明智光秀(あけち・みつひで 1528? ~ 1582)とは、戦国時代の武将である。
浪人あがりで織田信長に仕え、卓越した才覚で異例の出世を重ねた。織田信長の天下統一まであと一歩という時に突如謀反。本能寺の変で信長を討ったが、その後山崎の戦いで秀吉に破れ、逃げるところを土民に殺された。その死は本能寺の変からわずか11日後だった。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の「サル」と並んで、「金柑頭(キンカ頭)」という仇名が有名(ただし、創作説あり)。
人物像はよく分かっていない。特に織田家仕官以前の前半生に関してはまともな資料はほぼ皆無で、「美濃出身で本能寺の変の時は55歳」というのが通説ではあるが出自も年齢も諸説ある。連歌会を催すなど教養が豊かで、庶民に対しては税金を免除したり治水工事を行うなど、光秀が統治していた福知山市・亀岡市では尊敬されている。当時としては珍しく、側室を持たなかったという愛妻家でもある。
歴史ものの創作物では誠実な義将とも狡猾な野心家とも描かれ、本能寺の変の動機も様々に憶測される。
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戦国武将として抜群の知名度を持つ光秀であるが、出生地や幼少期は謎に包まれている。
これは当時光秀が無名だった事もあり、リアルタイムに編纂された記録が一切存在しない事に因る。現在世に出ている前半期の記録は江戸時代などの後年に編纂されたもので、いまいち信憑性に欠ける。光秀の人生を描いたものと言えば「明智軍記」が有名だが、これも後の世で編纂された二次史料であり、しかも矛盾点が多く存在する。生年からして1516年説、1528年説、1540年説の三つが提唱されており、これに伴って没年もはっきりしない。何だこいつ。多くの資料では、1528年説(享年55歳)が有力とされている。先祖についても不明瞭だが、室町幕府に仕えていた土岐明智家ではないかと言われている。しかし父親に関しての史料が全く無いため、断定は出来ない。
光秀が生まれた頃、明智家は美濃の斎藤道三に仕えていた。しかし息子の斎藤義龍の下克上に遭い、居城だった明智城を奪われて野に下った。若くして浪人の身となった彼は越前に流れ着き、朝倉義景のもと領内の称念寺で約10年間過ごす。まともな俸禄は無く、馬一頭すら持てず、明日の食事さえ事欠く人生のドン底を味わう。それでも寺の僧と交流し、医学の知識を学んだ。やがてドン底生活から脱しようと、戦が少ない越前を去って近江で傭兵稼業に手を出す。
ちょうどその頃、室町幕府第13代目将軍足利義輝が暗殺される。足利家は彼の弟(義昭)を将軍に擁立し、室町幕府の再興を諸国に呼びかけた。近江にやってきた幕臣の一人を見つけた光秀は自らを売り込み、寺で得た医学の知識を教えて見事細川家に召し抱えられる運びとなった。
最近発掘された史料により、1565年頃は近江国高島郡田中城にいた事が確定している。
信長の近くに姿を現したのは1567年頃であり、当時は細川家の家臣であった。当時、将軍の足利家は三好三人衆の脅威から逃れるため頭角を現した織田家に接近にしており、両家の橋渡し役を行っていた模様。信長の足跡を記した信長公記に登場したのは、1569年1月5日に生起した「本圀寺の変」である。室町幕府15代目将軍・足利義昭が仮の御所としていた本圀寺を三好三人衆の軍勢に襲撃された事件で、信長公記によると鉄砲の名手だった光秀は単身で30人の敵兵を射殺。わずかな手勢で、織田方の援軍が到着するまで守りきった。そして翌6日、援軍とともに三好三人衆の軍勢を撃破して追い払う事に成功する。
