基本データ | |
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正式名称 | ロシア帝国 Российская империя Rossiyskaya Imperiya |
国旗 | |
国歌 | 神よツァーリを護り給え |
公用語 | ロシア語 |
首都 | サンクトペテルブルク(1713年 - 1728年) モスクワ(1728年 - 1730年) サンクトペテルブルク(1730年 - 1914年) ペトログラード(1914年 - 1917年) |
面積 | 21,799,825km²(1914年) |
人口 | 128,200,200人(1897年) |
通貨 | ロシア・ルーブル |
ロシア帝国とは、1721年から1917年の間、現在のロシアに当たる地域を中心に北ユーラシアに存在した帝国である。ロマノフ朝または帝政ロシアとも。
本項では1613年のロマノフ朝の成立も記述する。
この国の特徴には次のようなものが挙げられる。
上述の帝国像が形成されるのは成立してしばらくのことである。
17世紀にロマノフ朝は成立するが、その君主権は不完全にあり、ロシアは西欧各国からも帝国として認められていなかったのだ。が、1721年に5代君主ピョートル1世が大北方戦争に勝利し、その功績から「インペラートル(皇帝)」の称号を得ると、ロシアにも「皇帝を戴く国」ができあがった。これがロシア帝国の成立であり、以後世界史において大きな影響力を持つ一国として、この国は君臨し続ける。
ロシア帝国はロマノフ朝による帝政国家であるが、その創成の背景にはモスクワ大公国の姿があった。
時を遡ること15世紀、モンゴル系であるタタール国家やロシアの都市国家群と競争し、勢力を拡大させていたモスクワ大公国は、イヴァン3世の時代にツァーリ(王あるいは皇帝)国として他と一線を画すほどに成長した。さらにこの時期、イヴァン3世は東ローマ皇帝の姪と婚姻したことから、モスクワ大公国は「ローマの血統」を(建前だが)手にした。こうしてモスクワは「第3のローマ」なる付加価値を得、東ローマ帝国の継承者として正教圏における新たな盟主となったのである。
続いて1480年、イヴァン3世の下でモスクワ大公国は「タタールのくびき」なるモンゴルの支配から脱し、事実上の独立を果たす。そして彼の孫である“雷帝”ことイヴァン4世の代には、モスクワ大公国は全ロシア国家のトップを自任する。
ところが1589年にモスクワ大公国のリューリク朝が断絶すると、ロシアは後継者を巡る大動乱の時期に入った。リューリク朝の外戚にあたるフョードル・ニキーチチ・ロマノフがこれを制すると、その息子ミハイル・ロマノフが1613年にロシア全国会議において推戴され、ツァーリとなった。ロシアの300年王朝、ロマノフ朝が成立したのである。
ロシアを統一したロマノフ朝だが、その存在は海外とりわけ欧州からは帝国とは認められてはいなかった。ツァーリの権限も当初は不完全であり、絶対的な君主とはいい難いものだった。1617年にはスウェーデン、翌年にはポーランドと和平を結んだが、国土は削られ油断ならぬ状況が続く。
しかし17世紀の中頃になると、ロマノフ朝は北方戦争や対ポーランド戦において国力を高めていった。4代ツァーリのフョードル・アレクセーエヴィチが亡くなった後はまたも後継者争いが勃発したが、これは1682年にピョートル1世(大帝)の即位により平定された。
ロシアの西欧化を進めるべく、彼は300人からなる大使節団をヨーロッパへ派遣したが、面白いことにピョートル自らも偽名で変装し参加していたのだ。そうやって自身の肉眼で西欧を見、自らの肌で近代を感じたピョートル1世は、帰国後まもなく改革に着手した。これまた興味深いのがその順番で、政治や軍隊の再建をするのかと思えばそうではなく、まずは貴族の服装や様式にこだわりを見せたのだ。そして東ローマ帝国風の紀元を廃止し、新たにユリウス暦を使うよう指示したという。
ピョートル1世はまたオスマン帝国との戦いは危険すぎるとし、従来のロシアが採り続けてきた南下政策を一時中断。そして狙いを北西の方角、すなわちバルト海へと向けた。スウェーデンである。当時のスウェーデンは30年戦争により北欧の覇者、バルト帝国として君臨し、ロシアのバルト海への出口を依然として封鎖していた。
もとより凍らない海を欲することで南下政策をしてきたロシアである。バルト海という海の重要性もまた大きかったことだろう。ピョートル1世はポーランドやデンマークと同盟を結び軍事力を高め、オスマン帝国と和睦し後方の安全を確保すると、1700年、スウェーデンの港湾都市ナルヴァに侵攻を開始した(大北方戦争)。
ロシア軍の数は圧倒的に勝っていた。にもかかわらず、カール12世が率いるスウェーデン軍には大敗を喫した。とはいえその後のスウェーデンがロシアにではなくポーランドに軍を向けていたことは、不幸中の幸いであった。ピョートル1世はこの好機に乗じ、教会の鐘を売って大砲を揃えるなどして、軍備の再建に取りかかる。
再度スウェーデンへ進軍すると、今度はネヴァ川流域の占領に成功した。そして1703年、後にロシア帝国の首都となる、「西欧の窓」ことサンクトペテルブルクを建設。戦争における最前線を確保したのである。その勢いのまま1709年にポルタヴァの会戦にてスウェーデンにほぼ完勝し、カール12世をオスマン帝国へ亡命させるほどに追い詰めると、戦いの行方は決定的となった。一応、カール12世を擁護したオスマン帝国の反逆にあうのだが、1714年には新設の艦隊が活躍しバルト海の制海権を得た。これをもって1721年、ニスタットの講和によりロシアの勝利が確定された。これによりロシア帝国は、ついに海を一つ手に入れたのだった。
ピョートル1世はこの輝かしき戦勝により、元老院からインぺラートル(皇帝)の称号が贈られた。ここに、ロシア皇帝による国家すなわちロシア帝国が成立したのである。
ピョートル1世が国家を近代化させた一方、農民層は農奴化し中世へと逆戻りしていた。これは後の乱や列強との力量差を生むきっかけとなる中世的色彩である。ロシア帝国の18世紀、それはなにも明るい側面には限らない。
ピョートル1世亡き後は再び熾烈な帝位争いが頻発した。主たる原因はピョートル1世が遺した帝位継承法であり、これは現皇帝が気に入った者を指名し帝位を継承させるというものだ。従来の帝位継承は長子制すなわち長男から順に優先されるというものであったが、生前のピョートル1世はこれを「新皇帝は前皇帝が決める」というように改変したのである。
