蒙恬 単語

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モウテン

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「蒙恬」(もう・てん ? ?)とは、中国戦国時代末期及び代において、に仕えた武将及び官僚である。王時代の嬴政(えいせい、後の始皇帝)に仕え、嬴政始皇帝に即位していてからも武将や官僚として活躍し続けた。 

万里の長城建設や匈奴(きょうど)討伐で知られ、毛筆の発明者とする伝説もある。始皇帝の死後、政争により、謀殺された。 

の名将として知られる蒙驁(もうごう)の孫であり、の武将であった蒙武(もうぶ)の子にあたる。毅(もうき)も始皇帝に仕えた。 

この項では、あわせて、毅も紹介する(蒙驁蒙武については、蒙武の項参照)

概要

天下統一前における文武の活躍 

蒙恬の先祖は、斉のの出身であったが、祖蒙驁の時に、に移って来ていた。そのため、蒙恬はおそらくは、において生まれているものと考えられる。 

蒙驁は、において、上卿(じょうきょう)という高位の官職にあり、を代表する将軍として、「名将」と呼ばれて全く問題ないような多くの功績をあげていた。 

また、蒙武も詳細は不明であるが、武将として功績をあげ続けていたと思われる。 

そのため、紀元前240年に祖蒙驁が死去した時には、一族はで確固たる地位を築いており、すでに成人していたであろう蒙恬は順調な人生を歩んでいたものと思われる。 

ただ、蒙恬の蒙武王・嬴政には、に敵対する六(楚、斉、)討伐の将軍に任じられることは(史書に見える限り)なかったようであり、その任は、王翦(オウセン)・王賁(オウホン)子や、李信(リシン)、端和(ヨウタンワ)、内史騰(ナイシトウ)らに奪われていた。 

蒙恬も、兵法ではなく、刑法を学び、武将ではなく、官吏として裁判や刑務の書記の任務にあたっていた。 

氏への嬴政からの信任は薄れていたようにも思えるが、あるいは、蒙武や蒙恬は、天下統一は時間の問題であり、これからは法律の知識が重要と考えていたのかもしれない。 

実際、は、紀元前223年までに、を滅ぼし、勝利して滅亡寸前まで追いやっていた。斉は同盟であるため、残るは実質、楚だけである。 

紀元前225年(もしくは紀元前224年)、蒙恬は、楚討伐を命じられ、20万人を率いた李信とともに、その将軍に任じられる(立場は、李信の副将だったと思われる)。 

それまでの蒙恬が、武将として軍を率いた記録は見当たらず、どういった経緯による抜かは分からないが、(蒙恬の軍事実績は不明であるが)蒙武をさしおいての起用だった。おそらくは、「年少壮勇」と『史記』に記された李信は、実際に年若く、同じく年齢が若い蒙恬の方が副将として、つきあいやすかったものと思われる。 

蒙恬は、李信に従い、楚討伐におもむいた。途中で、李信と軍を分けて、別働して、寝丘(シンキュウ)を攻めて、楚軍に大勝する。しかし、(ジョウフ)というところで、李信と合流しようとした時に、楚の名将である項燕コウエン)の攻撃をうけて、李信とともに大敗する(戦いの詳細は、李信昌平君項燕の項参照)。蒙恬は李信とともに敗走した。 

しかし、楚討伐そのものは、紀元前224年に、嬴政が、新たに王翦と蒙恬のである蒙武60万の大軍を率いさせて、継続する。王翦と蒙武は、項燕大勝利し、紀元前223年には楚を滅ぼすに至った。 

蒙恬は、蒙武辱をらしてもらった形となった。そのためか、蒙恬は敗戦による大きな罰を受けることはなかった。 

紀元前221年、王翦の子・王賁が残った斉討伐を行った時に、蒙恬は李信とともに、その討伐に加わり、斉を滅ぼしている。これにより、天下統一を果たした。 

蒙恬はこの功績により、内史(ないし。※)に任じられた。これはある意味では、の大臣より重要な役職であった。

※ 首都圏である関中の重要地域にあたる「師(けいし)」の長官。 

蒙恬は敗戦に関わらず、王・嬴政から特別の信任がされていたことによると思われる。 

はじめの異民族討伐と長城建設 

天下統一後、王・嬴政は史上初めて皇帝を名乗る(始皇帝)。これにより、が建されることになった。 

※これからは「嬴政」ではなく、「始皇帝」と呼ぶ。 

始皇帝が起こしたの事業は()大規模なものであり、空前絶後なものに満ちあふれていた。始皇帝は、史上はじめて統一された中国において様々なもの(各地の道路の建設、文字・度量衡などの規格・法律の統一、直轄統治である県制の統治など)統一事業を急速に進めていた。 

その中で、文武に長けた蒙恬は、始皇帝によって、さらに大きく用いられるようになったようである。 

天下統一前は、蒙恬よりも、少なくとも王翦・王賁蒙武李信内史騰が上位にいたはずであるが、内史騰天下統一前に病死や引退していた可性はあり、王翦と蒙武天下統一後、すぐに引退していた可性はあるにせよ、彼らを飛び越えて、蒙恬がより大きく信任がうけたようである。 

天下統一後すぐに、(いまだ紀元前219年までは王賁は確実に生きていたにも関わらず)、蒙恬はの外征の軍事始皇帝に任される。これからは、将軍といえども、兵法などの軍事知識よりも、法律などの統治のための知識が必要とされる時代である。 