その後、足利家と通じていたうえ信長の上洛命令を無視した朝倉家を滅ぼすべく織田軍は越前に出兵。足利と織田の真ん中に位置していた光秀もこの戦いに参加し、所属を織田家とした。順調に朝倉軍を蹴散らしていた織田軍であったが、同盟を結んでいたはずの背後の浅井家がまさかの裏切り。挟撃を避けるため、1570年4月27日に金ヶ崎より撤退を開始する。この命がけの撤退劇で光秀は殿を担当。殿は最も優秀な部隊が担当する事から、信長からの信頼も厚かったものと推測される。無事信長は包囲網を脱し、光秀も生還して武功を挙げた。
光秀は最近召し抱えられた新参者で、古くから織田家に仕えていた家臣(柴田勝家など)からは白眼視された。しかし彼は貪欲に知識を吸収し、どんな仕事も嫌な顔せずにこなした。また信長が望むような丁寧な報告書を書き上げ、「内容が具体的で、まるで目の前で見ているかのようだ」と讃えられた。その甲斐あって新参者ながら、信長の信用を勝ち取っていった。
1570年6月19日、体勢を立て直した織田軍は岐阜城を出撃。裏切り者の浅井家の本拠地である小谷城を攻撃する。しかし山の上に築かれた要害の小谷城を力技で落とすのは容易ではないとして、南方の横川城に矛先を向ける。ここを押さえれば浅井軍の城同士の連携を断つ事が出来る。織田軍には同盟相手の徳川軍が、浅井軍には朝倉軍が増援として到着。6月28日に姉川の戦いが生起した。かつて世話になった朝倉義景の軍勢と図らずも戦う羽目になってしまった光秀であったが、織田軍の相手は浅井軍が主体だったため干戈を交える事は無かった。この戦いで浅井・朝倉連合軍を破り、近江の深奥へと侵攻。浅井と朝倉は滅亡へと転がり落ちていった。
1571年9月12日、軍勢を率いて比叡山焼き討ちに参加。浅井・朝倉の残党を匿い続ける比叡山を攻撃し、抜群の功績を残した光秀は褒美として近江志賀郡を与えられる。彼はさっそく居城となる坂本城の建築を開始し、宇佐山城から引っ越し。居城を手にする事が出来た。だが、ゆっくりと腰を下ろす時間は無かった。1573年2月、足利家が織田家打倒の挙兵をすると、光秀は完全に将軍家と袂を分かつ。一応、和平のため織田と足利の間を奔走したが、失敗に終わった。義昭は追放され、1575年に信長より従五位下日向守の惟任の姓を賜った。居城の坂本城の近くには琵琶湖があり、そこを使って水軍を創設。西進を企てる信長を献身的に支え、1575年だけで高屋城の戦い(vs三好軍・本願寺)、長篠の戦い(vs武田軍)、越前一向一揆(vs一向宗)の鎮圧に参加。東西南北走り回った。更に毛利を攻めるための進軍路確保のため、同年9月(6月とも)に丹波の攻略を命じられる。光秀は各地を転戦しながら丹波攻略の指揮を執るという、ブラック企業も真っ青なハードスケジュールを強いられた。
1576年は光秀にとって厄年となった。1月15日、丹波攻略の一環で黒井城に立てこもる赤井直正を攻撃中、味方だったはずの波多野秀治に裏切られて敗走。京都まで退却させられてしまう。体勢を立て直した光秀は2月18日に再度出撃し黒井城を攻撃するが、石山本願寺との対決のため4月頃に大阪方面へと引き抜かれる。5月5日より始まった天王寺の戦いでは、ついに大ピンチを迎える。毛利勢から兵糧と武器を受け取り、勢いづいた石山本願寺vs織田軍の戦いであったが、彼我の兵数はなんと1万5000vs3000!織田側が寡兵だった訳である。さっそく1万の軍勢から鉄砲の一斉射撃を受け、奮戦むなしく原田直政隊が壊滅。本願寺軍は突撃し、光秀がいる天王寺砦を攻囲。窮地に立たされた光秀は40km後方の京にいる信長に援軍要請を送る。知らせを受け取った信長は動員令を出すが、急な命令だったため兵数が揃わず。天王寺砦から8km離れた若江城に信長自ら布陣するが、同行する戦力は心もとなかった。その間にも天王寺砦は締め上げられ、「持って後3、5日程度」と絶望的な報告をしている。死の淵にいる光秀を救うべく、信長は何とか集まった3000名の兵を率いて1万5000の本願寺軍に突撃した。鉄砲の弾がいっぱい飛んでくる中、敵陣を切り崩した増援部隊は無事天王寺砦の光秀と合流。本願寺軍は数の暴力でまとめて叩き潰そうとするが、信長は篭城ではなく攻勢に打って出た。これが功を奏し、2700名の敵兵を倒して木戸口まで押し返す逆転勝利を収めた。この勝利により本願寺は消極的となり、篭城を選んだ。
