フォードとは、
フォード・モーター (Ford Motor Company) は、自動車王ことヘンリー・フォード一世が1903年6月16日に創業した自動車会社である。本社はアメリカ合衆国ミシガン州ディアボーン。略称はフォモコ(FoMoCo)。アメリカ、ビッグスリーの一角である。
世界で初めて、自動車の組み立て工程にベルトコンベアを導入し流れ作業を行った事で実現した大量生産。それらを含めた大規模マネジメントを取り入れた事で有名である。特に流れ作業は、自動車を大量に早く生産できる高効率の工場設備、士気を高める高給料の工員、尚且つ一台当りの生産コストの低減に大きく貢献し、その生産方式は「フォーディズム」と呼ばれた。
海外展開も早期から積極的である。GMなどとの競争もあり、いち早くイギリス(1911年)、オーストラリア(1926年)、ドイツ(1931年)に進出。現地生産のみならず商品開発や経営戦略もそれぞれ独自に行っている。日本では認知度があまり高くないが。北米とは全く独立した車種構成で性格も異なり、各地で独立したブランドとなって今日に至っている。
近年はOne Fordというコンセプトを掲げ、世界的規模でフォードの商品群やブランドイメージを統一化を図っており、ヨーロッパとアメリカで商品の共有化も行われている。例えば北米向け中型セダンのフュージョンと、欧州向け中型セダン・ワゴンのモンデオは車両からして全く別物であったが、2代目フュージョン(2013年)と5代目モンデオ(2014年)からは名前違いの同一車両となる。日本で例えると、松田聖子とSEIKO(≠時計)のようなものである。またこれに伴い、エコブーストエンジンなどヨーロッパで主流のダウンサイジングターボを、北米でも積極的に展開している。
2016年1月、日本とインドネシアから2016年末までに全事業を撤退すると発表した。日本でのフォードおよびリンカーン車の輸入・販売を停止する。
日本国内の正規ディーラー網は消滅するが、VTホールディングスグループの「ピーシーアイ」が、日本国内におけるフォード車の部品供給・車両保証・リコール対応およびユーザーへのアフターサービス業務を引き継ぎ、同年10月よりフォード事業を開始した。
かつてはジャガー、ランドローバー、アストンマーチン、ボルボ(乗用車)、マツダを保有していたが、博打に明け暮れたサラリーマン兄弟が社会に及ぼした悪影響により、これらのブランドは全て売却された。
イギリス(Ford of Britain)とドイツ(Ford Germany)でそれぞれ現地生産を行い、ブランドとして1960年代後半まで独立した物を構築していた。後に1967年、イギリスがドイツに吸収される形で統合、一元化され欧州フォード(Ford of Europe GmbH)が誕生した。
本社はドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州ケルン。車種構成はマッスルカーやSUV主体の北米フォードに比べ、実質剛健としたコンパクトカーなどハッチバック車が主体。
WRCなどのラリー競技用車輌も欧州フォードが提供している事や。近年のコンパクトカーへの人気が北米でも高まり、フィエスタとフォーカスを北米へ輸出しているなどの理由により。世界各地のフォードの中でも特に注目度は高い。
近代テクノロジーの急速な発展と共に、あらゆる分野に進出した輸送機械「自動車」。
土木、建築、運輸、個人利用などで広く普及したが、自動車を使った犯罪も急増。
新たな社会的脅威を生み出すこととなった。
自動車はその黎明期から警察での利用が試みられていたが、本格的に部隊運用が始まったのはアメリカではフォードT型以降となる。車両単価が下がった事で警察も多数の車両を購入できるようになり、警察官の機動力として利用しやすくなった為。またモータリゼーションが本格的に到来すると、自動車の事故や犯罪が増えたので、警察もこれに対処する必要もあった。
こういった経緯から、フォードは世界的に見ても初期から警察へ車両を納入していたメーカーの一つとなる。当初はフォードT型をそのまま納入していたが、これは警察の方もそれで良いと思っており、メーカーとしても何が必要かが良く分からなかったからである。その後、自動車化部隊の運用について実績と検討が積重ねられた事で、無線機を搭載して機動性をより活用できるようにしたり、警光灯やサイレンを搭載して緊急走行時の安全性を高めて行く事になっていく。メーカーとしても警察向けにバッテリーや充電系、ラジエター、サスペンションなどを強化した車両を開発し、限られた予算で最大限の効果を得られるよう努力を積み重ねて行った。