※『史記』蒙恬列伝では、蒙恬は紀元前215年の匈奴討伐から軍を預けられたように読めるが、同じ『史記』蒙恬列伝にある「十数年」と記述とあわず、蒙恬の軍事に関する他の事績が他の史書において確認できるため、このように解釈している。 

正確な時期は不明であるが、『後漢書』「西(せいきょう)伝」によると、蒙恬は始皇帝に命じられて、の西に住んで独自の勢力を有していた「(きょう)族」などの諸(しょじゅう、色々な部族に分かれた異民族)を討伐する。諸は北の地に逃れた。 

また、これも正確な時期は不明であるが、蒙恬はこの時すでに、異民族の攻撃から中国の地を守るための長い防である「長(ちょうじょう)」の建設を関中の西部で行ったようである。

それは約110キロメートルにも及び、このために、諸は北の地からもどれなくなった。蒙恬はの領土を広げることに成功した。 

※ この時期の蒙恬の軍事行動は、あくまで「内史」としての任務の一つであった可性もある。 

匈奴討伐 

しかし、には、西の諸よりも警すべき異民族が存在していた。北の騎民族匈奴(きょうど)」である。 

匈奴はかつて、の本拠地である関中の北にあるオルドス地方中国の史書では、河套(カトウ)や河南(カナン。ただし、中国の中央部も河南と呼ばれることがあるため、注意)と呼ばれる)をに奪われていたが、が統一事業に忙殺されている間に、オルドス地方の北部に入り込んできていた。 

オルドス地方は、としてはそれほど重要な土地ではないが、騎民族である匈奴としては豊かな原が存在し、遊牧や狩猟のために、どうしても欲しい土地であった。 

だが、としてはオルドス地方を支配されては、首都である咸陽(カンヨウ)がおびやかされることになる。看過(かんか)することはできなかった。 

紀元前215年、始皇帝生(ロセイ)という怪しげな人物から、受けとった「図書(ろくとしょ)」という預言書(と称するもの)に、「を亡ぼすものは胡なり」という言葉を見つける。 

始皇帝はこれをきっかけに、匈奴討伐を決めた。 

蒙恬は匈奴討伐の将軍を命じられ、30万人を率いることとなった。この時代の匈奴は、まだ、の武装された大軍と戦う力はない。それよりも、大軍が引き返した後に、オルドス地方を奪いかえされる対策を行う必要があった。 

蒙恬は、一気に北上し、匈奴を追い払って、オルドス地方要な土地を奪い、その上で防衛ラインをつくりあげ、匈奴の再侵入を防ごうとした。あの西の諸相手に行った方法と同じやり方である。 

蒙恬は咸陽から30万人の大軍を率いて、計画どおり、北上して、匈奴を北へ追い払い、オルドス地方を奪った。匈奴は「700里(約350キロメートル)」も北へと逃げてしまった。匈奴は咸陽まで約400キロメートル先まで迫っていたのだ。蒙恬は、匈奴をオルドスの北にある河(こうが)という広大な河に向こう側にあった北の沙漠まで追いやってしまう。 

特に史書に明記はないが、この時に、匈奴人間とその乗には逃げられたにせよ、その畜(など)を奪ったことによって、匈奴への打撃は大きかったと思われる。 

紀元前214年、蒙恬は再度のオルドス地方への遠征を行う。蒙恬は、オルドス地方をさらに北上して、河を渡り、陽山(ヨウザン)を拠点として、匈奴がいるさらに北へと続々と攻め込んだ。 

これにより、いまだオルドス地方の北西にいた匈奴は、さらに北に逃亡することになった。 

この時、「蒙恬」の名は匈奴にとどろいた。 

蒙恬はオルドス地方の確保をより確実なものにしようとして、44か所に人の集落をつくり、罪人を中心として移民を行い、開墾や耕作に従事させた。いわゆる屯田(とんでん)の原となる政策である。 

蒙恬は、さらにオルドス地方の確保のための対策を行う。蒙恬は、オルドス地方に設置した「上(ジョウグン)」に兵を率いてとどまると、匈奴など騎民族中国侵入を防ぐための長大な長建設を行うことにした。 

この時、蒙恬が建設した長が、後世に名高い万里の長城ばんりのちょうじょう)」である。 

万里の長城 

万里の長城」は、騎民族の侵入を防ぐために、中国の北部に長大なをつくるもので、近年の調でも約5,000キロメートルにも延びる長いが存在したことが判明している。 

中国での「万里」は約5,000キロメートルであるから、「万里」という表現も決して誇されたものではない。 

蒙恬が揮した「万里の長城」建設は、西は臨洮(リントウ)から東は東(リョウトウ)まで連なるものであり、これは、現在中華人民共和国の北東部全体をわたるほどの長さであった。 

もっとも、全にから建設したわけではない。この時の万里の長城は、戦国時代の各が、騎民族を防ぐために設置していた「長」を基礎として、修復や延長を行った上で、不足した分は新たに建設して、一つにつながれた長いとしたものであった。 

また、当時の「万里の長城」は現在のようにレンガでつくられなものではなく、代はあくまで、版築(はんちく。※)で、土をにしたものか、石を積み上げたものを長いとして連ねたものに過ぎなかった。

