ネット○○派 part291 信念のぶつかり合いにしかならないのに。。。

なんでもかんでも「ニセ科学批判」にならない - 今日の雑談
ここでちょっと拝借したTweetなんだが、また口の悪い人が噛みついたもんだね。。。
https://twitter.com/#!/AntiSeptic/status/107109047374852096

「みんな信じたいことしか信じないんだよね」とか言いつつ自分だって「カガク」しか信じてないことに気づかない愚かさにクソワロタwww RT @ssmufler: ニセ科学批判ってすごく難しいよなぁ。昔オイラ免疫の研究してて論… (cont) http://deck.ly/~soaFm

https://twitter.com/#!/yokomichisizuka/status/107123119818420224

@AntiSeptic 八紘一宇式に間違えてるのもそれはそれで幸せなのかなぁ(=ω=;)と思ったり。|科学を用いた似非科学批判て、精神的拠り所を必要としてる人が他人の精神的拠り所を潰す事でもありますね。

https://twitter.com/#!/AntiSeptic/status/107221591531855873

@yokomichisizuka そそw 怖いのはそれが世の中の常識(今回は科学)であったことを背景に自分が正しいと信じ込んだ奴はどんな残酷なことも出来るってこと。だからMidasは魔女狩りだって言ってんの。

ま、というわけで、Midasさんが日本のホメオパシー批判を魔女狩りだといい、僕が「あんたがたファシズムか全体主義でもやりたいんか(笑)」と言ってるのは、まさにそこのことなんだけどね。

…

いやあ、「まともな科学者なら穏健な相対主義くらいわきまえてる」とか言うんだけど、そのへんが怪しいというのはこういうところにも表れているのかもしれないね。というのも、科学の判断が絶対正しいとは原理的に言えないということが、やっぱり、あんまり理解されてないんじゃないか。


ホメオパシーに科学的根拠がない、くらいの話だったらわりにはっきり言えてしまうのは分かるんだけど、だからと言って社会問題にまで越境してきて全否定してかかるのは(しかもその行動の根拠にあるのは「一市民として」だの「世間の道徳」でしかない)、明らかにやりすぎ。しかも、あくまでも体裁は科学の判断だから、妙に客観性を帯びていて、つまり「ミイラ取りがミイラ」ニセ科学批判がニセ科学っぽくなっているということも、何度も書いた。


「穏健な相対主義くらいわきまえている」とはいうものの、越境ぶりとその是認を見ていると、いやーとてもわきまえてはいないんじゃないのと言わざるをえなかったりするね。

…

もっとも、あるあるの情報に科学的根拠がないとお父さんに教えるくらいなら別にかまわんわけだし、まあ、いちいちこんなTweetのところまで立ち戻って考えなおす必要もあまりないのかなとは思います。だから、口の悪い人にからまれてお気の毒と言えないこともないですよ。


ただ、ニセ科学批判の難しさってようは、最終的にはAさんの「正しい」とBさんの「正しい」のぶつかり合いにしかならず、科学的に根拠があろうがなかろうが、信念の問題になってしまって、、、だから書いたように外形的には宗教の信者と何も変わらないし、「科学教」と揶揄されたことにも一理あるわけだけれど、、、そういう問題なのに、ニセ科学批判の当事者たちがこの部分を全く理解しない自覚がないのがね。だから、ネット右翼とやってることが変わんなくなるのですよ。

(追記)
左巻先生には悪いけど。たまたま見ちゃった。ニセ科学批判の感覚をよく象徴してる。
https://twitter.com/#!/samakitakeo/status/107364957229826048

なんかニセ科学批判を「批難」する人らがいるようだが、ぼくはニセ科学はいつでも誰でも批判するのが当然だと思う。ニセ科学を情緒的に擁護することに道理はないと思う。世の中ニセ科学批判はいつもマイナーで、トンデモなどニセ科学批判の批判は多数だから諦念があるけどねw。

いや、「ニセ科学を情緒的に擁護」する必要は全くない。でも、「ニセ科学はいつでもだれでも批判するのが当然だ」という根拠はどこにあるかというと、、、あえて言えば、それこそ「情緒」?いやいや、そこで、「一市民として」とか「詐欺は許せない」「ウソは許せない」「人が死ぬ」「差別だ」って話にたいていなる。で、実はそこで越境しちゃってるんだけど、その自覚がないんですよ、ニセ科学批判って。