18世紀は女帝の時代ともいえる。帝位を争う形で7人の皇帝が続出したのだが、うち4人は女帝と(当時にしてみれば)少々異例である。そしてその特異な女帝時代の最後を飾ったのが、かの女帝エカチェリーナ2世であった。
1756年、マリア・テレジアが統べるオーストリアは、フリードリヒ2世のプロイセンに対しシュレジエンを要求、戦争に突入した(七年戦争)。エリザヴェータ女帝が統治する当時のロシア帝国は、オーストリア・フランス側に味方し、プロイセンをあと一歩のところまで追い詰める。ところが、1762年にロシア皇帝がピョートル3世に代わると、状況は一変。ピョートル3世は「フリードリヒ2世かっこいい」という極めて個人的な理由でプロイセン側への攻撃を中止し、結果としてオーストリアとフランスを裏切った。ロシア帝国はオーストリアはもちろんフランスに非難され、また国内も動乱した。当然である。
これを見かねたピョートル3世の皇后エカチェリーナ(2世)はクーデターを起こす。このとき彼女は男装し馬上で指揮を執っていたという。彼女を待望する声はピョートル3世の失態以来とても高く、それゆえクーデターはほぼ無血で成功。旦那のピョートル3世は廃位・幽閉され、後に暗殺された。そしてまもなく彼女は皇帝として即位した。エカチェリーナ2世(大帝)である。
エカチェリーナ2世は生粋のドイツ人であった。現ポーランドのシュテッティンからロシアに来た彼女は、ヴォルテールやモンテスキューなど、フランスの啓蒙思想家の著作をよく読んだ。また歴史にも関心を持ち、カトリック修道士バールが著した『ドイツ史』も熱心に読んだという。彼女はまた啓蒙思想家としても知られ、ヴォルテールやディドロと文通し多くの精神を学んだ。
即位後エカチェリーナ2世はすぐに法の編纂にあたった。彼女は「ロシアには近代的な法が必要」と唱え、君主権を絶対とする一方、法の前では臣民はみな平等であると説いた。
エカチェリーナ2世はまた宗教的寛容や自由な経済活動を促進し、各地に学校や孤児院、病院を建設させたうえ、司法機関を樹立させ、また文芸の出版にも力を注いだ。
ロシア帝国の人口の9割は農民であり、彼らの農奴化は加速するがままであった。エカチェリーナ2世はこれを緩和する意志はあったのだが、貴族の猛烈な反対にあってしまう。かくして搾取され負担が増加する一方の農民らは不満が募り、1773年、エメリヤン・プガチョフが率いる乱が勃発した(プガチョフの乱)。
乱の範囲は南ロシア一帯にまで拡大し、農奴や農民はもとより諸部族まで包括した。結局この大規模な乱は鎮圧されるのだが、それは仲間に裏切られロシア政府に差し出された、プガチョフの処刑(1775年)によるものだった。
危険因子をいまだ抱えたまま、ロシア帝国はより多くの領土を貪っていった。
二度の露土戦争(1768 - 1774年 / 1787 - 1791年)では、オスマン帝国から黒海北岸とクリミア半島を獲得し、オスマン内の正教徒に対する保護権をも手に入れた。また黒海をロシアの海とすべく、黒海艦隊を創設していった。これにより、ロシア帝国はついに黒海方面への本格的な進出を可能とした。
西方の拡大もまた大きく、七年戦争の後にプロイセンやオーストリアと共にポーランドを分割すると、その東部をみごと併合した。
1801年にアレクサンドル1世が即位すると、ロシア帝国は激動の近代をいく形となる。
即位後のアレクサンドルは、拷問を廃止し検閲を緩和するなど開放的な姿勢を見せた。その一方、非公式委員会なるものを組織し、改革を進めていった。具体的には、時代遅れの参議院に代わり8つの省と大臣委員会を組織したり、領主に農奴解放を認めたり、教育改革により大学を建設したり、などである。
フランス革命の中台頭した軍人ナポレオン・ボナパルトは、1804年にはフランス皇帝となり欧州大陸に覇を唱えていた。アレクサンドル1世は即位当初イギリスとフランスにそれぞれ別個の案で接近していたが、この皇帝ナポレオン1世の登場によりフランスとロシアの関係は急激に緊張した。
1805年、 第3回対仏大同盟が展開されると、ロシア帝国はそれに加盟。同年、アレクサンドル1世率いるロシア軍とフランツ1世率いるオーストリア軍が、ナポレオンのフランス軍と対決(アウステルリッツの戦い(三帝会戦))するが、決定的な敗北を喫してしまう。ロシア・オーストリア連合軍はフランスの10倍以上の戦死者を出し、第3回対仏大同盟は崩壊、また神聖ローマ帝国が完全に消滅した。
フランス帝国が産業革命中のイギリスを封じ込め、ヨーロッパ大陸の経済を牛耳ろうとしていた中、ロシア帝国は1810年には港を開放し何食わぬ顔で中立国と貿易をしていた。ナポレオンはこれをよしとせず、ロシア遠征を画策。1812年、アレクサンドル1世は再びナポレオンと対決することに。
ロシア軍230,000人 対 フランス軍614,000人。その戦力差は歴然であった。
ナポレオンの「大軍(グラン・ダルメ)」がロシアに侵入したのは1812年6月24日。兵力・装備ともに劣るロシア軍は、正面衝突を避け、撤退を繰り返し、広大な領土と極寒を利用した消耗作戦にでた。ロシア側が初めて反撃にでたのは侵入開始後の2ヶ月半である9月7日のことで、場所はモスクワから西方120km離れたボロジノであった。この最初の衝突でロシア軍は44,000人を失うが、フランス軍にも5万人以上の被害を被らせ、撤退に追い込んだ。
その後フランス軍は110,000人とかなり減少するも、ロシア第2の首都モスクワに到着、入城した。ナポレオンは勝利を確信したのだろうが、しかしそこはもぬけの殻だった。ロシア側はあらかじめ、モスクワを疎開させ全市民を避難させていたのである。殺風景な大地の中、ナポレオンに齎されたのは冬将軍という過酷な寒さと直後の大火災だけだった。
とどまることを恐れたフランス軍は、10月19日に撤退を表明した。徹底的に数を減らされたナポレオン軍はロシアを後にするが、この時ロシア軍や農民義勇軍に追い打ちをくらい、残りわずかな兵力をさらに減らす形となった。ナポレオンは後に帰還するが、そのとき傍にいたのは数名の側近だけだったという……。
ナポレオンを撃退したことで、アレクサンドル1世の発言力は大きく高まり、ヨーロッパの国際関係を取り仕切るようになる。
1813年10月にはライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオン軍にまたも勝利し、1814年3月18日にはパリへ入城しナポレオンをエルバ島送りにした。