※ の間に土を突き固めていれておき、をつくりあげる建築方法。

とはいえ、約5,000キロメートルにわたる「万里の長城」建設に、駆り出された民衆の負担は相当なものであった。 

万里の長城」建設には、各地にいた多くの罪人のほかに、年若く健康男子が徴発された。この人数は30100万人と推測され、さらに、多くの民衆が食糧の提供や運搬にあたらされた。当時、人口2,000万人程度であったには、余りに大きな労苦であった。 

しかも、は他にも大規模な土木工事、匈奴以外にも南にある越(ひゃくえつ)の討伐に多くの民衆が徴発されており、男性の総労働人口の約半数が労役に従事することになる。における農業生産力は大幅に減少し、農の疲弊は大きなものとなっていた。 

とにかく、蒙恬は、多くの民衆を使役(しえき)して、版築で固めた土でをつくり、流があるところでは、石を積み上げ、時と場合によっては石と土を交互に積み上げながさせ、「万里の長城」建設に着手した。 

蒙恬は、地形を巧みに利用して、時には渓谷(けいこく)を利用してをつくり、あるいは、山を削り取るなどをしてをつくりあげ、山の険しいところをがわりにしながら、約5,000キロメートルにわたる「万里の長城」を完成させていった。 

また、万里の長城は西でとぎれるため、さらにその西にも、騎民族が攻めてこないように、見り台の役割を果たす要塞をあちこちに設置して、万全の防衛体制をととのえる。 

約6年間、蒙恬は「万里の長城」建設にまい進する。「万里の長城」は完成し、オルドス地方の領土としての地盤が固まっていた。 

蒙氏の栄光 

少しさかのぼるが、紀元前214年、蒙恬が匈奴への二度の討伐を果たした頃には、始皇帝氏一族への信任と寵は大変なものとなっていた。 

始皇帝は蒙恬とそのである毅(モウキ。蒙恬の)をとてもすぐれた人物だと称え、毅を心として信頼し、上卿(じょうきょう)の地位につけた。始皇帝で外出する時は、毅は参乗(さんじょう。※)の役に預かった。 

君とともにに同乗し、その相談や直接の命を聞く役職。時では秘書の長に近い役割を果たす。 

蒙恬は「上」で大軍を与えられ、毅は、宮廷での始皇帝の相談に乗った。兄弟の名は、忠義厚く始皇帝の信任あついことで知られており、それゆえに将軍や大臣たちも兄弟と競争しようと思うものもいなかったと伝えられる。 

実際に、かつて蒙恬の上位にいた武将である王賁李信はこの時には史書にその名は確認できず、王賁の子である王離(オウリ)は(正確な時期は不明だが)、蒙恬の部下となっており、李信の子は、この時代には歴史書には名も確認できない。 

端和は、一説には、蒙恬のもとで、「万里の長城」建設を行った翁子(ヨウオウシ)と同一人物であり、蒙恬と上位を争うような武将はすでに存在しなかった(ただし、王賁李信の正確な死亡時期は不明)。 

の大臣にしても、蒙恬の上位にいた内史騰や王綰(オウワン)らの名はこの時には史書にその名は確認できない。 

ただ、丞相(じょうしょう、の宰相)の李斯(リシ)が必ずしも、蒙恬と毅のことをよくは思っていないことと、中(ちゅうしゃふれい。※)で、始皇帝の側近となっている趙高チョウコウ)が毅に法を厳しく適用され、死刑になりそうになったことがあった。蒙恬・兄弟が警すべきなのは、この両名ぐらいであった。 

を統括する役職 

紀元前212年、この力関係にを与えそうな事件が起きた。 

始皇帝が、学者の自分や政治に対する批判、方士(ほうし、怪しげな呪術研究する人物たち)たちの「いかさま」に激怒して、彼らのうち、460名を生き埋めにした時(※)、始皇帝の長子である扶(フソ。後述)が、始皇帝を諫める事件が起きた。 

※いわゆる、始皇帝の思想弾圧である坑儒(こうじゅ)と呼ばれる事件である。 

始皇帝は自分を諫めた扶にも激怒して、扶に蒙恬を「監督」させる名で、蒙恬のいる上に送って来た。 

はいまだ始皇帝に、太子(たいし、皇帝の正式な後継者)に任じられてはいなかったが、の人々にその賢さと人徳をたたえられた、次の皇帝の最有力補である。 

これは、明らかに、始皇帝が、蒙恬に扶の後見と教育を命じたもので、扶のこれからの成長次第では、扶皇帝に即位した時に、政治を蒙恬に預けるという意味であった。次の時代では、蒙恬が李斯に代わって、丞相になることは、充分にありえる話となった。 

蒙恬は、扶を迎え入れ、上で扶に様々なことを伝えたと思われる。 

は、「人望があり、剛毅で武勇すぐれ、兵士たちを奮い立たせることができる」存在であると、咸陽にいる李斯趙高にも知られるようになった。扶の名は、に反感が強い楚地方でも知られ、扶が次の皇帝になるという期待は高まっていた。 

また、それと同時に扶が即位すれば、次の丞相には、蒙恬が任じられるようになるだろうと、されるようになった。 

万里の長城」が完成に近づくと、蒙恬は、始皇帝の巡幸に耐えられるようにと、始皇帝に命じられて、匈奴討伐の最前線にあたる九原(キュウゲン)と咸陽の北にある陽(ウンヨウ)をつなげる道路である「直(ちょくどう)」の建設を行う。 