信長の増援で何とか助かったが、連戦による疲れからついに病に伏せてしまう。一時は病死の報まで駆け巡ったが、7月に快復。丹波攻略の足がかりにすべく、亀山城(現京都府亀岡市)を建築。現地に出向いて進捗状況を確かめた。しかし彼と入れ替わる形で介抱していた妻の明智熙子が倒れ、11月に帰らぬ人となってまった。心身ともにボロボロとなる光秀だったが、信長の人使いの荒さは治らなかった。丹波攻めを再開したい光秀であったが、ここで思わぬ邪魔者が入る。織田家家臣の松永秀久が謀反したのである。これを討伐するため光秀は信貴山城の攻略に引き抜かれ、1577年10月5日より4万の軍勢とともに信貴山城を攻撃する。反乱は10月10日に鎮圧されたため、さっそく丹波へと転戦。裏切り者の波多野軍が管轄する丹波亀山城と丹波八木城を奪取。続いて籾井城と丹波船坂城を攻撃し、見事落城させた。
1578年1月10日、園部城を攻略。9月には高山城、馬堀城を陥落させるなど丹波の平定が迫りつつあったが、10月に家臣の荒木村重が離反し毛利方に寝返ってしまう。離反した村重は摂津を押さえており、隣接する丹波方面の攻略に悪影響を及ぼした。光秀は村重の説得に当たったが失敗、信長は討伐命令を下す。12月に戦況が好転したため、丹波攻めを再開。
1579年6月2日、ついに裏切り者の波多野秀治ら3兄弟を降伏させる。9月22日には丹波国の平定に成功し、10月24日に安土にて信長に報告を行った。信長は光秀を褒め称え、褒美として奪い取った丹波を与えられて34万石を保有するに至った。福知山城には娘婿の明智秀満を置いた。光秀は戦乱で荒れ果てた丹波の復興を第一に考え、統治を開始。領民を困らせていた由良川の氾濫を食い止めるべく治水に着手したり、税金を免除するなど善政を敷いた。このため領民から慕われ、光秀を讃える神社まで建立されたとか…。
1582年3月11日、武田勝頼の自害によって東方の障害だった武田家が滅亡。敵対勢力は北陸の上杉家、四国の長宗我部家、中国の毛利家のみとなった。織田家の武将は敵対勢力撃滅のため各方面に散っており、畿内にいた有力武将は光秀とその配下くらいであった。これはつまり、信長周辺の警備がかなり手薄になっていた事を意味する。武田家滅亡の際、光秀は「我らも苦労した甲斐があった」と言ったが、これが信長の逆鱗に触れたらしく折檻を受けたという。
また光秀は石山本願寺、毛利の背後を突ける長宗我部家との交渉役を担っており、尽力によって長宗我部家と織田家は良好な関係を築き上げた。ところが本願寺の勢力が衰えると長宗我部家の価値は下がり、信長は手のひらを返すように四国の領土を返還するよう求めた。光秀にしてみれば苦労して長宗我部家と友情を築いたのにそれを一瞬で破壊され、面目を潰された訳である。
同年5月14日、光秀は信長より家康の接待役を命じられる。珍品を用意してもてなしたが、魚が腐っていて怒った信長に暴力を振るわれたとも、不手際が原因で中国攻略中の秀吉のもとへ飛ばされたとも言われる。また中国に向かって出立しようとした時、信長からの使者が来て「近江坂本と丹波は取り上げる。代わりに出雲と石見(毛利の勢力圏)をあげるから頑張って戦ってきて」と領地を奪われたという。
中国の毛利討伐を命じられて光秀は畿内を出発するのだが…。一体何が光秀の謀反を決意させたのかは未だ謎に包まれれている。
1582年5月17日、備中高松城を攻囲中の羽柴秀吉より応援要請の手紙を受け取った信長は、光秀に加勢するよう命令。安土城から坂本城に戻り、出陣の準備を開始した。
