2024-12

2024・12・30(月)井上道義ラストコンサート

        サントリーホール  3時

 2年ほど前から「2024年の年末で引退する」と宣言、それに向けてさまざまな演奏会やオペラを指揮してカウントダウン的な活動を展開しつつ、「井上道義劇場」を盛り上げて来たマエストロ井上。とうとう、その最後の演奏会の日が訪れた。
 これは第54回サントリー音楽賞受賞記念コンサートを兼ねたもので、読売日本交響楽団を指揮してのプログラムは、メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟(ヘブリディース)」、ベートーヴェンの「田園交響曲」、シベリウスの「第7交響曲」、ショスタコーヴィチの「祝典序曲」。

 前半の2曲は、オーケストラの編成も小さくした(弦8型)演奏で、特に「フィンガルの洞窟」では、まるで「悲しみのヘブリディース」とでもいうような、哀愁的な雰囲気を漂わせていた。こんな寂しい「フィンガルの洞窟」は聴いたことがない。

 「田園交響曲」も、どちらかと言えば明るい田園風景ではなかった。いずれも開放的な雰囲気などあまり感じさせない演奏だったが、それはステージの照明をやや落し気味にしていた所為だけではなかったろう。
 弦の編成が小さいために、管楽器群の声部が普通より浮き出し気味になっていて、これが曲に新鮮なイメージを与えていた。「田園交響曲」第2楽章最後の小鳥の囀りは殊のほか印象的で、エコーのように響くオーボエとクラリネット(素晴らしい!)の対話は絶妙なものがある。

 後半は、ステージの照明も通常に戻し、オーケストラの編成も16型にしての演奏。シベリウスの「7番」は、おそらく今日の白眉であったろう。和声がクロスフェイド的に移行して行くシベリウス後期の作風の独特の美しさ、風の中を飛翔して行くようなフルートとオーボエの軽快なモティーフの爽やかさ━━。

 この「7番」は、私がこれまで聴いた井上道義と読響の数多い演奏の中でも、ベストに属する演奏だったといって過言ではない。こうした演奏を彼の最後の演奏会で聴けたことは、望外の幸せだった(終演後にANAインターコンチネンタルホテルで開かれたフェアウェル・パーティで彼にこの「7番」の演奏を絶賛したところ、「あの曲、凄く難しいんだよ!」と宣うた)。

 締めは賑やかなショスタコーヴィチの「祝典序曲」で、これはもう、まさに熱狂、沸騰の演奏。クライマックスでは、2階のP席、LA席、RA席の背後にずらり並んだ総計30名の金管の別動隊がいっせいに吹き鳴らすファンファーレが華麗な頂点をつくる。最後の和音では、井上自ら、どこから取り出したか突然シンバル一対を両手に持ち、頭上で一撃して曲を結び、場内はいやが上にも沸き返った。

 アンコールの1曲目は「下品ですぜ」とアナウンスしてから、ショスタコーヴィチの「ボルト」からの滑稽な「馬車曳きの踊り」を演奏。そして、「もう何も言わないよ。さよなら」と言って引っ込んだものの、また出て来て、一度は退場したオーケストラをまた呼び返し、今度は武満徹の「他人の顔のワルツ」を、少人数の弦楽アンサンブルとともに演奏しはじめる。
 これは私も、彼とオーケストラ・アンサンブル金沢の演奏などで、しばしば聴いた曲だった。彼の指揮でこれを聴くのもこれが最後なのかと思うと、覚えずジンとしてしまう。

 数え切れぬほどのカーテンコールの中で、場内全ての、2階席の聴衆までもが未だ立ち去らずぎっしり並んだままスタンディング・オヴェーションを続けている光景は壮観極まりなかったが、それ以上に私が心を打たれたのは、「ワルツ」の演奏には参加していない大勢の楽員たちが、ステージの両袖にぎっしりと立ったままそれに耳を傾けている姿だった。こんな光景は、二度と見られないだろう。
 常に踊るような仕草で聴衆の歓呼に応えていた井上道義は、最後に手を振り、派手なバレエのターンを披露して舞台袖に消えて行った。涙などなく爽やかに、あくまでもカッコよくステージから去って行った。

