「趙括」(ちょう・かつ ? ~ BC260)とは、中国戦国時代の趙の名将「趙奢」の子にして、趙の将軍。唯一指揮を執った長平の戦いにおいて白起に対し大敗を喫した。また幼い頃から才人として知られていた趙括だったが、実戦において以下の問題点を露呈する。
そのため「紙上に兵を談ず(丸暗記するだけで、その応用を知らない)」や「琴柱(ことじ)に膠(にかわ)す(融通が利かないの意)」といった故事成語が生まれた。
幼い頃から兵法書を暗記する事に定評のある神童だった趙括は、兵法論を語させれば父・趙奢をも言い負かす程だったが、趙奢将軍の妻に残した息子への評価は、
戦とは命がけの場なのに、息子はこれを軽々しく語る。
趙が息子を将軍と用いなければ良いが、もし任用されることがあれば、息子は必ず趙軍を破滅させるだろう。
と散々なものだった。妻への遺言でも「決して将にしてはならない」と言い残した程である。
「史記 白起・王翦列伝」によると、事の起こりは秦の昭襄王は王齕将軍に命じた韓の野王(現・沁陽市)攻略である。これにより韓は本国と上党に領土が分断され、その飛び地となった上党の太守は隣接する趙に帰属と保護を願った。
この提案に対して趙国では孝成王の下で議論が交わされ、公子の平陽君が「一緒に秦という災いがやってくる」と反対した。しかしその兄である公子・平原君は「ただで上党郡が手に入るなら非常な大利」と主張し、結局、王は平原君の意見を受け入れてしまう。
一方、秦の将軍王齕はすでに上党の半ばを攻略しており、為に大量の避難民が発生していた。彼らは新たな庇護者の趙へと向かい、趙国は受け入れのため軍を趙国領となった長平に派遣した。すると王齕はそれを口実に軍を進め、両軍は「長平の戦い」で相見えることになる。
趙国軍は当初、この時すでに亡くなっていた趙奢将軍と並んで名将の誉れ高き廉頗将軍に迎撃を命じた。秦軍は兵力では劣るものの、兵の質は上とみた廉頗は、篭城戦で敵が疲弊して退却するのを待つ作戦に出て、いくつかの砦を失うものの秦の攻撃をよく防いだ。
廉頗が相手では、戦局を転じる事が難しいと判断した秦の宰相・范雎は、
秦は、廉頗よりも馬服君趙奢の息子趙括が将軍になることを恐れている
と言う流言を趙国内にばらまき、これを耳にした趙の孝成王は名声が高いとはいえ実績が何一つない趙括を将軍に抜擢してしまう。趙の砦が落とされたことと、そのために長平への補給が難しくなってきたこと、多勢にも関わらずひたすら守る廉頗に苛立ちを覚えていたとはいえ、あまりに軽率な判断だった。
しかし、当時の趙にはまだ趙奢の言葉を覚えていた者が残っていた。当時、病の床にあった趙の名将・藺相如が、孝成王の前に重病を押して現れると、
趙括は父の兵書を学んだに過ぎず、実戦で臨機応変に対応することはできません。琴柱を琴の胴に膠で貼り付けて弾くようなものです。(「史記」藺相如伝)
と、琴に例えて(琴柱をニカワで固めると音の調子が調整できない)、物事にこだわり、臨機応変に対応できない趙括の欠点を奏上して、刎頚の友である廉頗に任せるべきだと説得した。しかし孝成王は考えを変えず、続いて現れた故・趙奢将軍の妻で趙括の母君も、
人の生命を軽んじる趙括を将軍にしたら戦で負ける。
との趙奢の遺言を孝成王に伝え、何ゆえ息子の栄達を邪魔するのかと問う孝成王に対して、
趙奢がかつて将軍を拝命しておりました時は、自ら酒食をすすめねぎらった者は数十人、また友は数百人ございました。
また、大王や宗室からいただいた恩賞は全て部下に分け与え、出陣の命を受ければ、家の事は一切顧みませんでした。
ところが、趙括は将となったものの閲兵式の際も部下に対し傲慢な態度をとり、王から賜った金品も全て持ち帰り、土地家屋を買いあさっており、とても父には及びません。
なにとぞ、王にはご再考をお願いいたします。
どうしても趙括をお使いになると言われるのであれば、万一息子が任に耐えないような事がありましても、我が家にはお咎めなきようお願いいたします。
と、息子のダメさ加減を理解の上で、何かやらかしたとしても一族には責任が無いとした上で任用してほしいと嘆願し、孝成王はこれを聞き入れた。
しかしこの時、秦は密かに百戦百勝の常勝無敗将軍・白起を上将軍としていた。
白起はこの時点の戦歴だけでもすでに敵兵数十万余を殺害していた。
それだけに白起の到着は箝口令が引かれて伏せられ、外に漏らした者は斬首すると厳命されていた。
