。
量子力学が自由意志のヒントになるのではないか論に対して、ランダムだったら自由意志として意味ないものになるだろってのは、定番の反論になってきた気がする
外的環境や内的メカニズムは行為の要因ではあるけど、それらによって行為をコントロールされるって言い方は擬人化にすぎないって指摘は、「ああ、なるほど、そういえばいいのか」と思った。
エージェント視点で自由であれば自由だよねっていうのと、自分の行為の理由には環境とかこれまでの来歴とかに左右されるよねっていうのは、全く当たり前のことだと思うので、自由と決定論問題はそれほど興味がない(これでFAだと思っている)。
第7章 道徳
自由意志と決定論の問題は、人にもし自由意志がないとしたら「責任をとる」ことに支えられている道徳が崩れるのではないか、という点にある
この章では、これに対して2つのアプローチをとる
デネットの両立論に基づいた議論と、ペレブームの非決定論に基づいた議論
まず、デネットの両立論の方から
単に自己コントロールするってだけなら、「はやぶさ」もそうだが、「はやぶさ」に責任をとらせたりするということはない
責任主体であるためには、組織化された自己が必要だとデネットはいう
それは、これまでの選択の積み重ね、それへの反省などの来歴によって積み上げられてきた「物語的自己」である
ちなみにこのデネットがいう「物語的自己」に対して戸田山は「ポストモダンの匂いがしますなあ」とコメントしているw
こうして組織化された自己が、首尾一貫性をもたらして、責任主体たらしめていく
さらにデネットは、自由意志があるから責任がある、のではなく、責任をとることができるから自由意志があるとみなされる、とする。
それから、そういう「責任をとる」という実践がどのように進化してきたかというシナリオ
自由の進化、自己の進化、表象の進化、協力の進化が絡み合って、そうした実践が作り上げられてきた、と
このあたりの進化のシナリオは、今よってたかって研究が進んでそう。特に、表象(言語能力)と協力
自由かどうかは経験的な問題。科学の進歩で、人間は自由ではないということが明らかになるかもしれない
→ペレブームの非決定論に基づく議論
自由意志がなくても合理的行為者であることは維持される
→行為の主を非難したり賞賛したりすることはできなくなるが、行為の善し悪し自体は判断できる
罰はどのように正当化されるか→「隔離」説
自由意志の有無と、社会がディストピア化するかどうかは、独立している(自由意志と市民的自由が混同されている)
罰はどのように正当化されるか、という議論は違和感
応報主義、道徳教育論、帰結主義的抑止論、正当防衛論があげられ、応報主義は非両立論と矛盾し、残りの3つは非両立論と矛盾しないが、独立の理由で成り立たないとする
でも、これらが非両立論か否かと関係なく成り立たないとすると、ペレブーム的な社会かどうかにかかわらず、罰が正当化できない。応報主義についても、戸田山はあやしいと言っているけど、そうなるとますます正当化できない。
まあ、隔離説は、リベラルな刑罰のあり方(死刑廃止、受刑者の社会復帰を目指す)と親和的だし、個人的にはそれでokだと思うけど
あと、罰も進化論的な起源があるよね
人生の意味――むすびにかえて
決定論や科学的世界観は、人生を無意味なものにしてしまいやしないか、という問いに答える
そもそもなんで人生に意味はあるのか、とか考えてしまうのか
あるいは、宇宙全体に比べれば人はあまりに小さいので人生は無意味だ、と考えてしまうのか
これは、目的手段推論能力や、「一歩ひいて」事態を眺める能力という、進化の中で獲得してきた能力がちょっと暴走してしまったせい
これらの能力は、目の前にある問題を解決するために進化してきたものであり、そんな大きな問題を解決するものじゃないけど、時に暴走してしまうことがあって、そう感じさせてしまう。こうした問題は、進化の副産物
その時々の状況におうじて目的手段推論能力を使って、その時々の最善を尽くすのが、いい人生なんじゃないの、と。
この進化的に獲得された推論能力が暴走したせいっていうのは、ピンカーも『心の仕組み』で言ってた話に似てるなあと思った。
参照文献と読書案内
この本では、自然主義が前提されているけど、それについての論争も当然あって、ここで紹介されている
柴田正良は、最近ロボット工学者と組んでなんかやってるので注目、と
『セックス・アンド・デス』はすごくよい本、とのこと
スティッチは最近実験哲学の旗振り役
鈴木真「実験哲学の展望」が充実したサーヴェイ
ドレツキの主著である、シャノンの情報理論を使った知識論は、未訳。残念。
ラプラス『確率の哲学的試論』の訳者(内井惣七)の解説は、確率の哲学の格好の入門となっている
一番最後に紹介されているのが、鬼界先生の『生き方と哲学』だった
あとがきまたは謝辞または挑戦状
重要な問いは「哲学は私の役に立つか」ではない。「私は哲学が役立つような種類の人間か」だ。
(中略)
あなたは哲学を役立てるだけの知恵と力と勇気があるのか?
これ、素直にかっこいいなあと思う反面、ぐさっと刺さる
伊勢田さんのツッコミ
伊勢田哲治が、この本へのツッコミ記事をあげていた
Daily Life:『哲学入門』(1)
Daily Life:『哲学入門』(2)
色々な論点があるけれど、個人的に気になったところなど
「概念分析」と「理論的定義」の区別は、誤った二分法だと。その後、戸田山自身が直観に頼った議論や概念分析をしているところとかも指摘している。
4章は、「どのように出現できるか」については答えているけど、「どんな風に湧いて出たのか」については答えていない
心的でない表象についてまでやれていないのではないか
間違い可能性は、自然的記号にもあるのではないか(局地的反復自然記号という弱められた自然記号は間違い可能性がある)
そもそも「情報は真理を含意する」を無批判に前提にしつつ、表象については間違い可能性を前提にしているのは、恣意的ではないか。
「間違いうる表象」と「現実に成り立っていないことがらの表象」と「目標」がなんとなく同じものになっているのが気持ち悪い
首尾一貫性と責任主体であるかの関係
ペレブームの議論は、倫理を一人称の視点からみていない。帰結主義的判断が意味をなすのは、他行為可能性が前提されるとき
罰の正当化あたりの議論について
- 作者: 戸田山和久
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2014/03/05
- メディア: 新書
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