幕末 単語

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バクマツ

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よりニコニコできるような記事に編集していきましょう。

幕末とは、江戸時代末期の事である。

概要

一般的には来航の1853年(嘉永6年)から徳幕府が終焉を迎えた1868年(慶応4年)までの約15年の期間を意味する。

近世から近代への転換点であり、戦国時代と並び日本の歴史上最も人気のある時代区分の一つである。

19世紀中葉、鎖国状態にあった日本外では英をはじめとする西欧列強がその帝国義によって世界中を席巻していた。 そんな折、嘉永6年6月(1853年7月)、賀に米国の艦隊が来航し開を要動の時代が始まる。

嘉永年間(1853~1855)

「開シテクダサイ」とヅラら顔ことペリーを打ち鳴らしながら賀にやって来た!

驚いた幕府はとりあえず引き伸ばしを模索するも、ファッキンジャップの手の内を予習済みだったアメ公には通用せず、「1年後ニマタ来マス!HAHAHA!」と言っておきながら半年後にやって来るというフェイントや、今に続く伝統の砲艦外交をかましたりしつつで終始交渉を有利に進め、がどう見てもアンフェアな日"和"条約を締結、意気揚々と帰して満足感のうちに4年後にくたばった。

4年後どころから顔が来てすぐにくたばった12代将慶に代わって13代将軍となったのはカステラや吹かしを作るのが趣味のイモ定。 流石に不安に思った老中トップ阿部ちゃんこ阿部正弘や有力諸侯たちは「めに次の将軍決めておこうぜ」とグループ結成、一の慶喜を推薦する。 だがしかし、慶喜の出身水戸である事にこだわるチャカポン井伊直弼はじめ譜代大名や大奥は紀州の慶福こそが血筋的に継ぐに相応しいと、こちらもグループを結成する。 それぞれ一、南紀と称される。火事とかとか嫌な事ばかり続くのでたまらず改元、安政とする。

そんなこんなで幕末の、ええじゃないかのドンチャン騒ぎが始まるのであった。

ペリーの他にもロスケプチャーチンとか来てるけどめんどいから省く。

安政年間(1855~1860)

改元した途端に大地震が発生、幸先の悪いスタートである。

「これからどうすんべ」と困った老中トップ阿部ちゃん、以降慣例を破って全の大名や朝廷に聞いて回るも攘夷攘夷の大合唱

「できるわけねーだろ馬鹿」と思いつつ開明の幕臣を起用したり自称攘夷の巨が遠い爺さん徳川斉昭を宥めるなどソツなく仕事をこなしていたが 体調を崩してそのままポックリ過労死。代わって老中トップになったのはメタボ肖像画の残る堀田正睦である。

メタボ堀田が取り組んだのは朝廷から通商条約調印の許可をもらう事。金の力でなんとか朝廷を動かそうとし、成功しかけたものの孝明天皇の拒絶と反対卿達の抵抗に合い失敗。 ちなみに反対した卿の中に加山雄三のひいひい爺さんである岩倉具視が混じっている。

ションボリと手ぶらで江戸に帰ると、メタボの与り知らぬ内にどういうわけかチャカポン井伊直弼が大老に就任しており、慶福(茂)が次期将軍に決定。一替えしていたメタボに対し「お前もうイラネ」とばかりに強権発動、メタボは罷免される。

ところで当時日本に来ていた米国総領事ハリス、そうあの白髪ヒゲデブです。幕府は当時コイツと交渉をしており、ヤツく「ク条約結バナイトエゲレストカオフランストカ来チャウYO!」と言うもんだから焦ったチャカポン朝廷から勅許を貰いたい所。 「ハルリスの首を刎ねよ」とイミフなことを言う水戸ジジイを全力でスルーしつつ、何とか朝廷許可を貰いたかったチャカポンだったが結局願いわず、ついに独断で日"修好通商"条約に調印。

ちなみにこのハリスとかいう詐欺師まがいのデブ、「メリケント通商結ベバ外トノ交渉ヲ有利ニ進メルヨウ協力スルYO!」とか調子の良いことを言いつつ裏では内外の交換率が違うのを利用して小判を外に流出させ暴利を貪ってました。悪い野郎だねー。 コイツのせいでこの後日本国内でインフレ起こったし。大悪党だね。