この「直」は、全長で千八里(約900キロメートル)、幅は3060メートル土で路面を固めて道路とし、の側の山は「のろし台」を設置したものである。 

万里の長城」は大きな防御力を持ってはいるが、いざという時には大量の軍隊を送り込まなければならない。また、「万里の長城」付近に駐屯する軍に物資を定期的に補給する必要があった。この「直」は「万里の長城」の後方支援体制を整えるために必要な幹線道路であった。 

この「直」の建設も多くの民衆が動員され、大変な負担と犠牲をともなったものと思われる。 

だが、蒙恬には、「万里の長城」建設も「直」建設に関して、始皇帝に対して、「できるだけ民衆の負担にならないように諫めた」もしくは、「民衆の負担を減らすため、期限を遅らすことを願った、あるいは、建設規模を小さくするように提案した」などという記述は史書に残っていない。 

これは、『史記』を記述した司馬遷の蒙恬に関する評価を見るに、そういった記述が歴史書にたまたま残っていないのではなく、実際に蒙恬には、どこにもそういった発言は存在しなかったようである(『史記』は司馬遷が生まれる前に、司馬遷の先祖によって、元となる内容は書かれている)。 

蒙恬は、あくまで始皇帝の「忠実の臣下」であり、「生きる民」の生活を積極的に考え、それを行動に移す人物ではなかったと思われる。 

とにかく、この「直」も完成に近づいてきた。 

しかし、ここで、蒙恬の運命を変える大きな事件が起きる。 

始皇帝の死であった。 

直下した命運 

紀元前210年、始皇帝5の巡幸に出ている時に、病が重くなった。巡幸に同行していた毅が始皇帝の快癒を地元の神々に祈るために、不在にしている間に、始皇帝は沙丘(サキュウ)という土地で死去する。 

始皇帝は、死ぬ前に扶を後継者にする旨を伝えた文書を、心である趙高に預けていたのだが、趙高はそれを手元に置いていた。始皇帝が死去しても、その死は秘密とされた。 

趙高は、巡幸に同行している始皇帝の子であり、扶にあたる胡(コガイ)を皇帝を即位させ、同時に毅への復讐を行おうと考えて、同じく同行していた丞相李斯と胡を説得して、始皇帝の文書を偽って、胡皇帝にさせる同意をとりつけた。 

趙高は、胡に仕えるものを始皇帝のいつわりの使者にしたてて、趙高が書いた始皇帝の偽の文書を持たせて、上にいる蒙恬と扶のもとに送って来た。 

蒙恬と扶が聞いたその文書の内容は、 

・扶と蒙恬に数十万の軍を率いらせて駐屯して十数年が経つが、土地を奪うこともできず、多くの兵士を失っている。

・扶は、何の功績もないのにである始皇帝を非難している。これは太子になれないことを恨んでいるからであり、不幸である。自害すべきである。

・蒙恬は、扶の行いを正さなかったのは、扶とともに謀略を行ったからであり、不忠である。これも、自害すべきである。

・蒙恬の軍は、副将である王離のもとに配属する。 

というものであった。 

はこれを聞いてすぐに自害しようとしたが、蒙恬は止めた。 

陛下始皇帝)は、巡幸中で、いまだ太子を立てていません。また、私に30万の軍を率いさせ、辺を守備させ、子(扶)に監督させています。これは下を治める重任です。それなのに、使者が来て、すぐに自決を命じています。これが偽りでないと言い切れるでしょうか? 重ねて詔を請うて、(同じ命なら)、その後に死ねば、遅すぎるということはないでしょう」

 しかし、扶蘇ある始皇帝に重ねて使者を請うことに耐えられず自害してしまう。

 蒙恬はやはり疑いを持ったので、再度の使者を請うた。しかし、蒙恬は、(偽りの)使者に捕らえられてしまう。蒙恬の軍は、胡亥よって護軍(ごぐん。軍の監督)に任じられた李斯の舍人(しゃじん。下級の側近)の下につけられた。

 胡亥、使者から扶蘇死んだという報告を聞いて、蒙恬は許そうとした。しかし、蒙恬・蒙弟がまた重く用いられることで、自分が報復されることを恐れた趙高が、胡亥彼らの讒言(ざんげん)を吹き込む。

 そのため、蒙も巡幸にもどってきたところで捕らえられてしまった。蒙恬は陽周(ヨウシュウ)の地の牢、蒙は代(ダイ)の地で牢つながれた。

 天から与えられた罪

 胡亥咸陽にもどり、秦世皇帝に即位し、趙高を第一の腹とした。趙高は日々、蒙恬・蒙弟の讒言を行い、罰することを胡亥た。

 これを見かねた秦皇族の一人である子嬰シエイ。どのような血縁か諸説あるが、「胡亥である説が有力)が胡亥諫めた。

 「忠臣を殺害て、佞臣(ねいしん)の言葉を取り上げた君主全て滅んでおります。蒙のものたちは、秦大臣・参謀です。彼らを処刑するのは、よくありません。思慮足らぬものや独善に走るものでは国治められません。忠義の臣を誅殺され、節操ない人物(趙高のこと)を登用されると、群臣や兵士の心は離れていくでしょう」