2024・12・21(土)ヴェルディ:「ファルスタッフ」

       神戸文化ホール 大ホール  2時

 山陽新幹線の新神戸駅から地下鉄で3つ目、大倉山駅の傍にある神戸文化ホール。その開館50年記念行事のひとつが、この「ファルスタッフ」上演だ。
 同ホール専属の神戸市室内管弦楽団(音楽監督・鈴木秀美)と神戸市混声合唱団(音楽監督・佐藤正治)とを中心として企画されたものだ。専属オケと専属コーラスの両方を持っているホールは日本ではウチだけだ、とホールのスタッフは豪語する。

 今回の指揮は佐藤正浩、演出は岩田達宗、舞台美術は松生紘子。歌手陣は、黒田博(ファルスタッフ)、老田裕子(フォード夫人アリーチェ)、福原寿美枝(クイックリー夫人)、内藤里美(ナンネッタ)、林真衣(ページ夫人メグ)、西尾岳史(フォード)、小堀勇介(フェントン)、谷口文敏(カイウス)、福西仁(バルドルフォ)、松森治(ピスト―ラ)。他に黙役として、森本絢子(ファルスタッフの小姓ロビン)、福島勲(ガーター亭の主人)、貞松・浜田バレエ団の子供たち8人が出演していた。

 オペラの舞台上演に手を染めるのはこれが初めて、という神戸文化ホールのオリジナル制作プロダクションだが、全軍突撃とでもいうような制作体制の甲斐あって、極めて水準の高い上演が実現していた。たとえ今後オペラをしばしば上演して行くという方針ではないにしても、このホールが出した成果は賛辞に値するだろう。

 成功のひとつは、演奏水準の高さだ。佐藤正浩の指揮する神戸市室内管弦楽団は、ピットの中で活気にあふれた音楽を生み出した。2階席正面最前列で聴くと、金管楽器群と打楽器群がかなり出過ぎる傾向が感じられたが、これはしかし1階席でならまた異なった印象を生んだのではないか。
 彼の指揮は、今回も明快で、このオペラを生き生きと再現してくれた。欲を言えば第3幕で、登場人物たちが入り乱れる各場面の音楽の対比━━音楽の性格が絵巻物のように移り変わって行くあたりを、もう少し際立って描き分けていてくれたらと思うが‥‥。

 歌手陣も安定していて、アンサンブル・オペラの性格も強いこの作品での歌唱としては、聴きやすいバランスを示していたと言えるだろう。
 題名役の黒田博は以前の二期会公演の時と同様に貫禄充分だが、今回は第2幕と第3幕に重点を置いたかのような歌唱を聴かせていた。ゴミ屋敷のようなガーター亭の妙な階段を上がったり降りたりするのは、あの肥満の扮装では大変だったと思うが、それもあってか、演技の面では前回のような際立った存在感は少々薄くなっていたかもしれない。

 その他の歌手陣でとりわけ印象づけられたのは、まずフェントン役の小堀勇介で、先月の「連隊の娘」に続き今回も快調、第3幕冒頭では伸び伸びとしたテナーを聴かせてくれた。
 クイックリー夫人の福原寿美枝の怪演ぶりも相変わらず迫力充分で、左手首の骨折治療中という体調を克服して見事な歌唱と演技を展開していた。彼女は何をやっても凄味を利かせる人だが、来年4月の「仮面舞踏会」の不気味な女占師役など、さぞ面白かろうと期待している。

 岩田達宗の演出は、やはりご当地向けというのか、冒頭の音楽開始前に関西弁の寸劇を挿入したり、特に小姓や従者たちの動きを目まぐるしくして喜劇的な効果を強調したりしていたのは、なるほどね、という感。ちょっと動きが騒々しい趣もあったけれども、ただ小姓ロビンをファルスタッフの性格の側面、あるいは内面を異なった側面から表現する役割として設定していた(ように見えた)ところは、実に巧いアイディアだと思える。

 それに加え、ラストシーンでファルスタッフが全員を己のペースに巻き込み、「この世は全て道化」とばかり「勝利宣言」をする瞬間に舞台装置を一回転させ、背景をファルスタッフの本拠たるガーター亭に戻すという設定も、この物語の本質を象徴して、極めて興味深い演出といえるだろう。
 なおこの幕で、ファルスタッフが一同からさんざん虐められる場面に、蜂の子のような扮装をしたバレエ団の子供たち8人をして彼を突っつかせる役割を持たせたのは可愛らしく、観客からも好評だったようだ。