さておき、通商条約が結ばれ出度し出度し、なわけはなくお冠なのは孝明天皇

「もう幕府なんか知らないっ!」とばかりに幕府を無視して水戸に直接ラブレター午の密勅」を送付。 一松平春嶽メンバーと慶喜メンバー水戸ジジイも「どうしてミカドdisったの!?シンジレナーイ」とアポも取らずにチャカポンのところにやって来てなじる。

逆切れしたチャカポンは大反撃を開始。世に言う安政の大である。

手始めに一大名メンバーを強制的に隠居、朝廷の一メンバー丸坊主の刑、その他とばっちりで開明幕臣や吉田松陰橋本左内などが社会的&リアル殺であぼーん。 この件で一旦事態が沈静化したかに見えたが、面下では「Fuck You...ブチ殺すぞ」とどすい意志が蠢いていた。

イモ方は途中で死んでます。

万延年間(1860~1861)

安政7年の3月3日、現代でいうと3月24日しく降る端午の節句の日に登中の井伊直弼が十数名の暗殺者によって討たれる。 桜田門外の変である。

あまりにもあっけない死に様に江戸中どころか日本中が騒然となり、これ以降西南雄や在野人士の活動が活発になっていく。

嫌な事ばかり続いて憂鬱なので気持ちを切り替えようと同3月に改元、万延となる。

チャカポンに代わり幕政を取り仕切るは安藤信正と久世広周の2老中。チャカポンべるといまいちキャラが薄い。誰?って感じですね。

「どうも朝廷との関係が上手くいかんべなー」
「んだんだ」
「そうだ天子サマの君を降させるべ」
「んだんだ!」
「きた公武一和きた!これで勝つる!」
「んだー!なすばなるー!」

というブロントさんと丸美屋の麻婆茄子を足して割ったような相談の結果、婚約者が居たにも拘らず皇女和宮が14代将茂にぐ事になった。 この件で攘夷の恨みを買った安藤は翌年襲撃を受け、それが元で失脚。久世もフェイドアウト。

その頃薩摩では島津三郎である斉彬の遺志を継ぐという触れ込みで兵を引き連れ京都に向けて出発していた。

文久年間(1861~1864)

リフレッシュの為万延2年2月に改元、文久となる。

かねてから政治改革への関心が高かったサブローこと島津久光は、幕政改革案を携え1000人程のお供を連れてまずは京都入り。そこでは「すわ討幕」と思い込んだ薩摩過激派達が行動を起こすべくニコニコと待ち構えていたが、サブローに袖にされたあげく、中止しなければ手打ちにすると宣告、同士討ちとなる。

朝廷に対して幕政改革の建白書を提出した後、勅使のお爺ちゃん大原重徳と共に江戸入り。の幕末タッグ編が始まる。

対峙したトクガワ・ショーグネートに対し、ショーグンコーケンショク・セージソーサイショクという大技コンボをぶちかますも耐えるショーグネート。だがセコンドの乱入をちらつかせるとショーグネートはたまらずギブアップ。一部を除き要を飲む。

大原お爺ちゃんとのタッグマッチで見事ショーグネートをマットに沈め、勝利を収めたリングネームサブロー・シマヅこと久。ご機嫌で帰途の途中に通りすがったエゲレス人を礼討ちにする。

この件が原因で1年後に薩摩エゲレス間で撃戦が勃発し、油断しきっていたエゲレス人を十数人弾で仕留めるも沿部に損を被り和解。この後薩摩エゲレスとの関係を深めていく。

ついでにエゲレスから要された賠償金は大久保利通が謀略で全部幕府に押し付けました。しめて7万両、まいどありー。

一方その頃京都では長州士と土佐勤王党を中心とする尊王攘夷中に入り浸り、表ではしきりに攘夷のための朝廷工作を続け、裏では明し・の文吉とかいう割とどうでもいいようなザコを暗殺したり、足利義満の木像の首を引っこ抜くなどやりたい放題であった。

攘夷工作活動に押された朝廷は幕府に対し将軍上京させろとしつこく迫り、ついに嫌々ながらも茂が上する。この時、後に京都治安維持という名コスプレ活動を実践した某団体が同行している。

