ロシア帝国 単語

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ロシアテイコク

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基本データ
正式名称 ロシア帝国
Российская империя
Rossiyskaya Imperiya
国旗 ロシア帝国国旗
国歌 神よツァーリを護り給えexit_nicovideo
公用語 ロシア語
首都 サンクトペテルブルク(1713年 - 1728年)
モスクワ(1728年 - 1730年)
サンクトペテルブク(1730年 - 1914年)
ログラード(1914年 - 1917年)
面積 21,799,825km²(1914年)
人口 128,200,200人(1897年)
通貨 ロシアルーブル

ロシア帝国とは、1721年から1917年の間、現在ロシアに当たる地域を中心に北ユーシアに存在した帝国である。ロマノフまたは帝政ロシアとも。
本項では1613年のロマノフの成立も記述する。

概要

ソ連の前身に当たる、ロシア国家である。

このの特徴には次のようなものが挙げられる。

上述の帝国像が形成されるのは成立してしばらくのことである。
17世紀にロマノフは成立するが、その君権は不全にあり、ロシア西欧からも帝国として認められていなかったのだ。が、1721年に5代君ピョートル1世大北戦争勝利し、その功績から「インラートル(皇帝)」の称号を得ると、ロシアにも「皇帝を戴く」ができあがった。これがロシア帝国の成立であり、以後世界史において大きな力を持つ一として、このは君臨し続ける。

ロマノフ朝の創成

ロシア帝国はロマノフによる国家であるが、その創成の背景にはモスクワ大公国の姿があった。

時を遡ること15世紀、モンゴル系であるタタール国家ロシア都市国家群と競争し、勢力を拡大させていたモスクワ大公国は、イヴァン3世の時代にツァーリ(王あるいは皇帝として他と一線を画すほどに成長した。さらにこの時期、イヴァン3世はローマ皇帝の姪と婚姻したことから、モスクワ大公国は「ローマの血統」を(建前だが)手にした。こうしてモスクワは「第3のローマ」なる付加価値を得、東ローマ帝国の継承者として正教圏における新たな盟となったのである。

続いて1480年、イヴァン3世の下でモスクワ大公国は「タタールのくびき」なるモンゴルの支配から脱し、事実上の独立を果たす。そして彼の孫である“雷帝”ことイヴァン4世の代には、モスクワ大公国は全ロシア国家トップを自任する。

ところが1589年にモスクワ大公国のリューリクが断絶すると、ロシアは後継者を巡る大動乱の時期に入った。リューリクの外戚にあたるフョードルニキチチ・ロマノフがこれを制すると、その息子ミハイル・ロマノフが1613年にロシア国会議において推戴され、ツァーリとなった。ロシア300年王ロマノフが成立したのである。

帝国の誕生

ロシアを統一したロマノフだが、その存在は海外とりわけ欧州からは帝国とは認められてはいなかった。ツァーリの権限も当初は不全であり、絶対的な君とはいい難いものだった。1617年にはスウェーデン、翌年にはポーランドと和を結んだが、土は削られ油断ならぬ状況が続く。

大帝現る

しかし17世紀の中頃になると、ロマノフ北方戦争や対ポーランド戦において力を高めていった。4代ツァーリのフョードルアレクセーエヴィチが亡くなった後はまたも後継者争いが勃発したが、これは1682年にピョートル1世大帝の即位により定された。

ピョートル大帝の登場はロシア史を大きく塗り替えた。

ロシア西欧化を進めるべく、彼は300人からなる大使節団をヨーロッパ派遣したが、面いことにピョートル自らも偽名で変装し参加していたのだ。そうやって自身の眼で西欧を見、自らの肌で近代を感じたピョートル1世は、帰後まもなく改革に着手した。これまた興味深いのがその順番で、政治や軍隊の再建をするのかと思えばそうではなく、まずは貴族装や様式にこだわりを見せたのだ。そして東ローマ帝国の紀元を止し、新たにユリウスを使うよう示したという。

大北方戦争

ピョートル1世はまたオスマン帝国との戦いは危険すぎるとし、従来のロシアが採り続けてきた南下政策を一時中断。そして狙いを北西の方角、すなわちバルトへと向けた。スウェーデンである。当時のスウェーデンは30年戦争により北欧覇者バルト帝国として君臨し、ロシアバルトへの出口を依然として封鎖していた。

もとより凍らないを欲することで南下政策をしてきたロシアである。バルトというの重要性もまた大きかったことだろう。ピョートル1世ポーランドデンマークと同盟を結び軍事力を高め、オスマン帝国と和し後方の安全を確保すると、1700年、スウェーデンの港湾都市ナルヴァに侵攻を開始した(大北戦争)。

ロシア軍の数は圧倒的に勝っていた。にもかかわらず、カール12世が率いるスウェーデン軍には大敗を喫した。とはいえその後のスウェーデンロシアにではなくポーランドに軍を向けていたことは、不幸中の幸いであった。ピョートル1世はこの好機に乗じ、教会の鐘を売って大砲えるなどして、軍備の再建に取りかかる。

再度スウェーデンへ進軍すると、今度はネヴァ流域の占領に成功した。そして1703年、後にロシア帝国の首都となる、「西欧」ことサンクトペテルブルクを建設。戦争における最前線を確保したのである。その勢いのまま1709年にポルタヴァの会戦にてスウェーデンにほぼ勝し、カール12世オスマン帝国亡命させるほどに追い詰めると、戦いの行方は決定的となった。一応、カール12世を擁護したオスマン帝国の反逆にあうのだが、1714年には新設の艦隊が活躍しバルトの制権を得た。これをもって1721年、ニスタットの講和によりロシア勝利が確定された。これによりロシア帝国は、ついにを一つ手に入れたのだった。

ピョートル1世はこのかしき戦勝により、元老院からインラートル(皇帝)の称号が贈られた。ここに、ロシア皇帝による国家すなわちロシア帝国が成立したのである。

帝国のその後

ピョートル1世国家近代化させた一方、農民層は農化し中世へと逆戻りしていた。これは後の乱や列強との力量差を生むきっかけとなる中世色彩である。ロシア帝国の18世紀、それはなにも明るい側面には限らない。

ピョートル1世亡き後は再び熾位争いが頻発した。たる原因はピョートル1世が遺した位継承法であり、これは現皇帝が気に入った者を名し位を継承させるというものだ。従来の位継承は長子制すなわち長男から順に優先されるというものであったが、生前のピョートル1世はこれを「新皇帝は前皇帝が決める」というように改変したのである。