彼はその後、ナポレオン台頭前の旧体制を復活させるウィーン会議においても指導者として迎え入れられる。ナポレオンの下成り立っていたワルシャワ公国(ポーランド)をロシア皇帝が王として統治するポーランド王国に塗り替え、そして強まりつつあった市民階級の動きは「神聖同盟」の下ウィーン体制で封じていった(反動政治)。
1825年、軍事将校らによるデカブリストの乱が始まると、すでにエカチェリーナ2世治世期からあった国内不満は飛躍的に拡大した。またピョートル1世がそうしたように、帝国は依然として「凍らぬ海」を欲していた。とはいえ内部の憂いもどうにかしたい。
そういった経緯でロシア帝国はこの不満を「汎スラヴ主義」なる民族問題により対外へ発散するよう画策。これは、当時スラヴ人が移住していたバルカン半島へ国民の目を向けさせ、さらに半島を支配下においていたオスマン帝国へスラヴ人国家を通して介入し、あわよくば東地中海への南下を期待する、というまさに一石二鳥の計画であった。
ロシア帝国の思惑により、オスマン帝国のバルカン半島支配は動揺し、1829年からはギリシャなどの半島国家が独立を宣言するばかりか、ムハンマド=アリーによってエジプトさえも自立傾向を露わにした。ほか、帝国はバルカン半島のスラヴ人国家の多くを衛星国としたことから、東地中海における制海権さえ掌握しつつあった。「悲願」は達成されつつあった。
が、このような野望の故に他を圧迫したからか、大北方戦争以来の宿敵オスマン帝国との再衝突は、もはや避けようがなかった。ついには1853年、ロシア帝国とオスマン帝国の間で戦争が勃発する(クリミア戦争)。だが英仏の介入により戦いは敗北に終わり、より多くの凍らぬ海を求めた南下政策は頓挫した。
他ならぬ後進性を思い知らされたロシア帝国であったが、それでも「悲願」すなわち凍らぬ海への想いが耐える気配はない。1861年に農奴解放令により帝国の近代化を推し進めるが、民の間では「ナロードニキ運動」なる社会主義思想が胎動しつつあった。
このように段々と複雑さを増していく状況下、ロシア帝国は清朝(中国)との外交により刻一刻と東方における南下の下ごしらえを始めていた。
ニコライ2世の代にもなると、フランス外資の導入による重工業化が推し進められ、シベリア鉄道も整備されていった。外的にはイギリスと中央アジアを巡って覇権を争い(グレート・ゲーム)、これが手詰まりになるとまたまた極東方面へ南下を画策。するとロシア帝国の南下を恐れ日英同盟を結んだ大日本帝国と対立し、1904年、日露戦争が始まった。
国土・国力ともに大日本帝国の上をいくロシア帝国だったが、ロシア第一革命による内部の動揺に焦りを見せ、また満州における陸軍や極東方面へと向かわせたバルチック艦隊は決定的に敗北した。日本側も経済的な理由で戦争をし続けることが困難だったとはいえ、ロシア帝国もまた戦争を継続することは不可能となった。
これをうけて1905年、日露両国はアメリカ合衆国の仲介で講和し、ロシア帝国は朝鮮における覇権と南満州の諸権益、そしてサハリン(樺太)の北緯50度以南を日本に譲る形となった。これにより極東方面における南下政策は頓挫し、以後ロシア帝国はヨーロッパ方面へと矛先を変え、再び汎スラヴ主義を謳うこととなる。
20世紀初頭、ロシア帝国はオーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国からバルカン半島の覇権を奪うべく、オスマン帝国より独立したバルカン半島の国々(モンテネグロ王国、セルビア王国、ブルガリア王国、ギリシャ王国)に積極的に支援と影響を与えていた。1908年以降、オスマン帝国はバルカンに残る最後の領土であるエーゲ海北岸およびその周辺を文化的に「トルコ化」するよう画策したが、これを期にアルバニアなどで反発が過激化。これに乗じて勢力拡大を狙っていた上記バルカン4国はロシア帝国の後ろ盾を得て「バルカン同盟」を結成。1912年10月、バルカン同盟はオスマン帝国に宣戦布告した(第一次バルカン戦争)。バルカンにおける己の勢力を守りたいオーストリア=ハンガリー帝国は、立場を同じくするオスマン帝国側についた。
バルカン同盟軍は当初快進撃を見せ、オスマン帝国はイスタンブルとその西方の土地を除き、ほぼすべてのバルカン領土を喪失。しかし戦線は12月以後膠着し、翌1913年4月からは停戦に入り始めた。
その後バルカン同盟諸国の間では領土を巡り緊張感が生まれた。特にブルガリア王国は拡張主義に乗り出し、他のバルカン同盟諸国はおろかルーマニアやオスマン帝国まで敵に回し、同年6月29日には再び戦争が勃発(第二次バルカン戦争)。オーストリア=ハンガリー帝国はブルガリアを支援したが、ロシア帝国はモンテネグロ・セルビア・ギリシャを支援した。これによってブルガリアは継戦が困難となり、8月には戦争が終結した。
この結果オスマン帝国はバルカン領のほとんどを、オーストリア=ハンガリー帝国はバルカンに対する影響力を削がれ、ロシア帝国の息のかかったモンテネグロ・セルビア・ギリシャが大きく勢力を増した。特にセルビアはバルカン中央において領土を約2倍にまで拡大し、オーストリア=ハンガリー帝国内のスラヴ人地域にまで影響を与え、それを新たな領土として狙うようになり、これが大きな火種となった。ロシア帝国は汎スラヴ主義のもと、このセルビアのオーストリアに対する領土的野心と、セルビアの独立を公に支持していた。
1914年6月28日、現ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボにてオーストリアの皇太子夫妻がセルビア人の民族主義者に銃殺される(サラエボ事件)。これをきっかけにオーストリア=ハンガリー帝国はセルビアへ最後通牒を送る。セルビアは部分的に承諾したがこれが強硬なオーストリア側の逆鱗に触れ、両国は戦争へと至った。
これを受け、スラヴ人の盟主としてロシア帝国は動員をかけセルビア側に立つことを表明。するとオーストリアと同盟を結ぶドイツ帝国と、先のバルカン戦争でオーストリアとともに煮え湯を飲まされたブルガリア・オスマン帝国もオーストリア側で戦争に参加。ロシア帝国と三国協商を形成していたイギリスおよびフランスはセルビアとロシア帝国側に付きドイツに宣戦布告し、参戦。かくして瞬く間に戦争は拡大し、人類史上初の世界大戦となった(第一次世界大戦)。他、大日本帝国・アメリカ合衆国・イタリア王国などがセルビア・ロシア帝国側についた。
ロシア軍は序盤からドイツへ攻撃を仕掛けるが、その動員の遅さからタンネンベルクの戦いにおいて大敗を喫した。その後も戦争を継続させたが、死者を増やすばかりで大した活躍は見られなかった。一応、局地的な勝利を得てはいるが、帝国がもつ「遅れ」はもはや取り返しがつかず、ロシア軍がドイツ・オーストリア軍に匹敵するどころか劣っていることを世界中に晒してしまった。
