最晩年略歴
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吉野行宮を陥落させられた文観は、翌年の正平4年/貞和5年(1349年)には、山城国相楽郡(京都府木津川市等)の浄瑠璃寺西峰五智輪院を隠棲先と定めた。これには、後村上天皇が座す賀名生行宮の周辺には高僧が住むのに適した大寺院がなかったことや、浄瑠璃寺は行政区分上は山城国(京都府)ではあるものの南都(奈良県奈良市興福寺)に近く、戦略上重要な拠点であることなどが挙げられる。同年半ばには、文観は2度に渡って霊宝を浄瑠璃寺に寄進している。 正平5年/観応元年(1350年)、室町幕府の内紛である観応の擾乱が発生した。様々な混沌を経たのち、正平6年/観応2年(1351年)10月に北朝征夷大将軍である足利尊氏が南朝に帰順したため北朝は瓦解し、後村上天皇が唯一の天皇となり、元号も「正平」一つとなる正平の一統が行われた。 翌11月、文観は後村上天皇を支えた功労者として正法務・東寺一長者に再補任され、16年ぶりに真言宗の頂点に立った。このとき数え74歳。また、このころ慶派の名彫刻家である康俊を見い出し、東寺大仏師に取り立てている(なお文観の壮年期の朋友である興福寺大仏師康俊とは同名別人である)。 翌年の正平7年(1352年)1月には、東寺一長者として東寺の大法である後七日御修法を主催した。16年前には建武の乱で中断していたため、数え75歳にしてこのとき初めて完遂したのであった。しかし、後七日御修法の配下には文観の息のかかった僧は十数人中1人しかおらず、久しぶりの京にあって文観の勢力は脆弱だった。同年5月には、八幡の戦いで足利氏に敗北した後村上天皇が京を逐われて南北朝の内乱が再開し、文観の再度の栄華は半年程度だった。 その後しばらく文観がどこにいたのか不明であるが、南朝の重鎮である左大将洞院実世の依頼で『十一面観音秘法』を著しており、十一面観音を本尊とする大和国初瀬(奈良県桜井市初瀬)の長谷寺などが考えられる。 正平9年/文和3年(1354年)10月28日に後村上天皇が行宮(仮の皇居)を河内国(大阪府)の天野山金剛寺に移すと、文観も護持僧として随行して同寺に居を構えた。数え77歳。この時の金剛寺の学頭(寺務を統括する僧職)は、膨大な仏教書を写したことで名高い禅恵という学僧だった。禅恵は文観に弟子入りして聖教を伝授され、「門弟随一」を称した。 正平12年/延文2年10月9日(1357年11月21日)、文観房弘真は金剛寺大門往生院で入滅した。数え80歳だった。奇しくも、北朝で足利尊氏の護持僧を務めた三宝院賢俊も同年閏7月16日に入滅していた。 入滅後しばらくの間は、文観の学派は一定の規模があったと見られている。しかし、南朝の衰退とともに徐々に文観派も記録が不明瞭になっていった。戦いの趨勢が決した南北朝時代末期ごろ、北朝で書かれた軍記物語『太平記』(1370年ごろ完成)や宥快による仏教書『宝鏡鈔』(天授元年/永和元年(1375年))などによって、文観は妖僧という汚名を着せられた。文観の歴史的実像が解明され、名誉が回復されたのは、入滅後650年ほど経った21世紀初頭のことである。
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