2019/03/30
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台湾総統、米国にF16新型機とM1戦車の売却要請
(CNN) 台湾の蔡英文(ツァイインウェン)総統は30日までに、戦闘機「F16」の新型機と戦車「M1」の新たな購入を米国政府に要請したことを明らかにした。
滞在先の米ハワイ州で表明した。総統はこれら兵器は台湾の領土防衛能力と対空能力を大幅に高め、軍の士気を強めて、世界に対し台湾防衛に対する米国の決意を示せると強調した。
また、中国による台湾の社会や経済に浸透を図る試みや内政問題への干渉には積極的に対抗すると強気の主張を展開。「中国のこれらの行動は台湾が自衛能力や抑止力を向上させる必要性を明白にしている」と説いた。
総統の今回の発言に対し中国国防省の報道担当者は同国は米国による台湾への武器輸出と米軍と台湾の接触に強固に反対すると反論。台湾問題は中国の内政問題であり、中国の核心的な利益や中国国民の国家的な結束に絡む問題であるとした。
台湾情勢については米国防総省の国防情報局(DIA)が今年1月、中国は台湾問題のような地域紛争に対応する軍事能力を急速に強化しているとする報告書を公表。この軍事力の近代化の大きな推進力は中台統一や台湾の独立阻止になっているとした。
中台統一を警戒し独立志向もある与党民進党の蔡政権が発足以降、中台関係はきしんでいる。この中で中国の習近平(シーチンピン)国家主席は今年1月、台湾に触れ香港に似た「1国2制度」を導入しての統一に言及していた。蔡氏は最近、これに賛同しない考えを示していた。(
CNNより抜粋)
【チベット動乱60年(上)】自動小銃で警戒 監視下の故郷
チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世(83)が幼少のころ眺めたであろう4千メートル級の白い山並みが眼前にそびえる。
中国青海省の省都・西寧近郊の紅崖(こうがい)村。広大なチベット高原の東端に位置するこの寒村に、目指すダライ・ラマの生家があった。
「写真を撮っただろう? 村民以外、村に入ることは禁じられている。理由? 敏感な時期だからだ!」
村の入り口に警察の臨時派出所が設置され、24時間態勢で監視が行われていた。派出所からの「日本人記者拘束!」の一報に、早朝にもかかわらず地元警察の幹部らが町から飛んできた。携帯電話を取り上げられ、写真を削除され、約2時間後に解放された。
1935年、農家に生まれたダライ・ラマは当時のチベット政府に観音菩薩の生まれ変わりと認定され、4歳のときにチベット高原南部のラサに移った。
武力によるチベット統治を進める中国に対し、59年3月10日、ラサで数万人が蜂起するチベット動乱が勃発、中国軍に鎮圧された。23歳のダライ・ラマは同17日、ラサを脱出、約2週間かけてインド入りし、亡命政府を樹立した。
それから60年-。中国が恐れるのは、60周年を機にチベット族が中国への抗議活動を繰り広げることだ。それを外国メディアが報じれば、習近平政権の失政を世界に印象づけてしまう。
チベット仏教の“聖地”では、治安要員らが自動小銃で武装し、60戸余りの小村を厳戒態勢下に置く異様な光景が広がっていた。
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中国政府は27日、「チベット民主改革60年」の白書を発表し、「共産党の指導の下、チベットの発展は新時代に入った」と宣言。「信仰の自由は保障」され、「住民の生活満足度は97%を超えた」と自賛した。
今月行われた全国人民代表大会(国会)の際にも、チベット自治区トップで漢族の呉英傑・党委員会書記はこう強弁している。
「チベット人民たちは共産党がもたらした幸せな生活に感謝しているのだ-」
中国青海省玉樹の海抜は4400メートルを超える。人口約10万人の9割以上をチベット族が占めるこの地で由緒あるチベット仏教寺院を訪れた。寺院内には高僧の写真が何枚も飾られていた。チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世の写真はどこにもない。
ところが、ある僧(53)の家に入ると、正面に習近平国家主席の写真が掲げられていた。車庫から高級外国車の車体がのぞく。
中国で暮らすチベット族は約700万人。習政権は、チベット族が多数居住するチベット自治区(区都ラサ)や青海省などで交通インフラや観光業の整備を進めている。同自治区の昨年の経済成長率は9・1%と全国1位を記録した。
政権は民生向上をアピールする一方で、ダライ・ラマについてチベットの独立をたくらむ「分裂主義者」と激しく非難。「宗教の中国化」を推進し、信仰より共産党を優先するようチベット族に迫っているのだ。