 合唱団の演技は、ちょっと不器用だ。だが考えてみるとこの合唱団は、これまではずっとオラトリオやミサなどを舞台上で、直立不動で歌っていた人たちだったのだっけ? だとすれば、よくやっていたと言わなくてはなるまい。

 20分の休憩2回を含み、5時10分終演。

※一部、お名前の間違いを訂正しました。大変失礼いたしました。

2024・12・19(木)樫本大進&ラファウ・ブレハッチ

        サントリーホール  7時

 「樫本大進プレミアム室内楽シリーズVol.3」と題された演奏会、この日はラファウ・ブレハッチとのデュオ・リサイタル。プログラムは、モーツァルトの「ソナタ ハ長調K.296」、ベートーヴェンの「ソナタ第7番ハ短調」、ドビュッシーの「ソナタ」、武満徹の「悲歌」、フランクの「ソナタ イ長調」。アンコールはベートーヴェンの「第7番」の第3楽章。

 久しぶりに耳にするストレートで、外連の皆無な、ひたすら率直に作品の核心に迫ろうとする演奏とでもいうか。1曲目の冒頭から、これほど気持のよい、爽やかなモーツァルトはしばらく聴いたことがなかったような気がする、と思えるほどの音楽が流れ出て来る。
 モーツァルトの音楽に無心に身を委ねて愉しんでいるようなブレハッチの演奏に、樫本が大人っぽく合わせて行っているような━━という感を受けたのは、このモーツァルトのソナタが、ピアノに主導権がある「ヴァイオリンのオブリガート付きピアノ・ソナタ」であるという性格からでもあろう。

 次のベートーヴェンの「7番」では、彼のソナタの中でもこの曲からヴァイオリンに主導権が移り始めるといった性格を感じさせる作品のゆえに、樫本の存在も際立って来る。そして━━両者が均衡の演奏を聴かせたドビュッシーとフランク。
 情熱的に燃え上がるといった傾向の演奏とは違うので、聴き終ってしっとりした満足感に包まれる、といった雰囲気。

2024・12・18(水)METライブビューイング「グラウンデッド」

      東劇  6時30分

 METは近年、現代オペラの公演に力を入れているようだ。今シーズンも、プレミエ・プロダクションとして、ジョン・アダムズの「アントニーとクレオパトラ」、オズワルド・ゴリジョフの「アイナダマール」、ジャニーン・テソーリの「グラウンデッド GROUNDED」(「翼を折られたパイロット」という日本語副題がある)の3作が上がっている。

 今回ライブビューイングで紹介されたこの「グラウンデッド」(10月19日上演ライヴ)も、なかなか物凄いオペラだ。
 イラク空爆で優秀な成績を上げたアメリカ合衆国空軍の優秀な女性パイロットのジェス(エミリー・ダンジェロ)が、カウボーイのエリック(ベン・ブリス)と結婚し妊娠して軍務を一度離れたのち、復帰すると今度はドローン操縦士として、アフガニスタンのテロリスト軍攻撃に加わるのだが、この戦闘は何とラスヴェガスにある指令所からドローンを操作し敵を殺戮、勤務が終れば自宅に戻って夫と娘と一緒に夜の時間を過ごす━━という、全く新しいタイプの、「21世紀の戦争形態」なのである。
 何だか、身の毛のよだつような話だ。

 ただこのストーリーは、徒に軍国主義礼讃なのではない。彼女はゲーム好きの若者、ドローンのカメラ操縦士センサー(カイル・ミラー)と組んでテロリストの首謀者を追い詰めるが、いざミサイル攻撃を指令しようとする瞬間、そのテロリストが幼女と一緒にいるのを見て攻撃をためらい、軍の命令に反抗し、軍事裁判にかけられ投獄される━━という結末になるのである。一方そのテロリストは、他のドローンの攻撃により殺害される‥‥多分その幼女もろとも、ということになるのだろう。

 こういう物語が堂々とオペラとなって上演される、というのが、いかにもアメリカであろう。考えさせられるオペラだ。ただし正直なところ、音楽は、それほど印象に残るというほどのものでないが‥‥。