1990年代に、フルサイズセダンのクラウンビクトリアをベースにしたクラウンビクトリア・ポリスインターセプター(CVPI)が発売されると、全米各地の警察機関で瞬く間に広まっていく。全長が5300mmもある後輪駆動車は当時としても時代遅れであり、実際に基礎設計はもっと古かったのだが、警察官にとってはそっちの方が良かったのが人気の理由。パトカーとしてはかなりの台数が出回ったことで部品の調達が容易且つ安価であったこと、古臭い設計が幸いして整備性も良かった事など、維持管理面でも都合が良かったのもある。さらにライバルのシボレー(GM)がカプリスの生産を止めてFFのインパラにベースを切り替えた事で自爆したり、クライスラーもFFのイントレピッドベースにして自爆したという、敵失要因も大きかった。
V8・NAから繰り出されるパワーは十分信頼に足り、燃費は悪いが引き換えにメリットもあったのだ。最盛期にはパトカー市場の7割をCVPIが占めていた。
そのCVPIも2011年に生産中止となり、現在では後継車種としてトーラスベースのポリスインターセプターが販売されている。3.7LのV6・NA又は3.5LのV6・ターボは、パワーでも燃費でもCVPIのV8を凌ぐ。だがFF又はFFベースの4WDであるため、現場からは「こんなの俺の知ってるフォードのパトカーじゃない」「これじゃない感」といった意見もあると言う。
1960年代、F1でもル・マンでも圧倒的な活躍を見せていたフェラーリはその影で資金繰りに苦しんでいた。いくら高級・高額なロードカーを売ろうとも、町工場に毛の生えたような当時の規模では、レース活動を自社資金だけで行うのは無理があったのである。ちょうど同じ頃、フォードは自社のブランド力アップには「トータルパフォーマンス」の名の下にモータースポーツで勝つことが必要だと結論づけ、レースに強いブランドの買収を画策していた。
こうしてフォードとフェラーリは話し合いの卓につくことになり、買収合意寸前まで行った。しかし最終的にフェラーリが拒否、直後にフィアットのフェラーリ買収が発表された。これはフィアットがイタリアにとって代表的なスポーツカーブランドがアメリカ資本の手に渡るのを恐れて、土壇場で阻止に動いたためであった。しかし、フォードは、自分たちはフィアットに好条件で買ってもらうための当て馬にされたと思い激怒、自らの車でフェラーリを打ち破ることを決意した。
そしてプロトタイプカーの「GT」、通称GT40[1]を製作しル・マン24時間レースに投入。スチール板溶接による強固なモノコックと、4260ccのV8エンジンを積むこのマシンは、デビューした1964年は残念ながら全車リタイアに終わる。
しかし、もちろんそれで諦めるフォードではない。英国での別組織で運営していたレース部門をアメリカの直属とし、キャロル・シェルビーを代表に開発を進めた。1965年には、エンジンを6997ccの大型エンジンに換装し、ボディー・シャシーもリファインしたGT40Mk.IIを投入。だがこの年も信頼性の問題で完走できずに惨敗だった。
ついに翌1966年には見事フェラーリを打ち破って表彰台を独占した。この年には、Mk.IIの他に旧型のGT40を含めて14台ものフォードが出場し、まさに「戦いは数だよ兄貴!」と言わんばかりの物量作戦を展開した。他方、フェラーリはストライキ等の内紛で体制が整わず、わずか3台の出場に過ぎなかった。これらは夜間に全てリタイアした。創業者の孫ヘンリー・フォードII世社長が見守る中、GT40シリーズはブルース・マクラーレン、クリス・エイモンのニュージーランド人のコンビが駆るMk.IIを先頭にアメリカンパワーを見せつけたのである。
1967年には、アルミモノコックシャシーとした上で、さらに空力面を突き詰めてプロトタイプカーらしくなったGT40Mk.IVを完成させた。そして、またも12台の物量でフェラーリに挑んだのである。フェラーリも黙って負けたままにはしておれぬとばかりに今回は体制を充実させており、昨年のように一方的な戦いとはならなかった。だが、ダン・ガーニーとA.J.フォイトのアメリカ人コンビはフェラーリを振りきって優勝した。
