ネット○○派 part287 誰がまともかまともでないか

ネット○○派 part285 素晴らしきニセ科学批判の世界 - 今日の雑談
http://ksakurai.nwr.jp/R/slides/Nisekagaku.pdf
書きすぎたなあと思って削除しようかとも考えたんだが、やっぱり残すことにした。


というのも、ここで扱われていることはたまたま科学ものがネタになっているだけで、「荒らしの例」を見ると、結局どんなテーマにでも言える問題だろうと思わざるを得ないからというのがあってね。


。。。いや、この手の議論に苦労したからこういうものを書きたくなるという気分は分かる。言っちゃなんだが、僕もネット右翼で多少の経験はあるので想像はつく。ただ、これだったらニセ科学批判として一ジャンル作ってしまう理由があるのかどうか。


実際、荒らしの例として出されてるものを見ると、

論理の飛躍
匿名のA,B二人の会話。
A:「○○には××という問題があって難しいと思う。」
B:「その問題はこういう手段で解決できると予測されている。(論拠資料提示)」
A:「でも予測だから100%確実じゃないだろう。おまえがそれを保証しろ」
(暴論を持ち出して逃げている)

とか、○○法案反対運動に非常によく見られる屁理屈で、なにもニセ科学に限ったものではない。


それに、なんちゃって議論の香りがするのは、こういう例。

俺様基準
匿名のA,B二人の会話。
B:「このままだと、こういう問題が起きそうだと□□が報告している。」
A:「 □□の言うことはただのプロパガンダだ、俺は信じないぞ」
B:「 □□はこれだけの証拠を揃えていて、それに対する確実な反論も見当たらないが。」
A:「 俺がそう思うんだから、 □□ は嘘つきだ。おまえも嘘をついてるんだろう」
(証拠なしに人を犯罪者扱い)

この会話は非常に都合がよく出来ていて、逆の場合もあります。たとえば、「『代替医療のトリック』でサイモン・シンが鍼は痛みを緩和するためくらいならいいと言っているから調べてみてもいい」と言って是認しちゃったりするのは、この例のちょうど逆を行く「俺様基準」にしかなってないと言わざるを得ない。(2010-08-29 - 今日の雑談)


いや、気持ちはよくよく分かるんだけど、こういう会話の例ひとつとっても、あまりにも都合よく出来すぎている。


ただ、会話が通じない相手がたまらんという話であるならば、「科学に無理解」だからというわけでは全くなくて、科学を理解しようがしまいがこういうことになるのであって、なにも「ニセ科学の手口」だけでこうなっているのではないということは、ちょっと強調しておきたいところ。


ようするに、「ニセ科学」に限定させておく必然性がない。科学の手順が分かれば、トンデモに引っかからないだろうとか、そんな単純な話じゃない。

…

そこで「ラベリングの悪用問題」になるのも分かる。でも、その時点で消費者問題・社会問題に首を突っ込んで越境してしまっているのは、このブログで繰り返し書いてきたとおりで、「科学的根拠はない・科学的には間違いだ」ということは言えても、それ以上のことを科学者の立場を維持しながら発言するのは相当難しいと思う。このあたり、「一市民として」とかいって適当にごまかされてしまうんだけれど。


またこの手の問題が多ジャンルにわたるとして、その中での科学ネタなんだということなら、好きになさればという以上のことは言えない。でもそうなると、海外の疑似科学批判や懐疑主義者の流れとは関係がほとんどないですよねと。彼らの意図するところは基本的には大革命以来の合理主義の信奉にあるわけで、日本のニセ科学批判はたいていこの文脈がない。(ニセ科学批判が漢方や鍼をホメオパシーほど叩かなくても済む理由はここにあるということも書いた。また、「自分たちだって合理主義やクリティカル・シンキングが大事だと思っている」と言われるかもしれないが、まあ、だからよく分かってないんだよとしかもう言いようがない)。

…

で、こういうことに対する対策は、ニセ科学批判の皆様が認定なさっておられる「ニセ科学」をいくら叩いてみても科学の手順はこうだと説いてみても全く無駄で、学校教育で当り前のことを当たり前にやるという以外に手がないんじゃないですか、ということも書いた。ニセ科学ネタなんて、教科書でいえば「コラム」欄のネタにはなっても、それ以上になりようがない。


だから、ニセ科学批判なんかで遊んでないで、とっととそういう方向に動いてください。と念願している。

…

ただし。この手の問題は、科学ネタに限ったことではなく、しかもニセ科学批判の人たちがミイラ取りがミイラになってしまっている現状で、かつそういう状況を当人たちが自覚できてない様子を見ると、教育の問題だけにできるものでもないんだろうとは思う。最終的には、そういうものにはまりやすい「性格」とか「思考の癖」みたいなものに左右されるんだろうと。


リフレ派だって、教育だけはそれなりのものを受けてるはずの人たちなのにあのざまだし。


もしもニセ科学批判がこの「ニセ科学の見分け方」みたいな方向を志向するんだったら、「ニセ科学」としてくくることにどれほど意味があるか、ちょっと考えてみた方がいい。おそらく、ニセ科学としてくくることにそれほど意味がないから。


結局、安易に「ニセ科学」や「手口」「荒らし」「対策」という言葉を使ってしまってるけど、そもそもこの立場への懐疑がおそらくないんですよ。


(追記)
「荒らしの例」を見ていて違和感を感じるんだけど、この違和感はなんだろうと考えてるんだが、うまく言葉にできない。


ひとつこうかなと思うのは、いちいち「論拠」を提示するほうがまともな議論を展開しているということが自明の前提になってるらしいことがあるかもしれない。というのも、ネット右翼なんかそうだけど、彼らにも「論拠」があるつもりなんで、、、いや、その「論拠」「資料」が信頼に足るかどうかが問題なんだけれども、立場を逆転させてみたら「まとも」な側が「荒らし」認定されてしまうのが通例で、話はそう単純でない。「荒らしの例」のように単純な色分けはできないだろうと思う。


また、「論拠」を提示したところで本当に「まとも」かどうかもまた別問題で、理屈の運びや言い回しを見ないことには判断できない。資料はまともでも、扱い方によって変わってしまう。


ネット右翼と対話していたときの感覚や、ニセ科学批判やリフレ派の人たちとしゃべったときのことを思い返すと、論拠を提示して理屈を運べるから対話も議論もできるというのは現実には違って、ネット○○派になると自分の理屈から一歩も出てこないので、どんなに論拠を提示されても提示しても議論ができなかったりする。


たぶん、違和感の源は、まともな側と荒らしとで二分して描かれすぎていることにあるんだと思う。変な理屈を言う方が「荒らし」認定されてしまってるけど、事と次第によれば「まとも」「正しい」側が「荒らし」になりうるということへの反省が、どうも見られない。