 しかし、胡は子の言葉にをかさず、臣に代に捕らえていた毅を殺させる。

 やがて、陽周にいる蒙恬のもとにも、胡の使者がやってきて、自害を迫った。

 使者「あなたの過ちは数多い。毅には大罪があり、その罰は内史(蒙恬の役職)にも及びますぞ」

蒙恬「私は祖の代からに仕えて、三代になります。今でも、私は30万人を越える軍の将軍であり、この身はにつながれても、権勢はまだまだあるのです。ですが、必ず死ぬと分かっていても、義を守っているのは、先祖の教えや先君(始皇帝)の恩にそむき、忘れてはいけないと考えているからです。

 蒙恬の一族は、忠義を尽くしてきましたのに、このようなことになりました。これは、悪い臣下が、謀反をはかり、内乱を起こすつもりだからに間違いありません。『過ちは正せる上に、諫めは自覚することができる』のです。『熟慮を尽くす』のは、王の教えです。

 私が語っていることは、罪を免れようとしているからではありません。諫めた上で死にたいと願っているからです。陛下(胡のこと)には、万民のために理に従っていただきますようにお願いします」

 使者「私は、皇帝の詔(みことのり)を受けて、将軍(蒙恬のこと)に法の裁きをしようとしているだけです。将軍の言葉を陛下(胡)に伝えることはできません」

 蒙恬は大きくため息をついた。

 は、私に何の罪があって、過ちもないのに、このような死にざまを与えるのか」

 蒙恬はしばらく考えて、つぶやく。

 「いや、この蒙恬の罪はまさに死して当然である。臨洮から東まで、「万里の長城」を建設した。その途中で、地脈(ちみゃく。※)を断ち切らないわけがない。これ私の罪である」

※ 大地の気の流れ。現在でもで見られる考えである

 蒙恬は使者の与えたを飲み、自害した。

 蒙恬は死に、やがて、蒙の一族も、胡亥しくは趙高により、滅ぼされてしまったようである。そのため、蒙恬の子孫を名乗る人物はそれからの歴史に登場しない。

 その後の秦、暴政と恐怖政治にあけくれ、やがて大きな反乱が起きた。李斯は高と胡亥処刑され、胡亥高によって自害に追い込まれる。その趙高も子嬰よって殺害れた。

 が楚の劉邦リュウホウ)に降し、が滅びるのは蒙恬の死からわずか4年後のことであった。

 評価

 司馬遷は、蒙恬について、「私はかつて、蒙恬の建設した「直道を通り、「万里の長城」を観察したことがある。本当に、『人民の力の乱費』であった。当時は、秦を統一したばかりで、民衆の心はいまだ安定せず、乱世の傷は癒えていなかった。

だが、蒙恬はの名将でありながら、始皇帝を諫めて、民衆の困窮を救い、安息を与えるべきであったのに、かえって始皇帝におもねって、「直」や「万里の長城」を建設した。

 彼ら兄弟(蒙恬・蒙)が処刑される結果になったのは当然のことである。決して、『地脈』を断ったからではない」と評している。

蒙恬はこのように評価されている反面、現在でも、かつて蒙恬が駐屯した上の近くの地に、蒙恬の墓は残されている。蒙恬の墓は高さ20メートルにもおよび、「将軍蒙恬墓」の石碑も清の時代に立てられている。

 死後とはいえ、余り後世の評価が高くないに仕えた人物の中では破格の扱いである。

蒙恬はこのように、

  • に忠義を尽くして、謀略により処刑された悲劇の人物
  • 始皇帝におもねって、土木工事や外征を行い、民衆を苦しめた佞臣

 という大きく分かれた二つの評価を受けることが多い。

後者のような評価が存在するにも関わらず創作作品では、蒙恬は前者にあたる「に忠義を尽くして、謀略により処刑された悲劇の人物」とされることが多い。

蒙恬について

蒙恬は「強大な」匈奴を討伐した「秦を代表する名将」なのか? 

蒙恬に対しては、「(春秋戦国時代をふくめての)を代表する名将」と評価されることがある。 

この場合、蒙恬は、白起ハクキ)と王翦と並ぶ名将として紹介されることが多い。 

の統一戦争では、蒙恬は敗戦の記録しか残らず、王翦はもちろん、王賁李信べても、蒙恬の戦績は劣ることから、これは、の建後、蒙恬が匈奴を討伐してオルドス地方を制して、「万里の長城」を築いた実績から来るものと考えられる。 

匈奴といえば、の滅亡後に、漢王朝を創業した劉邦勝利し、長い間、漢王朝を苦しめ、力が充実した武帝時代にやっと勝利することができた「北方民族を統一した巨大な騎民族大帝国」というイメージが強い。 

確かに、この時代の匈奴は、大兵力を有した武帝時代ですら、衛エイセイ)と霍去病(カクキョヘイ)といった名将がいなければ、勝利困難であり、広(リコウ)や陵(リリョウ)といった李信の子孫にあたるの勇将たちですら、敗北するほどの強敵であった。 