将軍を「大勝利!」と捉えた攘夷は更に朝廷工作を進め、天皇神社参拝に将軍を同行させてその場で攘夷を約束させようとするなどセコイ手を弄し続ける。

ここで中川宮という人物が急浮上してくる。院宮・獅子王院宮・賀陽宮・久邇宮等コロコロと呼び名を変えることに定評のあるこの人物が、「攘夷ウザス」と薩摩会津に働きかけ、攘夷京都から叩き出す計画をほかならぬ孝明天皇認可の下実行に移す。

文久3年8月18日の政変である。

会津薩摩などによって御所を封鎖された長州激怒し、一触即発状態になるもこの時は攘夷卿達を伴い京都から撤退する。

長州京都から居なくなると幕末の四賢と呼ばれる松平春嶽伊達宗城山内容堂島津久光の四人が京都に集結。徳川慶喜松平容保が加わった参預会議が発足する。

ここにおいて薩摩の掲げてきた一連の政治改革案が成就したかのように見えた。

元治年間(1864~1865)

文久4年2月、出し抜けに改元、元治となる。

発足したばかりの参預会議にて孝明天皇の意思に基づき横浜港を鎖港とするかが議題に上る。諸外との関係を考えれば不可能であり、全員当然の如く鎖港など非現実的で一致すると思っていたが、ここに来て急に徳川慶喜横浜鎖港すべしとし始めた。

これまでの意見と正反対であり、慶喜の変節に一同(゚Д゚)ハア?と首を傾げる。不信感が高まる中、席で慶喜が久らを罵倒。これが参預会議終了のお知らせとなり、やる気をなくした四賢は参預を辞任して全員。参預会議はあっけなく幕を閉じる。

6月京都に潜中の攘夷による京都焼き討ち計画が本当にあったかどうかは定かでないが、とにかく新撰組という名のコスプレ団体にもたらされた。

局長以下、これは一大事と浅葱色コスチュームを着込んで出動し、池田屋という旅館に押し入って容疑者達と乱闘。双方に何名か死者が出た他、多数捕縛される。いわゆる池田屋事件である。これ以後新撰組コスチュームは何故か浅葱色からずくめに変更されたと言われる。

池田屋事件の知らせを受けた長州では過激派を押さえられなくなり、ヒゲもじゃのガチムチ老兵来島又兵衛松下塾出身者の久坂玄瑞らが京都へ進発。名天皇に謁見して弁明するというものだったが論全力で断られる。

7月会津薩摩などで構成される幕府軍と京都で衝突。御所に攻め入るも西郷隆盛率いる薩摩により押し返され、来・久坂ら有力者が次々と戦死・自害する。

京都は戦乱の大火に見舞われ3日に渡って燃え続けた。この戦乱を禁門の変、もしくは御門の変と言う。

戦乱の後、乞食の格好をして潜していた桂小五郎は一旦補導されるも、便所に入った隙に逃げ出し「逃げ小五郎」と異名を取る。ついでに行方不明となる。

一方その頃長州では英連合艦隊と交戦した結果沿部を占領される非常事態に突入していた。

戦後から召し出された高杉晋作が通訳として伊藤博文を伴い連合艦隊の代表と和議の会見に望む。

「賠償金?んなもんねーよ」と賠償要を断った上、幕府の命でやった事だから幕府に支払わせるべきというを貫き通す。話題代わっての租借の話になると古事記を暗唱し始めて相手を煙に巻き有耶耶の内に和議を成立させた。

一難去ってまた一難。今度は幕府が諸からかき集めた10万以上の大兵力で長州を包囲する。参謀を務めていた西郷は当初長州を滅ぼすべきと考えていたが、同じ時期に勝海舟と会談した際、幕府内部のgdgdっぷりを聞かされた為、幕府有利に進める事を思い止まる。

局長に対しては家老や重臣の死罪と恭順の約束を取り付けるという較的軽い内容で沙汰止みとなる。

恭順の意を示した長州内では佐幕流となり、高杉の理解者だった周布政之助は自害井上は暗殺未遂により瀕死の重傷、行方不明のまま、高杉九州に逃亡とまさに火が消えかかっていた。