6月1日夕方、1万3000の軍勢を率いて丹波亀山城を出発。少し東進したところで軍議を開き、明智秀満、斎藤利三、溝尾茂朝などの重臣を集めて「信長を討つ」と謀反を打ち明けた。集めた5人の重臣から起請文を書かせ、さらに各方面から人質を確保。前もって離反者が出ないよう工作した。山崎(摂津方面)と京都へ通じる分かれ道につくと、光秀は京都に向かうよう命令を下した。この時、「敵は本能寺にあり!」という有名な言葉を発しているが、どうやらこれは明智軍記で後付けされた台詞で実際は言っていなかった。信長を討つ事は兵には伏せられていたため、中には用済みになった家康を葬りに行くと考える者もいた。
情報漏洩を避けるため、光秀は道中で出会った農民を片端から斬れと非情な命令を下した。徹底した対策により明智軍の不審な動きは隠蔽され、翌2日未明には桂川へと到着した。ここで戦闘準備を命じ、各軍団ごとに分かれて桂川を突破。1万3000もの大軍団が京に入れば簡単に露呈してしまうため、敢えて小分けにして進軍させるという光秀の才知が光る。こうして、明智軍は思い思いの道を通って本能寺を目指した。
京都の本能寺では、わずかな小姓衆のみ連れて信長が宿泊していた。警備が手薄な本能寺を、6月2日午前4時に明智軍が完全包囲。本殿に向けて鉄砲を撃ちかけた。最初は喧嘩騒ぎと勘違いしていた信長だったが、様子を見に行かせた森蘭丸から光秀の謀反と知らされ、「是非に及ばず」と呟いたという。戦力差は絶望的であり、信長の命運は尽きたも同然だった。それでも僅かな小姓衆と抵抗を選び、女房衆には逃げるよう命じた。四方を包囲する明智軍に対し、信長は弓を引いて抵抗。しかし全ての弓の弦が切れてしまったため、今度は槍を振るう。この時、明智兵の攻撃を受けて負傷。建物の奥に引き下がり、自ら本能寺に火を放った。襲撃から約4時間後、信長は炎の中で自刃した。
二条城には信長の長男坊信忠がいたが、こちらも包囲戦のすえに自刃。一夜にして天下統一の野望は炎とともに消え、信長は歴史の表舞台から去った。ところが、明智軍が必死に捜索したにも関わらず信長の遺体は発見されなかった。
本能寺の変諸説
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├─ 普通に天下が欲しかったよ説(野心説)
| ├─ 元から凄い野心家だったよ説(フロイス説)
| ├─ 信長の下剋上思想を体現したんだよ説(下克上説)
| ├─ 戦国大名なら誰でも天下ぐらい狙うよ説(光秀の野望説)
| ├─ 老い先短くて焦ったんだよ説(光秀老齢説)
| └─ チャンスだったから勢いでやったよ説(アドリブ説)
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├─ 信長のイジメに耐えられなかったよ説(怨恨説)
| ├─ 粛清されそうだったから反乱したよ説(左遷説)
| ├─ 人質に出した母を見殺しにされたよ説(J( 'ー`)し説)
| ├─ ノイローゼになってヤケクソで謀反したよ説(精神耗弱説)
| ├─ 家康に鯛を出したら信長に腐ってると怒られたよ説(接待失敗説)
| ├─ 信長の酒を断ったら殺されそうになったよ説(ワシの酒が飲めんのか説)
| └─ 信長から殴る蹴るの暴力を受けてたよ説(暴行説)
| ├─ 信長にサッカーボールキックされたよ説(ボールと間違えた説)
| └─ 殴ったのは蘭丸だよ説(鉄扇痛いよ説)
| └─その際に鬘なのがバレたからだよ説(ハゲの恨みは怖い説)
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├─ 大義の為にやむなく反乱したよ説(英雄説)
| ├─ 魔王をどげんかせんといかんよ説(天誅説)
| ├─ 体に流れる公家の血が帝を守れと囁くよ説(尊王説)
| └─ 昔の職場を蔑ろにする信長が許せなかったよ説(幕府ラブ説)
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├─ 実は共犯がいるよ説(黒幕説)
| ├─ 信長に恐怖を覚えた公家衆が光秀に殺させたよ説(朝廷説)
| ├─ 信長に追放された足利義昭が旧家臣の光秀に殺させたよ説(幕府説)
| ├─ イエズス会が信長を殺して政権を乗っ取ろうとしたよ説(バテレン説)