そのため、その匈奴勝利した蒙恬も「名将」という評価は高い。 

しかし、匈奴がこれほどの強になるのは、冒頓単于(ぼくとつぜんう)の時代からであり、それまでの時代はそれほどの大きな勢力は有していなかった。 

の時代では、匈奴は、トゥメン(頭曼単(とうまんぜんう、冒頓単于)を族長としていたと思われるが、この時の匈奴は、本文の通り、オルドス地方の北部にしか入り込んでおらず、東は「東胡(とうこ)」、西は「氏」とは大部族の騎民族が支配しており、特に「氏」は圧倒的な勢力を有していた。 

さらに、匈奴の北には、丁(ていれい)や昆(へきこん)という部族もいた。つまりは、匈奴はオルドス地方の北部と、その北の原や沙漠を領土としているだけであった。 

そのため、この時の匈奴は、劉邦武帝の時代にべると、12割ぐらいの領土しか持たない較的規模の小さい騎民族に過ぎなかった。そのため、当時の匈奴では十万人の兵力を動員することは難しく、兵力では蒙恬の軍にべて大きく劣っていた。 

実際、『史記』を見ても、ただ、匈奴は北へ逃れ去ったように書かれており、蒙恬がしい戦いの末に大勝利をおさめたわけではないようである。 

もちろん、蒙恬がオルドス地方を制して、その土地をの領土とし、三十万の軍を率いた力は傑出したものであり、「名将」という評価はおかしくはないが、「戦術力」までを手放しで、白起や王翦と並ぶ高評価を行い、司馬錯シバサク)や王賁李信らより上位の評価まですることに関しては、注意を要する。 

蒙恬の「筆の発明者」という伝説 

蒙恬には「筆の発明者」という伝説が存在する。 

もっとも、筆は中国では、56千年前の新石器時代から使われていた。

その時代の筆は、筆の軸はでつくられ、その先端を削ってとがらせた上で、その先端に毛をまといつけて糸でしばり、それを漆(うるし)で固めたものであり、これは(中国の)戦国時代まで使われたようである。 

だが、蒙恬が生きていた代になると、この筆づくりの方法は飛躍的に発展する。 

代の筆は、中をにしたの管(くだ)を軸にして、そのの中に筆の穂(ほ)をいれこむもので、現在まで続く中国の筆の構造の原点となっている。 

伝説が正しければ、このの管と筆の穂を使って、作った筆の発明者が「蒙恬」となるようであり、蒙恬は筆の発明者というより、「改革者」というべきかもしれない。 

蒙毅 

蒙恬のと同じく、法律を学んでいたと考えられる。 

正確な時期は不明だが(嬴政が「」ではなく、「王」とあるので、の統一前か?)、趙高が大きな罪を犯した時に、趙高の裁判を命じられ、(すでに趙高嬴政によって重んじられていたにも関わらず)、蒙恬はおもねらずに、「趙高死刑とし、その名は官僚の名簿から除く」という厳しい判決をくだす。 

しかし、下を統一し、始皇帝となった後の嬴政によって、趙高は許されて、元の官職(中)に復職したため、毅は趙高に恨まれる結果になった。 

毅は、始皇帝によっての蒙恬とともに、始皇帝にすぐれた人物であるという評価を受け、朝廷の内外で蒙恬・兄弟の名は高かった。 

毅は、始皇帝によって心として信頼され、上卿(じょうきょう)の地位につけられた。始皇帝で外出する時には、毅は参乗(さんじょう。※)の役に預かった。 

君とともにに同乗し、その相談や直接の命を聞く役職。時では秘書の長に近い役割を果たす。 

始皇帝の五度の巡幸の時に、李斯趙高・胡とともに同行するが、始皇帝が琅邪(ロウヤ)の地を越えたところで病が重くなったため、山やの神に始皇帝癒(へいゆ)を祈ることを命じられ、巡幸から離れる。 

しかし、毅が戻ってくる前に、始皇帝が死去し、趙高李斯が胡を次期皇帝に立てる謀略が行われ、使者が送られて、扶自害に追い込まれ、蒙恬は逮捕されてしまう。 

趙高は、蒙恬と毅は再度、重用されることを恐れたことと、かつての恨みをらすため、胡に讒言した。 

始皇帝は胡様を太子にしようとしたのに、毅が反対したのです。胡様は賢明なお方ですから、これは不忠で、君をまどわす言葉です。処刑するのがいいでしょう」 

このため、毅は、巡幸に帰還したところで、逮捕され、代の地のにつながれた。 

が咸陽に帰り、二世皇帝に即位すると、(本文のとおり)、趙高は蒙恬・兄弟を讒言し続ける。子は胡を諫めたが、胡はこれをきかず、御史(ぎょし)の曲宮(キョクキュウ)という人物を代にいる毅へ「死を与える使者」として派遣する。 

曲宮は胡の詔を毅に伝える。 

「先始皇帝)が(胡を)太子に立てようとしたのに、お前は反対をした。丞相李斯のこと)は、お前を不忠だと考え、刑罰を一族にまで与えようとしたが、朕(皇帝となった胡のこと)は哀れに思い、お前に死を与えるだけにした。これは特別の温情である。自分で考えて行動に移せ!(「自害せよ」の意味)」 

毅「先始皇帝)の意図を知りえなかったと申されますが、私は若い時から陛下始皇帝)の信任を受け、そのお考えをよく知っておりました。また、太子(胡)が有能であることを知らなかったと申されますが、太子が陛下のお子様の中でただ一人、巡幸への同行が許され、下をめぐっておられることから、他のお子様とはかけ離れていたことも私は疑いに思ったことはありませんでした。 

陛下が太子をあげられ用いられたのは数年の熟慮の結果です(毅はとりあえず始皇帝の後継者に胡名されたことは間違いないものとすることを前提に話しているものと思われる)。私がそのお考えに諫めたり、あえて、はかったりいたしましょうか?