12月、幕府軍が撤退を開始し始めた頃、突如高杉長州に帰還し、功山寺にて決起・挙兵する。手勢は伊藤の他約80名しかおらず、当時奇兵隊の軍監だった山県有朋に参加を呼びかけるも勝ちが薄いという理由でシカトされるが構わず決行。まず屯所を急襲し、その後長州保有の軍艦3隻を強奪。長州が鎮圧のため出兵するに及び山県もを括って参戦。瀕死の重傷だった井上らも参戦し、いつの間にか長州軍を圧倒する勢力となっていた。

翌年2月長州の佐幕追い出しに成功し、開討幕路線にを切る事となる。

慶応年間(1865~1868)

元治2年4月。「えらぶか」と、孝明天皇が改元、慶応となる。

高杉による反乱が成功後、行方不明だった桂小五郎長州に帰還する。依然として長州絶体絶命の状態であったがここに坂本龍馬中岡慎太郎という助け舟が現れる。

第一次長州征伐後、朝廷に振り回され諸外との交渉も滞り、文久の改革で一旦緩和された参勤交代を元に戻すだの、終いには茂が将軍を辞任したいと言い出すに及び、幕府の政権運営力を疑い始めた薩摩は、坂本中岡を仲介役として長州との接触に乗り出した。

木戸と改名したは当初拒絶するが、坂本の持ち出した武器弾薬の取引や状況を判断した末、西郷と会談する事となった。

約束の日木戸坂本が下関に訪れると中岡しかおらず、聞くと西郷は緊急の用事で京都へ行ってしまったとの事。ぶち切れた木戸は帰ってしまう。

坂本ブチキレ木戸バックレ西郷の二人を何とか説得し、もう一度京都にて会談の場を設ける。

坂本が会談の様子を見に来ると木戸が帰ろうとしており、理由を尋ねると「自分から切り出すのは嫌っ!そんな事するくらいならこのまま帰って幕府と一戦交えて死んでやる!」とツンデレなのかヤンデレなのかよく分からない駄々をこね、そんな木戸西郷も持て余していた。

そして坂本が吼えた。

「何だよ、欲ばかり。嫉妬悪口。自の事ばっか考えてんじゃねえか!?迷ってんじゃないですか?過去の事を思っちゃダメだよ。何であんな事したんだろうって怒りに代わってくるから。君達さ、何をやってきたの!?何で助けようとしないんだよ!あきらめんじゃねえよ!お前らなら絶対できるよ!!もっと、熱くなれよぉおおおおおおおお!!!」

そんな坂本の熱意に根負けした西郷は自ら同盟について切り出し木戸も「ボクはここに居てもいいんだ!」と改心。

ここに六か条から成る長同盟が成立した。

薩摩に、ありがとう。
幕府に、さようなら。
そして、全ての長州チルドレンに、おめでとう。

そんな状況を知る由もない幕府は、第二次長州征伐に向けて準備を進めていた。老中板倉勝静が薩摩に参戦をめるが、応じた大久保利通は「はぁ?聞こえませんなぁ」とが遠いフリをしたり、「なんと、薩摩を攻撃なさるおつもりか!?」ととぼけたり、「自分はに全権を委任されており、幕命だろうが命だろうが大義のい戦には一兵も出さない」と突っぱねた。さすが大久保は格が違った。

慶応2年6月、幕府は10万以上の兵力を持って長州を包囲、ここに第二次長州征伐・別名四戦争が始まる。

まず大島口にて幕府軍が周防大島を占領するが、高杉率いる海軍夜襲によりあっさり撤退。幕府軍残党の掃討戦となる。石州口では大村益次郎率いる長州軍が善戦し、を奪取して圧勝。芸州口では両軍共に一進一退の着状態となる。九州とのである小倉口でも着状態となるが、将軍茂薨去の知らせが入ると総督の小笠原長行が戦線離脱、幕府軍も順次撤退し8月に休戦を宣言。長州勝利に終わった。

長州軍約4000人の20倍以上の兵力と500万両とも言われる大な戦費を浪費した上での敗北であり、幕府の権威は地に落ち全からもい眼で見られるようになる。

崖っぷちに立たされた幕府では徳川慶喜を15代将軍にとのが高まるが、慶喜は固辞。何度も要請を受け、自分のやりたいように出来る状況が整った上で12月征夷大将軍に就任する。

