電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

正解のない現実/犠牲で成り立つ平和

『週刊文春』の最新5月20日号の特集「鳩山総理を追放せよ」の中で、内田樹が普天間基地問題について、ミもフタもなく「嫌な良いこと」を述べている。

鳩山首相が明確なビジョンを示さず、ダッチロールしていることをメディアはきびしく咎めているが、それはメディアが「明確なビジョン」を示しているからではない。
メディアは「米政府も政権与党も沖縄県民もみなが満足する解決策」を早くだせと言い立てているだけである。
ほんとうにそういう解決策が存在し、単に首相が無能や怠慢ゆえにその物質化を先送りしているのであれば、首相は退陣を要求されて当然であろう。しかし、そのような解決策は現実には存在しない。
私たちが望みうる最良のものは「当事者全員が同程度に不満足な落とししどころ」である。
それは結局のところ「程度の問題」であるから、それについて「正否」の用語で語ることはできない。(みんな不満なのだから、「否」であるに決まっている)。
ろくでもない解決策のうちから「際立って利益を得る当事者がいない選択肢」、古い言葉で言えば「三方一両損」のソリューションをみつけるのが、基地問題についての政府の仕事である。
こういう細かい計算仕事をしているときに、怒号や罵倒や憂国の至情はあまり役に立たない(というか積極的に有害である)。
(後略)

確かに、鳩山総理を叩いてるメディアも完璧な代案なんか持ってない(公平を期すために言えば、これは自民党政権のとき政権を非難したメディアも同様)。
そして「全員が同時に満足する解決策」など存在しない。結局、民主主義政治とはその利害調整だ。独裁政権なら、一部の人間の完全な満足が押し切れるけどね。

政治的二元論思考に囚われることなく

それにしても「鳩山総理を批判する」という趣旨の特集記事の中に、こんな意見(マスコミ批判を含む本質論)も載せている『週刊文春』のバランス感覚は誉めて良い。
以前も『諸君!』休刊時に述べたが、同じ保守陣営でも新聞社である産経系列の『正論』などは、白か黒か、右か左かという二元論思考の政治的大局論に偏りがちだ。
そういう立場からすると、上記の内田樹のコメントは「鳩山を批判するマスコミを批判するということは、結果として鳩山擁護じゃないか」となるかも知れない。
しかし、白か黒か、右か左かの政治的な正解を追求するのではなく「人間は(世の中は)そういうものだ」という本質論を考えるのが、政治と文学を対置したときの文学者の仕事だったりする。同じ保守陣営でも文芸出版社である文藝春秋社には、そういうセンスがある。
(公平を期すため述べておくと『正論』でも、数年前に連載していた佐藤亜紀のコラムなどには、こういう感じの、単純な白か黒か、右か左かではない視点が見られた)
(断っておくがわたしは民主党支持ではない。かつて民主党議員が「健全なネットワークビジネスを育てる議員連盟」なる珍妙な議連を作ってた件は未来永劫語り継がれるべき罪である。自民党が手を付けてない利権なら何でも良いのか?)

あっても困るがなくても困るホンネ

ところで、内田先生は、日本に米軍基地があるのは日本が主権国家として不完全なアメリカの属国だからと説く。これは半分は正しいだろうが言い足りない気がする。
なぜ日本から米軍基地がなくならないのか? もう半分の理由はこうだろう。
日本人は北朝鮮も中国も怖いけど自分が戦う気はないから、在日米軍に守って欲しいってことじゃないの。
もっとも、町山智浩によると、アメリカでも、911テロ以降の対テロ戦争に強硬な姿勢を唱えるくせに過去には徴兵逃れをしていたり、現在も自分の息子は軍隊に入れない政治家が少なくないそうで、そういうのはチキン・ホーク(臆病なタカ派)と称されるらしいが。

血の臭いがしない戦争論議

最近、次の仕事のため図書館や書店で国防・軍事関連の棚を物色する機会が多かった。
で、今さらながら、飛鳥新社の『マンガ入門シリーズ 日本核武装入門』、『マンガ入門シリーズ くたばれ平和主義!』(田母神俊雄・前空軍大将が絶賛だそうだ)といった本が目立つことに気づく。
やはり『マンガ嫌韓流』の成功の影響なんでしょうかね。
振り返ると、冷戦時代の1980年代当時も、大真面目にソ連の脅威を訴えたり、スパイ防止法の必要性を説く政治絵解きマンガが刊行されていた。しかし、それらは絵柄も内容も、とにかくセンスが古かった。
当時はすでに『うる星やつら』みたいなノリの軽いマンガが主流だったのに、その手の政治絵解きマンガときたら、眉毛が太くてモミアゲふさふさのおっさんキャラばっかり出てくる無駄に濃い劇画タッチと決まっていたものである。
この点『マンガ嫌韓流』以降のこの手のマンガは、確かに洗練されている。
実際、マンガとかが好きなオタク系の人間は「エンターテインメントとして」戦争とか兵器とかが好きな人間が多いので、こうした右派的志向とも相性が良い面がある。