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「中国の経済発展のおかげで暮らしが良くなった」(44歳のチベット族男性)といった声も少なくない。
ただ、その男性は「外国に行きたくても行けないんだ」とこぼす。チベット族がパスポートを取得するのは非常に困難なのだという。移動の制限がいまだに残っている。
「私たちは外部の人と自由に話をしてはいけないことになっています」。そう言って口を閉ざすチベット族の女性(20)もいた。
暮らしは良くなっても、チベット族に対する管理は厳しいままだ。宗教とは直接関係のない領域においても自由が制限されている。
これらもまた、「共産党がもたらした幸せな生活」の紛れもない一面である。
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青海省の省都・西寧郊外にある塔爾寺はチベット仏教の名刹(めいさつ)だ。中庭に僧らが集まって読経していた。100人以上いるだろうか。その背後に治安要員が立って彼らを凝視している。
境内には、監視カメラが約50メートルおきに設置されている場所もあった。真新しい監視カメラの下で、チベット族の女性たちが体を地面に投げ出す「五体投地」の礼拝を繰り返していた。
ダライ・ラマはチベットから完全に消えたのか。
「(寺院や僧の宗教活動は)当局によって監視されているからね。でも、庶民の家の中は大丈夫。私たちの精神的支柱だよ」と明かすのは、商店を営む40代のチベット族男性だ。
「これまで自分の力で生計を立てて頑張ってきた。習近平の写真を掲げる必要なんてあるかい?」
自宅の壁で「ダライ・ラマ14世」が笑っていた。
ダライ・ラマの故郷、青海省紅崖村で会った60代の男性はしかし、「チベットの(法)王なのに60年も帰ってくることができない。お会いしたい。でも、中国は帰還を認めないだろう」とあきらめ顔で話す。
亡命政府によると、統制を強める中国の政策に抗議するため焼身自殺を図ったチベット族は、この10年で150人を超えるという。
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ダライ・ラマ14世がインドに亡命してから今月30日で60年。28日には、チベット動乱を鎮圧した中国が“ダライ・ラマなきチベット”の完全な統治を宣言してから60年になる。ダライ・ラマの帰還が一向に実現しない中、中国、インド、日本に生きるチベットの人々の現状を追った。(
産経より抜粋)
【チベット動乱60年(中)】インド亡命「中国に屈さない」
チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世(83)がチベットの中心地ラサを脱出して以来、毎年数千人が後を追うようにインドに亡命した。インド各地にチベット人社会が形成されたが、その環境は変化しつつある。故郷に帰るめどが立たない中、60年が経過して世代交代も進む。「故郷には戻りたいが、中国には帰りたくない」。難民たちには無力感も漂う。
「3月のまだ寒い日だった。ノルブリンカを出発したことが昨日のことのように思い出せる」
チベット亡命政府があるインド北部ダラムサラで、チベット難民のタシ・ツェリンさん(82)は60年前の出来事を振り返った。ツェリンさんは1959年3月、ダライ・ラマがラサ近郊の離宮ノルブリンカを離れてインドに脱出した際、護衛として付き従った。
脱出時、ダライ・ラマは中国人民解放軍から身を隠すため一般兵士に変装していた。悪天候が続く中、周囲を鼓舞するためにツェリンさんらにつねに声をかけ続けたという。「靴は底が外れてぼろぼろになり、ほとんど裸足で歩いた。あの道程はチベット人の苦しい歩みの始まりだったのかもしれない」とツェリンさんは振り返る。
チベットに兄弟がいるが会いたくはない。彼らが中国政府の職員として働いたことを知ったためだ。「チベットを裏切ったんだ。生涯会う気にはなれない。私の人生はインドにある。私はここで幸せに死ぬだろう」。分断された家族に抱く複雑な心境からは中国への怒りが透けてみえた。
ツェリンさんのようなチベット難民は現在約10万人がインドで生活する。既に孫やひ孫の世代も誕生しており、チベットを知らないチベット人は確実に増加している。ニューデリーのチベット人居住地域で暮らすサンポさん(20)は「自分は積極的にチベットに帰りたいと思わない」と話す。今は電気技師として働くが、将来的には米国への留学を希望する。「中国が憎いことに親世代も私も変わりはない。だが、それよりはインドで生活を安定させ、前を向いて進みたい」と“新世代”の心境を代弁した。
亡命も減少しつつある。年間3千人近かったチベットからの流入は年間数十人程度に減少。中国による国境警備の強化や、亡命ルートだったネパールが中国の顔色をうかがうようになり、通過が困難となったことも大きい。
