2008年12月19日
メリークリスマス如己堂。
如己堂(にょこどう)の名前の由来は「イエスキリストの言葉で己の如く隣人を愛せよ」という言葉から名づけれらました。"You shall love your neighbor as yourself."
【如古堂】 【永井隆博士】
永井 隆 博士の【如己堂】には、おおくの人が長崎に修学旅行の時に訪れてると思うですが・・・。先日、久しぶりに寄って来ました。
まず、永井博士の如古堂とは・・・(以下抜粋です。)
『このわずか二畳の部屋の中から博士は次々と名作を生み出し、浦上の人々をはげまし続けた。「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命の河」「長崎の鐘」などの小説や随筆のほかに、絵画、和歌、短歌など次々に発表した。「この子を残して」は映画化、「長崎の鐘」はレコード化され、戦後の名曲として今に歌い継がれている。如古堂の言われは、聖書の一節「己の如く隣人を愛せよ」という言葉により如己(にょこ)堂とされた。』
そばの永井博士記念館のなかの(写真撮影ok) の展示資料をすべて注意深く読んだり、見たりしました。その中で、私が、一番、興味深かったのは博士の奥さんの『緑さん』のことでした。
『・・・ただ一面の焼灰だった。私はすぐに見つけた。台所のあとに黒い塊を。そばに十架のついたロザリオの鎖が残っていた。 焼けたバケツに妻を拾って入れた。まだぬくかった。私はそれを胸に抱いて墓へ行った。私の腕の中で、妻がかさかさと燐酸石灰の音を立てていた。』
写真の緑さんはとても美しい女性でした。島根の松江出身の永井博士は長崎大学医学部の学生になり、その下宿先として緑さんのオタクに頼み込んで、ついに無理に住みこまさせてもらったそうです・・・。きっと、そこに美しい緑さんがいたからだ、と私は直感しました。緑さんの家系は敬虔なカトリック信者で、そのご先祖は代々、禁教の時代、かくれキリシタンの組織をしていた長(オサ)だったそうです。そのうちのご先祖には『崩れ』という大変な経験もしたそうです。緑さん自信もカトリック信仰されていまして、その影響で永井先生も、カトリックに入信しました。たしかに永井先生が長崎で行ったことは、キリスト教の博愛精神に基づいたのは違いないと思うのですが、私はそれ以上に、緑夫人に対する、想いが大きかったのではないか、と思います。好きな人・好きだった人の喜ぶことしたいとの一心ではなかったかと、近くに緑さんの存在とその思い出があればこそ、がんばれたのではないかと思うのですが・・・。実は永井博士は原爆に被爆する前、レントゲン写真の自己犠牲的研究で、被爆し、白血病を患います。そして余命があまりないことを告げられた。このことは知った緑さんは博士を深く理解したそうです。すでに死を覚悟し、緑夫人に、その死を見届けてもらうはずだったのに・・・このとき永井博士の心境はいかがなものだったか・・・。
子供さんの作文もありました。疎開していたふたりの子供さんが、おかさあんと一緒にいつかいっしょにたべようと約束していた桃の缶詰を手にして、もうその約束が守られない、といったことを書いてありました・・・。
如己堂を後にして、ほんと、がんばろうとおもいました。幸いにも自分にはまだまだ一杯時間が残されている。その時間を無駄にはしたくはない、と。
【如古堂】 【永井隆博士】
永井 隆 博士の【如己堂】には、おおくの人が長崎に修学旅行の時に訪れてると思うですが・・・。先日、久しぶりに寄って来ました。
まず、永井博士の如古堂とは・・・(以下抜粋です。)
『このわずか二畳の部屋の中から博士は次々と名作を生み出し、浦上の人々をはげまし続けた。「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命の河」「長崎の鐘」などの小説や随筆のほかに、絵画、和歌、短歌など次々に発表した。「この子を残して」は映画化、「長崎の鐘」はレコード化され、戦後の名曲として今に歌い継がれている。如古堂の言われは、聖書の一節「己の如く隣人を愛せよ」という言葉により如己(にょこ)堂とされた。』
そばの永井博士記念館のなかの(写真撮影ok) の展示資料をすべて注意深く読んだり、見たりしました。その中で、私が、一番、興味深かったのは博士の奥さんの『緑さん』のことでした。
『・・・ただ一面の焼灰だった。私はすぐに見つけた。台所のあとに黒い塊を。そばに十架のついたロザリオの鎖が残っていた。 焼けたバケツに妻を拾って入れた。まだぬくかった。私はそれを胸に抱いて墓へ行った。私の腕の中で、妻がかさかさと燐酸石灰の音を立てていた。』
写真の緑さんはとても美しい女性でした。島根の松江出身の永井博士は長崎大学医学部の学生になり、その下宿先として緑さんのオタクに頼み込んで、ついに無理に住みこまさせてもらったそうです・・・。きっと、そこに美しい緑さんがいたからだ、と私は直感しました。緑さんの家系は敬虔なカトリック信者で、そのご先祖は代々、禁教の時代、かくれキリシタンの組織をしていた長(オサ)だったそうです。そのうちのご先祖には『崩れ』という大変な経験もしたそうです。緑さん自信もカトリック信仰されていまして、その影響で永井先生も、カトリックに入信しました。たしかに永井先生が長崎で行ったことは、キリスト教の博愛精神に基づいたのは違いないと思うのですが、私はそれ以上に、緑夫人に対する、想いが大きかったのではないか、と思います。好きな人・好きだった人の喜ぶことしたいとの一心ではなかったかと、近くに緑さんの存在とその思い出があればこそ、がんばれたのではないかと思うのですが・・・。実は永井博士は原爆に被爆する前、レントゲン写真の自己犠牲的研究で、被爆し、白血病を患います。そして余命があまりないことを告げられた。このことは知った緑さんは博士を深く理解したそうです。すでに死を覚悟し、緑夫人に、その死を見届けてもらうはずだったのに・・・このとき永井博士の心境はいかがなものだったか・・・。
子供さんの作文もありました。疎開していたふたりの子供さんが、おかさあんと一緒にいつかいっしょにたべようと約束していた桃の缶詰を手にして、もうその約束が守られない、といったことを書いてありました・・・。
如己堂を後にして、ほんと、がんばろうとおもいました。幸いにも自分にはまだまだ一杯時間が残されている。その時間を無駄にはしたくはない、と。
Posted by いっきゅう
at 13:03
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