 ヒロインを演じるエミリー・ダンジェロが2幕併せてほぼ2時間、出ずっぱりの渾身の熱演。鬼気迫る歌唱と演技だ。指揮はMET音楽監督のヤニック・ネゼ=セガン、演出はマイケル・メイヤー、照明デザイナーはケヴィン・アダムズ。LEDスクリーンが空やミサイル爆発等をイメージ的に、強烈に描き出す。

2024・12・15(日)ジョナサン・ノット指揮東京響「ばらの騎士」

     ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 一昨年の「サロメ」、昨年の「エレクトラ」に続くジョナサン・ノット指揮東京交響楽団によるR・シュトラウス・シリーズの第3作で、若干の演技を加えた演奏会形式上演。

 主要歌手陣は、ミア・パーション(元帥夫人)、カトリオーナ・モリソン(オクタヴィアン)、アルベルト・ペーゼンドルファー(オックス男爵)、エルザ・ブノワ(ゾフィー)、マルクス・アイヒェ(ファーニナル)、渡邊仁美(マリアンネ、帽子屋)、澤武紀行(ヴァルツァッキ)、中島郁子(アンニーナ)、河野鉄平(警部、公証人)、村上公太(テノール歌手)、他および二期会合唱団。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 これは本当に、この上なく魅力的な演奏だった。以前ノットが指揮した「サロメ」と「エレクトラ」が、ややダイナミックな勢いを重視した演奏に傾き、R・シュトラウスの叙情的側面には些か不満を残すものであったため、官能的な色彩感の強い「ばらの騎士」ではどんな表現を聴かせてくれるかと思っていたのだが、実際の演奏は期待を遥かに上回る素晴らしいものだった。

 特に第2幕は圧巻というべき演奏で、特に開始後間もない「ばらの騎士」の登場と、それに続くオクタヴィアンとゾフィーの出会いの場面での、あのR・シュトラウス節の官能的な美しさは、私が聴いた日本のオーケストラの演奏の中でも例を見ないほどの見事さだったのではあるまいか。
 往年の指揮者の演奏と違い、極端な甘美に過ぎることはもちろんないにしても、あのハーモニーの移り変わりにおける陶酔的なうつろいには、私は本当にうっとりさせられたのである。

 そしてまた、第2幕のオックス男爵のワルツ、第3幕大詰めの三重唱と二重唱。もちろん第1幕大詰めの元帥夫人のモノローグも━━。

 ノットの感性の素晴らしさもさることながら、東京交響楽団がここまでしなやかな演奏をしてくれたのは喜ばしい。第2幕で、オクタヴィアンとゾフィーの2人を包んでいた音楽の柔らかな明るい音色が、オックス男爵が登場してからガラリと翳りのあるものに変わるその細やかさにも、舌を巻いた(こういう演奏を、新国立劇場のピットでもやってくれればいいのだが‥‥)。

 歌手陣もいい。特にペーゼンドルファーのオックス男爵は、「貴族らしさを失わず、野卑に陥らず」という作曲者の指定に沿った役柄表現で、長身の巨体を生かしての千両役者的な雰囲気も備えていた。
 ミア・パーションの元帥夫人も、所謂華麗なタイプというほどではないけれども、真摯な歌唱が映える。第3幕でファーニナルから「若い者たちはこういうものですかね」と声をかけられ、「ja,ja」と呟く時の憮然とした表情は、セミ・ステージ形式に近い舞台上演ではあっても、本格的なものであったろう。

 エルザ・ブノワのゾフィーが第2幕では本当にお嬢様の雰囲気だったのが、第3幕では(成長したのか?)別人のような雰囲気を示す演技に変わっていたのには呆気にとられた。カトリオーナ・モリソンは、歌唱はいいのだが、演技が少々ニュアンス不足の趣あり、か? マルクス・アイヒェのファーニナルが人間的ないい味を出す。
 なお合唱では、オックスを「パパ!パパ!」と威嚇(?)する女声歌手数人の演技が面白い(これをカーテンコールの時にも披露したのがいい)。

 「演出監修」には、今回もトーマス・アレンが登場していた。今回のステージは、ソロ歌手陣の演技空間をオーケストラの前方に置き、合唱をオルガン下の席に移動させつつ配置し、要を得た演技を展開させて、なかなか良かった。