18世紀は女の時代ともいえる。位を争う形で7人の皇帝が続出したのだが、うち4人は女と(当時にしてみれば)少々異例である。そしてその特異な女時代の最後を飾ったのが、かの女エカチェリーナ2世であった。

大国へ

1756年、マリア・テレジアが統べるオーストリアは、フリードリヒ2世プロイセンに対しシュレジエンを要戦争に突入した(七年戦争)。エリザヴェータ女が統治する当時のロシア帝国は、オーストリアフランス側に味方し、プロイセンをあと一歩のところまで追い詰める。ところが、1762年にロシア皇帝がピョートル3世に代わると、状況は一変。ピョートル3世はフリードリヒ2世かっこいい」という極めて個人的な理由でプロイセン側への攻撃を中止し、結果としてオーストリアフランスを裏切った。ロシア帝国はオーストリアはもちろんフランスに非難され、また内も動乱した。当然である。

これを見かねたピョートル3世の皇后エカチェリーナ2世)はクーデターを起こす。このとき彼女男装上で揮を執っていたという。彼女を待望するはピョートル3世の失態以来とても高く、それゆえクーデターはほぼ血で成功。旦那のピョートル3世は位・閉され、後に暗殺された。そしてまもなく彼女皇帝として即位した。エカチェリーナ2世大帝である。

ドイツ人の啓蒙専制君主

エカチェリーナ2世は生ドイツ人であった。現ポーランドのシュテッティンからロシアに来た彼女は、ヴォルテールやモンテスキューなど、フランスの啓思想の著作をよく読んだ。また歴史にも関心を持ち、カトリックバールが著した『ドイツ史』も熱心に読んだという。彼女はまた啓思想としても知られ、ヴォルテールやディドロと文通し多くの精神を学んだ。

即位後エカチェリーナ2世はすぐに法の編纂にあたった。彼女は「ロシアには近代的な法が必要」と唱え、君権を絶対とする一方、法の前では臣民はみな等であると説いた。

エカチェリーナ2世はまた宗教的寛容や自由経済活動を促進し、各地に学校孤児院、病院を建設させたうえ、機関立させ、また文芸の出版にも力を注いだ。

プガチョフの乱

ロシア帝国の人口の9割は農民であり、彼らの農化は加速するがままであった。エカチェリーナ2世はこれを緩和する意志はあったのだが、貴族の猛な反対にあってしまう。かくして搾取され負担が増加する一方の農民らは不満が募り、1773年、エメリヤン・プガチョフが率いる乱が勃発した(ガチョフの乱)。

乱の範囲は南ロシア一帯にまで拡大し、農や農民はもとより諸部族まで包括した。結局この大規模な乱は鎮圧されるのだが、それは仲間に裏切られロシア政府に差し出された、プガチョフの処刑(1775年)によるものだった。

さらなる拡張

危険因子をいまだ抱えたまま、ロシア帝国はより多くの領土を貪っていった。

二度の露土戦争(1768 - 1774年 / 1787 - 1791年)では、オスマン帝国から黒海クリミア半島を獲得し、オスマン内の正教徒に対する保護権をも手に入れた。また黒海ロシアとすべく、黒海艦隊を創設していった。これにより、ロシア帝国はついに黒海方面への本格的な進出を可とした

西方の拡大もまた大きく、七年戦争の後にプロイセンオーストリアと共にポーランド分割すると、その東部をみごと併合した。

ナポレオン戦争

1801年にアレクサンドル1世が即位すると、ロシア帝国は動の近代をいく形となる。

即位後のアレクサンドルは、拷問止し検閲を緩和するなど開放的な姿勢を見せた。その一方、非公式委員会なるものを組織し、改革を進めていった。具体的には、時代遅れの参議院に代わり8つの省と大臣委員会を組織したり、領に農解放を認めたり、教育改革により大学を建設したり、などである。

VSナポレオン

フランス革命の中台頭した軍人ナポレオン・ボナパルトは、1804年にはフランス皇帝となり欧州大陸に覇を唱えていた。アレクサンドル1世は即位当初イギリスフランスにそれぞれ別個の案で接近していたが、この皇帝ナポレオン1世の登場によりフランスロシアの関係は急に緊した。

1805年、 第3回対仏同盟が展開されると、ロシア帝国はそれに加盟。同年、アレクサンドル1世率いるロシア軍とランツ1世率いるオーストリア軍が、ナポレオンのランス軍と対決(アウステルリッツの戦い(三会戦))するが、決定的な敗北を喫してしまう。ロシアオーストリア連合軍はフランスの10倍以上の戦死者を出し、第3回対大同盟は崩壊、また神聖ローマ帝国全に消滅した。

祖国戦争

フランス帝国産業革命中のイギリスを封じ込め、ヨーロッパ大陸経済ろうとしていた中、ロシア帝国は1810年には港を開放し何食わぬ顔で中立と貿易をしていた。ナポレオンはこれをよしとせず、ロシア遠征を画策。1812年、アレクサンドル1世は再びナポレオン対決することに。

ロシア軍230,000人 対 フランス軍614,000人。その戦力差は歴然であった。

ナポレオンの「大軍(グランダルメ)」がロシアに侵入したのは1812年6月24日。兵力・装備ともに劣るロシア軍は、正面衝突を避け、撤退を繰り返し、広大な領土と極寒を利用した消耗作戦にでた。ロシア側が初めて反撃にでたのは侵入開始後の2ヶ半である9月7日のことで、場所はモスクワから西方120km離れたボロジノであった。この最初の衝突でロシア軍は44,000人を失うが、フランス軍にも5万人以上の被害を被らせ、撤退に追い込んだ。

その後フランス軍は110,000人とかなり減少するも、ロシア第2の首都モスクワに到着、入した。ナポレオン勝利を確信したのだろうが、しかしそこはもぬけの殻だったロシア側はあらかじめ、モスクワ疎開させ全市民を避難させていたのである。殺風景大地の中、ナポレオンされたのは冬将軍という過酷な寒さと直後の大火災だけだった。

とどまることを恐れたフランス軍は、10月19日に撤退を表明した。底的に数を減らされたナポレオン軍はロシアを後にするが、この時ロシア軍や農民義勇軍に追い打ちをくらい、残りわずかな兵力をさらに減らす形となった。ナポレオンは後に帰還するが、そのとき傍にいたのは数名の側近だけだったという……。

