現存機・パーツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 18:04 UTC 版)
スミソニアン航空宇宙博物館では復元された橘花が2016年より展示されているが、この橘花が終戦後に発見された試作機2機及び組み立て中であった約23機のどれが由来であるかは未だに判明していない。 アメリカ海軍の記録によると1949年2月18日にパタクセント・リバー海軍航空基地の博物館に展示され、1960年9月2日にノーフォークからメリーランド州シュートランドにあるポール・E・ガーバー保管施設へ移された。その後博物館のスタッフは1961年3月13日に橘花をコレクションに加え復元を行い今現在はバージニア州シャンティリーにあるスティーブン F. ユードバー ハジーセンターのボーイング航空ハンガーにて公開されている。同博物館では橘花の性能を“one-way suicide mission”をベースとして、ネ20のサイズ及び出力から以下のように推定している。 機体名試製橘花 (Experimental Prototype Kikka)全長26ft 8in (8.12m) 全幅32ft 10in (10m) 全高9ft 8in (2.95m) 空虚重量5,071lbs (2,300kg) 総重量8,995lbs (4,080kg) エンジンNe-20 axial-flow turbojets, 475kg (1,047lbs) thrust (推力:4.66kN) ×2 最高速432mph (696km/h) 航続距離1,102lbs (500kg) 爆弾搭載時は127mile (205km)、551lbs (250kg) 爆弾搭載時は173mile (278km) 着陸速度92mph (148km/h) 離陸距離ロケットアシスト付きで1,150ft (350m) 他にはポール・E・ガーバー保管施設に前胴、コックピット、後胴、両主翼と分解された状態で保管されている。前胴には赤ペンキで「2」と書かれていた。興味深いことに戦後に鹵獲され、米国本土に持ち込まれた試作2号機も同様「2」と書かれていた。このことから分解されている橘花は試作2号機の可能性が高い。だが書かれている位置、形が異なり、試作2号機とは断定できない。 ネ20エンジンは世界で3基現存しており、その内2基はアメリカにある。この2基は終戦間際に中島小泉製作所で製造され、橘花試作2号機に搭載された。終戦後はアメリカ軍に鹵獲され、アメリカ本土のパタクセント・リバー海軍航空基地に輸送された。後にサンディエゴ海軍基地を経て、現在のポール・E・ガーバー保管施設で保管されている。1990年代は保管施設の薄暗い所にある棚最上段に2基、アルミ箔で包まれ、防錆油で茶色くなっていたものの良好な状態で保管されていた。2003年にスミソニアン航空宇宙博物館の別館が新設される計画が進められており、保管施設に眠っている旧いエンジンもそれに備えて、正規の台車に載せ替える作業が1997年頃に始まった。保管施設内には素性が不明確なエンジンも幾つかあり、各エンジンの素性調査も行なっていた。そんな中、ネ20も数十年ぶりに棚から下ろされ調査が始まった。調査の結果、ネ20エンジンであることが断定され、1基のフロントフレームには赤ペンキで「2」と書かれていた。興味深いことに終戦後に小泉製作所にて橘花試作2号機を写した写真には、このエンジンと全く同じ位置、形で「2」と書かれていた。このことから保管施設にあったネ20は試作2号機に搭載されたエンジンであることが判明した。他には燃焼器ケーシングには英語で「パタクセント・リバー海軍航空基地からサン・ディエゴ海軍航空基地へ」と書かれていた。調査後は洗浄され、1基は新たに新設される別館に展示されることとなり、現在はユンカース・ユモ004の隣に展示されている。「2」と書かれたエンジンは引き続き、ポール・E・ガーバー保管施設にて保管されている。 あと1基は日本国内に唯一現存してある。このエンジンは終戦後に米海軍に鹵獲され、米国本土に輸送された。1945年秋からクライスラー社では米海軍との契約でXT-36-D2ターボプロップエンジンの開発に着手したが、ガスタービンの試験技術の習得のため海軍から2台のネ20が支給された。1台目のエンジン本体はアナコスティアの航空情報センターから支給され、また圧縮機とタービンホールは、ミドルタウンの航空補給処からライトフィールド経由で支給された2台目のエンジンから部品取りされたものである。1台目の圧縮機とタービンホールおよび2台目のエンジンの残りの部品の行方は不明で、圧縮機は試験中に破損、フラックが多発したタービンホイールは破棄された可能性が高い。運転試験は実に11時間46分であった。報告書を書いた元クライスラー社技師は「ネ20は詳細設計から部品製作、制約的な開発、その間には極めて短時間における設計変更の適用を経て初飛行まで僅か7.5ヶ月という短期間で達成したことは、特筆に価する偉業であり、大いに誇るべきことである。」と述べている。クライスラー社の運転試験後は、ノースロップ工科大学に渡ったり、教材庫に保管された。1961年に舟津良行氏が同大学でジェットエンジンの整備の研修をしていた際に教材庫の片隅でネ20を発見し、エンジンドーリーや計器盤を製作して校庭でエンジン運転を試した。1973年10月に航空自衛隊入間基地にて国際航空宇宙ショーを契機に、このネ20を日本に返還、展示したいとのことで同氏が大学と交渉し、「永久無償貸与、返還要求なし」を条件で国際航空宇宙ショーでの里帰りと展示が実現した。ちなみに、この国際航空宇宙ショーではネ20と同様、四式戦闘機も返還を前提に展示飛行することが実現した。その後、ネ20は石川島播磨工業株式会社(現:IHI)にて分解整備が行われ、とても良好な状態で保管していた。日本でもこのネ20を運転する考えがあったが、分解検査中にタービンに亀裂があることが判明し、断念せざるを得なかった。現在はIHIそらの未来館の目玉として適切に展示されている。パーツは全てオリジナルではなく、一部にはクライスラー社での運転試験の際に取り付けられた米国製のパーツが存在する。
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