昭和中期
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1947年(昭和22年)の大幅な民法改正により、夫婦は対等な個人同士となった。加えて、1959年(昭和34年)に皇太子明仁親王と正田美智子が、翌1960年(昭和35年)に清宮貴子内親王と島津久永が、それぞれ結婚した際には「恋愛結婚」であったと大々的に報じられ、若者の結婚観も変化していく。昭和30年代から40年代にかけ、恋愛結婚の割合が増加し、見合い結婚を上回るようになった。 加えて同時期は、日本の高度経済成長期にあり、婚姻数の増加と消費拡大を背景に、結婚式は自宅ではなく式場・ホテルで行われ、さらに旅行会社による「セット旅行」として商品化され、利用されるようになった。関西では和歌浦[要出典] 、関東近傍では伊豆や箱根、熱海などの温暖な温泉地が人気があった。1959年(昭和34年)には、国鉄が新婚カップル用のことぶき周遊券を発売した(当初、601キロ以上が適用)。 さらに、宮崎県が絶大な人気を集めるようになり、最盛期の1974年(昭和49年)には婚姻数100万組のうち約37万組が同地を訪問した。宮崎県は1960年(昭和35年)に島津貴子・久永夫妻が新婚旅行で同地を訪問、さらに1962年(昭和37年)に皇太子・美智子妃夫妻が行啓したことで注目され、メディアにより憧れの地と言うイメージが高まった。宮崎県や国鉄、宮崎交通も、戦前期の「皇祖発祥の地」から転換を迫られていた背景もあり、フェニックス(カナリーヤシ)の植樹をはじめとするリゾートイメージの形成に力を入れ、新婚旅行客を誘致した。また、映画『百万人の娘達』やNHKドラマ『たまゆら』等のメディアにより相次いで南国イメージも強調、普及していった。1967年(昭和42年)から 1972年(昭和47年)には、宮崎県への新婚旅行客向けに、大阪 - 宮崎間に臨時急行列車「ことぶき」号が運行された。一般的な訪問ルートに、青島神社や鵜戸神宮での子宝祈願、南国情緒あるこどものくにやサボテン公園の散策、さらに都井岬が挙げられる。 この他、東京からは、伊豆また箱根へ1から2泊程度の短い旅程や、宮崎同様に南国情緒を売りにした和歌山県の白浜(南紀白浜)への京都経由5日の旅程も人気があった。 これら観光地の旅館も、防音設備のある部屋や、花嫁に恥ずかしい思いをさせない気遣い等のサービスを充実させていた。鉄道では、国鉄・私鉄を問わず快適な特急列車が運行され、主要駅には新婚カップルと見送り客が溢れ、車内は窓側が女性・通路側が男性と一線に並ぶ活況を呈していた。
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昭和中期
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1945年(昭和20年)に日本は敗戦を迎える。その後の混乱期には、電力不足や蒸気機関車を動かすための石炭も不足した上に、連合国軍専用車両の導入などもあり列車ダイヤは乱れ、一時は特急・急行や一等車・二等車がまったく走らないという事態にもなった。また客車不足のために貨車による旅客輸送が行われたりもした。 1948年(昭和23年)にようやく急行列車が復活。1949年(昭和24年)に公共企業体としての日本国有鉄道が発足後、戦後初の特急列車「へいわ」が運行開始(のちに「つばめ」に改称)、また電化区間も沼津駅から西へ再び延伸を始めた。1950年(昭和25年)は「つばめ」に加えて特急「はと」が登場し、戦時中に延びていた所要時間も戦前の水準にまで短縮された。また東京口では客車普通列車が電車化され“湘南電車”の運行が開始されている。 1956年(昭和31年)、東海道本線全線の電化が完成した。これによって特急「つばめ」「はと」は東京駅 - 大阪駅間7時間30分となる。1958年(昭和33年)には20系客車による寝台列車(ブルートレイン)が運行を開始。また151系電車を使用した初の電車特急「こだま」が運行を開始し、東京駅 - 大阪駅間を6時間50分、東京駅 - 神戸駅間を7時間20分で結んだ。1960年(昭和35年)には「つばめ」「はと」も電車化され、従来の展望車に代わるパーラーカーが連結された。このほかにも優等列車が多数増発されていった。貨物列車では1959年(昭和34年)に高速コンテナ列車「たから」の運行が開始された。一方このころ高度経済成長や東京オリンピック(1964年)の開催決定を受け輸送力増強のための線増計画が持ち上がり、標準軌による別線建設が決定。1959年(昭和34年)に着工が始まり、これが東海道新幹線として開業することとなる。
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昭和中期(1955年-1964年)
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「日本のダムの歴史」の記事における「昭和中期(1955年-1964年)」の解説
1952年(昭和27年)、サンフランシスコ平和条約締結により日本は連合国軍最高司令官総司令部の占領から解き放たれた。朝鮮戦争による特需景気は日本の奇跡的復興の序曲となりその後1960年代の高度経済成長へと突き進んでいった。経済成長に伴い道路・鉄道・港湾を始めさまざまなインフラストラクチャー整備が大規模に計画、着手されていった。ダム事業においても、この時期は日本のダム事業史に残る大規模プロジェクトが多く手掛けられた時期でもあった。
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