最晩年の著作物
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1972年(斎藤61歳)、斎藤は季刊の個人雑誌『開く』(明治図書)を創刊した。これは毎号、巻頭に盟友・上野省策の解説を付けた芸術作品の口絵が載り、続けて斎藤の「宿場裏から」というかなり長い連載随筆が掲載され、その後に教師、研究者を始めとする各界の多様な人々の論文、実践記録、随想等々が続く内容豊かな教養雑誌であった。こういう個人雑誌が商業的に成り立つというところに、当時斎藤の著書の愛読者がいかに多かったかということがうかがえる。この『開く』は、斎藤が亡くなるまで10年間、順調に第29号まで発刊を続け、斎藤の没後、追悼号として第30号(最終号)が出て終刊した。 また最晩年、病篤い床で、斎藤は教授学研究の会の機関誌として『事実と創造』という月刊誌の発行を企画した。これは斎藤の意を受けて、横須賀薫ら同研究会の中心となる人々が刊行に向けて努力し、斎藤の臨終とほとんど同時に創刊号が出た。これは、後に発行主体が同会から一莖書房に移り、今日でも発行が続けられている。
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