決して、言葉を飾ろうとしているのではありません。陛下始皇帝)の名が汚れるのを恐れています。どうか、大夫(たいふ。使者となった曲宮のこと)はよくお考えいただいて、私の罪が本当に死に値するか、納得させてください。 

忠臣を殺した君は、後世に批判をうけ、暗愚であると評価され、歴史にその名を残しました。それゆえ、『理にしたがってを治めるものは、罪がいものは殺さず、罰をくださない』と申します。この言葉をよく心に留めてください」

 しかし、曲宮は、胡亥「どうしても蒙を殺したい」という意図で、自分を派遣したことを知っていたため、蒙の言葉をきくことはなかった。 

毅が自害しないため、毅は、曲宮に殺される。 

なお、『史記』「蒙恬列伝」では、この後、も蒙恬も自害させられるが、同じ『史記』「李斯列伝」では、毅は、蒙恬の死後も、すぐには捕らえられず、軍を率いて朝廷の外にいて、その後、胡趙高によって、罪をつくられて、処刑されたことになっている。 

どちらが事実に近いかは不明である。 

また、胡の言葉を読むと、蒙恬・兄弟は殺されたにせよ、氏の一族は助かったようにも思えるが、「氏は滅ぼされた」という言葉は『史記』に何度も記されているため、やはり、氏一族も滅亡させられたようである。 

扶蘇 

嬴政始皇帝)の長子。心やさしく、聡明であり、当時の人々にも、すぐれた人物であるという評判が広がっていた。 

そのについては名も出自も不明であるが、楚の王族につらなる女性であるという説がある(昌平君(しょうへいくん)が仕えていた関係と、後に、陳勝チンショウ)が扶の名を騙(かた)ることから)。 

本文の通り、始皇帝が「坑儒」事件を起こした時に、 

下は初めて定され、遠方の民は安息を得ていません。学者たちは孔子の教えに従っています。ただ今、上(始皇帝)は、彼ら全員に対する刑罰を厳しくして、統制しようとされています。私は下の民が不安を感じることを恐れます」

 と、である始皇帝を諫めたため、上にいた蒙恬のもとに、蒙恬を監督するという名で送られてしまう。

 この時、始皇帝が扶を送った理由として、 

1 後継者としていた扶教育のため、

2 後継者とする扶の後見として蒙恬に任じるため

3 実際にただの左遷であり、始皇帝は本当にの胡を後継者にしようと考えていた

 などが考えられる。 

蒙恬のもとでも、軍事力を発揮したものと思われ、扶は、「剛毅で武勇すぐれ、人望があり、兵士たちを奮い立たせることができる」と後に、趙高に評されている。 

本文の通り、始皇帝の死去後、胡を次の皇帝にしようとした趙高李斯の謀略により、扶と蒙恬のもとに、「自害を命じる」始皇帝の偽りの使者が送られてくる。 

はこれを聞いて、泣いて、部屋に入ってすぐに自害をしようとした。 

は、蒙恬から再度の詔をたまうように止められても、への孝心あつい扶は、 

が子に死を賜うのに、どうして、再び詔を請おうか!」 

と叫び、自害する。 

後に、に反乱を起こした陳勝は、反乱の初期において人望があった扶の名を利用しようとして、扶の名を騙り、その勢力を拡大させている。 

少なくとも扶は、への反感が強い楚地方でもかなりの人望があったようである。 

創作における蒙恬 

原泰久『キングダム(漫画) 

李信王賁と並ぶ、の有力な若手武将として登場する。「楽隊(がくかたい)」を率いる。 

バガボンド』の吉岡清十郎に似た女性と間違えるほど容貌秀麗な人物である。 

一見、軟でいい加減に見えるが、頭は明晰であり、(すぐれた軍師とされる)昌平君の有力な子である。武勇では李信王賁に少し劣るものの、敵の攻撃を受け流しながらも、勇猛な戦いぶりを見せる。 

また、軍を揮する智謀や統率力では、李信王賁に勝るほどの活躍を見せる。 

王賁とは古くからの友人ライバルであり、下出身の李信についても、素直にその実力を認めて、よいライバル、相談相手となっている(李信王賁ライバルではあっても、友人とまでは言えないだろう)。 

そのため、智謀に欠ける李信、協調性に欠ける王賁を補って、彼らをサポートする役割に回ることが多い。 

また、毅も昌平君の有力の子の一人であり、軍師として兵法を学んでいる。と違ってな性格であり、出番については控えめであるが、次第に軍に参謀として、戦場に登場するようになる。 

「万里の長城」について 

始皇帝の「万里の長城」の必要性

万里の長城」については、中国漢王朝の時代から、その建設については司馬遷ら多くの人物からの批判が強く、始皇帝の「暴政」と「民衆の悲惨さ」を物語る代表的な建設物とされている。 