一方、難民を受け入れるインド政府の対応にも変化が見える。昨年2月には公務員らに対し、チベット亡命政府関連行事への出席を自粛するよう通達した。亡命政府は難民受け入れに感謝する催しを企画していた。インド政府が関係修復を目指す中国に配慮した-という観測が流れた。
難民2世の1人、テンジンさん(40)は「インドに見捨てられたらどうしようもない」とコメント。「祖国であるチベットに帰りたいが中国には戻りたくない。何もできないのが現状だ」と吐露した。
高齢のダライ・ラマは、後継問題が取り沙汰される。チベット仏教の指導者は死後に転生すると信じられているが、14世は近年、自らが生前に後継を指名する意向を明らかにしている。死後の転生という伝統からは反するが、中国政府が自らの息の掛かった“次のダライ・ラマ”を選び出すことへの警戒心がある。
亡命政府は10月3日から世界のチベット仏教の高僧や学者を集め、「ダライ・ラマとチベットの今後」について話し合う会議を開催する。将来的に2人のダライ・ラマが並立する可能性がある中、亡命政府のロブサン・センゲ首相は「そうなってもチベット人は誰も中国が選んだダライ・ラマを尊敬しない」と断言した上で、こう付け加えた。
「この60年はチベット人にとって苦難の時代だった。だが私たちは弱くはない。ダライ・ラマとともにあり、中国には屈さない」(
産経より抜粋)
【チベット動乱60年(下)】「力貸して」日本政府への思い
2019.3.30 01:00 |国際 |中国・台湾
ダライ・ラマ14世と西蔵夫妻
2016年11月、都内で、来日したダライ・ラマ14世(中央)と記念撮影する西蔵ツワン氏夫妻(西蔵氏提供)
「日本政府には、チベットの宗教や文化を守りたい私たちの願いを橋渡しする仲介者になってほしい」。チベット動乱から60年となった3月、日本に帰化した亡命チベット人、西蔵ツワン氏は切実な思いを語った。
西蔵氏は、インド・ダラムサラのチベット亡命政府が、将来のチベットを担う人材を育てるため日本に派遣した最初の留学生5人のうちの一人。1952年、ネパール国境に近い商業が盛んなチベットの都市、シガツェに生まれた。裕福な家庭で育ったが、59年3月のチベット動乱の際、貿易の仕事でインドにいた父が帰国できなくなり、母や妹と不安な日々を過ごした。
小学校で「ダライ・ラマは国家分裂主義者」と教え込まれ、チベットの元貴族や高僧が人民裁判にかけられ、公開処刑で銃殺されるのを目撃した。「それを疑問に思わないほど洗脳されていた」と振り返る。
父が突然、帰宅したのは62年。亡命目的と知らないまま、家族と一緒に「国境地帯の温泉で湯治する」つもりで家を出たのがネパール経由でインドへ向かう旅の始まりだった。難民キャンプの生活は貧しかったが、成績が優秀だった西蔵氏は65年、日本留学の機会に恵まれた。
留学生5人で受け入れ先の埼玉県毛呂山町にある病院の宿舎で共同生活を送り、勉強に明け暮れた。やがて埼玉医科大に進学し、医師免許を取得。今は同県日高市にある武蔵台病院で院長を務めている。
仲間もそれぞれの道を歩んだ。最年少のダムデン・ギュルミー氏は同県嵐山町で開業医になった。日本体育大で柔道を修めたギュルミ・ワンダー氏はダライ・ラマ14世のボディーガードになり世界を歴訪した。大学卒業後にインドへ戻ったトプゲイ・ブティア氏は日本大使館の現地職員として日印交流に貢献した。リーダー格だったペマ・ギャルポ氏は拓殖大国際日本文化研究所教授になり、チベット問題の解決を訴える活動を続けている。
ペマ氏の耳には、チベットの状況の悪化が伝わっている。〈学校の運動会でチベット語の放送がなくなった〉〈チベット仏教の僧院が取り壊された〉〈中国共産党が僧院を運営し、14世の代わりに習近平国家主席の写真を拝むよう指導している〉
ペマ氏は、こうした同化政策の背景に、「政治的、経済的、軍事的に力をつけた中国のおごりがある」と分析。仏寺の取り壊しが進んだ文化大革命(1966~76年)の時代に「時計の針が逆戻りしているようだ」と嘆いた。
日本へ留学する若い世代のチベット人には中国籍を持つ者もいる。彼らを支援する阿部治平さんは「中国でチベット人が抑圧される構図が日本の大学に持ち込まれている」と指摘する。
2008年の北京五輪を前に、聖火が日本を訪れた際、中国の国旗を振ってランナーを応援するイベントが行われたが、実験のため参加できなかった理系のチベット人学生が嫌がらせを受けた。
チベットの人権問題は世界中から関心を集めている。しかし、日本政府はこの問題から目をそらそうとしているのが現状だ。米英仏独など主要国の指導者は、中国からの抗議を受けながらもみな14世と面会したことがある。一方、14世はこれまで30回以上日本を訪れたにもかかわらず、首相との面会は一度も実現したことがない。
「14世が健在なうちにチベットへ戻ることができるよう力を貸してほしい」。日本で暮らす亡命チベット人は約100人。思いは日本政府に届くだろうか。