2024・12・14(土)新国立劇場 モーツァルト:「魔笛」

       新国立劇場オペラパレス  2時

 4回公演の今日は3日目。ウィリアム・ケントリッジのドローイング・アニメを舞台美術に使い、彼自身が演出したプロダクションで、2018年10月、2022年4月に次いで今回が3度目の上演。

 この舞台に関しては、プレミエの年に観た公演(☞2018年10月3日)の際に書いたことに尽きる。ケントリッジの美術も、以前の「鼻」(ショスタコーヴィチ)や、「ルル」と「ヴォツェック」(ベルク)などとは比較にならぬほど平凡だし、演出に至っては、たとえ素人演出家でもこのくらいは簡単に出来るだろう、といった程度のものだ。ケントリッジの本領を紹介したいなら、前記の3つの作品のどれかを上演した方がいい。

 今回の指揮は、トマーシュ・ネトピル。新国立劇場での2012年の「さまよえるオランダ人」の指揮の時には、オケとの相性の問題もあったのか惨憺たる出来だったが、その後読響への何度かの客演指揮で名誉挽回を果たしていた。今回のオーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団で、序曲は少々か細く頼りない演奏だったものの、全体としてはまず無難な出来だったと言えようか。
 とはいえ、かつてバイエルン州立劇場で聴いた「ファウスト博士」での名演を思い出すと、彼はもっと闊達な音楽をつくれる人だという気がするのだが━━。

 歌手陣は以下の通り━━パヴォル・ブレスリック(タミーノ)、駒田敏章(パパゲーノ)、九嶋香奈枝(パミーナ)、安井陽子(夜の女王)、マテウス・フランサ(ザラストロ)、升島唯博(モノスタトス)、清水宏樹(弁者他)、種谷典子(パパゲーナ)、今野沙知枝・宮澤彩子・石井藍(3人の侍女)、前川依子・野田千恵子・花房英里子(3人の童子)、秋谷直之(僧侶他)。
 安井陽子はこのプロダクションでは3度目の「夜の女王」だが、今回も熱演して気を吐いていた。新国立劇場初出演の種谷典子が爽やかな味を出して成功。

2024・12・13(金)尾高忠明指揮大阪フィル ブルックナー「8番」

      ザ・シンフォニーホール  7時

 尾高忠明が大阪フィルを指揮してブルックナーの「交響曲第8番」を演奏するのは、彼が音楽監督に着任した最初の定期演奏会(2018年4月)以来、これが2度目になる。
 大阪フィルでこの曲を指揮できるのは、その音楽監督あるいは首席指揮者などのシェフに限られる、という不文律があり━━これはこの曲に不滅の名演を残した故・朝比奈隆氏への敬意に基づくものだ━━事実、朝比奈氏以降にこの曲を指揮したのは第2代音楽監督の大植英次(2004年、2012年)、首席指揮者の井上道義(2015年)、そして第3代音楽監督の尾高忠明のみなのである。

 今回の尾高と大阪フィルの「8番」(ハース版)は、明らかに6年前の演奏の時と違い、何か一種の魔性的な力をより強く感じさせるものだったと言っていいだろう。
 尾高特有の緻密で整然たる構築性はもちろん今回も失われていないが、それ以上に凄まじいほどの強靭さが目立っていた。

 第1楽章終結近くの最強奏の中で音楽全体を押し上げて行く低弦のトレモロの底力、あるいは第2楽章スケルツォの同一音型反復の中における強烈なアクセント。そして第4楽章で繰り返される最強奏個所それぞれにおける巌の如き剛直な「決め」。こうした個所の演奏には、まるで往年の朝比奈時代の大阪フィルにも似た豪壮雄大な気宇さえ感じられたのだった。

 大阪フィルも、まさに渾身の演奏だったのではないか。第1楽章あたりでは、何かまだアンサンブルに落ち着きのなさというか、座りの不充分さが感じられていたのだが、第4楽章の第2主題の中で弦が一瞬フォルティッシモになった瞬間(ハース版総譜第85小節)の瑞々しく厚みのある音の美しさには、ハッとさせられたほどである。
 この第4楽章全体の充実度は、私がこれまで聴いた国内のオケの演奏の中でも、もしかしたら最高のもののひとつだったかもしれない。