だがここで幕府にとって予想外の重大なアクシデントが起こる。

慶喜将軍就任から20日後に、佐幕だった孝明天皇が崩御。死因天然痘。急な死だったため、当時から暗殺ではないかとの憶測が立ったが、現在の定説では病死説が有力視されている。詳しくは原口清の著作を参照。

年が明け慶応3年1月王が践祚(天皇就任)。後の明治天皇である。

5月長州問題と兵庫開港問題を話し合うため、西郷大久保小松帯刀薩摩が再度諸侯による会議を画策し、参預会議時のメンバーが再び京都に集まる。久ら諸侯は長州問題を先に処理すべき、即ち赦免すべきとするが、慶喜は兵庫を先に解決すべしと対立。慶喜の巧みな話術に全員圧倒され会議はなし崩しとなる。同時に兵庫開港の勅許を独断で取得し、政治力を見せ付ける。

更に幕府がフランスの援助を得て軍事改革を進め、長州薩摩を滅ぼした後に県制に、征夷大将軍大統領にそれぞれ改めようとしているという噂が聞こえるに及び、西郷らは話し合いによる政体変革は不可能と判断し、武力討幕に向けて動き出す。

ここにおいて大久保朝廷パートナーである暗卿、岩倉具視が登場する。

岩倉は討幕の大義を得る為、討幕の密勅を作成する。作成に当たっては岩倉学の先生だった玉松操案を書き上げた。操と言うとるろうに剣心思い出す人がいるかも知れないが、この操は立なお爺ちゃんである。

さてこの密勅だが、トモミ&ミサオによる二次創作、すなわち偽勅である。

詔ス 慶喜、累世之威ヲ籍(か)リ、闔族(こうぞく)之強(きょう)ヲ恃(たの)ミテ、妄リニ忠良ヲ賊シ、数(しばしば)王命ヲ棄絶シ、遂ニ先ノ詔(みことのり)を矯(た)メテ懼(おそ)レズ民ヲ溝壑(こうがく)ニ(おと)シテ顧ミズ、罪悪至ル所、神州将(まさ)ニ傾覆セントス。朕、今民之為(た)リ、是賊ヲ討タズシテ、何ヲ以テ上ハ先之霊ニ謝シ、下ハ民之深しんしゅう)ニ報(むく)イン哉(や)。レ朕之憂憤在ル所、諒闇(りょうあんニシテ顧ミザルハ、(や)ムヲ得ザルナリ、宜シク朕ノ心ヲ(たい)スベク、賊臣慶喜ヲ殄戮(てんりく)シ、以テ速ヤカニ回天之偉勲ヲ奏シ、(しこう)シテ生霊ヲ山嶽之安キニ措 (お)クベシ。レ朕之願イナリ。敢エテ懈(わくかい)スルナカレ。


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    ,゙  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉
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    // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
   /'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐  \    歴史的仮名遣いとか常用外の漢字だとか
   / //   广¨´  /'   /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ    そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
  ノ ' /  ノ:::::`ー-、___/::::://       ヽ  }
_/丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::...         もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

 

こうして武力討幕を画策していた薩摩だが、一方で大政奉還、つまり慶喜に政権を返上させる案も同時に進めていた。政権返上など絶対しないという読みがあったと思われる。この案は坂本龍馬が周旋し、土佐家老だった後藤象二郎を通じて山内容堂に提出される。武力討幕を快く思わなかった容堂はこれに乗り、慶喜に提出。

10月中旬、討幕の密勅薩摩長州に送られるとほぼ同時に大政奉還が実施される。

臣慶喜、謹テ皇時運之改革ヲ考ニ、昔シ王綱紐ヲ解キ相権ヲ執リ、保之乱政権武門ニ移リテヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵(ちょうけん)ヲリ、二余年子孫相受、臣其職奉スト雖モ、政刑当ヲ失ウコト少ナカラズ、今日之形勢ニ至リモ、畢竟薄徳之致ス所、慙懼(ざんく)ニ堪ズ。況ヤ当今外之交際、日ニ盛ナルニヨリ権一途ニ出申サズニシテハ、綱紀立チ難クアイダ、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、広ク下之儀ヲ尽シ、断ヲ仰ギ、同心協力、共ニ皇ヲ保護仕リエバ、必ズ海外ト並ビ立ツベク。臣慶喜、国家ニ尽ストコロ、是ニ過(すぎ)ズト存ジ奉リ。去リ乍ラ、猶見込之儀モ之有エバ申聞クベク旨、諸侯ヘ相達シ置キ。之ニ依リ、段謹テ奏聞仕リ
以上


