扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part69

なるほど、こういうつながり: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
田母神=上念=高橋洋一 っというつながりだけじゃなくて、これがさらに、


高橋→橋下・維新の会
高橋→みんなの党


・・・へとつながるわけで、さらに自民党総裁選挙の結果いかんでは「橋下・維新の会→安倍自民党総裁」になりえます。


で、問題は、いくら金融緩和・リフレ政策を旗印に掲げているからと言って、こんな連中を本当に支持できるんですか?ということなんで、、、もうはっきり、嘆かわしいと言いたいけど、「リフレ政策やってくれるなら、まともな金融政策をやってくれるんだったら、安倍でいいや」みたいな軽いノリの判断をやっている人を散見する。。。いや、私は安倍さんに対して、なんかはてサやその筋の左サイドが頻繁にやっていたような批判には与するつもりは、ありませんよ。


ただ、リフレやってくれると言うだけだったら、こんなメンツで本当にいいのか。リフレをやりながら、「小さい政府」とは名ばかりの緊縮財政に公務員叩き、おそらく維新の会が国政に本格的に参画するようになれば「霞が関解体」を吹くようになるでしょう。


前々から書いているけれど、こんな連中の話をクルーグマンが聞いたら目を白黒させて卒倒すると思いますよ。リフレ派の人たちってなにかっつうとクルーグマンをもちだしたりするんだけど。


別に大きな政府と小さな政府の路線争いは、これは個人の自由だから自由に議論してもらえばいいんだけど、もうそういうものですらなくなってしまってるでしょう???


たぶん、政治的には私はどっちかと言うと右よりだと思ってるんですけど、さすがに現下の状況でこの選択はありえないだろうと。そう思うんですけど、いや、普通に心優しい、まともな人が「金融緩和」に釣られてるの見ると本当に脱力するの。。。orz

・・・

言霊のさきはう国または客観的分析言説を主観的倫理言説で叩き潰して気持ちよがる社会の行く末: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
同様の話は、たぶん僕が「ネット○○派」として問題視しているところと通底している気がするんですが、それよりもこれって尖閣の問題だけじゃないですよね。おそらく。

ゾルレンではなく、ザインの次元で、こちらがこういう手を打てば、相手はどういう手を打ってくるか、という分析を冷ややかに客観的にできるか、それともぬとぬとの主観まみれにしかできないか、という話だ。
この間、売国奴だの何だの、さんざん罵倒を繰り広げてきたただの一人も、責任を取ろうとしないし、もちろんとれるはずもない。

・・・あ、リフレ派の先生たちですか、反原発で煽って来た先生たちですか、と言いたくなる。

この一連の騒ぎが教えてくれるのは、かつての進歩的な人々が示していた「言霊信仰」というか、「かくあってほしい、かくあるべきだ」という主観的思いこみで喚き散らしてあとの責任を取ろうとしない無責任な態度に対して、かつての『諸君』や『正論』あたりで、かつての冷静な保守派が冷徹でリアリスティックな客観的分析で冷ややかに批判していたときに示していたような「責任感のある実務家」のセンスというものが、その出来の悪い後輩たちにはもはやカケラも残っていなさそうだという、まことに痛切なまでに悲劇的な現実なのだろう。
要は、全共闘感覚がかつて保守派であったはずの人々にまで瀰漫したということかもしれない。

しかし、客観的分析言説を主観的倫理言説で叩き潰して気持ちよがる社会の行く末に期待がもてるはずはない。

問題はそういうことなんだけど、どうもそこに帰着させる議論すらしなくなってる気がする。自分たちの責任が問われるので。


自分たちの責任を棚に上げて、誰かが悪いことになってくれたら、責任を取ってくれたらそれでいい、あいつが悪いんだガオーで済ませられるような状況じゃないよ、、、と思うんだけど。なんか誰が悪いだ誰の責任だの議論ばっかりしかみないんだよなぁ。。。


(追記)
「「かくあってほしい、かくあるべきだ」という主観的思いこみで喚き散らしてあとの責任を取ろうとしない無責任な態度」と言えば、先ごろ話題になった「革新的エネルギー・環境戦略」はもう本当に噴飯ものだった。名前がそもそも、というだけでなくて、「はじめに」の部分だけ取り出してもとてもじゃないけど読めない。(それでもがんばって一応、「はじめに」だけじゃなくて最初から最後まで全部一通り目を通したんだけど、つらかったorz)
http://www.npu.go.jp/policy/policy09/pdf/20120914/20120914_1.pdf