1916年、現ウクライナ西部のガリツィア地方において一定の戦果を収め、その結果ルーマニアを味方として参戦させることに成功する。しかし、以後のロシア軍の失策によりそのルーマニアが陥落し、ロシア帝国はいよいよ継戦困難となっていった。
戦争の疲弊と鬱憤はロシア帝国と皇帝ニコライ2世への失望という形で如実に表れていく。ついには国内の不満分子を御しきれなくなるに至り、1917年、ロシア帝国は大戦から脱落する(しかし皮肉にもロシア帝国側である協商国が大戦に勝利する)。
1894年にアレクサンドル3世が逝去すると、皇太子ニコライが即位してニコライ2世となった。ロマノフ王朝最後のツァーリとなるこの皇帝は、家庭では妻子を愛する良き父親であったが、性格的に弱く、周囲に振り回される人柄であった。アレクサンドラ皇后は、ドイツのヘッセンの公女で、イギリスのヴィクトリア女王の孫に当たる。
皇帝ニコライは、即位前皇太子時代の1890年秋、エジプトからインドを経て極東日本に至る旅行をしている。最終目的地はウラジオストクで、ニコライはこの地でシベリア横断鉄道建設の起工式に臨席する予定だった。翌年春シンガポールから長崎、神戸を経て大津に滞在したニコライはここで突然日本の巡査津田三蔵に斬りつけられた。世にいう大津事件である。一命をとりとめたものの、生涯頭痛に悩まされることとなった。事件自体はなんとか収まったもののこれ以後ニコライは反日感情を捨て去ることは出来ず、直接の原因ではないものの日露戦争によって日露両国間に暗い影を落とすことになる。この事件から5年後、モスクワで戴冠式を迎えるが、当日の朝式を見ようとホドゥインカに集まった群衆が桟敷が壊れたことにより大混乱に陥り、圧死等により、1300人余りが亡くなった。この惨事を知ってか知らずか、皇帝と皇后はその夜フランス大使主催の舞踏会に出席した。このあと人々の間ではこの事件がニコライ2世の凶兆ではないかと噂された。
ロシアへのマルクスの学説紹介は、比較的早く、『資本論』第一部が著された1867年から間もない1872年にはロシア語訳が出版された。ロシアにおける最初のマルクス主義の政治結社は、1883年にゲオルギー・プレハーノフがパーヴェル・アクセリロードやヴェーラ・ザスーリチらとともに亡命先のスイスで創設した「労働解放団」である。1895年にはウラジーミル・レーニンやユーリー・マルトフらによってペテルブルクに「労働者階級開放闘争同盟」が作られた。しかしこの組織はまもなく政府による弾圧を受け、レーニンはじめ約40名の活動家が逮捕された。ロシア共産党の前身である「ロシア社会民主労働党」は、1898年にミンスクで設立された。この時は主な指導者はシベリア流刑になったり、国外亡命によって、9名だけの下級の代表しか出席できなかった。そして彼らのほとんどは大会直後に警察によって逮捕されている。
社会民主労働党の実質的な意味での創立は、1903年にベルギー・ブリュッセルとイギリス・ロンドンで開かれた第二回大会においてである。この時大会は党員の資格に関する意見の対立から、ボリシェヴィキ(多数派の意、レーニン派)とメンシェヴィキ(少数派の意、マルトフ派)とに分裂した。この大会では党規約第一条を巡り対立し、レーニンが党の先鋭化を、マルトフが大衆化を志向する立場から、互いに相手を論難した。この対立は、革命概念の違いから起因しており、マルトフはマルクスの説にしたがって、プロレタリア革命(通常イメージされる共産主義革命、労働者階級による革命)はブルジョア革命(市民革命、アメリカ独立革命やフランス革命の類、資本家によって君主制を倒す革命)のあとにくるものであり、ロシアが経済的に後進国である限り、当面はブルジョア革命を待たなければいけないと考えた。そしてブルジョア革命の担い手はブルジョア自由主義者であるから、マルクス主義者の仕事は彼らの後押しをすることであって、政権獲得が目的とはならない。更にブルジョア革命とプロレタリア革命との間には間隔があるだろうから、この間に社会主義的政策を実行し得ない以上、マルクス主義者が政権掌握するのは、かえって社会民主労働党の立場を危うくするとし、ロシアの社会主義政党も西ヨーロッパ流の大衆政党/国民政党でなければならないと主張した。これに対しレーニンは、当面の革命がブルジョア革命であることは認めるが、ブルジョア自由主義者を信頼することは間違いである。彼らと手を組んで革命を実行するよりも、ロシアにおける最大多数である農民とこそ同盟を結んで、ブルジョア革命を行うほうが正しい。しかし革命後は、いかなるブルジョア自由主義者をも排除したプロレタリアートと農民の革命的民主的独裁を樹立すべきである。第二段階としてのプロレタリア革命派、西ヨーロッパにおける革命が道を開くだろうが、それが起こらなくても、プロレタリアートがプロ化した貧農と一緒になって社会主義革命への道を切り開き、社会主義的秩序を打ち立てることが出来ると考えた上で、ロシアの社会主義政党は、労働者たちに外から革命意識をもたらす、少数の訓練された職業的革命家の集団であるべきだと主張した。
規約をめぐる評決は僅差でレーニン派が敗れたが、それに続く機関紙『イスクラ』の編集委員及び党中央委員会の選出では、7人がボイコットして退場したためレーニン派が勝利した。ここからレーニン派は多数派の意味のボリシェヴィキを名乗り、マルトフらは少数派の意味のメンシェヴィキと呼ばれるようになった。
日露戦争が始まった翌1905年1月3日、首都ペテルブルクのプチーロフ工場で大規模ストライキが発生した。きっかけは数名の労働者の首切り反対であったが、このストライキは、5日後には全市で465の工場に波及し、11万の労働者がこれに続くことになった。1月9日の日曜日朝には、15万人の労働者とその妻子が、ツァーリに請願するために、僧ガボンに率いられてロシア帝国の象徴でもある宮殿、冬宮に向かって行進した。先頭にはイコンやツァーリの肖像が掲げられていた。その要求は労働時間短縮や賃上げだけでなく、戦争中止や憲法制定会議の選挙といった政治的スローガンも「父に対するように」請願しようとした。このデモに対し、軍隊が発砲し、1000人近くの死者と数千人の負傷者を出した。かつてはガボンは秘密警察のスパイであるとされてきたが、そのレッテルは間違いである事が和田春樹らによる研究によって明らかになっている。流血事件も冬宮前だけでなく、ペトログラード市内の数カ所で起こったことも確認された。この事件は帝政に忠実だった労働者との間に後戻り出来ない亀裂を生じさせた。「父なるツァーリ」信仰が崩れると同時に、労働組合運動への志向も減衰していき、革命による体制転覆へとなだれ込んでいくことになっていく。