戦後処理

ナポレオンを撃退したことで、アレクサンドル1世の発言力は大きく高まり、ヨーロッパ際関係を取り仕切るようになる。

1813年10月にはライプツィヒの戦い(諸戦争ナポレオン軍にまたも勝利し、1814年3月18日にはパリへ入ナポレオンエルバ送りにした。

彼はその後、ナポレオン台頭前の旧体制を復活させるウィーン会議においても導者として迎え入れられる。ナポレオンの下成り立っていたワルシャポーランド)をロシア皇帝が王として統治するポーランド王国に塗り替え、そして強まりつつあった市民階級の動きは「神同盟」の下ウィーン体制で封じていった(反動政治)。

南下政策

1825年、軍事将校らによるデカブリストの乱が始まると、すでにエカチェリーナ2世治世期からあった内不満は飛躍的に拡大した。またピョートル1世がそうしたように、帝国は依然として「凍らぬ」を欲していた。とはいえ内部の憂いもどうにかしたい。

そういった経緯でロシア帝国はこの不満を「汎スラヴ義」なる民族問題により対外へ発散するよう画策。これは、当時スラヴ人が移住していたバルカン半島民のを向けさせ、さらに半島を支配下においていたオスマン帝国へスラヴ国家を通して介入し、あわよくば東地中海への南下を期待する、というまさに一石二鳥の計画であった。

ロシア帝国の思惑により、オスマン帝国バルカン半島支配は動揺し、1829年からはギリシャなどの半島国家独立を宣言するばかりか、ムハンマド=アリーによってエジプトさえも自立傾向を露わにした。ほか、帝国バルカン半島のスラヴ国家の多くを衛星としたことから、東地中海における制権さえ握しつつあった。「悲願」は達成されつつあった。

悲願と挫折

が、このような野望の故に他を圧迫したからか、大北戦争以来の宿敵オスマン帝国との再衝突は、もはや避けようがなかった。ついには1853年、ロシア帝国とオスマン帝国の間で戦争が勃発する(クリミア戦争)。だが英の介入により戦いは敗北に終わり、より多くの凍らぬめた南下政策は頓挫した。

他ならぬ後進性を思い知らされたロシア帝国であったが、それでも「悲願」すなわち凍らぬへの想いが耐える気配はない。1861年に農解放により帝国近代化を推し進めるが、民の間では「ナロードニキ運動」なる社会主義思想が胎動しつつあった。

このように段々と複雑さを増していく状況下、ロシア帝国は清朝中国)との外交により刻一刻と東方における南下の下ごしらえを始めていた。

ニコラ2世の代にもなると、フランス外資の導入による重工業化が推し進められ、シベリア鉄道も整備されていった。外的にはイギリス中央アジアを巡って覇権を争い(グレートゲーム)、これが手詰まりになるとまたまた極東方面へ南下を画策。するとロシア帝国の南下を恐れ日英同盟を結んだ大日本帝国と対立し、1904年、日露戦争が始まった。

土・力ともに大日本帝国の上をいくロシア帝国だったが、ロシア第一革命による内部の動揺に焦りを見せ、また満州における陸軍や極東方面へと向かわせたバルチック艦隊は決定的に敗北した。日本側も経済的な理由で戦争をし続けることが困難だったとはいえ、ロシア帝国もまた戦争継続することは不可能となった。

これをうけて1905年、日露両国アメリカ合衆国の仲介で講和し、ロシア帝国は朝鮮における覇権と南満州の諸権益、そしてサハリン樺太)の北緯50度以南を日本に譲る形となった。これにより極東方面における南下政策は頓挫し、以後ロシア帝国はヨーロッパ方面へと矛先を変え、再び汎スラヴ義を謳うこととなる。

バルカン戦争

20世紀初頭、ロシア帝国はオーストリアハンガリー帝国オスマン帝国からバルカン半島覇権を奪うべく、オスマン帝国より独立したバルカン半島々(モンテネグロセルビアブルガリアギリシャ)に積極的に支援を与えていた。1908年以降、オスマン帝国バルカンに残る最後の領土であるエーゲおよびその周辺を文化的に「トルコ化」するよう画策したが、これを期にアルバニアなどで反発が過化。これに乗じて勢力拡大を狙っていた上記バルカン4はロシア帝国の後ろを得て「バルカン同盟」を結成。1912年10月バルカン同盟はオスマン帝国宣戦布告した(第一次バルカン戦争)。バルカンにおける己の勢力を守りたいオーストリアハンガリー帝国は、立場を同じくするオスマン帝国側についた。

バルカン同盟軍は当初快進撃を見せ、オスマン帝国イスタンブルとその西方の土地を除き、ほぼすべてのバルカン領土を喪失。しかし戦線は12月以後着し、翌1913年4月からは停戦に入り始めた。

その後バルカン同盟諸の間では領土を巡り緊感が生まれた。特にブルガリアは拡義に乗り出し、他のバルカン同盟諸はおろかルーマニアオスマン帝国まで敵に回し、同年6月29日には再び戦争が勃発(第二次バルカン戦争)。オーストリアハンガリー帝国ブルガリア支援したが、ロシア帝国はモンテネグロセルビアギリシャ支援した。これによってブルガリアは継戦が困難となり、8月には戦争が終結した。

この結果オスマン帝国バルカン領のほとんどを、オーストリアハンガリー帝国バルカンに対する力を削がれ、ロシア帝国の息のかかったモンテネグロセルビアギリシャが大きく勢力を増した。特にセルビアバルカン中央において領土を約2倍にまで拡大し、オーストリアハンガリー帝国内のスラヴ人地域にまでを与え、それを新たな領土として狙うようになり、これが大きな火種となった。ロシア帝国は汎スラヴ義のもと、このセルビアオーストリアに対する領土的野心と、セルビア独立に支持していた。

第一次世界大戦

1914年6月28日、現ボスニア・ヘルツェゴビナサラエボにてオーストリア皇太子夫妻がセルビア人の民族義者に殺される(サラエボ事件)。これをきっかけにオーストリアハンガリー帝国セルビア最後通牒を送る。セルビアは部分的に承諾したがこれが強硬なオーストリア側の逆鱗に触れ、両国戦争へと至った。

これを受け、スラヴ人の盟としてロシア帝国は動員をかけセルビア側に立つことを表明。するとオーストリアと同盟を結ぶドイツ帝国と、先のバルカン戦争オーストリアとともに煮え湯を飲まされたブルガリアオスマン帝国オーストリア側で戦争に参加。ロシア帝国と三協商を形成していたイギリスおよびフランスセルビアとロシア帝国側に付きドイツ宣戦布告し、参戦。かくしてく間に戦争は拡大し、人類史上初の世界大戦となった(第一次世界大戦)。他、大日本帝国アメリカ合衆国イタリアなどがセルビア・ロシア帝国側についた。

