門脇俊介『フッサール』

フッサールについては、元々あまりしっているわけではないが、これを読んでフッサールのイメージが変わったかもしれない*1
というか、おそらく著者自身が、今まであまり言われてなかったフッサール像を出そうとしたのかな、と思う。
筆者は、フッサールには3つの側面があるという。(1)基礎付け主義者(2)生の哲学者(3)反自然主義者の3つであり、ここでは特に3番目の姿に着目する。


まず、最初に心の哲学の話から始まる。心の哲学について、クオリアに着目する立場と志向性に着目する立場のふたつに分類した上で、フッサール心の哲学反自然主義立場の出発点である志向性理論の推進者だったと述べる。
そして、20世紀に起こった表象主義の転換との関わりも見て取る。
人間が表象によって世界をあらわすとは一体どういうことなのか、というのが哲学において長く論じられたことだが、近代においては、心の中の観念(表象)と世界との関係はどうなっているのかということが論点となっていた(「表象主義1」)。これが、文や判断といったものが表象の中心をなしているのだという考え(「表象主義2」)へと転換した。フッサールもまた表象主義2の立場であるが、その中でも一体どのような立場だったのか。


第二章では、フレーゲとの比較を行いながら、フッサールの初期の著作『論理学研究』に見られる表象主義2の立場を見ていく。
フレーゲフッサールの比較といえばダメット『分析哲学の起源』で、筆者もこれを参考にしたとのこと。僕は、ちらっと見たことはあるのだが、ほぼ未読。だから、フレーゲと似てるとこがあるというのは何となく知っていたけれど、フレーゲとの類似点と相違点はちゃんと知らなかった。
フレーゲにおける意味と意義の区別と同じようなことをフッサールもしている*2
一方、フレーゲが到達した文中心主義(文脈原理だとか文の真理値を文の意味とみなすとか)にまでフッサールは至っていない。その点でフッサールは不十分のようにも見える。
フッサールは、文(真理値)ではなく信念(志向性)に拘る。そしてその信念志向性が規範性を持っているところに注目して、文が何を意味しているのかという理解について捉えていく。どういう信念が帰属しているか行動様式が変化したりしなかったりするだろうというようなことが、ここで言われている規範性。
フッサールというと、何というか主観主義的というか、そういうイメージがあったんだけど、志向性のもつ規範性によって表象と世界が結びつくという考え方を持っていたという点で、全然そうではないな、と。
さて、さらに『論理学探究』では、知覚の志向性も論じられている。
知覚というのは、何か物事の一側面(例えば、右側から見たペンの一部分とか)を捉えることだから、そこから物事全体(ペン全体)が捉えられる。ここらへんが志向性を使って、言語表現と同様に論じられているのだけど、あまりうまくいってない感じみたい。表象主義1への後退にも見えかねないし。ただ、信念が正しかったり正しくなかったりするのと同様に、知覚にもそういうことは起こる。それを捉えるためにも知覚の志向性という考えが必要だった。


第三章では、中期の著作『イデーン』において、信念の志向性と知覚の志向性が統一的に説明されたということが論じられる。
ノエマノエシスを通して、知覚の志向性が信念志向性になり言語表現の志向性となっていく三重の志向性のシステムが提示されている。とはいえ、やはり知覚と言語表現のあいだには断絶があり、イデーンがそれを埋めることに完全に成功したわけではない。
イデーン』では、原ドクサとよばれる働きが全ての志向性のなかにあるという。これは「真理へと向かおうとする」ことであり、「たいていは真である」と捉えることである。これが、世界への動機付けとして機能する。信念や知覚を通して、世界へとコミットし、自らの行動を変化させたりすること。これが原ドクサがあることによって動機づけられるのである。
最後に、現象学的還元とは一体何なのかについて述べられる。
デカルト的基礎付け主義の方法論として、生の哲学的に世界は意識の現れなのだとして、捉えるやり方もあるかもしれないが、筆者はこれらを退ける。むしろ、意識が「真理に向かう存在」であることが、現象学的還元のポイントなのではないかと考える。我々にとって世界は、信念志向性のシステムを通して現れる。そこに意識の自由がある。しかし、それは世界という真理に依存しているという点で不自由を伴っている。この不自由さを伴っているという点で、フッサールは主観主義者ではなく、この自由と不自由を明らかにするのが現象学的還元なのではないか、と。


最後に、前途瞥見という章が付されている。これは、フッサールが直接は書かなかったが、このような展開がありえたのではないだろうかという筆者の考えが書かれている。
哲学の問題として、反自然的な理由の世界と自然の世界をどう結びつけるのか、というのがある。これは心身問題といわれるものでもあるし、フッサールでいえば、先に挙げた信念の志向性と知覚の志向性をどう関係づけるかという問題でもある。
ここで筆者が考えるのは、知覚という不完全なものが命題や信念によって完成する。あるいは、知覚が命題や信念によって「表現」される、というシステムである(表象主義から表現主義へ)。
フッサールはこのような転換を述べているわけではないが、フッサールがこだわっていた問題を解決するためにはこの道を進むのがよいのではないかと、筆者は論じている。


フッサール ~心は世界にどうつながっているのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

フッサール ~心は世界にどうつながっているのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

*1:自分のフッサールについての知識はほとんど『これが現象学だ』を読んで得られたものなのだけど、その時のブログ記事を見てみたらそこでも、フッサールのイメージが変わったって書いてあったw

*2:フレーゲが「意義」と呼んだモノをフッサールは「意味」と呼んでたりして、めんどくさいけど