 演奏に漲っていたアクセントの強烈さに鼓舞され、興奮していたお客さんも多かったようである。私の前に座っていた初老の男性など、要所の「決め」のたびにそれに合わせて頭を振り、ノリまくっていたが、演奏が終るとブラヴォーを絶叫し、おまけに「ヴンダーバー! ウォーッ! ワーッ!」などと声を限りに喚き続けていた。些か騒々しいが、私は微笑ましく見ていた(びわ湖ホールでもこれと同じような叫び声を上げている人がいるが、もしやこの人だったのか?)。

 尾高忠明と大阪フィルの畢生の名演。聴きに行った甲斐があった。コンサートマスターは須山暢大。(☞インターネット「クラシックナビ」速リポ

2024・12・12(木)パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマ―フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 朝日カルチャーセンターで担当しているオペラ講座(毎月第2木曜日)は、西新宿の住友ビルの中にある会場。同じ西新宿のオペラシティは目と鼻の先だから楽だ。

 このホールに今日登場したのは、パーヴォ・ヤルヴィが率いるお馴染みのドイツ・カンマ―フィルハーモニー管弦楽団(THE DEUTSCHE KAMMERPHILHARMONIE BREMEN)である。
 プログラムはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲で始まり、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはマリア・ドゥエニャス)、シューベルトの「未完成交響曲」、モーツァルトの「交響曲第31番《パリ》」。アンコールにベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲という、量感たっぷりの選曲。

 「未完成」がロマン派指向の演奏ではなく、古典派的ながっしりとした構築の演奏だったのは、この演奏者たちのポリシーとして自明の理だろう。

 ただ、面白かったのはやはり「ドン・ジョヴァンニ」序曲と「パリ交響曲」の二つのモーツァルト作品、それに「プロメテウス」での演奏である。「ドン・ジョヴァンニ」序曲は冒頭から嵐のような魔性を噴出させていたし、「パリ交響曲」は豪壮華麗、「プロメテウス」は怒涛の進軍━━といった趣きで、これこそが彼らの本領発揮であったろうと思われる。

 ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」では、来日できなかったヒラリー・ハーンに代わり、スペイン出身の美女奏者マリア・ドゥエニャスがソリストとして登場した。2021年メニューイン国際コンクール優勝などのキャリアを持つ彼女は、すでに大変な売れっ子なのだそうで、今回はたまたまスケジュールの都合がついたので来日できた、というのが主催者ジャパン・アーツの話。

 私も初めて聴いたのだが、非常に個性の強い音色による弾き方をする人である。直線的な真っ向勝負でなく、一つ一つの音に趣向を凝らして、作品から独自の容を引き出そうとする、最近の若い世代に多く見られるタイプだ。
 今日の演奏でも、冒頭からえらく粘った弾き方で開始したが、特に第2楽章では極度に遅いテンポを採りつつ最弱音を強調、ほとんど自己陶酔的な沈潜にまで達するような演奏を繰り広げ、カデンツァが終わったあとでも最初のテンポに復帰しないまま楽章を結ぶという具合だった。

 私の好みからすれば、これには些か辟易、もう少し自然にやってくれないものかね、と言いたくなるところなのだが、しかしこの個性はすこぶる強烈で、興味深いことは確かである。そして各楽章のカデンツァはすべて彼女の自作の由で、いずれもこの曲の主題と関連を持たせた曲想を示し、しかも沈潜的な傾向が強い。そしてまた、どれもかなり長い。結論として、私の好みではないが、面白い若手が現れたものだと言っておこう。パーヴォはその彼女の危ういまでの沈潜のソロを、こちらも最弱音を駆使してぴたりとサポートしていた。
 書き忘れていたが、彼女のソロ・アンコールは、フランツ・フォン・ヴェチェイの「悲しいワルツ」という曲の由。少しフォーク・ソングのような雰囲気もある曲だ。

2024・12・11(水)イザベル・ファウストのモーツァルト(2)

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 イザベル・ファウストと、ジョヴァンニ・アントニーニが指揮するイル・ジャルディーノ・アルモニコの協演。

 今日は第2日で、最初にモーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第2番」が演奏され、次にアントニーニとオーケストラだけでグルックのバレエ音楽「ドン・ジュアンあるいは石の客」の全曲、休憩後にモーツァルトの「ロンド ハ長調K.373」と「ヴァイオリン協奏曲第5番」。
 アンコールは彼女のソロでニコラ・マッティス(父)の「ヴァイオリンのためのエア集」より「パッサジュ・ロンド」、彼女を含めた全員でハイドンの「交響曲第44番《悲しみ》」第4楽章━━という多彩な一夜。