(この連載は、中国青海省紅崖村 藤本欣也、インド北部ダラムサラ 森浩、外信部 平田雄介が担当しました)・(
産経より抜粋)
インド・パキスタン関係の緊張はなぜ高まったのか
3/29(金) 12:47配信 Wedge
2月14日、カシミール地方のインド支配地域で、インドの治安部隊のバスを狙ったイスラム過激派による自爆テロがあり、少なくとも44人が死亡、同地域で過去20年間に起きたテロ事件で最悪の犠牲者数であるという。イスラム過激派組織「ジェイシモハメド」が犯行声明を出し、印パ両政府は互いに相手方を非難し合った。さらには、2月26日インド空軍の戦闘機が事実上の印パ国境である「管理ライン(LOC)」を越えたのみならず、明確なパキスタン領内まで侵入してテロリスト・キャンプを攻撃し、翌27日には逆にパキスタン軍がLOCを越えてインド側を攻撃し、エスカレーションの危機が一気に高まった。他方、パキスタンは戦闘に際して捕捉したインド軍パイロットを解放し、自制の姿勢も見せている。
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今回の印パ関係緊張の背景には、2つの大きな要因がある。1つは「ジェイシモハメド」が活動を再活発化していることである。指導者マスード・アズハルの復活は大きい。マスード・アズハルは、2001年のインド議会の攻撃の首謀者と見られているが、その後姿を消した。それが2014年に再び姿を現し、それに呼応するかのように「ジェイシモハメド」が活動を再活発化した。また、アルカイダとISがカシミール地方でのテロ行為を活発化したので、「ジェイシモハメド」がカシミール地方におけるテロ活動の主導権を取り戻そうとして活動を再活発化しているということも考えられる。
もう一つの要因は、カシミールの不安定の力学が変わったことである。伝統的にパキスタンはカシミールでの反乱を扇動してきたが、最近、特にインドの治安部隊が2016年にカシミールの若い過激派指導者ブルハン・ワニを殺害して以降、カシミール在住者がインドの治安部隊に対し、長年の不満を爆発させるようになり、「ジェイシモハメド」がカシミール在住者の中から過激派要員を集めるようになった。
このカシミール地方におけるイスラム過激主義の高まりは軽視すべきではない。インドの著名なテレビ・ジャーナリスト、バーカ・ダットは、ワシントン・ポスト紙に2月14日付けで掲載された論説‘Everything will change after the Kashmir attack’で、「教育を受け、比較的裕福な若者が、銃のみならず、カシミールの『イスラム共同体』を信奉している。今回の自爆テロの実行犯はテロの現場の近くに住む22歳の青年で、武器と弾薬を身にまとい、『聖戦』への参加を呼びかける青年のビデオがソーシャルメディアで配布されている」などと指摘している。インド人の論説なので、多少割り引いて考える必要はあるかもしれないが、カシミール在住パキスタン人の若い世代の間で、攻撃的なイスラム主義の感情が広がっており、カシミール情勢の新しい、危険な要因となっているのは確かなようである。
インドとパキスタンは、ともに核保有国であるから、緊張のエスカレーション、とりわけ核戦争のような事態に至り得るのかは、特に懸念されるところである。これに関しては、Sumit Ganguly(インド文化・文明専門のインディアナ大学教授)が、Foreign Affairsのサイトに3月5日付で‘Why the India-Pakistan Crisis Isn’t Likely to Turn Nuclear’と題する論説を寄稿し、「現在の印パ危機が核戦争になるのではないかとの恐れが表明されることがあるが、そんなことはありそうにない」と論じている。基本的にはその通りであろう。
戦後の世界が大国間での戦争がないという意味で、平和であったのは核兵器が存在し、その戦争抑止力が強かったからであると思われる。印パ両国ともに核兵器保有国であり、その結果、核戦争を避けることを重視せざるを得ないから、紛争をその瀬戸際までエスカレートさせることを躊躇せざるをえないとの事情がある。その意味で、核兵器は戦後の世界の平和を守ってきたのであり、その論理は印パ関係にも当然適用されるだろう。
ただ、今回インド側がこれまでの戦闘のルールを変え、LOCを越えたのみならず明確なパキスタン領まで攻撃対象にしたことは、驚きである。インドのモディ首相は、5月までに行われる予定の総選挙で、各州において予想外に苦戦している。モディは強い姿勢を示す必要に迫られている。パキスタンへの強硬な言辞等は出て来るであろう。しかし、パキスタンとの紛争をエスカレートさせ、核戦争の危険を冒すことはないと判断しておいてよいと思われる。パキスタンは捕捉したインドのパイロットを返還し、対話を呼び掛けている。国際社会としても対話による解決を後押ししていくべきであろう。他方、パキスタンはテロリスト・グループを真剣に抑える必要がある。印パの緊張はパキスタン側のテロリストが原因で発生することが多いが、そういうことはパキスタンが防ぐ責務を負っている。(