そうなるのも本来は理由があることで、毎度言うように大革命以来の合理主義信奉が背景にあって、だからヨーロッパでも米国でも基本的には(あくまで基本的には)合理主義を信奉する左派が社会に蔓延する不合理を叩く、だから占星術が問題になるし宗教も茶化す、その延長線にホメオパシー批判があるのであって、一応日本の「ニセ科学批判」はその流れにあるから、だから同じことをやりたがる。だけど、日本でやる場合、ヨーロッパと同じホメオパシーばかり叩いたって全く無意味で、日本でホメオパシーにあたるものは漢方や鍼灸だという話にならなきゃおかしいんです。漢方にしろ鍼灸にしろ、不合理だし科学的根拠がないし、ホメオパシーに直接の副作用はないけど漢方は副作用がどうかもよく分からないしで、日本社会の不合理を正したいのであればホメオパシーよりも、みんな当たり前に受容してしまっている漢方や鍼を叩くべきで、そこに意味も生まれるはずなんだな。にもかかわらず、漢方や鍼灸を擁護してしまったので、その時点で疑似科学批判としても懐疑主義としても「ニセ科学批判」はとうに自殺しています。


欧米の懐疑主義団体なり疑似科学批判は文脈なり社会的歴史的背景が(それなりに)あって分からないことでもないんだけれど、まあ、好意的に受け取れば日本の「ニセ科学批判」は表面だけ真似て分かった気になってたり、あるいは日本に受けやすいようにしたらもう全然文脈がずれちゃったまま受容されてる部分があって、そこが問題なんです。


文脈が違ってしまっているから「いつでも誰でも批判するのが当然」みたいな発言がすんなり出てきちゃうし、日本語で読むとわりに違和感がなく感じられもする。そこが勘違いなんだ。


それに、「いつでもだれでも批判」と言ったときの「批判」の中身が問題で、ニセ科学の問題点を指摘することに全く異存はないし、そこに異論をはさむ人はおそらくいないと思うんだけど、問題はそこから無思慮に越境してしまって単なる「間違いの指摘」にとどまらない点で、そこで「一市民として」とか「ウソは許せない詐欺は許せない」といきなり世間の道徳を持ち出して正当化するところがずるいし、それが錯覚を生んでいるというのも、何度も書いたとおり。たとえ表面的には言ってることは同じだとしてもヨーロッパでホメオパシー叩いてる連中と文脈が違いすぎます。


さらにさらに、もういっそ開き直ってしまって社会運動にするならそうすればいいんだけど、そこまでやる気もなく、ネットでうじゃらうじゃら言ってるだけでフォーラムやって自足して、そんで「諦念」とか言われると、まあ、海外の懐疑主義者団体をちぃとは見習えよと言いたくもなりますわな。って、左巻先生に言ったら申し訳ないな。でも、ニセ科学批判のほとんどはその程度だものな。


だから。


ニセ科学批判がネット右翼化する理由はもうこのTweetに集約されていてね。一つは、あっけらかんと「ニセ科学はいつでも誰でも批判するのが当然だ」と言ってしまうところ、発言の裏にある「自分たちは正しいに決まってる」「当たり前の正しいことを言っているにすぎない」という意識がただの思い込みかもしれないという反省がないこと、リアルに反映させるためのしつこさ過激さをもつ前に「諦念」と言ってこれまた自己正当化してしまい、結局リアルにちっとも反映されない正義感覚だけが肥大してしまうこと。


ネット右翼だって、「日本人なら特亜を批判するのが当然だ」「情緒的に中国韓国を擁護することはない」「世の中、偏向したマスメディアに洗脳された人々が多数で、真実を知っている自分たちは少数だ」と全く同じことを言うものです。この比較の場合も、科学だからカテゴリーが違うというのはそのとおりなんだけど、他方でどう見たって外形的にはやってることも言ってることも一緒なんで、科学だから全部正当化されるというものでもない。むしろ、、、正しいからこそ余計にそこは慎重になるべきなんだろうということも、前に書いたっけな。

(追記2)
最近とみに感じるんだが、「ニセ科学」って呼称ももうやめた方がいいかもしれないね。「ニセ経済学」とか簡単に言ってのける人までいるのは、明らかに「ニセ科学批判」の影響なんだと思うけど、「ニセ○○」というレッテルが、、、まあある種のレトリックというか、議論のテクニックとしてはともかく、、、本当に単なるレッテルになり下がって、それこそ「単純な善悪二元論」の意識を煽るだけになるのであれば、「ニセ科学」という呼称は非常に罪深いとしか言いようがないよ。

(追記3)
だから、本当にニセ科学をどうにかしたいのであれば、ニセ科学を叩く方向にいくのではなくて、オーソドックスなごくごく当たり前の科学への信頼を高める、たとえば学校教育をちゃんとするとか、そういう方向に行くのが本筋で、ニセ科学批判なんて教科書の「コラム」でちらっと扱われたら御の字だろうと思いますよ。


武田某を「本物の科学者」と言ってしまう知人とか見てると、ホント、そう思うんだけど、何やってんだろね、ニセ科学批判って!