ロシア軍は序盤からドイツへ攻撃を仕掛けるが、その動員の遅さからタンネンベルクの戦いにおいて大敗を喫した。その後も戦争継続させたが、死者を増やすばかりで大した活躍は見られなかった。一応、局地的な勝利を得てはいるが、帝国がもつ「遅れ」はもはや取り返しがつかず、ロシア軍ドイツオーストリア軍に匹敵するどころか劣っていることを世界中にしてしまった。

1916年、現ウクライナ西部ガリツィア地方において一定の戦果を収め、その結果ルーマニアを味方として参戦させることに成功する。しかし、以後のロシア軍失策によりそのルーマニアが陥落し、ロシア帝国はいよいよ継戦困難となっていった。

戦争の疲弊と憤はロシア帝国と皇帝ニコラ2世への失望という形で如実に表れていく。ついには内の不満分子を御しきれなくなるに至り、1917年、ロシア帝国は大戦から脱落する(しかし皮にもロシア帝国側である協商が大戦に勝利する)。

ロシア革命と帝国の滅亡

ニコライ2世の即位

 1894年にアレクサンドル3世が逝去すると、皇太子ニコライが即位してニコラ2世となった。ロマノフ王最後のツァーリとなるこの皇帝は、庭では妻子をする良き父親であったが、性格的に弱く、周囲に振り回される人柄であった。アレクサンド皇后は、ドイツのヘッセンの女で、イギリスヴィクトリア女王の孫に当たる。
 皇帝ニコライは、即位前皇太子時代の1890年エジプトからインドを経て極東日本に至る旅行をしている。最終的地はウラジオトクで、ニコライはこの地でシベリア横断鉄道建設の起工式に臨席する予定だった。翌年シンガポールから長崎神戸を経て大津に滞在したニコライはここで突然日本巡査津田三蔵にりつけられた。世にいう大津事件である。一命をとりとめたものの、生涯頭痛に悩まされることとなった。事件自体はなんとか収まったもののこれ以後ニコライは反日感情を捨て去ることは出来ず、直接の原因ではないものの日露戦争によって日露両国間に暗いを落とすことになる。この事件から5年後、モスクワで戴冠式を迎えるが、当日の式を見ようとホドゥインカに集まった群衆が桟敷が壊れたことにより大混乱に陥り、圧死等により、1300人余りが亡くなった。この惨事を知ってか知らずか、皇帝皇后はそのフランス大使催の舞踏会に出席した。このあと人々の間ではこの事件がニコラ2世兆ではないかと噂された。

革命勢力の誕生

 ロシアへのマルクスの学説紹介は、較的く、『資本論』第一部が著された1867年から間もない1872年にはロシア語訳が出版された。ロシアにおける最初のマルクス義の政治結社は、1883年にゲオルギー・プレハーノフがパーヴェル・アクセリロードやヴェーラ・ザスーリチらとともに亡命先のスイスで創設した「労働解放団」である。1895年にはウラジーミル・レーニンユーリー・マルトフらによってペテルブルクに「労働者階級開放闘争同盟」が作られた。しかしこの組織はまもなく政府による弾圧を受け、レーニンはじめ約40名の活動家逮捕された。ロシア共産党の前身である「ロシア社会民主労働党」は、1898年にミンスクで設立された。この時は導者はシベリア流刑になったり、亡命によって、9名だけの下級の代表しか出席できなかった。そして彼らのほとんどは大会直後に警察によって逮捕されている。
 社会民主労働党の実質的な意味での創立は、1903年にベルギ・ブリュッセとイギリ・ロンドンで開かれた第二回大会においてである。この時大会は党員の資格に関する意見の対立から、ボリシェヴィキ(多派の意、レーニ派)とメンシェヴィキ(少派の意、マル派)とに分裂した。この大会では党規約第一条を巡り対立し、レーニンが党の先鋭化を、マルトフが大衆化を志向する立場から、互いに相手を論難した。この対立は、革命概念の違いから起因しており、マルトフはマルクスの説にしたがって、プロレタリア革命(通常イメージされる共産主義革、労働者階級による革命)はブルジョア革(市民革、アメリカ独立革やフランス革命の類、資本家によって君主制を倒す革命)のあとにくるものであり、ロシが経済的に後進国である限り、当面はブルジョア革命を待たなければいけないと考えた。そしてブルジョア革命の担い手はブルジョア自主義者であるから、マルク主義者の仕事は彼らの後押しをすることであって、政権獲得目的とはならない。更にブルジョア革とプロレタリア革命との間には間隔があるだろうから、この間に社会主義的政策を実行し得ない以上、マルク主義者が政掌握するのは、かえって社会民主労働党の立場を危うくするとし、ロシの社会主義政も西ヨーロッパ流の大衆政民政党でなければならない張した。これに対しレーニンは、当面の革がブルジョア革命であることは認めるが、ブルジョア自主義者を信頼することは間違いである。彼らと手を組んで革命を実行するよりも、ロシアにおける最大多数である農民とこそ同盟を結んで、ブルジョア革命を行うほうが正しい。しかし革命後は、いかなるブルジョア自主義者をも排除したプロレタリアートと農民の革的民主的独裁樹立すべきである。第二段階としてのプロレタリア革、西ヨーロッパにおける革道を開くだろうが、それが起こらなくても、プロレタリアーがプロ化した貧農と一緒になって社会主義革命へ道を切り開き、社会主義的秩序を打ち立てることが出来ると考えた上で、ロシの社会主義政党は、労働者たちに外から革命意識をもたらす、少数の訓練された職的革家の集団であるべきだ張した。
 規約をめぐる評決は僅差でレーニ派が敗れたが、それに続く機『イスクラ』の編集委員及び党中央委員会の選出では、7人がボイコットして退場したためレーニが勝利した。ここからレーニ派は多派の意味のボリシェヴィキを名乗り、マルトフらは少派の意味のメンシェヴィキと呼ばれるようになった。

