温江
温江(あつえ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 00:47 UTC 版)
大虫神社と小虫神社を氏神とする。大虫神社と小虫神社はともに『延喜式神名帳』に名神大として名を連ねる式内社であり、大虫神社は阿知江郷16カ村の鎮守とされた旧府社である。丹後地方に多くはない出雲系の神々を祀り、加悦谷に進出した出雲豪族の勢力を窺い知ることができる。中世には神田を有し、温江には「御供田」「燈明田」「油田」などの小字名が残る。また、大虫神社の境内には1470年(文明2年)の石造の五重塔が残り、町の文化財指定を受けるほか、1929年(昭和4年)には経塚が発掘され、室町期の経筒や経文が出土した。 2社は、創建時の伝承も同じ逸話を伝え、共にかつては大江山の中腹の池ヶ成に鎮座したが、室町時代に現在地に移転した(詳細は大虫神社 (与謝野町)#歴史を参照)。縁が深い神社同士であり、祭礼も共に行われる。明治初期の例祭日は、4月21日であった。 温江区には、2008年(平成16年)時点で約220戸が居住し、大虫神社の氏子は虫本,奥手,湯之谷の3組、小虫神社の氏子は尾上,門出,谷垣,尾佐,小森谷,本村の6組である。 加悦谷祭では、温江太刀神楽保存会により、神楽と太刀振りが奉じられる。神楽には「ツルギ」「スズ」「オコリ」の3演目があり、獅子だけで舞うものと、天狗もともに舞うものとがあるが、いずれもほぼ同様の動きをする。小学生の男子3人が天狗役を担い、中学3年生の女子が笛を手伝う。 太刀振りは、本来は大虫神社の氏子に受け継がれる芸能で、江戸時代後半にはじまり、第二次世界大戦以前までは地区の青年団が請け負い、花代はそのまま青年団の活動資金に充てられた。戦後は青年のほか子どもが中心となって奉納した。1967年(昭和42年)に太刀の楽台が破損したことにより5年間中断したが、1972年(昭和47年)の炉端懇談会における主婦の発言から保存会が発足し、再開した。21世紀初頭の太刀振りは、保存会会員と有志で構成される大人組と、小学3年生から中学生までの子ども組を組織する。温江区の男子は高校に入学すると祭礼に参加しないが、高校を卒業して就職が決まれば、保存会に入会する権利を得、入会時に神楽組か太刀組を選択する。入会は強制されず、自由意志に任されている。太刀振りは丹後地方の他の地区にもあるが、温江の太刀振りは、後述する山田の太刀振りとならび、勇壮な行事としてとくに知られる。小虫神社の境内には舞台があり、里人によればかつては狂言などが奉じられたとみられているが、久しく行われていない。 加悦谷祭では、宵宮早朝から、神楽組が集落で不幸のあった家を除いて全戸のカマドキヨメにまわり、温江区では鈴と御幣を振り鳴らす動きから、これを「ガラガラ」という。太刀組も同様に門付けにまわる。午後から子ども神輿が地区内を巡る年もあり、これには小学3年から中学2年までの女子が参加する。祭礼巡行は宵宮日没後と翌日の本宮午前中の2回行われ、神楽、太刀、神輿はいずれも温江公民館前に集合した後、大虫・小虫の両神社で順番に祭礼を執り行う。先に祭礼を行う神社は、宵宮と本宮で交代し、年ごとにも交代する。 ウィキメディア・コモンズには、大虫神社(温江区)に関するカテゴリがあります。 ウィキメディア・コモンズには、小虫神社(温江区)に関するカテゴリがあります。 加悦谷祭当日、加悦谷一帯で主要な道に氏神の幟が立つ。 現在は使用されていない舞台の床を囲炉裏とし、作業中の暖をとる。(小虫神社) 太刀振りの拍子を執る、太鼓と笛の屋台。 参道で奉じられる子どもの太刀振り 参道で奉じられる子どもの太刀振り
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