これは、歴史上初めてにして2017年現在まで唯一のオールアメリカンのル・マン完全制覇である。また、このレースの表彰式でガーニーが賞品として渡されたシャンパンをその場で開けて観客に向けて振りまいたのが、現代のモータースポーツでお馴染みのシャンパンファイトの始まりとなった(諸説あり)。
だが、この年のレースの走破距離が5000kmを突破したことから、安全性を理由に主催者は翌年のプロトタイプカーを3000cc以下に制限する。明らかに強くなりすぎたフォードを締め出すのが狙いであった。これを機にフォードはワークスとしての参戦から撤退する。もはや当初の目的は果たした、という判断であった。
ただ、初代GT40はすでにかなりの台数が生産されていたため、5000cc以下のスポーツカークラスにエントリーが可能であった。これに目をつけたイギリスのプライベーター、JWオートモーティブ(ちなみに代表は1964年までフォードワークスの監督を務めていたジョン・ワイアーという人物)があえて初代GT40で参戦し、1968年、1969年と連覇をさらうのである。
結局GT40は4年連続でル・マンを制覇、フォードが本気になれば最強のスーパーカーを作る実力があることを示した。
同時期、フォードはイギリスの新興エンジンコンストラクターであるコスワースに資金提供を頼まれた。フォードは合意、こうして有名なF1用3000ccV8エンジン、フォード・コスワースDFVが誕生。1967年のロータスでのデビュー後、翌年にはドライバーズ・コンストラクターズ両タイトルを獲得した。そしてこのエンジンは量産の上カスタマー販売され、7年もの間これを搭載するチームが両タイトルを連続で獲得し、F1でもフェラーリを圧倒し続けた。1975年以降フェラーリも盛り返すが、1982年に至るまでDFV搭載マシンはチャンピオンを争い続けることになる。
それから時は流れ、ル・マン初制覇から50周年にあたる2016年、フォードはル・マンへ復帰した。ホモロゲ―ション条件ギリギリの生産台数(年間250台)を満たすこのスーパーカーは50年前と同じく「GT」の名を与えられた。またル・マン参戦のPVでは、GTに馬(フェラーリ)が驚くという挑発的な演出がされた。そしてル・マンの決勝、フォードGTは激闘の最終盤にフェラーリ488をオーバーテイクして見事クラス優勝。まさに有言実行、50年前の歴史を再現する完璧なブランド戦略を遂行した。
他にも、フォードはF1をチームとして制覇することも狙い、2000年からグループの一員として買収していたジャガーのブランドでF1に参戦したが、これは当時ミハエル・シューマッハの元に黄金時代を迎えていたフェラーリには全く敵わず、大きな成果を上げることなくチームをレッドブルに売却して終わっている。
上述のフォードとフェラーリのル・マンでの争いは、映画のテーマとして取り上げられ、フォード側を主役とした「フォードvsフェラーリ」が2020年1月に公開された。
車種の後の文字は生産担当、米はアメリカ製、欧はヨーロッパ製、日はマツダ製、台は福特六和(Ford Lio Ho)製、またそれぞれで全く違う車体の車種も存在する。
掲示板
16 ななしのよっしん
2020/01/27(月) 19:55:11 ID: X/p6Y3967r
フォードvsフェラーリで2世がテストカーに乗る下りは面白かったなぁ。
映画では二代目と言われてるから分かりづらいけど、本当は初代より先に若死にした親父が二代目で、デュースは三代目。だから「父さんを乗せてあげたかった」とむせび泣いてるっていう。ボンボンなんだけど腐ってもフォードの一族だぞっていうプライドが出てて好き。
17 ななしのよっしん
2020/07/19(日) 13:36:52 ID: iaRG8OT7QG
最近発表された新型ブロンコかっこいいな
これは大ヒット間違いなしかも
18 ななしのよっしん
2024/05/31(金) 12:09:08 ID: Wd/9sbrrs9
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 10:00
最終更新:2024/12/23(月) 10:00
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