享楽主義といえば厭戦だった時代

しかしだ、ちょっとだけ年寄りの昔話をさせてもらいたい(←またかよ…)
少なくともわたしの記憶による印象では、1980年代当時、エンターテインメント産業、サブカルチャー関係者には、左翼的とまで言わないまでも、「軍隊や戦争はなんか嫌い」というような志向の方が目立っていた印象がある。
今でこそ保守愛国系漫画家の筆頭と見なされる小林よしのりが、1982年当時に週刊ヤングジャンプで連載していた『マル誅天罰研究会』では、悪役のボスが「徴兵政府復活を企む管理教育的な大学学長」である。
1982年に作られた山田太一脚本のTVドラマ『終わりに見た町』では、現代の家族が戦時中にタイムスリップしたかと思いきやそれはむしろ未来の日本だという皮肉な暗示がされていた(のち、2005年にリメイク版が放送)。
1985年製作のOVA『メガゾーン23』では、1980年代の東京23区を模した未来の宇宙都市内で、軍国主義復活の政策が取られ、主人公がそれに抵抗する。
(1982年にはDAICON FILM 『愛国戦隊大日本』なんて8mm映画も作られているが、これはあくまで右翼をネタにしたお遊び、パロディである)
上記のような1980年代当時の嫌軍国主義志向を、すべて冷戦時代の左翼勢力のプロパガンダのせいにするのは少々早計だ。
上記のような作品を消費していた1980年代の若者は、たいてい、貧乏くさく娯楽性が乏しい現実の社会主義はバカにしていた(1980年代当時の『超時空要塞マクロス』シリーズ第一作での、文化にうといゼントラーディ人の描写は、あからさまに当時の感覚でのソ連兵とかのイメージである)。
では当時の嫌軍国主義文化の背景にあったのは何かというと、左翼的志向ではなく、むしろ「軍国主義復活→徴兵されて軍隊で鬼軍曹に朝から晩までシゴかれるなんてイヤ」というような、自分らの享楽的な消費生活が脅かされるのを嫌う感覚だ。
それで一部には「積極的軟弱」というべき文化スタイルを標榜した者もいた。
ついでに言えば、当時は世代論的に「戦前戦中の価値観を引きずった権威的な老人=若者文化の敵」という図式がまだ残っていた点も挙げられるかも知れない(大日本愛国党の赤尾敏が、ビートルズ来日時に武道館を使うことに文句を付けた件など)。

隠された「ぼくたちのイヤな戦争」

ではなぜ、現在のエンターテインメント産業、サブカルチャー関係者には、そうした志向が目立たなくなったのか?
当然、ひとつには、冷戦体制崩壊で「社会主義とか共産主義は一切誤りでした→ということは左翼勢力の言ってる平和主義とかも誤り」という感覚が広まった点があるだろう。
また、1980年代冷戦当時のソ連の脅威というのは「米ソ核戦争が起きれば世界全部一気に吹き飛ぶ」というような抽象的なイメージだったが、1990年代以降の日本にとっての北朝鮮の脅威などは、よりリアルで具体的であり、それゆえ現実的な国防意識が高まった面もあるだろう。
さらに、振り返ってみると、1991年の湾岸戦争が意外に大きな感覚の節目だったのではないかという気がする。
というのは、1980年代当時の「軍国主義復活はなんかヤダ」という空気の背景にあったのは、それまで戦争とか軍隊といえば、大東亜戦争やベトナム戦争のような、血と汗の臭いがする陸戦の泥沼イメージだった。
ところが、1991年の湾岸戦争では、ボタン一発押せばミサイルのピンポイント爆撃で敵が殺せるような印象に変わった。
この傾向は現在ますます強まり、アメリカ軍では2003年のイラク戦争以降、安全な自軍基地から自動操縦の爆撃機で敵地を攻撃するなんてのが珍しくなくなった。
ただし、確かに大東亜戦争やベトナム戦争よりは規模は小さくなったものの、現実には今もイラクでもアフガニスタンでも泥沼の白兵戦があり、戦死者は次々に出ている。アメリカの報道機関が、ベトナム戦争での反戦運動の高まりに懲りて、巧妙に自軍兵士の死体を写さなくなっただけだ。
いずれにせよ、当事者意識がない限り、わたしたちはいくらでも戦争が好きでいられる。
基地問題も、背負わされているのが他人事である限りなんとでも言えるのと同じように。