趙括は前線につくやいなや廉頗の防御策を否定し、人事や配置を兵法書通りに変更する。白起はその陣の動きを察して奇襲を仕掛け、敗走を見せかけて趙の軍を釣りだすことに成功。趙の大軍は攻勢に転じた勢いで秦軍を追撃するが、堅牢な塁壁に逃げ込まれて立ち往生すると、白起は伏兵三万を動かして趙軍の後方を遮断する。さらに秦王自らが動員した大軍が趙の糧道を封鎖し、これにより軍勢が分断された上に糧道を押さえられる状況に陥る。つまり、完全な詰みであった。
趙括は塁壁をつくって抵抗し、度々包囲の突破を試みるが、その兵法書通りの動きは白起にすべて挫かれた。糧道を断たれた趙軍の絶食生活は46日間に及び、弱った者を殺して肉を食らう有様となる。
どうにもならなくなった趙括は、弱りきった兵を率いて乾坤一擲の大勝負に出るが、その正面突破は叶うはずのない作戦であり、秦軍からの大量の矢の雨を浴びて趙括は戦死する。
だが戦死した趙括はまだ良い方だった。
残された趙軍四十万は白起に降伏する(括軍敗,卒四十萬人降武安君)が、遠征軍である秦軍にもまた食料の余力はなく、白起により生き埋めにされると言う悲惨な最期を遂げた。年少の者240人程は帰国を許されたものの、ほぼ四十万の兵(難民等諸々含む説あり)を一度に失った趙の国力は一気に衰退する。
さらに藺相如も病で亡くなり、この長平の戦いの翌年には秦の大軍が趙に攻め込んでくるのだが、白起の皆殺しを憎み恐れた趙の民衆がまとまり、さらに平原君の呼び寄せた魏と楚の援軍によって秦は撃退される。秦軍の指揮官は白起ではなかったが、魏と楚の軍は降伏しても殺されることを恐れ、死に物狂いで戦ったとされている。
戦後、趙は高い文化力を生かして人材の誘致に務めた。孝成王は自らの指図が招いた敗北を反省し、楚の臨武君等の実務的な兵法家を招いた。また趙括の母との約束通り、その一族に罪を問われたものはいなかった。趙は長平の戦いの後、32年存続し、紀元前228年に秦の王翦による猛攻をうけて滅亡した。
※その他「趙括」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
趙括の逸話は後に、予測不能なことにいかに迅速に対処し、臨機応変に対応できる大局の視点を持たないと、兵法そのものはまったく役に立たないと言う実例として、実践が伴わず役に立たないと言う意味の「紙上に兵を談ず」の故事の元となった。
しかしろくに実績がない趙括が指揮を任されたことについては、上党に対する平原君の甘い見通しと孝成王の判断、そして名声を秦の范雎に利用された外的要因によるところが大きい。また相手がよりにもよってあの白起である。その不幸なめぐり合わせに、若干同情できる余地もなくはない。
▼趙括のおかげでごらんの有様だよ
▼ゆっくりさんが語ってくれたよ
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239 ななしのよっしん
2024/04/07(日) 19:55:49 ID: akCWUYXavr
>>132
>危機のたびに、毎回見計らったかのように
>忠義な救国の英雄が出てきてくれるのに、
>毎回、讒言・疑念・悲劇のコンボ。
>見事なまでに中華のテンプレどおり。
少し調べてみたら、滅亡の直前までそんな事やってて笑う。
240 ななしのよっしん
2024/09/13(金) 23:32:13 ID: coa0hZG3RI
>>235
趙括の失敗とされる事はいくつかあるけど、間違いなくダメと言い切れるのは「釣られて深追い」だからね
能力と言うよりは、あれほどまでに亡き父にも生きてる母にもボロクソ言われまくっている、しかも若い趙括に急に権力が舞い込めば抑えが効かなくなるという心理を読み切ったのかも
241 ななしのよっしん
2024/12/31(火) 19:30:07 ID: 3hlZ93cn9D
趙括が無能なのはしょうがないとしても敵国の秦にすらその事を看破されて扇動されたのが台頭の原因と考えると
秦の情報戦のやばさが分かるな
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最終更新:2025/01/13(月) 21:00
最終更新:2025/01/13(月) 21:00
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