実際、かつては「ピラミッド」や「戦艦大和」と並んで「世界3大用の長物」と評価されることもあったようである。 

しかし、「万里の長城」はからすれば、中国を統一し、騎民族から土を守るために、防衛上、行わねばならない事業であった。 

万里の長城」については、始皇帝の思い付きで行った事業ではなく、本文で述べた通り、(中国の)戦国時代に各でつくられた「長」をつなげたものである。 

戦国時代の各にしても、わざわざ大きな負担となる「長」建設をもとから考えていたのではなく、当初は侵入されやすいところに見り台を置き、を設置するだけであったものが、侵入者側が別の防御力の弱いところから侵入するため、は延長し続け、「長」建設まで至ったものである。 

始皇帝の「万里の長城」この「長」をさらに北方民族から土を守るための防衛ラインとしたものであり、漢王朝の時代にはさらに西に長は延長することとなった。 

ただ、の延長はあくまで必要な場合のみであり、基本的には、防衛のために、見り台や、のろしをあげるための施設が置かれるだけで、「」の建設は防衛が重視された時のみであった。 

しかし、北方民族からの防衛には、援軍派遣までの時間をかせぐための安定的な防衛のためには、どうしても「全ての地点に防衛がほどこされている」、「万里の長城」の建設が必要であった。 

実際に前漢の時代でも賈誼(カギ)のように、「領域を保護し、匈奴700余里も退却させ、北の民は南に下ってを放牧しようとはしなくなった」と、当時から「万里の長城」を高く評価する人物もいる。 

秦代の「万里の長城」建設について 

代の「万里の長城」では、本文で書いた通り、現在にも残っている後世のようなレンガや石づくりの堅固なが連なったものではなく、「版築工法」によって、の間に「土」をいれて、石、木を混ぜて、杵(きね)でいて突き固めて高さを確保していくものであった。 

その堅さを、役人が錐(きり)で突き刺して確認していき、鋤(すき)でいても突き刺さないほどの堅さであり、あくまで硬く突き固めることがめられた。また、長監督する「県尉(けんい。※)」は、常に管轄地区内の長工事の質を巡回して検しなければならなかった。 

※ 地域の警察の長 

万里の長城」には、「亭障(ていしょう)」という見り台を兼ねた兵士が駐屯する防御用の施設が各地に置かれ、15キロメートルもしくは20キロメートルごとにつくられ兵士が楼上で見りに立つ「烽燧(ほうつい)」という「のろし台」もつくられていた。 

万里の長城」の近くにする住民は女性や老人、子供も含めて、守備に参加しなければならず、その民兵たちは「三軍」と呼ばれた。彼らは正規軍と共同して日、見り、敵の侵入を防いだ。では民皆兵の制度はととのっていた。 

万里の長城」とは中国の王朝北方民族の力関係を考えて、その限界点を定めて置かれた防御施設であり、防衛線であった。 

始皇帝の「万里の長城」は中国の領土を北へと押し上げて、その領土の限界で区分したもので、これより中国の王朝モデルの一つとなった。 

秦王朝の幹線道路、「馳道」と「直道」について

 の統一後、始皇帝は各地のや砦を壊し、関所をのぞいた上で、首都・咸陽から各地へとのびる幹線道路を建設している。

 この幹線道路は「馳道ちどう)」と呼ばれ、道路の幅は約70メートル、路は版築(はんちく、本文参照)によって土を突き固めてつくられた。特に、中央の幅7メートル皇帝専用の道路であり、始皇帝や胡はこれをつかって巡幸を行った。両側が民用の道路であった。

 始皇帝は巡幸では車80台以上と群臣と兵士1,000人以上をともなって、馳を通って行った。その隊列を見た項羽コウウ)と劉邦が叫び、つぶやいたエピソードについてはよく知られている。

 また、「直道は本文の通り、蒙恬と扶蘇建設を命じられたものである。距離は800キロメートルであり、山やを切り開きながら、おどろくべき短期間で、つくられた。「直」の特徴は「馳」と異なり、路が直線であるため、や軍が急いで移動できるのに便利なことである。

 秦は、「馳道と「直道に沿って一定の距離を置いて、「亭駅ていえき)」をもうけ、軍事通信用に馬置き、また、役人の宿泊施設としても使った。亭駅内地では10里(約5キロメートル)ごと、辺では30里(約15キロメートル)ごとに設置された(ただし、これは大体の安であって、実際はきっちりそうはなっていない)。

 当時は騎馬よって手紙を受け渡していたが、緊急の時には、亭駅代えながら、(人は変わらない)1日に500里(約250キロメートル)走った。

 なお、この亭駅理人は最下級の役人である「亭長」であり、後に、漢王朝を建国た劉邦が任じられたことがあることで知られる。

 関連書籍

長城の中国史―中華vs.遊牧六千キロの攻防exit (講談社選書メチエ)』阪倉篤秀

 新書ではあるが、電子書籍も出版されている。

 「万里の長城」について、特に題材として取り上げた書籍。「万里の長城」の意義と歴史、建設のされ方などについて、細かく取り上げている。

 始皇帝と蒙恬の万里の長城建設については、「第一部 秦皇帝と長城で細かく取り上げられている。蒙恬に関しても、とても詳しく、「孟女伝説」についても取り上げられている。

 蒙恬が始皇帝に命じられて建設した「万里の長城」についてもその後が詳しく分かる。

 この記事でも本文と、「「万里の長城」について」においてかなり参考にしている。

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