最晩年、パリ
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1898年の夏は、ルーアンを再訪したほか、夫婦でフランス東部のブルゴーニュ地方を旅し、妻ジュリーの故郷の町などを訪れた。また、晩年5年間の夏は、ディエップや、ディエップに近いヴァランジュヴィル=シュル=メール、ベルヌヴァル(英語版)を訪れ、田園風景を描いた。1901年、1902年には、息子のジョルジュが住むモレ=シュル=ロワン(英語版)を訪れた。他方、冬の間は家族とともにパリに滞在した。1899年初めには、リヴォリ通りの家に滞在し、異なる時刻や天気の下、テュイルリー庭園を描いた連作(第1シリーズ)を制作し、次の冬には第2シリーズを制作した。1900年3月にはシテ島のドーフィヌ広場に移り、セーヌ川や遠くに見えるルーヴル美術館の景色(第1シリーズ)を描き、翌冬には第2シリーズ、更にその翌冬には第3シリーズを描いた。1903年、最後のパリ滞在時には、ヴォルテール河岸にも部屋を借り、ここから見たロワイヤル橋やカルーゼル橋を描いており、第4シリーズと呼ばれる。 ピサロは1903年の夏をル・アーヴルで過ごした後、10月、パリに戻ったが突然病気に倒れ11月13日、前立腺の感染症で亡くなった。ピサロの遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。葬儀には、モネとルノワールが参列した。 『テアトル・フランセ広場とオペラ大通り、陽光、冬の朝』1898年。油彩、キャンバス、73 × 91 cm。ランス美術館。 『ベルヌヴァルの眺め』1900年。油彩、キャンバス、73.0 × 92.1 cm。ノートン・サイモン美術館。 『テュイルリー庭園、朝、陽光』1900年。油彩、キャンバス、73 × 92 cm。イスラエル博物館。 『ルーヴル美術館、午後、雨天(第1シリーズ)』1900年。油彩、キャンバス、66.7 × 81.6 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。
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