 1階席中央あたりで聴くと、オーケストラと、ストラディヴァリウスの「スリーピング・ビューティ」にガット弦を張ってクラシカル弓で演奏する彼女のソロ・ヴァイオリンとの完璧な均衡が感じられる。彼女がソリストでありながらも「オーケストラの一員」として常にトゥッティ部分も一緒に演奏するということの意味が完全に理解できるというものである。

 彼女のヴァイオリンは、たとえソロ部分であろうとも殊更に突出することなく、オーケストラの中から浮き出しては再び溶け込んで行く。その点で、以前録音されたCDでの演奏スタイルとは、根本的に違う。

 それにしても、彼女のヴァイオリンの、やや細身だが毅然とした佇まいの何と美しく、その音に湛えられている官能的ともいえる表情の何と素晴らしいこと。アンコールで弾いた無伴奏の「パッサッジュ・ロンド」での艶然とした気品の演奏は、彼女の真骨頂だろう。

 アントニーニとイル・ジャルディーノ・アルモニコの演奏も強靭だ。協奏曲での剛直なほどのアクセントを多用した劇的なモーツァルト。特にグルックの「ドン・ジュアン」は、今日の圧巻だったのではないか。就中そのフィナーレは、あの「オルフェオとエウリディーチェ」でも聴かれる魔物たちの音楽だが、そこでの猛烈な乱舞も聴きものだった。それにハイドンも━━その迫力は、ピリオド楽器オーケストラならではのものだが、イザベル・ファウストも加わっての演奏だけに、視覚的にも圧巻だった。

2024・12・10(火)イザベル・ファウストのモーツァルト(1)

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ヒラリー・ハーンは来られなかったけれど、イザベル・ファウストは予定通り来日し、ジョヴァンニ・アントニーニ指揮するイル・ジャルディーノ・アルモニコとともに、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲全曲演奏会」を開始してくれた。今日は第1回で、演奏されたのは協奏曲の「第1番」と「第3番」、休憩を挟んで「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と、協奏曲の「第4番」。

 聴いた席が2階正面だったせいか、それともイザベル・ファウストが抑制気味に弾いていたのか(そんなことはないだろうが)、前半は彼女の音がオーケストラの中に少し埋もれ気味なのが気になったが、休憩後の「4番」では均衡が取り戻され、演奏にも強いエネルギーが漲っているのが感じられるに至った。だが、この問題は、明日の演奏会を聴いてから判断した方がよさそうだ。

 とにかく「1番」にしろ「3番」にしろ、9年前に彼女が同じ指揮者、同じオケと録音したCD(ハルモニア・ムンディKKC-5691)と比較すると、何かひとつ音楽の芯が定まらぬような印象を拭えなかったが━━これは聴いた位置の関係だろう。アンドレアス・シュタイアーが彼女のために書いたカデンツァにしても、CDで聴いた時にはもっと切り裂くように鋭い曲想という印象だったが。

 イル・ジャルディーノ・アルモニコの演奏の方は、ピリオド楽器特有の音のけば立ちがナマで迫って来て、そのCDで聴くよりも遥かに凄い。「1番」では、イザベル・ファウストのソロ・ヴァイオリンが可憐(!)に聞こえたほどである。
 「3番」では、ホルンを筆頭に管楽器群のアクセントが強烈で、モーツァルトの音楽が牙をむいたような感の個所もあり、非常にスリリングでさえあった。こういう演奏を聴くと、このヴァイオリン協奏曲集が「ギャラント・スタイル」であるという既存の解説は、単に歴史的な意味しか持たなくなるだろう。

 アンコールでは、何と彼女も一緒に「ディヴェルティメントK136」の第3楽章を演奏、そのあとで「ヴァイオリン協奏曲第1番」の第3楽章を演奏したが、特にこの後者の演奏における意志力の強烈さと来たら、さっき一度演奏した曲とは別の曲にさえ感じられるほどだった。