Yahoo!より抜粋)
「クリミア露戦力3倍に」 元ウクライナ海軍司令官インタビュー
3/29(金) 19:13配信 毎日新聞
【キエフで大前仁】ロシアがウクライナ南部クリミアを編入した2014年当時、ウクライナ海軍の司令官を務めていたセルゲイ・ガイドゥク氏(55)が毎日新聞のインタビューに応じ、「ロシアは14年からクリミアの戦力を3倍に増強させている」と言明した。
ガイドゥク氏は、ロシア軍がクリミアの軍基地に▽軍用機100機超▽潜水艦7隻▽潜水艦搭載型の巡航ミサイル▽大型艦船――を配備していると指摘。ロシアが将来的にクリミアで戦術核の配備も検討しているとの情報があることも明かした。
ロシアがクリミアで兵力増強する背景について「(黒海)西部への軍事作戦を実施する可能性がある」と説明。黒海艦隊基地があるクリミア西南部セバストポリを拠点とし、オデッサなどウクライナ西南部の封じ込めを図る恐れもあるという。
ロシアへの対抗措置としては、「北大西洋条約機構(NATO)の艦船が系統立って黒海を航行し、(ロシアとの戦力の)バランスを取っていくべきだ」と訴えた。
ガイドゥク氏は14年3月、海軍司令官に昇格。同時期にロシアの部隊がクリミアの占拠を進めた際に、ウクライナ海軍は無抵抗のまま降伏し、クリミアに駐留していた17隻の艦船も没収された。
クリミア編入を許した背景について、「軍人としての判断はコメントしない」とする一方、ロシアがソ連崩壊直後からクリミアで影響力を高める工作に着手し、歴代のウクライナ政府が適切に対応してこなかった点を取り上げた。「14年に起きたのは占領を完成させる最終段階に過ぎなかった」と述べ、当時の親欧米派の暫定政権批判もにじませた。
ガイドゥク氏によると、ウクライナ海軍再建の見通しは今もたっていないという。(
Yahoo!より抜粋)
ウクライナ大統領選31日に投開票 現職苦戦、決選投票焦点
【モスクワ=小野田雄一】ウクライナ大統領選が31日、投開票される。選挙は現職のポロシェンコ大統領(53)、ティモシェンコ元首相(58)、人気コメディアンのゼレンスキー氏(41)の3者による争いとなっている。1回目の投票では過半数の票を獲得する候補者は現れない見通しで、どの2人が決選投票に進むかが焦点だ。
選挙戦の争点は、隣国ロシアとの関係や同国東部を実効支配する親露派勢力との紛争の解決策、経済・国民生活の改善策などだ。
28日時点の世論調査によると、支持率はゼレンスキー氏が26.6%で首位。ポロシェンコ氏とティモシェンコ氏はともに17.2%。
ポロシェンコ氏の苦戦の背景には、経済低迷や不十分な社会保障への国民の不満、2月末に浮上した汚職疑惑がある。強硬な反露政策を掲げてきたが、ウクライナ人の対露感情が改善しつつあるとの世論調査もあり、厳しい選挙戦が続く。
ゼレンスキー氏はテレビドラマで大統領に転身する教師役を演じて人気に。ロシアには比較的穏健な姿勢で、若くクリーンなイメージも支持層を拡大させた。ただ、政治経験を持たないことへの不安も根強い。
ティモシェンコ氏は2005年に成立した親欧米政権で首相を務めたが、親露派のヤヌコビッチ政権下で収監された。同氏の失脚後に政界復帰。ポロシェンコ政権の汚職を批判し、平和の実現や福祉の改善、環境政策などを掲げ、女性を中心に支持を得ている。(
産経より抜粋)
世界を騒がせたブレグジットの落としどころは「EU残留」、それが“英国流”だ
3/30(土) 6:00配信 ダイヤモンド・オンライン
メイ首相がEUとまとめた「離脱協定案」を蹴っ飛ばす一方で、「合意なき離脱」は拒否。あれもイヤこれもイヤ。英国議会は右往左往するだけで、ブレグジットはどこに行く――。そんな報道があふれている。
だが、本当だろうか。
英議会は混乱の極みを演じながら着々と「落としどころ」に向かっている。みながヘトヘトになり「もう1度、国民の声を」というムードを醸成している。
そして再度の国民投票で英国はEUにとどまる。簡単ではないが、準備は整いつつある。それが筆者の見立てだ。
世界をだまし「民意」を導く。そんな芸当ができるのが英国だ。
● 「新たな選択肢」が浮上 再度の国民投票の可能性
ブレグジットをめぐっては、先のEU首脳会議で、3月29日の離脱期限が当面、延期されることが決まった。
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鍵を握るのは、29日までに英下院が、メイ首相がEUと合意した円滑な離脱の前提となる「離脱協定」案を採決するかどうかだった。
だが同じ動きを見ても人によって見え方は違う。