血の日曜日事件

 日露戦争が始まった翌1905年1月3日首都テルブルクのプチロフ工場で大規模ストライキが発生した。きっかけは数名の労働者の首切り反対であったが、このストライキは、5日後には全で465の工場に波及し、11万の労働者がこれに続くことになった。1月9日日曜日には、15万人の労働者とその妻子が、ツァーリに請願するために、僧ガボンに率いられてロシア帝国の徴でもある宮殿宮に向かって行進した。先頭にはイコンやツァーリの肖像が掲げられていた。その要は労働時間短縮や賃上げだけでなく、戦争中止や憲法制定会議選挙といった政治スローガンも「に対するように」請願しようとした。このデモに対し、軍隊が発し、1000人近くの死者と数千人の負傷者を出した。かつてはガボン秘密警察スパイであるとされてきたが、そのレッテルは間違いである事が和田らによる研究によって明らかになっている。流血事件も宮前だけでなく、ペトロラード内の数カ所で起こったことも確認された。この事件は政に忠実だった労働者との間に後戻り出来ない裂を生じさせた。「なるツァーリ」信仰が崩れると同時に、労働組合運動への志向も減衰していき、革命による体制転覆へとなだれ込んでいくことになっていく。

ソビエトの成立

「血の日曜日事件」についてのニュースは、直ちに全へ伝播し、モスクワ、リガ、ワルシャワなどで抗議ストライキが立て続けに起きた。一ヶたらずで全44万人以上の労働者を巻き込んだ。農でも各地で全集会が開かれ、地代の引き下げと労賃値上げを要して、ストライキに入ることが決議された。全としては11月の全ロシア農民同盟第二回大会で、すべての土地を全人民の共有に移すべきと決められた。労働者運動では、5月モスクワ北東イヴァノヴォ・ヴォズネセンスクで、初めて「ソビエト」(評議会の意)という名をもった全的な労働者の代表機関を産み出した。このようなソビエトは、12月までに全都市でも組織された。ペトロラードソビエトでは無党派弁護士フルスタリョフ=ノサーリを議長にして10月に創設され、フィンランドから帰したレフ・トロキーがメンシェヴィキを代表して、社会革命党のアフクセンチェフと並んで副議長に選ばれた。ソビエト自体は1905年第一次ロシア革命終焉とともになくなっていくが、この時発生したソビエトは1917年のロシア革命復活し、重要な役回りを演じる。
 革命の波はこの時軍隊内にも及び、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号水兵が虐に抗議して士官を射殺、艦赤旗を掲げてゼネスト中だったオデッサに入港した。同じような反乱はクロンシュタット、セヴァストポリにも波及している。
 的ストライは10月に最高潮に達し、200万人の労働者が参加し、ロシアの全産業が麻痺した。ここに至ってニコイ2世は、「十月宣言」を発布。市的自由を与えるとともに選挙制の国会(ドゥーマ)の設立を約束した。新たにウィッテが首相に任命され、自主義的ブルジョアジーはウィッテに協力して、工や企業を再開し始めた。しかしペテルブルクの市ソビエト会は十月宣言を拒否して無期限ストライキを決議。しかし、12月には政府によって潰され、モスクの労働者武蜂起も軍隊によって鎮圧された。革命の波は引いていき、代わりにウィッテは革命勢力の逮捕を強化、フランスから借款を取り付けて政府を盤石化していった。但し農民運動は1906年6月までボルガ沿や中部ロシ、バルト諸県で、主邸焼き討ち、害といっ激しい形で続いた。

欺瞞的な立憲体制

 ロシア帝国末期において最後の民主的権力移譲の機会とも言われる政治イベントが起きた。1906年4月、第一国会の開会を前にして行われたニコラ2世による国家基本法の発布である。これは十月宣言が、政治スローガンでしかなかったのに対して、憲法に代わる基本法制定は近代的な政治体制へと脱皮するものとなり得るものだった。しかしながら、以前からあった皇帝が意思を持って介入出来る国家議会は、選挙によって選出される国会と同じ権利を持った上院に改組され、皇帝は依然として専制君称号を保持した。大臣の任免権、軍の統帥権、宣戦・講和の大権のほかに、国会の立法に対する拒否権や、国会閉会中に勅布する権限が残された。ニコラ2世国会招集直前にウィッテを解任し、保守的なイワン・ゴレムキン首相に、剛直で知られるピョートル・ストルイピンを内相に任命した。
 選挙の結果は政府の干渉にも関わら、イギリス流の憲政と自主義的改革を掲げた立憲民主党(カデット)が第一党となった。第二党は社会革命党と同じ傾向の全人民土地所有張するトルドヴィキであった。社会主義革命を志向する社会革命党と社会民主労働党は、人民を憲政の幻想に導くとして、選挙をボイコットした。立憲民主党は、この第一国が1789年フランス三部会のようになるよう望み、国家基本法を拒否して、憲法制定会議招集を求した。政と国会の対立は土地に関する法案をめぐっ激化した。国国有地や御料地のみか、一定以上の主の土地をも農民に与える急進的改革案を作ったが、政府は私有財産の否定であるとして、武力で国会解散させた。

ストルイピンのネクタイ

 第一国会の解散と同時に、内相ストルイピンが首相に任命された。1911年に暗殺されるまで、事実上の独裁者として、一方では革命運動弾圧、もう一方で農業改革を推し進めた。
 この頃過激のテロ活動激化した。社会革命党の激分子からなる戦闘団や最大主義者(マクシマリスト)は、1906-7年で4000人以上、テロによって害した。中には政のスパイ、高官だけでな無関係な人も多くいた。ストルイピンはこれらのテロリストを軍法会議にかけ、数で1000人以上を絞首台に送った。ここから絞首台の縄は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれるようになった。テロリストの組織を壊滅させるためにスパイも送った。有名なのはアゼ―フである。彼は二重スパイで、当局の手先でありながら戦闘団の導者となり、内相ブレーヴェの暗殺を成功させた。
 ストルイピンの評価が割れるのが、農業改革である。農民の自由意志による共同体離脱と、耕地の整理・統合を推奨比較的富裕な農家は、銀行からお金を借りて土地を拡大し、資本主義的経営を行い、ロシアの穀物生産と輸出を増大させた。彼は、農民層を革命の防堤にしようと考えたのである。高く評価する側は、第一次世界大や革にロシアが巻き込まれなければ、経や社は西国と同様に変化を遂げていたという。他方、懐疑的に見る側は、改革の結果は農民層内部で階層分化したに過ぎず、根本問題は解消されていないとする。