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    ,゙  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉
     |/_/  ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ        頭がど(ry

機先を制せられた格好となった討幕の密勅は闇に葬られ、実物が日のを見るのは昭和に入ってからの事となる。

慶喜の考えとしては、政治権力を返上されても朝廷には政権運営力がいため、いずれ 幕府に頼らざるを得なくなると言う読みがあったとされる。 事実、幕臣の西周は今後の政権に関する議題案の作成を行っている。

そんな政治混乱や駆け引きの最中の11月15日、大政奉還を推進していた坂本龍馬中岡慎太郎両名が暗殺される。 現在の定説では犯人京都見廻組とされている。

12月9日長両とその他同調する諸の兵によって御所が封鎖され、参内した岩倉具視の奏上の後、王政復古の大号令が発せられた。 これにより朝廷・幕府を含む旧体制は全、代わって新政府の発足が宣言された。

川内府従前御委任大政返上将軍職辞退之両条今般断然被 聞食以来未曽有之国難 先頻年被害悩 宸襟御次第 衆庶之所知之被決 慮 王政復古威挽回ノ御基被為立間自今摂関幕府等絶即今先仮ニ総裁議定参与之三職被置万機可被為 行諸事 神武創業之始ニ原 キ縉紳武弁堂上地下之別至当之議ヲ竭シ下ト休戚ヲ同ク可被遊 慮ニ付各勉励旧来驕惰之汚習ヲ洗ヒ尽忠報ヲ以テ可致奉 


         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
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        |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |
       /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人        な… 何が書(ry

同日、小御所にて徳川慶喜に対する辞官納地(官位と領地の返上)の要が議題に上り、これに山内容堂が反対するが逆に岩倉らの反論に押され辞官納地が決定された。

これを受けて徳川慶喜は新政府に従う意志を示すため二条から大阪城に移る。 一方、旧幕臣や親藩の兵からは開戦を望むが高まっており、更に江戸では薩摩の手の者による破壊活動が行われているという情報がもたらされる。 周囲の圧力を抑えられなくなった慶喜は薩摩を討つという名京都し進軍を開始した。

政局が混沌とする中で年が明け、事態は一気に加速していく。

慶応4年1月3日鳥羽街道伏見街道にて京都へ進軍する旧幕府軍と迎え撃つ新政府軍の戦闘が始まる。兵力や装備で勝る旧幕府軍だったが、作戦揮の拙劣さにより劣勢となる。

戦闘開始から2日、新政府軍が錦旗を掲げ官軍と称した。 錦旗と追討の知らせを受けた慶喜は側近や親藩大名を連れて江戸に退避してしまい、更に京都周辺の諸も新政府に同調するようになったため、士気の下がった旧幕府軍は総崩れ状態に陥った。

ちなみにこの時旧幕府から離反したの中に彦根がある。祖は藤堂高虎彦根井伊直弼の出身であった。

慶喜が江戸逃げ帰ると小栗忠順や榎本武揚松平容保らが徹底抗戦を進言。勝海舟大久保一翁らは、戦えば勝つ見込みはあるが、そうなった場合被害は甚大であり、外の干渉もあるかもしれない。更に民心は既に幕府から離れており、これ以上の内の大混乱は避けねばならないと恭順論を唱える。

慶喜は最後の決断として恭順を選択する。

慶喜から全権を委任された勝は、東征大総督府参謀の西郷隆盛に対し使者を遣わし、慶喜の身の安全などの条件を提示する。

その間、要が受け入れられない場合に備えての焦土作戦江戸住民避難の用意を整え、英国使パークスを通じて薩摩に揺さぶりをかけるなど次々と手を打っていく。

江戸城攻撃予定日の前日、13日と14日の2度に渡り西郷と勝が直接会談し、攻撃は取りやめとなる。

4月11日、慶喜は江戸城を退去して水戸へ移動。江戸城は開され、一つの時代の終焉を迎えた。

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