「こんな状態では、誰も望まない『合意なき離脱』になる」と心配する人がいれば、「メイ首相は自分の案に固執しすぎだ。このままでは辞任に追い込まれる」という人がいる。
「最後は保守党も協定案でまとまる」など見方はまちまちだ。
私には「いよいよ着地体制に入った」と見える。
21日にあったEU首脳会議は「離脱期日の延長」を認めた。ここに大きな仕掛けがある。
首脳会議の合意は以下の通りだ。
◆英国の下院が29日まで来週中に、EUとメイ英首相がまとめた離脱協定を承認すれば、新たな離脱日は5月22日となる。
◆承認されなかった場合、離脱日は4月12日とする
◆4月12日までに協定が可決できなければ「合意なき離脱」
◆さもなければ、英国は「次の展開」をEUに示す必要がある
メイ首相がまとめた離脱協定とは、いわゆる「秩序ある離脱」のことで、英国がEUを完全に離脱する20年末までの間は、北アイルランド(英国領)とアイルランドの国境の自由往来や英国が関税同盟にとどまる代わりに、EUの諸規制を受け入れるというものだ。
強硬離脱派は「こんなものは離脱とはいえない」と反対に回り、2度にわたって英議会で否決した。下院は29日、離脱協定の一部について3度目の採決をしたが、否決し、結局、3月中に離脱協定が承認されることはなくなった。
メイ首相は協定案採決を条件に辞任する意向を表明する「賭け」に出たが、結局、空回りに終わった。
これで、5月22日までの期限延長はなくなった。英国は4月12日までに態度を決めなければならない。
決めなければ「合意なき離脱」となるが、これがもたらす大混乱は語り尽くされている。一言でいえば「英国自滅、EU失速」。だから賛成する声はほとんどない。
4月12日までに英議会は、メイ首相がまとめた協定案をのむしかないのか。
だがこれが決まるなら、もともと議会の混乱など起きてはいない。
「新たな選択肢」が浮上している。「国民投票をもう1度」である。
袋小路に追い込まれた英議会に残された1つだけの逃げ道。誰か知恵者が仕組んだ戦略のような気がする。
● 「政府や議会がだめなら もう1度、国民の判断を」の声
国民投票は2016年6月に行われ、離脱賛成が51%を獲得、僅差で決まった。
英政府は、投票結果を尊重し、17年3月、リスボン条約の定めに従いEUに「離脱」を表明。2年以内に英・EUが混乱なく離別する新たなルールを定めることになった。
その役を担ったのが、メイ首相である。
交渉に全力を注ぎ、集大成が「離脱協定」だった。
2年かけて、次のことが分かった。
◆キレイさっぱり別れると、アイルランド国境問題や貿易関税など英国に困ったことがたくさん起こる
◆英国の国益を大事にすると、離脱は形式的なものになる(これは実ははじめから分かっていたことだ)
◆政府・議会は、離脱問題を解決する能力がない
◆与党・保守党は穏健離脱派と強硬離脱派に分裂した。メイ首相は指導力を発揮できない
そこで「議会や政府がだめならもう1度、国民の判断を聞こう」という動きが勢いを増しているのだ。
23日、ロンドンで「2度目の国民投票」を求める「100万人デモ」があった。
誰も正確な人数を測ることはできなかったが、ハイドパークからバッキンガム宮殿、国会議事堂前まで道路を埋め尽くし、イラク参戦反対のデモ以来の大規模な大衆行動とメディアは報じた。
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デモには野党・労働党のワトソン副党首やスコットランド自治政府のスタージョン首相、ロンドンのカーン市長らが参加した。
「前回は、『EUから出れば多額の予算を国民保健サービスに回せる』などのウソを信じて投票した人が多かった。事実を知った上で、人々の意思を示す機会が必要だ」
「国民投票の時はまだ選挙権がなかったけど、自分たちの将来に影響することです。意見を言う機会がないのはフェアじゃない」
BBC放送は、こうした参加者の意見を伝えた。
これまでの報道は、メイ首相が提示した「離脱案」の可否を巡る議会混乱ばかりに焦点が当たり、「協定案支持か」「合意協定なき離脱か」の2項対立で捉えられがちだ。
だが「EU残留」という第3の選択が注目されるようになった。
ハモンド財務相までこう語っている。
「メイ首相の離脱案は議会で過半数を取れないだろう。首相の離脱案を支持しないなら議会は何を支持するのか決めなければならない。議会の過半数が2回目の国民投票を支持するか分からないが、筋の通った提案であり、検討に値する」
閣内からこうした発言が出るのは大変だ。「本命」が姿を現した、と私は感じている。
● キャメロン首相の「火遊び」が 予想外の「離脱」に
国民投票で「EU離脱」が決まった時、外交官・ビジネスマン・ジャーナストのほとんどは「愚かな決定」と見ていた。
「キャメロンの火遊びで大変なことになった」と若い首相の未熟な行動を嘆く声が多く、「離脱してよかった」という意見はほとんどなかった。