2024・12・8(日)小林愛実ピアノ・リサイタル

       サントリーホール  7時

 シューベルトの「即興曲集D935 Op.142」に始まり、シューマンの「子供の情景」、ショパンの「ピアノ・ソナタ第3番」というプログラムで構成された演奏会。
 正確なテンポで、音色も彼女の純白のドレスのように清らかで澄んで綺麗なのだが、音楽そのものは不思議なほどstatic。

2024・12・1(日)リオネル・ブランギエ&ミハイル・プレトニョフ

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 紀尾井ホールから新宿のオペラシティへ移動。こちらは、リオネル・ブランギエが東京フィルハーモニー交響楽団を指揮、ミハイル・プレトニョフが久しぶりにソリストとして協演する、という「夢の共演」(プログラム冊子表紙)が売り物。

 事実、ブランギエの指揮が水際立っていた。このフランス出身の若手は以前(☞2019年9月22日)東京交響楽団に客演した際に聴いただけだが、なかなかいい指揮者だという印象を得ていたのである。今日のムソルグスキー~ラヴェル編の「展覧会の絵」でも、オーケストラの音響的バランスを完璧に近いほど整え、切れのいいリズム感で明快に全曲を統一してみせた。所謂「胸のすくような演奏」の一例といえただろう。

 それはいいのだが、前半でプレトニョフがソロを弾いた、ウクライナ出身のアレクセイ・ショールとプレトニョフの合作とかいう「ピアノと管弦楽のための組曲第2番」には些か閉口した。
 「ダルタニャン」とか「トム・ソーヤ―」などの副題が付けられているところからすると、そういうジャンルの音楽か(それはそれでいいのだが)という予想はしていたが、実際に聴いてみると、ごくごく平凡な手法による一種の伴奏音楽のようなものに過ぎなかったのである。

 まあ、1回聴けばもういい、という程度の曲だったのだが、プレトニョフはブランギエとともに、その曲の中から、何とご丁寧にも4回もアンコールとして抜粋演奏をしてくれたのには、全く辟易させられた。演奏時間30分の作品を2曲だけという奇怪なプログラム構成の意味は、このアンコールに20分をかけるということにあったのだ━━。

2024・12・1(日)「新ダヴィッド同盟」

        紀尾井ホール  2時

 水戸芸術館・専属楽団「新ダヴィッド同盟」は、2010年に吉田秀和氏の命名により、庄司紗矢香(vn)を中心に結成されたものの由。
 私は水戸芸術館に近年あまり足を運んでいなかったので、この「楽団」の活動については詳しく承知していないが、ロベルト・シューマンが音楽活動において、空想の中で創設したあの名高い革命集団の名に因んだものであれば、その意欲も意図も推察できようというものである。

 今日の演奏会は、その庄司紗矢香を中心に、ピアノの小菅優と、かつてその名を世界に轟かせた東京クァルテットのメンバーだった池田菊衛(vn)と磯村和英(va)、それにスティーヴン・イッサーリス(vc)が加わるという豪華な顔ぶれによるものだったので、期待していた。
 プログラムも、ベートーヴェンの「弦楽三重奏曲Op.9-3」、フォーレの「ピアノ三重奏曲Op.120」、シューマンの「ピアノ五重奏曲」という魅力たっぷりなものだったのである。

 ベートーヴェンの「弦楽三重奏曲」冒頭がこれほど不思議な凄味を湛えて開始されたのを聴いたことはほとんど無かったし、フォーレの「三重奏曲」は━━些か洒落っ気の少ない演奏だったとはいえ━━この作曲家の魅力を味わうには充分なものだった。

 圧巻は、やはり最後のシューマンの「五重奏曲」であったろう。この曲の場合、どんな演奏家がやっても著しくヴォルテージの高い音楽になるものだが、今日もその例に漏れず。特に第4楽章後半での追い込みと来たら、噴火山のような勢いにあふれて、久しぶりにスリリングな気分を味わわせてくれた。

 アンコールは予想通り、その第3楽章。演奏の熱量の高さに、昔(1976年だったか)、フィンランドのクフモ音楽祭で、舘野泉さんがこの第3楽章の最初を、何を思ったか物凄い速さで弾き始めたため、他の協演者が泡を食って、それでも何とか最後まで弾き切り、演奏後に顔を見合わせて爆笑していた光景をふと思い出した。今日の小菅優さんのピアノは、もちろんそんな物凄いテンポではなかったが。

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