| ├─ 秀吉が邪魔者一掃を企んだよ説(秀吉説)
| | ├─ 秀吉に内通してた友人に唆されたよ説(細川藤孝説)
| | ├─ 秀吉に天下を取ってもらわないとわび茶が完成しないよ説(へうげもの千利休説)
| | └─ 秀吉に天下を取らせようとしたよ説(神に愛されなかった男説)
| ├─ 家康が耐えられなくなったよ説(家康説)
| | └─ 光秀は天海になって家康に仕えたよ説(光秀天海説)
| | └─ 天海は婿養子の方だよ説(秀満天海説)
| ├─ 元親には悪いことしちゃったよね説(長宗我部説)
| ├─ 元は斎藤家の家臣だったよね説(斉藤家説)
| | ├─ 信長がうつけだから殺しちゃったよ説(マムシ説)
| | └─ 姫君のためだよ説(濃姫説)
| | ├─ 濃姫は信長を独占したかったよ説(ヤンデレ濃姫説)
| | ├─ 初恋の人に自分が乱世を治めると誓ったから説(決戦3説)
| | └─ おやめください姫君様、私には妻と子が……!説(不倫説)
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| └─ 光秀様を打ち負かす戦、面白そうですなあ説(斎藤利三説)
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├─ 実は光秀は犯人じゃないよ説(冤罪説)
| ├─信長を助けにいったら自分が犯人扱いされたよ説(ドジっ子説)
| └─光秀の築く天下この信長も見たいぞ説(信長自爆説)
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└─ 信長が好きだからこそ謀反したんだよ説(本能寺の恋で本能寺が変説)
├─ 信長をおいしく味わいたい変態だった説(「明智光秀(戦国BASARA)」説)
├─ 上様の絶望を解き放つには殺すしかなかったに候説(センゴク説)
├─ 光秀は信長に殺されたかったんだよ説(光秀ドM説)
├─ 信長と一緒に心中しようとしたよ説(ヤンデレ光秀説)
├─ 二人で生き延びて末永く幸せに暮らしたよ説(愛しの焔説)
└─ 信長に寵愛される森蘭丸に嫉妬したんだよ説(衆道な三角関係説)
やはり本能寺は戦国時代の一大イベントという事で、多くの作品で登場し、様々な解釈で謀反を起こし、そして死ぬ。なんJなどでは「明智光秀さん、○年ぶり○回目の謀反」「今回こそ成功するかな?」などとネタにされる。
大河ドラマとしては初の織田信長が単独主人公となった作品で、
本能寺の変そのものは最終回に放送された。
これまでの説にあった変の原因となった描写はなく、足利将軍家の監視や、
各地を休む暇無く転戦していたため光秀は疲弊・消耗していき、
そして「あの方がいなくなれば、皆、楽になるではないか。眠ることもできる」と呟き、
ついに信長を襲う事を決意。変後、「これで…眠れる」と安堵している。
信長は「明智光秀が謀反…ありそうな事じゃ」と呟いている
※むしろ信長は光秀を冷遇せずに気にかけていた。
山崎の合戦は描かれなかった。
本能寺の変に至る説は「怨恨説」と「陰謀説」をかけ合わさった
珍しい内容となっている。
また、信長が敦盛を舞った後「神が…神が死ぬか!」と立ち姿のまま太刀で頸動脈を斬り、
大量の血を吹き出しながら斃れる壮絶な描写となった。
変の原因は怨恨説を採用。
多くの作品では信長は光秀に姿を見せることなく自刃して果てるが、
今作は光秀自身が本能寺内に入り信長と対面して信長への恨みを口にしている。
信長の直接的な自刃の描写はなかったが、
森蘭丸(演:ウエンツ瑛士)と最後の別れを交わした後一人になったところで
涙を流し、前田利家から献上された刀で敦盛を舞った後、
「犬! 又左衛門! さらばじゃ!!」と利家に笑みを浮かべて
炎の中に歩いて消えていった。
※「犬」とは前田利家の幼名・犬千代からもじったもの。