戦争を内乱へ

 1914年から1918年まで続く第一次世界大戦に参戦したロシア帝国内部では、当初愛国的感情が著しく高揚した。1914年8月8日国会はたった1日の審議で全会一致で参戦をめる政府案を承認した。ボリシェヴィキとメンシェヴィキの14名は棄権した。ロシア各県にあった自治機関ゼムストヴォのうちロシア機関の呼びかけで、戦傷者救護のための全ロシアゼムストヴォ同盟が設立され、全ロシア都市同盟も作られた。政府は、この戦争を正教徒、スラブ民族の同胞であるセルビアを救うだけでなく、ロシアの名誉や尊厳を守るものであると宣伝した。道徳的を達成するためにアルコールの販売も禁止された。
 愛国的感情は、ヨーロッの社会主義者の心も捉えた。第二インターナショナルは、設立以来反戦平和運動を続けてきたが、第一次世界大戦勃発とともにその態度を変えた。ドイツ社会民主、オーストリア社会民主が戦争支持を決議、フランとイギリの社会主義者もこれにならった。戦争反対を護った社会主義者は、1915年9、スイス・ツィンメワルで会議を開いた。ここで亡命中のレーニは帝義戦争を内乱に転化すべき張した。同時にこの会議で第三インターナショナル設立も唱えたが、大多数の出席者はこれに反対した。このあと翌年4にスイのキンタールで第二回ツィンメワル際社会主者会議が開かれたが、ここにおいてもレーニ指導する派は少派のままであった。この後レーニンはしばらく孤立している。その間『資本主義の最高段階としての帝主義(帝国主義論)』を書き表す。

怪僧ラスプーチン

 ニコラ2世の悪評の一つとして有名なのが、宗教家ラスプーチンを近くに置いたことである。ニコラ2世には4人のがいたが、男の子皇太子アレクセイだけだった。彼は先的な血友病で、血がなかなか止まらない事が続いた。皇后皇太子が3歳の時、当時社交界で有名だったラスプーチンの噂を聞いて、彼を宮廷に招いた。実際に出血を何度か止めたが、これは一種の催眠療法であったと推測されている。皇后は以後ラスプーチンを重用し、ニコラ2世皇后を通じて、ラスプーチンの言うことを傾聴するようになる。
 1915年8月に、ニコイ2世は自ら最高総司令官として首都を離れた。自身はツァーリの義務と考えたが、ラスプーチンにそそのかされた皇后の勧めもあった。皇帝自ら軍を率いる決断は、内閣に相談せずに決めた。戦況が不利ということもあり、12人の閣僚のうち10人は反対したが、首ゴレイキンは「ツァーリの意志には福音書のごとく従わなければならない」とこれを退けた。この年の後半から翌年にかけて、閣僚の首が次々とすげ替えられたが、黒幕としてラスプーチンがいたとされる。この専横は国会で問題になり、自主義者ミリュコーフだけでなく超保守主義者のプリシケーヴィチも、ラスプーチンへ激しい弾劾演説を行なった。これらの演草稿は検閲のため差し止められたが、謄写版やタイプで何千部もコピーされ、晒された。ラスプーチンは、プリシケーヴィチとツァーリの甥・ディミトー大、ユスポ公によって1916年12月16日暗殺された。

2月革命と帝政崩壊

 戦争が長引くにつれて、前線では長期の塹壕戦から厭戦気分が高まっていった。後でも食料や燃料が欠乏、働き手を失った農の生産力も減した。1915年以降、各地でストライキが起こっていたが、16年10月には首都トロラードの6万の労働者が物価値上げに反対してストに入った。1917年2月23日際婦人デーに際し、首都の婦人労働者ストライキと並び、「パンよこせデモ」を実行、これをきっかけに2日後にはストライキが全に波及。スローガンは「パンよこせ」から「専制打倒」「戦争反対」に変わり、新聞も出ず、電車も止まった。27日には兵士が反乱を起こして将校を殺、監解放して3000人の政治犯を釈放した。この日の午後には「労働者ソビエト臨時委員会」が設立された。これには兵士も参加が呼びかけられ、「労兵ソビエト」という革命において決定的役割を担う組織が生まれた。一方国会内には、同日臨時委員会が作られ、首都においてソビエトとこの国会臨時委員会の二重権力が生まれた。28日には反乱軍兵士は膨れ上がり、これを鎮圧するのに向かった政府軍は武器を捨てて帰営した。この事態に直面してようやくプスコフにいたニコラ2世3月2日になって皇位を皇太子に譲る決意をした。国会議長のロジャンコや叔父ニコラ大公将軍たちが王存続のためにはそれ以外ないと勧めた結果だった。しかし医師皇太子の病状から理だとした。国会を代表してきたグチコフとシュルギンも同意見だった。そこでミハイル大公を後継者に名した。しかしミハイルは、憲法制定会議によって皇位が提供されない限り即位できないとした。かくして、ミハイル・ロマノフ以来の300年続いたロマノフ王は、皇位継承者不在のまま崩壊した。

ニコライ2世の最期

 退位したニコライは最初ツァールスコエ・セローの離宮に監禁され、7月臨時政府イギリスに送ろうとしたが失敗、8月家族とともにシベリアのトボリスクに移された。トボリスク移送は、首都近くでは暴徒に襲われるおそれがあったためだが、ここは革命の多くが流刑にされた土地だった。ボリシェヴィキが政権獲得したあとの1918年4月ニコライ夫妻はウラル田舎町エカテリンブルクへ移り、ここの商人イバチエフが匿う。一ヶ子どもたちもやってきて、最後の住居となる。再び、一家は安全なところへ移るということで準備するが、その土地のボリシェヴィキ小隊がやってきて殺された。同日ミハイルベルミで殺された。反革命軍がエカテリンブルクに迫ってきていて、ツァーリ一家の奪還をボリシェヴィキが恐れたためだった。

臨時政府と10月革命

 臨時政府樹立と四月テーゼ

 ニコライ2世が退位を決意した3月2日同日、国会臨時委員会はゲオルギー・リヴォフ公を首班する臨時政府を組織した。これにはペトログラードソビエ副議長であった社会革命党のケレンスキーが司法大して入閣した。4月3日、レーニンが命先のススから封印列車でペトログラードに帰。ドイツ政、ロシア国内の革命騒を利用して、東部戦線から西部戦線へ軍隊を回すことを狙って、レーニンとその同志をドイツ経由帰国させること同意していた。
 レーニンはその翌日十か条からなる「四月テーゼ」を発表した。この中で彼は、現在革はブルジョアジーが政権を握っている第一段階から、プロレタリアートの手に権力が移る第二段階への過渡期にあると規定した。そしてソビエトこそ唯一の革命政府の形態であって、臨時政府を支持する事は誤りである張した。しかし、多くの同志にとって現実離れしていると受け止められた。ボリシェヴィキ党のペトグラー市委員会は、これを13対2で否決した。
 民衆の受け止め方としては、臨時政府を支持す声は少なかった。首の労働と兵は臨時政府の外務大臣ミリュコーフの好戦的な対外覚書に反対して、自然発生的にデモをやり始めた。「戦争終結」と「すべての土地を農民へ」というレーニのスローガンは民衆の心を捉えた。このデモを転機として党の意見はレーニン支持へ傾き、4月24日から開かれたボリシェヴィキ党第七回協議はレーニンの意見を採用し、「すべての権力をソビエトへ」というスローガンを打ち出すようになる。