「決まったからには仕方ない。国民投票で決めたことは国民投票で修正するしかないだろう」という政府関係者の意見が印象に残っている。
キャメロン氏の「火遊び」とは、ポピュリズムにこびたことだ。
英国はEUに加盟しながらも、独仏主導の運営から距離を置き、ユーロに加わらないなど自主性を大事にする政策を取ってきた。キャメロン首相は、国内の反EU感情をバックにEUと交渉し、有利な条件を引き出す手法を取っていた。
競争原理と自己責任の新自由主義路線を進めたキャメロン政権は、国内では緊縮財政。行政サービスに大ナタを振い、湧き上がる不満を東欧からの移民や頭の固いブリュッセルのEU官僚に責任を転嫁することで英国民の目をそらせてきた。
国民投票は政権への不満をEUに向ける「ガス抜き」でもあったのだ。
だから、よもや国民の多数が「EU離脱」を選ぶとは思いもしなかった。若い政治家の軽はずみな行動が国益を損なう結果を招いた、という評価となった。
国民投票は、米国にトランプ大統領が現れ、フランスでは極右のルペン氏が勢力を伸ばしたころだ。
身近な敵を作り、国民の怒りや不満を外に向けるというキャメロン氏の火遊びは、予想外の火勢となって自分が火だるまになった。
結局、キャメロン氏は首相辞任だけでなく、議員を辞職し政界から消えた。それほど重罪を犯した、ということである。
● 国民が再投票を言いだす空気を 政府は醸成するよう動いた
当時、メイ首相は内相。EU問題では「残留派」だった。
それが、首相になると「国民の意思を尊重し離脱交渉に全力を注ぐ」との姿勢を鮮明にした。
その頃から「国民投票をもう1度」と言っていた人たちは、ピタリと言わなくなった。民意を尊重する英国らしい態度ともいえるが、本音と建前を使い分ける英国人のしたたかな戦略である。
「間違えたからもう1度」では、勝つまでジャンケンである。
「大阪都構想」を掲げる大阪維新の会みたいなことは、民主主義の先進国である英国はやらない。
EU離脱の叫びは一種の「政治的うっぷん晴らし」だった。
離脱を宣言し、国民が高揚して熱くなっている時に、「EU残留」を説いても、はねつけられる。うかつに持ち出せば選択肢として消されてしまう。国民が再投票を言いだす空気を醸成する方向に政府は動いたのである。
離脱論議に時間をかけ人々の頭を冷やす。冷静になれば、何が損でどうすれば得か、おのずと分かる、と知恵者は考えていたのではないか。
英国は日本と同じ島国であり、一国で生きていくのは容易ではない。
大英帝国時代の植民地はほとんど独立し、特別な関係にある米国は、今や自国ファースト。EUという共通市場に寄り添い、経済でも主要な地位を占めることが英国の国策になっている。
象徴がロンドンの金融街シティだ。
世界の金融機関が集まり、外貨の取引は世界一。マネーと情報の集積地として繁盛している。「ウィンブルドン現象」という言葉がある。
ロンドン郊外のウィンブルドンで行われる伝統的なテニス大会は世界でも有名だ。実力や人気を備える英国人選手を探すのは難しい。金融業も同じ、というのである。
プレーヤーや観客は外国から集まる。おかげで観光地やロンドンの繁華街にはカネが落ち、にぎわった。
ひと昔前のシティは地場の金融業者がひしめき、排他的な慣行がまかり通っていた。
サッチャー政権はシティの大改革に踏み切り、アメリカ、日本、欧州大陸の銀行を呼び込んだ。地場資本の集合体では金融新時代を生きられない、と腹をくくり、世界からビッグプレーヤーを集めた。ウィンブルドンと同じ「貸座敷」である。
製造業も同様だ。産業革命が起こった英国は今や主だった製造業はなく、EU統合ではドイツの脅威にさらされる。対抗手段が企業の誘致だった。
日本から日産、ホンダ、トヨタ、重電・交通システムは日立といった具合である。英語が通じ、住みやすく、政府の後ろ盾も万全な英国は、EU市場を狙う日本企業にとってありがたい拠点となった。
「雇用と国際収支を改善してくれるなら企業の国籍は問わない」(サッチャー首相)と、英政府は貸座敷を充実させた。
だが、離脱すれば「貸座敷」の魅力は薄れる。
ホンダは「世界的生産体制の見直し」を理由に英国撤退を決めたが、Brexit問題と無縁とは思えない。
英国にいるリスクを考えたのだろう。同じことがトヨタや日産にもいえる。今や製造業の時代ではないが、雇用問題を考えれば協力工場も含め、製造業の集積は無視できない。
金融では、英国が離脱すれば、シティに支店を出す域外の銀行・証券はEU業務ができない。金融業がロンドンからフランクフルトやパリなどに移り、英国にとって手痛い打撃になる。
それだけではない。移動の自由や、関税・通関検査、輸送から空港業務など気が遠くなるような不便が生ずる。産業集積地としてロンドンの価値が下がれば、地価は暴落、ポンドも売られる。
そこまで考えて、「国民投票」が当時、なされたわけでない。
● “ピエロ役”を演じたメイ首相 着地点を考えていた?