苛烈な信長とは全く正反対の温和な性格なのだが登用される。そして徐々に反目を深めて謀反に至る。織田家がメインの舞台なので、本能寺の変は前半のクライマックス。
本作の信長は冷徹に淡々と事を進めていくタイプ。お約束通りの折檻&秀吉配下命令で反発が深まり、謀反に至る。上杉メインかつ、物語前半で退場するので出番は少なめ。
第5話で早々に本能寺。信長は業を背負い込むタイプで、自分と似た人物と期待した光秀に敢えて強く当たるのだが、光秀は結局その真意を掴めぬまま謀反する。
足利義昭配下として登場。荒木村重と縁戚関係だった事もあり、荒木一族に対する容赦ない粛清などから憔悴していく。そして朝廷・公家に背中を押されるような形で謀反。秀吉周りがメインなので本能寺は中盤の大イベント、そして官兵衛が一気にブラックになる。「殿の御運が開けたのですぞ!」
第4回で速攻本能寺。折檻の後に恍惚の表情を浮かべるなど「信長が好きで好きでたまらないドMな光秀」という斬新な解釈で話題をさらう。ちなみに出番はほとんどこの折檻シーンだけで、後はナレーションだけで謀反→死亡に至る。
物語終盤、信康事件を描く第45回が初登場。白髪。本作の信長は威圧感と冷徹さを強調した「魔王」であり、そのやり方に内心反感を募らせていく。信長から家康謀殺計画を任される(本人談)が、これを利用して逆に信長を殺害しようと思いつく。歌会で知り合っていた今川氏真(有能)に人質を出して協力を取り付け、氏真から計画を伝えられた家康、さらに井伊万千代&直虎の主人公サイドまで巻き込む大事件となる……が、謀反成功後はあっさり討ち取られた。
なお、人質となった息子は氏真の機転で遠江・井伊谷に預けられ、謀反後には直虎の機転で「信長の遺児」として扱われ、後に龍潭寺住職・悦岫永怡となる。
「国盗り物語」以来47年ぶりの大河主人公となる。謎の多い前半生が新解釈で描かれており、同じように前半生に謎が多かった松永久秀(演:吉田鋼太郎)との描写にも大いに注目された。
本作の信長は超然とした敬意を持たれる人柄や大名としての外見に反して、繊細な内面で相手を見抜く眼力を持ち「何処までも人を愛し人に愛される事に飢えているが、その事が余人からは誰一人理解されない」育ちから来る二面性が全面に出ておりこれ迄の信長とは一線を画す描かれ方がされた。
戦乱にあえぐ世に「麒麟」が降り立つことを祈願した光秀は信長に麒麟を見て、信長も自身を真っすぐ評価した光秀を互いに理解しあっていたが、周囲との「天下」、特に追放後も一定の存在感を持っていた足利義昭の存在に対してのスタンスの違いから剥離していき…遂には。
なお、本作は本放送開始前のトラブルや新型コロナウイルスの緊急事態のため当初の予定が大幅に変更され(収録のスケジュールの短縮など)で本来のエンディングとは異なる形になったものと関係者の発言から匂わせる部分がある。信長を討った光秀の真意は…。
声:速水奨。銀髪長髪。明智光秀(戦国BASARA)を参照。
声:緑川光。黒髪長髪。その髪のサラサラさは天下一らしい。誠実で真面目だがそれ故にやや思い詰めてしまいがち。娘のガラシャに対しては子煩悩な所もある。どの作品でも朝倉家に仕えていた部分は当然のごとくスルーされ、浪人として放浪しているところからスタートする。
刀を武器とする居合の使い手であり、素早い剣技を魅せつけてくれる。
毎回時報のように本能寺の変を起こすが、説や解釈がアレンジされており1では蘭丸とは親密な関係の絡み重視、2では純粋に信長との関係からの本能寺、3では長宗我部との関係からの謀反となっている。
初期の頃の完璧超人振りは影を潜め、優秀な政務官としてのパラメーターの作品が増えていったものの、革新にて見直された模様。また野望(野心)は同ゲーム登場武将の中で、極端に高いというわけではない。このことから、KOEIが「やむを得ない謀反だった」という説に一部立脚していることを窺わせる。ただし、本能寺の変イベントは同シリーズにおいて皆勤。戦闘能力が微妙な作品であっても、レアな特技をおぼえていることがあり、また特性等で鉄砲の扱いに長ける。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