「血の日曜日事件」についてのニュースは、直ちに全国へ伝播し、モスクワ、リガ、ワルシャワなどで抗議のストライキが立て続けに起きた。一ヶ月たらずで全国44万人以上の労働者を巻き込んだ。農村でも各地で全村集会が開かれ、地代の引き下げと労賃値上げを要求して、ストライキに入ることが決議された。全国としては11月の全ロシア農民同盟第二回大会で、すべての土地を全人民の共有に移すべきと決められた。労働者運動では、5月にモスクワ北東イヴァノヴォ・ヴォズネセンスクで、初めて「ソビエト」(評議会の意)という名をもった全市的な労働者の代表機関を産み出した。このようなソビエトは、12月までに全国の主要都市でも組織された。ペトログラードのソビエトでは無党派の弁護士フルスタリョフ=ノサーリを議長にして10月に創設され、フィンランドから帰国したレフ・トロツキーがメンシェヴィキを代表して、社会革命党のアフクセンチェフと並んで副議長に選ばれた。ソビエト自体は1905年第一次ロシア革命の終焉とともになくなっていくが、この時発生したソビエトは1917年のロシア革命で復活し、重要な役回りを演じる。
革命の波はこの時軍隊内にも及び、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号で水兵が虐待に抗議して士官を射殺、艦は赤旗を掲げてゼネスト中だったオデッサに入港した。同じような反乱はクロンシュタット、セヴァストポリにも波及している。
全国的ストライキは10月に最高潮に達し、200万人の労働者が参加し、ロシアの全産業が麻痺した。ここに至ってニコライ2世は、「十月宣言」を発布。市民的自由を与えるとともに選挙制の国会(ドゥーマ)の設立を約束した。新たにウィッテが首相に任命され、自由主義的ブルジョアジーはウィッテに協力して、工場や企業を再開し始めた。しかしペテルブルクの全市ソビエト会議は十月宣言を拒否して、無期限ストライキを決議。しかし、12月には政府によって潰され、モスクワの労働者武装蜂起も軍隊によって鎮圧された。革命の波は引いていき、代わりにウィッテは革命勢力の逮捕を強化、フランスから借款を取り付けて政府を盤石化していった。但し農民運動は1906年6月までボルガ沿岸や中部ロシア、バルト諸県で、地主邸焼き討ち、地主殺害といった激しい形で続いた。
ロシア帝国末期において最後の民主的権力移譲の機会とも言われる政治的イベントが起きた。1906年4月、第一国会の開会を前にして行われたニコライ2世による国家基本法の発布である。これは十月宣言が、政治的スローガンでしかなかったのに対して、憲法に代わる基本法制定は近代的な政治体制へと脱皮するものとなり得るものだった。しかしながら、以前からあった皇帝が意思を持って介入出来る国家評議会は、選挙によって選出される国会と同じ権利を持った上院に改組され、皇帝は依然として専制君主の称号を保持した。大臣の任免権、軍の統帥権、宣戦・講和の大権のほかに、国会の立法に対する拒否権や、国会閉会中に勅令を公布する権限が残された。ニコライ2世は国会招集直前にウィッテを解任し、保守的なイワン・ゴレムイキンを首相に、剛直で知られるピョートル・ストルイピンを内相に任命した。
選挙の結果は政府の干渉にも関わらず、イギリス流の立憲政治と自由主義的改革を掲げた立憲民主党(カデット)が第一党となった。第二党は社会革命党と同じ傾向の全人民土地所有を主張するトルドヴィキであった。社会主義革命を志向する社会革命党と社会民主労働党は、人民を立憲政治の幻想に導くとして、選挙をボイコットした。立憲民主党は、この第一国会が1789年フランス三部会のようになるよう望み、国家基本法を拒否して、憲法制定会議招集を要求した。政府と国会の対立は土地に関する法案をめぐって激化した。国会は国有地や御料地のみか、一定以上の地主の土地をも農民に与える急進的改革案を作ったが、政府は私有財産の否定であるとして、武力で国会解散させた。
第一国会の解散と同時に、内相ストルイピンが首相に任命された。1911年に暗殺されるまで、事実上の独裁者として、一方では革命運動弾圧、もう一方で農業改革を推し進めた。
この頃過激派のテロ活動も激化した。社会革命党の過激分子からなる戦闘団や最大限主義者(マクシマリスト)は、1906-7年で4000人以上、テロによって殺害した。中には政府のスパイ、高官だけでなく無関係な人も多くいた。ストルイピンはこれらのテロリストを軍法会議にかけ、数ヶ月で1000人以上を絞首台に送った。ここから絞首台の縄は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれるようになった。テロリストの組織を壊滅させるためにスパイも送った。有名なのはアゼ―フである。彼は二重スパイで、当局の手先でありながら戦闘団の指導者となり、内相ブレーヴェの暗殺を成功させた。
ストルイピンの評価が割れるのが、農業改革である。農民の自由意志による共同体離脱と、耕地の整理・統合を推奨、比較的富裕な農家は、銀行からお金を借りて土地を拡大し、資本主義的経営を行い、ロシアの穀物生産と輸出を増大させた。彼は、農民層を革命の防波堤にしようと考えたのである。高く評価する側は、第一次世界大戦や革命にロシアが巻き込まれなければ、経済や社会は西欧諸国と同様に変化を遂げていたという。他方、懐疑的に見る側は、改革の結果は農民層内部で階層分化したに過ぎず、根本問題は解消されていないとする。
1914年から1918年まで続く第一次世界大戦に参戦したロシア帝国内部では、当初愛国的感情が著しく高揚した。1914年8月8日、国会はたった1日の審議で全会一致で参戦を求める政府案を承認した。ボリシェヴィキとメンシェヴィキの14名は棄権した。ロシア各県にあった自治機関ゼムストヴォのうちロシアの機関の呼びかけで、戦傷者救護のための全ロシアゼムストヴォ同盟が設立され、全ロシア都市同盟も作られた。政府は、この戦争を正教徒、スラブ民族の同胞であるセルビアを救うだけでなく、ロシアの名誉や尊厳を守るものであると宣伝した。道徳的目的を達成するためにアルコールの販売も禁止された。