フィナンシャル・タイムズのマーチン・ウルフ記者は25日付の「Brexit:メイ首相の忌まわしき賭け」という記事で、「国民投票時に流布していた幻想」についてこう書いている。
「EUから離脱しても、『EU加盟時の利益のほとんどを維持することは容易である』とか、『世界のEU以外の国々と素晴らしい条約を結ぶことも簡単にできる』とか、『すぐ近くにある巨大な市場への優先的なアクセスは失われるが、他国との素晴らしい条約締結で簡単に埋め合わせができる』というのは幻想」
このことは、国民投票の時から分かっていた。しかし、国民の憤まんが扇動の中で、離脱の幻想になびいていった。
3年かけて頭を冷やし、やり直しをこれからするというわけだ。
再度の国民投票で「残留」が決まれば、これまでの騒ぎは何だったのか、ということだ。
「EUを出る」とたんかを切り、加盟諸国を混乱させた。元のさやに戻るのは「白旗」を掲げるようなものである。
国民投票の前に総選挙、という議論も出るだろう。議会や首相が機能しないなら、議員と首相を代えろ、というわけだ。政治責任が問われるだろう。
こうしたこともメイ首相は覚悟していると思う。
ボロクソにされながら、着地点を「国民投票」に置きピエロを演じていたのかもしれない。
「ブレグジット騒ぎ」はいよいよ終幕を迎える。(
Yahoo!より抜粋)
総合取引所誕生へ 世界と競える市場を築け
日本取引所グループ(JPX)と東京商品取引所が10月の経営統合で基本合意し、さまざまな金融商品を一元的に扱う総合取引所が来年にも誕生することになった。
東商取が扱う貴金属や農産物、ゴムなどの商品先物を、JPX傘下で金融証券先物を扱う大阪取引所に移し、ワンストップで取引できるようにする。
投資家の利便性を高めることで世界の投資マネーを呼び込み、先物などの金融派生商品(デリバティブ)取引を活性化するのが狙いである。そのための効果的な再編としなければならない。
世界の主要取引所では総合取引所が主流であり、日本は立ち遅れていた。これを機に日本の金融市場の競争力を高め、日本経済全体の成長へとつなげたい。
JPXが東商取にTOB(株式公開買い付け)を実施し、完全子会社化する。これにより、JPXの傘下には、現物株式を扱う東京証券取引所と大阪取引所、東商取の3つが並ぶことになる。
大阪取引所と東商取が別々にデリバティブを扱う弊害はかねて指摘されてきた。金融証券先物と商品先物の違いだけでなく、仲介業者の資格といった法制も異なり、使い勝手が悪かったからだ。
だが、デリバティブは世界の取引所を牽引(けんいん)する成長分野だ。総合取引所にすることで市場参加者が増えれば取引高も厚みを増す。先物には、商品の生産者や需要者が価格変動による損失を抑えるリスクヘッジの役割もある。取引活性化はこれにも資するだろう。
ここで留意すべきは、メリットが分かっていながら対応が遅すぎたことだ。総合取引所構想は平成19年からあり、成長戦略でも可及的速やかな実現がうたわれた。
それがここまで遅れたのは、JPXを所管する金融庁と、東商取所管の経済産業省・農林水産省の間で縄張り争いがあったためとされる。調整がもたつく間に東商取の経営は悪化し、日本の商品市場は世界から取り残された。厳しく認識しておくべきである。
基本合意によると、原油については当面、大阪取引所に移さず東商取に残す。東商取は、原油のほかに電力先物なども上場させて総合エネルギー市場の創設を目指すというが、それが経産省の権益確保の場となるようでは元も子もない。あくまでも投資家の目線で使い勝手を吟味してほしい。(
産経より抜粋)