全国版 | 知能 | 93 | 健康 | 91 | 魅力 | 85 | 野心 | 113 | 運 | 89 | ||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 89 | 政治 | 93 | 魅力 | 79 | 野望 | 87 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 82 | 政治 | 85 | 魅力 | 80 | 野望 | 81 | 教養 | 87 | ||||
覇王伝 | 采配 | 89 | 戦闘 | 81 | 智謀 | 82 | 政治 | 93 | 野望 | 81 | ||||
天翔記 | 戦才 | 156(B) | 智才 | 172(A) | 政才 | 188(A) | 魅力 | 81 | 野望 | 86 | ||||
将星録 | 戦闘 | 68 | 智謀 | 90 | 政治 | 94 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 87 | 戦闘 | 61 | 智謀 | 86 | 政治 | 90 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 66 | 智謀 | 82 | 政治 | 86 | 野望 | 79 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 65 | 知略 | 82 | 政治 | 86 | 野心 | 72 | ||||||
天下創世 | 統率 | 69 | 知略 | 81 | 政治 | 86 | 教養 | 87 | ||||||
革新 | 統率 | 88 | 武勇 | 85 | 知略 | 92 | 政治 | 96 | ||||||
携帯版 | 戦才 | 74(鉄砲兵) | 智才 | 92 | 政才 | 96 | ||||||||
天道 | 統率 | 88 | 武勇 | 85 | 知略 | 92 | 政治 | 96 | ||||||
創造 | 統率 | 95 | 武勇 | 85 | 知略 | 93 | 政治 | 91 |
「この銃弾に、わが魂を込める!」
戦国大戦にはVer1.1から織田家で参戦。憂国の士という風体のイラスト。スペックは3コストで9/9防柵・狙撃と鉄砲隊に欲しい2特技は抑えていて、織田家で狙撃を唯一持っている(光秀は全てのカードで狙撃を持っているが)。特筆すべきはその計略だろう。計略「無間射撃」はタッチアクションをしている限り銃を撃ち続けるというトンデモ計略。同勢力である吉乃の「遠撃ち舞踊」と組み合わせると、戦場のどこからでも光秀の銃弾が飛んでくるという敵軍蒼白な状況が起こりうる。だが連射中は兵力がどんどん削られていきそのままでは自分が撤退してしまうので、何らかのフォローは必要であるが。
Ver1.1の一時期明智ゲーになったことがある。しかしその後大幅な下方修正を食らい今に至る。
「ようこそ、殺し間へ」
Ver1.2より漫画「センゴク」から参戦。計略はもちろん彼の代名詞である「殺し間」。
SRの自身と比べてコスト-0.5、武力統率-1、狙撃と伏兵を兼ね備えたバランスの良いスペック。
「殺し間」は鉄砲隊全員に貫通効果をもたせるいわゆる「雑賀の采配」だが士気7相応の武力上昇値+4と効果時間10.5c(Ver1.20D)を持つ。士気がネックだが混色でも運用可能なので、頂上対決では車撃をもつ島津家の鉄砲隊と組み合わせたデッキも登場した。士気は7と重めだが効果時間は采配としてはかなり長い。
『泰平のため、我が命尽き果てるまで戦い抜く』
2011年10月20日に発売のカードバインダー用追加リフィルの特典カード。