7月事件とコルニーロフの反乱

 5月2日外務大臣ミリュコーフが辞任し、大蔵大臣テレシチェンコが代わって就任した。リヴォフ首相はこの機会にソビエトの勢力を抱き込む事を考え、三名の社会革命党員と二名のメンシェヴィキを入閣させて第一次連立内閣を組閣。ドイツへの総攻撃を開始したが、4万の犠牲を出し失敗した政府の失政への不満は、7月3日から5日にかけての兵士兵、労働者による武装デモとなって爆発した。政府側は、前線から騎兵師団を呼び戻して鎮圧するとともに、ボリシェヴィキの導者を逮捕した。レーニンフィンランドに逃れ、10月革命直前まで姿をくらます。
 しかし、政府内部も農業問題とウクライナ独立問題に対する閣内不一致から、7月21日リヴォフが首相辞任、3日後ケレンスキーが第二次連立内閣を組閣した。内は首相と陸海軍大臣を兼務し、最令官にコルーロフを任命した。しかしコルーロフは自ら文武の全掌握を図り、8月25日から30日にかけて反乱を起こす。しかし首都に向かおうとした反乱軍は途中で鉄道労働者から害に遭い進めず、コルーロは政府軍によって逮捕された。

武装蜂起の決定

 コルニロフの反乱を鎮圧したケレンスキーは、自ら最高官就任するとともに、公式ロシア共和立を宣言した。しかし彼の権威はコルニロフ事件によって低下する一方、ボリシェヴィキが力を増してきた。そこでケレンスキーはボリシェヴィキへ譲歩をし、7月事件で逮捕した党幹部を釈放した。中にはトロキーもいた。彼は9月23日にペトロラード労兵の議長に選ばれた。ケレンスキー9月25日に第三次連立内閣を組閣したが、この政府はより一層不安定なものだった。10人の社会主義者を含むこの内閣が、10月革命まで権力を維持することになる。
 10月10日、密かにレーニンが変装して首都に戻ってきた。彼はこの日開かれたボリシェヴィキ党の中央委員会で、即時武蜂起を強力張した。これには21人の中央委員のうち12人が出席。10時間の討議の末、レフ・カーメネフとグリゴリー・ジノヴィエフを除く10人がレーニンに賛成し蜂起の日が10月20日に決定された。
  一方、ペトグラー・ソビエトは、10月13に軍事委員会を設置、委員長に議長トツキーが就任した。21日には首都を防衛する全連隊の代表集会において、軍隊がこの軍事革命委員会指揮下に入ることが決定した。委員会は直ちに全部に政治委員を任命して完全に軍指揮権掌握した蜂起の日取りは第二回全ロシ・ソビエト大会の開かれる予定の10月25日と決まった。当初大会は10月20日に予定されていたが、メンシェヴィキの支配する大会執行部によって5日間延期されていた。

10月革命

 ボリシェヴィキが武装起の作戦計画を立てる中、政府側もこれの制圧に急いだ。23日臨時政府軍事委員会の解体とボリシェヴィキ導者の再逮捕を決定した。24日未明、政府の命を受けた士官学校生の一隊が、ボリシェヴィキの機関印刷所を占領する。直ちにボリシェヴィキ党のペトロラード委員会が開かれ、政府に対して行動を起こす事を決定した。
 24日夕方になると3万の武装したボリシェヴィキが一蜂起した。ほとんど抵抗を見ないまま、全て、郵便、電話局など、作戦上の要所を占領した。25朝、ケレンスキはアメリの国旗を立てたオープンカーに乗って首都から逃れた。大勢いたボリシェヴィキの兵誰もこれには気付かなかった。午前10時軍事委員会は、臨時政府の崩壊を発表したが、依然とし冬宮には閣僚が立てこもっており、令部を含市の中心部の地域は、臨時政府の手にあった。この日夜9時45分、巡洋艦アウロラ号から砲を合図冬宮攻撃が開始された冬宮に僅かに残っていたコサック兵と士官学校生徒と婦人大隊は一掃され、翌日午前2時10分、ケレンスキー他一名を除く全閣僚が逮捕された。臨時政府は打倒され蜂起は成功した。ペトグラー・ソビエの執行委員会の一員、スハーノフはもし23日の時点で臨時政が500人の部隊握していれば、ボリシェヴィキの本部のあったスモーリヌイ女学院を襲撃して導者を一網打尽にされていたと述べている。25日ペトロラードの様子は、官庁や学校く切り上げられたが、大部分は店も劇場も開かれておりいつも通りだった。

憲法制定会議の解散

 10月革命自体はレーニンが言ったように、「異常にたやすく与えられた勝利」であった。臨時政府打倒のあと25日、第二回ソビエト大会が開かれ、翌日レーニンが提案した平和と土地に関する布告が採択された。併合・賠償の即時講和と地の土地の収とすべての土地を全人民へ移行する事を謳っていた。同日ボリシェヴィキはレーニンを首班とする政府を単独で組織、これを人民委員会議と名付けた。トロキーを外務人民委員、ヨシフ・スターリンを民俗人民委員に任命した。人民委員会議は、憲法制定会議のための選挙を決定した。レーニンは出来るだけこの選挙を遅らせたがったが、トロキーは反対し、約束した事実無視できないとした。11月中旬から各地で選挙が行われたが、選挙の日取りが遅れたり、投票が全く行われない地域もあった。選挙の結果は、ボリシェヴィキが25%の得票率だった。第一党は総投票3600万のうち2100万を獲得した社会革命党だった。翌年1918年1月5日憲法制定会議が開かれた。議場の周囲には反革命の挑発から会議を守る名で、政府の命を受けた軍隊が配置されていた。707の議席中、絶対過半数の370議席を獲得した社会革命党のチェルノフが議長に選ばれた。ボリシェヴィキはすべての権力がソビエトに属するとの宣言を採択するよう提案したが、これは237対138で否決された。ボリシェヴィキは退場し、人民委員会議憲法制定会議の解散を決定した。翌日全ロシア中央執行委員会は、この決定をいれて武力によって憲法制定会議を解散させた。この解散は大きな反を呼ばなかった。これはロシア民衆が憲法制定会議に期待していなかったこと、西ヨーロッパ流の選挙政治に慣れていなかったことを表している。