愛国的感情は、ヨーロッパ各国の社会主義者の心も捉えた。第二インターナショナルは、設立以来反戦平和運動を続けてきたが、第一次世界大戦勃発とともにその態度を変えた。ドイツ社会民主党、オーストリア社会民主党が戦争支持を決議、フランスとイギリスの社会主義者もこれにならった。戦争反対を護った社会主義者は、1915年9月、スイス・ツィンメルワルトで会議を開いた。ここで亡命中のレーニンは帝国主義戦争を内乱に転化すべきと主張した。同時にこの会議で第三インターナショナル設立も唱えたが、大多数の出席者はこれに反対した。このあと翌年4月にスイスのキンタールで第二回ツィンメルワルト国際社会主義者会議が開かれたが、ここにおいてもレーニンの指導する左派は少数派のままであった。この後レーニンはしばらく孤立している。その間『資本主義の最高段階としての帝国主義(帝国主義論)』を書き表す。
ニコライ2世の悪評の一つとして有名なのが、宗教家ラスプーチンを近くに置いたことである。ニコライ2世には4人の娘がいたが、男の子は皇太子アレクセイだけだった。彼は先天的な血友病で、血がなかなか止まらない事が続いた。皇后は皇太子が3歳の時、当時社交界で有名だったラスプーチンの噂を聞いて、彼を宮廷に招いた。実際に出血を何度か止めたが、これは一種の催眠療法であったと推測されている。皇后は以後ラスプーチンを重用し、ニコライ2世も皇后を通じて、ラスプーチンの言うことを傾聴するようになる。
1915年8月に、ニコライ2世は自ら最高総司令官として首都を離れた。自身はツァーリの義務と考えたが、ラスプーチンにそそのかされた皇后の勧めもあった。皇帝自ら軍を率いる決断は、内閣に相談せずに決めた。戦況が不利ということもあり、12人の閣僚のうち10人は反対したが、首相ゴレムイキンは「ツァーリの意志には福音書のごとく従わなければならない」とこれを退けた。この年の後半から翌年にかけて、閣僚の首が次々とすげ替えられたが、黒幕としてラスプーチンがいたとされる。この専横は国会で問題になり、自由主義者ミリュコーフだけでなく、超保守主義者のプリシケーヴィチも、ラスプーチンへの激しい弾劾演説を行なった。これらの演説草稿は検閲のため差し止められたが、謄写版やタイプで何千部もコピーされ、衆目に晒された。ラスプーチンは、プリシケーヴィチとツァーリの甥・ディミトリー大公、ユスポフ公によって1916年12月16日暗殺された。
戦争が長引くにつれて、前線では長期の塹壕戦から厭戦気分が高まっていった。銃後でも食料や燃料が欠乏、働き手を失った農村の生産力も激減した。1915年秋以降、各地でストライキが起こっていたが、16年10月には首都ペトログラードの6万の労働者が物価値上げに反対してストに入った。1917年2月23日の国際婦人デーに際し、首都の婦人労働者がストライキと並び、「パンよこせデモ」を実行、これをきっかけに2日後にはストライキが全市に波及。スローガンは「パンよこせ」から「専制打倒」「戦争反対」に変わり、新聞も出ず、電車も止まった。27日には兵士が反乱を起こして将校を殺害、監獄を解放して3000人の政治犯を釈放した。この日の午後には「労働者ソビエト臨時委員会」が設立された。これには兵士も参加が呼びかけられ、「労兵ソビエト」という革命において決定的役割を担う組織が生まれた。一方国会内には、同日臨時委員会が作られ、首都においてソビエトとこの国会臨時委員会の二重権力が生まれた。28日には反乱軍の兵士は膨れ上がり、これを鎮圧するのに向かった政府軍は武器を捨てて帰営した。この事態に直面してようやくプスコフにいたニコライ2世は3月2日になって皇位を皇太子に譲る決意をした。国会議長のロジャンコや叔父のニコライ大公、将軍たちが王朝存続のためにはそれ以外ないと勧めた結果だった。しかし医師は皇太子の病状から無理だと主張した。国会を代表してきたグチコフとシュルギンも同意見だった。そこで弟のミハイル大公を後継者に指名した。しかしミハイルは、憲法制定会議によって皇位が提供されない限り即位できないと主張した。かくして、ミハイル・ロマノフ以来の300年続いたロマノフ王朝は、皇位継承者不在のまま崩壊した。
退位したニコライは最初ツァールスコエ・セローの離宮に監禁され、7月に臨時政府はイギリスに送ろうとしたが失敗、8月家族とともにシベリアのトボリスクに移された。トボリスク移送は、首都近くでは暴徒に襲われるおそれがあったためだが、ここは革命家の多くが流刑にされた土地だった。ボリシェヴィキが政権獲得したあとの1918年4月にニコライ夫妻はウラルの田舎町エカテリンブルクへ移り、ここの商人イバチエフが匿う。一ヶ月後子どもたちもやってきて、最後の住居となる。再び、一家は安全なところへ移るということで準備するが、その土地のボリシェヴィキ小隊がやってきて銃殺された。同日ミハイル公もベルミで殺害された。反革命軍がエカテリンブルクに迫ってきていて、ツァーリ一家の奪還をボリシェヴィキが恐れたためだった。
ニコライ2世が退位を決意した3月2日同日、国会臨時委員会はゲオルギー・リヴォフ公を首班とする臨時政府を組織した。これにはペトログラード・ソビエト副議長であった社会革命党のケレンスキーが司法大臣として入閣した。4月3日、レーニンが亡命先のスイスから封印列車でペトログラードに帰国。ドイツ政府は、ロシア国内の革命騒動を利用して、東部戦線から西部戦線へ軍隊を回すことを狙って、レーニンとその同志をドイツ経由で帰国させることに同意していた。
レーニンはその翌日十か条からなる「四月テーゼ」を発表した。この中で彼は、現在革命はブルジョアジーが政権を握っている第一段階から、プロレタリアートの手に権力が移る第二段階への過渡期にあると規定した。そしてソビエトこそが唯一の革命政府の形態であって、臨時政府を支持する事は誤りであると主張した。しかし、多くの同志にとって現実離れしていると受け止められた。ボリシェヴィキ党のペトログラード市委員会は、これを13対2で否決した。
民衆の受け止め方としては、臨時政府を支持する声は少なかった。首都の労働者と兵士は臨時政府の外務大臣ミリュコーフの好戦的な対外覚書に反対して、自然発生的にデモをやり始めた。「戦争終結」と「すべての土地を農民へ」というレーニンのスローガンは民衆の心を捉えた。このデモを転機として党の意見はレーニン支持へ傾き、4月24日から開かれたボリシェヴィキ党第七回全国協議会はレーニンの意見を採用し、「すべての権力をソビエトへ」というスローガンを打ち出すようになる。