イラストは横STG赤い刀のキャラデザインを担当した虫麻呂氏である。
SR自身の違いは防柵が魅力になった所。計略「真意の銃弾」は自身の武力、射程距離を上げ、敵を貫通できるようになり、射撃を命中させた相手の武力を下げるといったものだが、武力上昇値が+1で武力低下値は一回の命中ごとに-1、低下時間は3cとかなり使い辛いの実情である。
「敵は、本能寺にあり!」
Ver2.0で更に一枚追加。今までの鉄砲隊とは異なり騎馬隊である。伏兵・魅力を持ち武力・統率ともに水準以上。
計略の「本能寺にあり!」は自分の武力と移動速度が上がり統率が大幅に上がる。更に敵を倒すと統率が上がる。ただし統率が徐々に下がり、統率が「1」になると撤退する。
同時期に大暴れした柴田勝家の「鬼柴田の意地」と違い「士気6(意地は5)」「統率低下の間隔が意地に比べて遥かに早い」「低下が早すぎて敵を倒せなければ三日天下の如くな効果時間」「大幅に上がるのは統率であって武力ではないため敵を倒しづらい」「迎撃されると速度低下し一定時間突撃出来ない→敵が倒せない」と様々な点が劣化しており、「もうこれ柴田の士気と明智の士気を逆にしたとしか思えない」「産廃」と散々な言われようである。
VerUPの度に上方修正され、Ver2.01Bでついに待望の統率低下速度緩和…一応士気6クラスの効果時間は生き延びることができるようになった。
なお、柴田勝家の「鬼柴田の意地」と同じく統率を1にして発動したとしても、柴田と同じく最速発動から試合終了まで効果は切れない。
そしてついにVer2.12Bにて3部隊撤退させることができれば生存出来るようになった。超絶騎馬としては長い効果時間も相まってようやく本能寺にたどり着くとができる計略へと仕上がった。
「断る!」
『まおゆう魔王勇者』より勇者が明智光秀としてEXカードで参戦。CVはアニメ・ドラマCDと同じ福山潤。
槍足軽としても初の光秀であり、コスト2武力8で魅力持ちと高いスペックを持つ。
計略の「断る!」は、「逆計」であり、自身の武力を大幅に上げ、移動速度が上昇、敵から受けた計略効果を消すものようするに魔王の計略を断れる。 効果時間は短く、 範囲もそこまで大きくないので、逆計できる距離まで詰める前に妨害を受けてしまう危険性がある。R森蘭丸を覚醒できるのでお供として。
掲示板
499 ななしのよっしん
2024/10/16(水) 21:54:00 ID: qtvEXeKd+K
実際、「今そのふたりがいなくなれば天下は一番強い奴のもの」というところまでは情勢を読み切れていたわけだからね
情勢は読めていても、この時代の情報レベルで完璧な自己分析は難しい(というかできない)
500 ななしのよっしん
2024/12/18(水) 13:28:45 ID: kVwHQJs2T3
光秀自身が息子の代にも権勢を維持できるよう活動した形跡が出てこないのが気になる
息子の代に明智家を支える側近の選抜、重臣たちの権力抑制、織田信忠の側近との関係強化などが窺える話が兼見らの日記にも全く見えない
日本一統したら地位を返上して信長と茶でも飲んで暮らす腹積もりだったのでは
滝川と同じように働かされただろうけど
もし丹波を手放したら、丹波は信澄、忠興、細川信良のいずれかが担当したかもしれない
501 ななしのよっしん
2024/12/21(土) 20:42:44 ID: 1vaMr/E696
https://
滋賀県大津市の寺院から見つかりました。
この手紙は、1577年に戦国武将の明智光秀が滋賀県大津市の寺院「聖衆来迎寺」へお米を寄付するために書かれたものです
マジなら坂本城主になった辺りに名乗ってた『惟任日向守』光秀じゃなく『明智』光秀とも名乗ってるの結構大発見過ぎる
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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