平成 23 年3月 11 日に発生した、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故。それは、私たちが選んできた過去と思い描いていた未来に、根源的な疑問を突き付けた。私たちが信じてきた価値観、社会の在りよう自体が、今、深く問い直されている。

まず出だしから変で、この「わたしたち」の使い方が実に気持ち悪い。勝手に自分と同意見の他人を想定して「私たち」と言って陶酔してしまっている。

震災前、私たちは、エネルギー社会の在り方として、「原子力エネルギー」への依存度を高めることを柱として、安定供給の確保を目指し、地球温暖化問題の解決を模索してきた。しかし、今回の事故の深刻な現実を直視し、事故の教訓に深く学ぶことを通じて、政府は、これまで進めてきた国家のエネルギー戦略を、白紙から見直すべきであると確信するに至った。

ここも変なんですよ、主語が。最初の文は「私たち」で、後段が「政府は」になってる。ここんところ、どうやって解釈すればいいのか全く不明で論理的につながんない。

この新たなエネルギー戦略は、「一握りの人々で作る戦略」ではない。何よりもまず、政府と国民が、一人ひとりの意見、不安、願いに虚心に耳を傾け合い、様々な主張を深く理解し合うことで策定される、「国民的議論で作る戦略」でなければならない。

はい、でました。まさに「ゾルレン」です。本当にありがとうございました。

そして、この戦略は、今回の事故で原子力エネルギーの利用が困難となった状況下での「受け身の縮小戦略」ではない。制約をバネにして、一人ひとりの国民の参加によって省エネルギーや再生可能エネルギーを劇的に普及・拡大していく契機とする「前向きな成長戦略」でなければならない。

また「ゾルレン」なんだけど、いや、書きながらつらつら思うのは、米国みたいに民主主義という観念が「ゾルレン」になっている国でも、リアルポリティクスとミックスさせるにはどうすればいいかよほど難しいわけで、ましてやこんな調子で勝手に現実から乖離した空想的な観念で「ゾルレン」されても、哲学論議ならまだしも、政治の話だったらもう、なんというか。


(そういや、この文章、米国のブッシュJr.をメタクソに叩きまくっていたような左サイドの人たちは、ちゃんと批判してくれるんでしょうな)

過去の延長上にはない、新しい未来を創造する戦略。無謀な夢物語ではない、実現可能な戦略。そして、これまで国策に協力し、我が国の経済社会の発展を支えてきた原子力関連施設の立地自治体に対する、感謝と配慮に満ちた戦略。

もう書き手が興奮してるの、目に浮かぶんですよ。「感謝と配慮に満ちた」とか自分で書いちゃうって、それファシズムみたいなものと違うんかというよりも、もう気色悪くて気色悪くて。ホント、誰が書いたんだ、これ。どんな顔でこれを書いたのか、見てみたいわ

これらの確固たる方針の下、私たちはここに、「革新的エネルギー・環境戦略」を策定する。

つまり、「私たち」というのは革新的エネルギー・環境戦略会議の人たちのことだったのかとここにきて分かるわけだけれども。でも、この「私たち」にはやっぱり含みを感じて実に気持ちが悪い。


途中飛ばすけど、一番の噴飯ものはこれ。

今回打ち出す「革新的エネルギー・環境戦略」によって、政府は、全ての国民とともに真新しいエネルギー社会を創造していく。政府の不退転の決意と果断な政策的挑戦に加え、国民一人ひとりの全面的な協力が得られるならば、必ずや、この目標は達成することができる。

もうまさに、願望とか希望、そんだけ。「客観的分析言説を主観的倫理言説で叩き潰して気持ちよがる社会」どころか、政治家がこの有様で、主観的願望を堂々と政府の公式文書、しかも閣議決定の一歩手前まで行った文書で書いちゃうんだから。

我が国がこの目標を達成することは、世界の多くの国に先例を示すことであり、現在の世代が未来の世代に対し「責任を果たす」ことでもある。
私たちは、この国際的にも歴史的にも意義を有する、高き目標に挑戦する決意を持って、「革新的エネルギー・環境戦略」の遂行に着手する。

「高き目標」だって。カッコいい締めだと思ったんだろうなあ。バカじゃないのか。


・・・という批判はまあできるわけです。


いや、本当の問題は、この文章を読んで、あるいは「ゾルレン」満載の言説にうっとりできる人たちが相当数いるという現実のほうがよほど問題だと僕は思うんだけども。