ソビエト政権樹立

 ボリシェヴィキは首都でこそ勝利したが、全的にはまだボリシェヴィキ政府は盤石でなかった。速全各地にソビエトを組織し、導できる人材を党から派遣した。しかし必ずしも権力移譲は穏健に進まず、モスクワ、カザン、ハリコフ、キエフ、スモレンスクなどの都市では、流血によって支配を確立した。
 新政権は11月10の法令で身分制度廃止、すべてのロシア人がロシア共の市民とされた。24日には以前司法制度廃され、地方裁判所裁判官は直接選挙で選ばれることになった。他に銀国有化、結の自、男女同権といった政策が打ち出された。
 ボリシェヴィキ政権は、第一次世界大早期講和に動いた。第二回ソビエト大会での平和に関する布告に続き、11月20日にブグ河畔のブレス・リトフスクで休戦交渉が始められ、4週間の休戦協定が結ばれた後、12月9日から平交渉が始められた。ドイツ側は、ポーラン、リトアニ、クールラント、フィンランドといった地方だけでなく、ウクライナまで求してきた。ニコライ・ブハーリン達は徹底抗、トツキーは「戦争もしないが、講和も結ばない」という方針を打ち出した。しかしレーニンは、これ以上の戦争継は不可能であり、ソビエト共国を守るためには、ドイツ側の講和条件を飲むしかないと譲らなかった。翌年1918年1月8日の党幹部会議では、ブハーリン支持32、トツキー支持16に対し、レーニン支持は15しかなかった。その3日後開かれた党中央委員会と左翼社会革命党の合同会議は9対7でトツキー案を認めた。レーニはトツキー案国際的宣伝に過ぎないと切り捨てた。1月15日ウクライは独立宣言をし、2月9日にはドイツと単独講和を結んだ。2月になるとドイツ軍の攻撃が再開され、首ペトグラードにも危険が迫った。党中央委員会は最初レーニン案を否決したが、トツキーが態度を変えると7対6でこれを可決した。直ちに講和条件受諾の電がベルリンに打たれたが、ドイツ側の返事は23日になってからだった。
 1918年3月3日講和条約がブレス・リトフスクで調印された。この講和によってロシアは、人口で26%、耕地27%、穀物生産32%、鉄道26%、製造業33%工業と炭鉱73%失った。レーニンはこれを「ティルジットの和約」と呼んだ。レーニンロシアがこの屈辱の深遠の底まで極めることで、そこから新しい強くて豊かなを作る決意をすっるのだと人々に呼びかけた。

ロシア革命は必然だったか?

ロシア革命の見方には大きく分けて必然論と偶然論がある。必然論はソ連の見解である。つまりマルクスレーニン義に則った人類の歴史法則であるとする。またイギリス歴史学者、E・H・カーもこれに含まれる。彼自身は革命の非人間性を非難するものの、当時のロシアにあっては、現実的にレーニンの路線のみが一であったとする。またソ連公式見解は1918年7月ロシア社会主義共和憲法制定までがロシア革命の時期だが、カー1923年ソビエト社会主義共和国連邦の成立までを革命期と捉える。
 偶然論は、革後亡命した政治家やの歴家によって唱えられている。ロシア革命は避けられたものであり、偶然的な出来事であった張する。亡命政治家側の言い分としては個人の責任に帰する内容が多い。臨時政の首相であったアレクサンドル・ケレンスキーは帝政を崩壊させた2月革命の原因を、ニコイ2世に帰し、臨時政府外相パーヴェ・ミリュコーフの第一次世界大戦中における仏連国への覚書とラーヴル・コルーロフ将軍による反乱が、ボリシェヴィキをいかに利したかを強調する。一方、ミリュコーフ外相自身は、ケレンスキがソビエトの圧力によって、臨時政の外交政策を変更したり、ボリシェヴィキとの連立内閣を支持することによって、左翼へ譲歩した事が、決定的な間違いであったと反論する。の歴家は、経済学的な地殻変動が起きていたこと、つまり19世紀初頭から1917年に至るロシの歴史は、西欧的発展の方向を志向していたこと、奴解放に始まる一連の大改革以後、ロシアは変貌を遂げつつあったと分析した上で、このような歩みを阻止したのが第一次世界大戦であり、この戦争がなければ、ロシア革命は起きなかった張する。
 他に、基本的に1861年の農解放後以降のロシア政治経済は、ロシア革命以前も以後も上からの革命、つまり低開発の工業化を中心とする近代化の一つのタイプであり、ロシア帝国の大蔵大臣セルゲイ・ウィッテも、ソビエト連邦ヨシフ・スターリンも、ロシアの急速な工業化のために、大衆=農民を犠牲にせざるを得なかったという点で同列であり、民の7割をえる農民は長制的家族と農共同体の中で集団的生活様式を押し付けられており、彼らには私有財産制や企業としての使命、個人義の理解もないので、自発的な協力は得られず後進国タイプ開発独裁は仕方なかったとする近代化論もある。
 逆に民衆史論という、ロシア革於ける農民、労働、兵士の役割を重視する立場もある。奴解放のあとも、ロシア農民は村共同体を基盤にして組織化され村団の中に組み込まれて、奴制に似た雇役制に縛られていた。慢性的な土地不足と人口増加、周期的に訪れる飢饉により出稼ぎを余儀なくされる状況いたが、血の日曜日事件以降、農民の中には村集会によって、村取り決めストライキを組織したり、すべての土地の共同体的所有張するようになっていた。また工場労働者の数も当時増えていたが、労働条件が極端に悪く、大企業へと雇用が集中していたこと、農民の出稼ぎが多かったことが、後の連帯をもたらした。そして、第一次ロシア革命も、2月革、10月革命も、このような民衆の不満が戦争という異常事態の中で爆発した結果であり、革派も含めて、いずれの政党も事態の遂行に振り回されていた。そして1917年の革命では兵士の動向鍵となったが、「軍服を着た農民」と呼ばれるほどロシアでは兵士と農民との結びつきも強かった。「全ての権力をソビエトへ」というボリシェヴィキのスローガンも、労働者、農民、兵士の連帯求めた結果であり、それぞれが有機体的に複合していたのがロシア革命だというのがその中身である。

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