照井堰用水
| 疏水の概要 | |||||||||||||||
■疏水の所在 岩手県平泉町を中心とした周辺地域(約1,250ha) ■所在地域の概要 みちのく「平泉」に位置するこの地域は、中尊寺金色堂・毛越寺浄土庭園で知られるほか、 今年はNHK大河ドラマ「義経」でも紹介されており、毎年たくさんの人でにぎわう一大観光地である。 また、柳の御所遺跡の発掘に端を発した奥州平泉の「世界文化遺産登録」を目指す東北の歴史的な中心地である。 ■疏水の概要・特徴 照井堰用水」は、いにしえの平安時代(約800年前)、東北の鎮守府将軍「藤原秀衡公」の家臣であった「照井太郎高春」が、この地に頭首工・用水路を完成させ下流の水田を美田としたので、その姓を取って「照井堰用水」と名付けられた。 この用水は、水田へのかんがいばかりではなく、地域の大切な生活用水となっているほか、毛越寺浄土庭園にも「遣水(やりみず)」として疎水されている。 毛越寺では、毎年春の行事として、平安時代中期に造られた遣水の水辺に、平安貴族さながらの装束をまとった歌詠み達が短冊に和歌をしたため、流れてくる杯を傾ける「毛越寺曲水の宴」が開催される。遠く平安時代に東北の小京都と詠われたゆえんである。 中尊寺金色堂に通じる「月見坂」の入り口を流下した照井堰用水は、さらに周辺地域をかんがいした後、「衣川」に落水される。 このように、照井堰はみちのく平泉の水田を潤すと共に、約800年前に栄えた藤原文化の象徴でもあり、現在も地域を潤している。 また、小学校の教科書には、昭和中期まで「照井堰用水」が紹介されており、この地方の歴史副読本には現在も掲載され、その歴史を伝えている。 | ||||||||||||||||
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照井堰用水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/17 07:57 UTC 版)
照井堰用水(てるいぜきようすい)は、岩手県磐井川の厳美渓上流部に設けられた大〆切頭首工を水源に一関市と平泉町を流れる総延長64キロメートルの三本の人工河川(疎水)の総称で、藤原秀衡の家臣・照井太郎高春が灌漑目的に開削[1]し、子孫の照井太郎高安が完成した。
照井氏の偉業を称えてその姓を付け照井堰と名付け[2]られた。
平泉町を流れ衣川に注ぐ北照井堰は農業用水路としてのみならず世界遺産「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産である毛越寺浄土式庭園の水源[3]にもなっている。また、南照井堰と大江堰は江戸時代に一関藩により完成し、現在も一関市、平泉町の穀倉地帯1,073haの水田に水を供給している。
2006年(平成18年)に疎水百選に選定され、2016年(平成28年)には国際かんがい排水委員会のかんがい施設遺産に登録[4]された。
沿革
- 1189年(文治5年) - 照井太郎高春開削
- 1493年(明応2年) - 照井太郎高安開削
- 1494年(明応3年) - 五串村・猪岡村両岸に穴堰を開き、 南猪岡村・上黒沢村・中黒沢村・下黒沢村・一関村・三関村への水路開削(現大江堰)
- 1643年(寛永20年) - 仙台藩が照井堰改修
- 1648年-1653年(慶安年間) - 大旱魃(だいかんばつ)
- 1854年(嘉承7年) - 柏原左衛門が北照井堰穴山隧道(現猿鼻隧道)
- 1871年(明治4年) - 廃藩置県により、照井堰の管理は郡役所に移管
- 1908年(明治41年) - 照井堰の管理は照井堰普通水利組合に移管
- 1950年-1951年(昭和24年-25年) - カスリン台風・アイオン台風によって壊滅した、岩手県による頭首工の復旧工事[1]
- 1951年-1955年(昭和26年-30年)岩手県営事業として全幹線水路が改修、素堀水路に石積護岸工が施工[1]
- 1952年(昭和27年) - 法制定により、照井堰土地改良区となる
- 1985年(昭和60年) - 大江堰土地改良区と合併して照井大江土地改良区となる
- 1996年(平成8年) - 舞川土地改良区と平泉土地改良区と合併して照井土地改良区となる
- 2006年(平成18年) - 疎水百選に選定
- 2015年(平成27年) - 照井土地改良区と束稲土地改良区が合併
- 2016年(平成28年) - 世界かんがい施設遺産に登録となる
ギャラリー
毛越寺の鑓水
関係施設位置
- 大〆切頭首工地図
関連項目
外部リンク
脚注
固有名詞の分類
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