5月2日外務大臣ミリュコーフが辞任し、大蔵大臣テレシチェンコが代わって就任した。リヴォフ首相はこの機会にソビエトの勢力を抱き込む事を考え、三名の社会革命党員と二名のメンシェヴィキを入閣させて第一次連立内閣を組閣。ドイツへの総攻撃を開始したが、4万の犠牲を出し失敗した。政府の失政への不満は、7月3日から5日にかけての兵士、水兵、労働者による武装デモとなって爆発した。政府側は、前線から騎兵師団を呼び戻して鎮圧するとともに、ボリシェヴィキの指導者を逮捕した。レーニンはフィンランドに逃れ、10月革命直前まで姿をくらます。
しかし、政府内部も農業問題とウクライナ独立問題に対する閣内不一致から、7月21日リヴォフが首相辞任、3日後ケレンスキーが第二次連立内閣を組閣した。内閣は首相と陸海軍大臣を兼務し、最高司令官にコルニーロフを任命した。しかしコルニーロフは自ら文武の全権掌握を図り、8月25日から30日にかけて反乱を起こす。しかし首都に向かおうとした反乱軍は途中で鉄道労働者から妨害に遭い進めず、コルニーロフは政府軍によって逮捕された。
コルニーロフの反乱を鎮圧したケレンスキーは、自ら最高司令官就任するとともに、公式にロシア共和国樹立を宣言した。しかし彼の権威はコルニーロフ事件によって低下する一方、ボリシェヴィキが力を増してきた。そこでケレンスキーはボリシェヴィキへ譲歩をし、7月事件で逮捕した党幹部を釈放した。中にはトロツキーもいた。彼は9月23日にペトログラード労兵の議長に選ばれた。ケレンスキーは9月25日に第三次連立内閣を組閣したが、この政府はより一層不安定なものだった。10人の社会主義者を含むこの内閣が、10月革命まで権力を維持することになる。
10月10日、密かにレーニンが変装して首都に戻ってきた。彼はこの日開かれたボリシェヴィキ党の中央委員会で、即時武装蜂起を強力に主張した。これには21人の中央委員のうち12人が出席。10時間の討議の末、レフ・カーメネフとグリゴリー・ジノヴィエフを除く10人がレーニンに賛成し、蜂起の日が10月20日に決定された。
一方、ペトログラード・ソビエトは、10月13日に軍事委員会を設置、委員長に議長トロツキーが就任した。21日には首都を防衛する全連隊の代表集会において、軍隊がこの軍事革命委員会の指揮下に入ることが決定した。委員会は直ちに全部隊に政治委員を任命して、完全に軍の指揮権を掌握した。蜂起の日取りは第二回全ロシア・ソビエト大会の開かれる予定の10月25日と決まった。当初大会は10月20日に予定されていたが、メンシェヴィキの支配する大会執行部によって5日間延期されていた。
ボリシェヴィキが武装蜂起の作戦計画を立てる中、政府側もこれの制圧に急いだ。23日夜、臨時政府は軍事委員会の解体とボリシェヴィキ指導者の再逮捕を決定した。24日未明、政府の命を受けた士官学校生の一隊が、ボリシェヴィキの機関紙印刷所を占領する。直ちにボリシェヴィキ党のペトログラード委員会が開かれ、政府に対して行動を起こす事を決定した。
24日夕方になると3万の武装したボリシェヴィキが一斉蜂起した。ほとんど抵抗を見ないまま、全ての駅、橋、郵便局、電話局など、作戦上の要所を占領した。25日朝、ケレンスキーはアメリカの国旗を立てたオープンカーに乗って首都から逃れた。大勢いたボリシェヴィキの兵士の誰もこれには気付かなかった。午前10時軍事委員会は、臨時政府の崩壊を発表したが、依然として冬宮には閣僚が立てこもっており、総司令部を含む市の中心部の地域は、臨時政府の手にあった。この日の夜9時45分、巡洋艦アウロラ号からの空砲を合図に冬宮攻撃が開始された。冬宮に僅かに残っていたコサック兵と士官学校生徒と婦人大隊は一掃され、翌日午前2時10分、ケレンスキー他一名を除く全閣僚が逮捕された。臨時政府は打倒され、蜂起は成功した。ペトログラード・ソビエトの執行委員会の一員、スハーノフはもし23日の時点で臨時政府が500人の部隊を掌握していれば、ボリシェヴィキの本部のあったスモーリヌイ女学院を襲撃して指導者を一網打尽にされていたと述べている。25日ペトログラードの様子は、官公庁や学校は早く切り上げられたが、大部分は店も劇場も開かれておりいつも通りだった。
10月革命自体はレーニンが言ったように、「異常にたやすく与えられた勝利」であった。臨時政府打倒のあと25日夜、第二回ソビエト大会が開かれ、翌日レーニンが提案した平和と土地に関する布告が採択された。無併合・無賠償の即時講和と地主の土地の無償没収とすべての土地を全人民へ移行する事を謳っていた。同日ボリシェヴィキはレーニンを首班とする政府を単独で組織、これを人民委員会議と名付けた。トロツキーを外務人民委員、ヨシフ・スターリンを民俗人民委員に任命した。人民委員会議は、憲法制定会議のための選挙を決定した。レーニンは出来るだけこの選挙を遅らせたがったが、トロツキーは反対し、約束した事実を無視できないと主張した。11月中旬から各地で選挙が行われたが、選挙の日取りが遅れたり、投票が全く行われない地域もあった。選挙の結果は、ボリシェヴィキが25%の得票率だった。第一党は総投票数3600万のうち2100万を獲得した社会革命党だった。翌年1918年1月5日、憲法制定会議が開かれた。議場の周囲には反革命の挑発から会議を守る名目で、政府の命を受けた軍隊が配置されていた。707の議席中、絶対過半数の370議席を獲得した社会革命党のチェルノフが議長に選ばれた。ボリシェヴィキはすべての権力がソビエトに属するとの宣言を採択するよう提案したが、これは237対138で否決された。ボリシェヴィキは退場し、人民委員会議は憲法制定会議の解散を決定した。翌日全ロシア中央執行委員会は、この決定をいれて武力によって憲法制定会議を解散させた。この解散は大きな反響を呼ばなかった。これはロシア民衆が憲法制定会議に期待していなかったこと、西ヨーロッパ流の選挙政治に慣れていなかったことを表している。
ボリシェヴィキは首都でこそ勝利したが、全国的にはまだボリシェヴィキ政府は盤石でなかった。早速全国各地にソビエトを組織し、指導できる人材を党から派遣した。しかし必ずしも権力移譲は穏健に進まず、モスクワ、カザン、ハリコフ、キエフ、スモレンスクなどの都市では、流血によって支配を確立した。
新政権は11月10日の法令で身分制度を廃止、すべてのロシア人がロシア共和国の市民とされた。24日には以前の司法制度が廃され、地方裁判所裁判官は直接選挙で選ばれることになった。他に銀行国有化、結婚の自由、男女同権といった政策が打ち出された。
