最晩年と死
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「ベーブ・ディドリクソン=ザハリアス」の記事における「最晩年と死」の解説
1950年は最高の年となった。この年、当時の女子メジャー大会3つ(全米女子オープン、タイトルホルダーズ選手権、女子ウェスタンオープン)にすべて勝利してグランドスラムを達成し、獲得賞金もトップに立つという快挙を成し遂げた。また、この年にはLPGAゴルファーで10勝するまでの最速記録を塗り替えた(1年と20日)。この最速10勝の記録は未だに破られていない。続く1951年にも賞金王を獲得、1952年にはメジャーであるタイトルホルダーズ選手権に再び勝利したが、1952年から1953年にかけては体調が思わしくなく、出場する試合数が少なくなった。それでも最速20勝(2年と4カ月)の記録は更新できた。 1953年に結腸癌と診断されたが、手術を受け1954年にトーナメントに復帰した。この年、年間最小平均スコアを記録した者が受賞するベアトロフィーを獲得し、さらには彼女にとって10回目でかつ最後となるメジャー優勝を全米女子オープンで飾った。この全米女子オープンは結腸癌の2度目の手術のわずか1カ月後に開催され、トーナメント中彼女は人工肛門バッグを身に着けてプレーした。この勝利で、メジャー優勝者の中で2番目の最年長者となった(1番目はフェイ・クロッカー、現在は2番目の最年長者にシェリー・スタインハウアーが割り込んだのでザハリアスは3番目となっている)。この勝利は彼女の30勝目に当たり、最速30勝到達の記録も塗り替えた(5年22日)。トーナメントでのプレーを続けながら、1952年8月にはLPGA の会長にも就任し、1955年7月までこの職を務めあげた。 1955年に結腸癌が再発した。この年は8試合にしか出場できなかったにもかかわらず、2勝を挙げた。1956年9月27日、45歳でテキサス州ガルベストンのジョンシーリー病院で死亡。死亡したその日の時点でもなお彼女はトップランクの女子ゴルファーであり続けた。彼女とその夫は早い時期にベーブ・ザハリアス基金を立上げ癌治療を行うクリニックを支援した。故郷のテキサス州ボーモントにあるフォレストローン墓地に埋葬されている。 死ぬまでの数年間、ディドリクソンはその運動選手としての能力だけではなく、当時の米国人は癌の検診や治療を拒否する人が多かった中で、癌治療推進の支持者としても知られるようになっていた。自身の知名度をその癌基金のためにだけではなく、米国癌学会のスポークスマンとしての活動にも利用した。 この分野での彼女の功績により、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領によりホワイトハウスで表彰された。
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最晩年と死
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メリヴェールはリーの精神状態に好影響を与えることができ、リーも安らいだ暮らしを送っていたが、アメリカのジャーナリストのラディ・ハリス (en:Radie Harris) に「ラリー(オリヴィエ)と一緒にいた時間はあっという間でしたけれど、彼のいない今の暮らしはなんと長く感じることでしょう」と漏らしている。リーの最初の夫であるホルマンも、かなりの時間をリーのために費やしていた。メリヴェールは、1961年7月から1962年5月にかけてオーストラリア、ニュージーランド、中南米を回るリーの巡業に同行している。相手役オリヴィエのいない舞台だったが、この巡業は好評価を得てリーを安心させた。相変わらず鬱の発作に悩まされていたとはいえリーは舞台活動を続け、1963年にはブロードウェイ・シアターで上演されたミュージカル『トヴァリッチ (en:Tovarich (musical))』で、ジャン・ピエール・オーモンらと共演しトニー賞のミュージカル主演女優賞を受賞した。映画作品では、1961年の『ローマの哀愁』、1965年の『愚か者の船』に出演している。 リーは1967年5月に、マイケル・レッドグレイヴと共演するエドワード・オールビーの戯曲『デリケート・バランス (en:A Delicate Balance (play))』のために舞台稽古を開始したが、結核が再発してしまった。リーは数週間の休養をとって回復したかのようにみえた。1967年7月7日の夜にメリヴェールは舞台に出演するためにリーを残して自宅を出て、公演を終えたメリヴェールが帰宅した深夜にはすでにリーは寝室で眠りについていた。そして、およそ30分後に寝室に入ったメリヴェールが、床に崩れ落ちて死亡しているリーを発見した。リーはおそらくトイレに行こうとしてベッドから起き上がったときに死亡したとみられ、その肺には大量の血がたまっていた。メリヴェールは、前立腺癌の治療で近くの病院に入院していたオリヴィエに連絡をとった。すぐさまリーとメリヴェールの自宅へと向かったオリヴィエは、リーをベッドに横たえようとしているメリヴェールの姿を見たときに、その自叙伝で「このうえなく悲痛」な気持ちになったと記している。オリヴィエは「その場に立ち尽くし、かつて私たちの間で起こってしまった数々の諍いごとに対して許しを乞うた」。リーの公式死亡記録には7月8日と記載されているが、7月7日を死亡日としている資料もある。 リーはロンドンのゴルダーズ・グリーン (en:Golders Green Crematorium) で荼毘に付され、その遺灰はリーの希望でイングランド南東部にあたるイースト・サセックスのブラックボーイズ近くにあるティッカレジ・ミル湖に撒かれた。そして追悼式がロンドンのセント・マーティン=イン=ザ=フィールズ教会 (en:St Martin-in-the-Fields) で挙行され、リーに捧げる追悼文を名優ジョン・ギールグッドが読み上げている。アメリカでも南カリフォルニア大学がリーを「南カリフォルニア大学図書館の擁護者」の最初の女優として顕彰し、出演した映画から集めたリーのフィルムを上映する追悼式を開いた。この追悼式にはジョージ・キューカーら、生前のリーとつながりのあった人々から言葉が寄せられた。
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