ボリシェヴィキ政権は、第一次世界大戦の早期講和に動いた。第二回ソビエト大会での平和に関する布告に続き、11月20日にブグ河畔のブレスト・リトフスクで休戦交渉が始められ、4週間の休戦協定が結ばれた後、12月9日から和平交渉が始められた。ドイツ側は、ポーランド、リトアニア、クールラント、フィンランドといった地方だけでなく、ウクライナまで要求してきた。ニコライ・ブハーリン達は徹底抗戦を主張、トロツキーは「戦争もしないが、講和も結ばない」という方針を打ち出した。しかしレーニンは、これ以上の戦争継続は不可能であり、ソビエト共和国を守るためには、ドイツ側の講和条件を飲むしかないと譲らなかった。翌年1918年1月8日の党幹部会議では、ブハーリン支持32、トロツキー支持16に対し、レーニン支持は15しかなかった。その3日後開かれた党中央委員会と左翼社会革命党の合同会議は9対7でトロツキー案を認めた。レーニンはトロツキー案は国際的宣伝に過ぎないと切り捨てた。1月15日ウクライナは独立宣言をし、2月9日にはドイツと単独講和を結んだ。2月になるとドイツ軍の攻撃が再開され、首都ペトログラードにも危険が迫った。党中央委員会は最初レーニン案を否決したが、トロツキーが態度を変えると7対6でこれを可決した。直ちに講和条件受諾の電報がベルリンに打たれたが、ドイツ側の返事は23日になってからだった。
1918年3月3日講和条約がブレスト・リトフスクで調印された。この講和によってロシアは、人口で26%、耕地27%、穀物生産32%、鉄道26%、製造業33%、鉄工業と炭鉱73%失った。レーニンはこれを「ティルジットの和約」と呼んだ。レーニンはロシアがこの屈辱の深遠の奥底まで極めることで、そこから新しい強くて豊かな国を作る決意をすっるのだと人々に呼びかけた。
ロシア革命の見方には大きく分けて必然論と偶然論がある。必然論は主にソ連の見解である。つまりマルクス・レーニン主義に則った人類の歴史法則であると主張する。またイギリスの歴史学者、E・H・カーもこれに含まれる。彼自身は革命の非人間性を非難するものの、当時のロシアにあっては、現実的にレーニンの路線のみが唯一であったと主張する。またソ連の公式見解は1918年7月のロシア社会主義共和国の憲法制定までがロシア革命の時期だが、カーは1923年のソビエト社会主義共和国連邦の成立までを革命期と捉える。
偶然論は、革命後亡命した政治家や欧米の歴史家によって唱えられている。ロシア革命は避けられたものであり、偶然的な出来事であったと主張する。亡命政治家側の言い分としては個人の責任に帰する内容が多い。臨時政府の首相であったアレクサンドル・ケレンスキーは、帝政を崩壊させた2月革命の原因を、ニコライ2世に帰し、臨時政府外相パーヴェル・ミリュコーフの第一次世界大戦中における英仏連合国への覚書とラーヴル・コルニーロフ将軍による反乱が、ボリシェヴィキをいかに利したかを強調する。一方、ミリュコーフ外相自身は、ケレンスキーがソビエトの圧力によって、臨時政府の外交政策を変更したり、ボリシェヴィキとの連立内閣を支持することによって、左翼へ譲歩した事が、決定的な間違いであったと反論する。欧米の歴史家は、経済学的な地殻変動が起きていたこと、つまり19世紀初頭から1917年に至るロシアの歴史は、西欧的発展の方向を志向していたこと、農奴解放に始まる一連の大改革以後、ロシアは変貌を遂げつつあったと分析した上で、このような歩みを阻止したのが第一次世界大戦であり、この戦争がなければ、ロシア革命は起きなかったと主張する。
他に、基本的に1861年の農奴解放後以降のロシアの政治と経済は、ロシア革命以前も以後も上からの革命、つまり低開発国の工業化を中心とする近代化の一つのタイプであり、ロシア帝国の大蔵大臣セルゲイ・ウィッテも、ソビエト連邦のヨシフ・スターリンも、ロシアの急速な工業化のために、大衆=農民を犠牲にせざるを得なかったという点で同列であり、国民の7割を超える農民は家父長制的家族と農村共同体の中で集団的生活様式を押し付けられており、彼らには私有財産制や企業家としての使命、個人主義の理解もないので、自発的な協力は得られず後進国タイプの開発独裁は仕方なかったとする近代化論もある。
逆に民衆史論という、ロシア革命に於ける農民、労働者、兵士の役割を重視する立場もある。農奴解放のあとも、ロシア農民は農村共同体を基盤にして組織化された村団の中に組み込まれて、農奴制に似た雇役制に縛られていた。慢性的な土地不足と人口増加、周期的に訪れる飢饉により出稼ぎを余儀なくされる状況いたが、血の日曜日事件以降、農民の中には全村集会によって、全村取り決めストライキを組織したり、すべての土地の共同体的所有を主張するようになっていた。また工場労働者の数も当時増えていたが、労働条件が極端に悪く、大企業へと雇用が集中していたこと、農民の出稼ぎが多かったことが、後の連帯をもたらした。そして、第一次ロシア革命も、2月革命、10月革命も、このような民衆の不満が戦争という異常事態の中で爆発した結果であり、革命党派も含めて、いずれの政党も事態の遂行に振り回されていた。そして1917年の革命では兵士の動向が鍵となったが、「軍服を着た農民」と呼ばれるほどロシアでは兵士と農民との結びつきも強かった。「全ての権力をソビエトへ」というボリシェヴィキのスローガンも、労働者、農民、兵士の連帯が求めた結果であり、それぞれが有機体的に複合していたのがロシア革命だというのがその中身である。
掲示板
174 ななしのよっしん
2024/04/28(日) 03:31:40 ID: +8dSDA6qR1
>>150
一人当たりGDPは高かったんだろうけど庶民の生活レベル考えたら先進国とは言い切れなかったかもしれない。
175 ななしのよっしん
2024/05/17(金) 12:55:49 ID: PQ/VVUKQ91
https://
ロシア帝国は識字率的に見ると列強の中で一番遅れている
(バルト海沿岸などの一部地域は8割行ってたりするけど
中央アジアは3%と壊滅的)
176 ななしのよっしん
2024/11/10(日) 08:10:52 ID: faDgjdtPpI
>家系の源流に関する調査結果は、229家族がドイツなどの西ヨーロッパに起源を持ち、223家族がポーランド、リトアニア、ルテニア人(ルーシ人)などに、156家族がタタールほか東洋に起源をもち、168家族がリューリク家に属し、その他42家族が他に起源を持たない「ロシア系の家」、というものであった。
非ロシア系多すぎだろ。ていうかなんでロシア系が少ないんだよ。
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 00:00
最終更新:2024/12/23(月) 00:00
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