最晩年(1900年 - 1906年)
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「ポール・セザンヌ」の記事における「最晩年(1900年 - 1906年)」の解説
1900年にパリで開かれた万国博覧会の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちとともに出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになった。1904年から1906年までは、まだ創設されて間もなかったサロン・ドートンヌにも3年連続で出品した。パリのベルネーム=ジューヌ画廊も、セザンヌの作品を取り扱うようになった。 セザンヌ『果物入れ、グラス、りんご』1879-82年。 ゴーギャン『マリー・デリアンの肖像』1890年。 モーリス・ドニ『セザンヌ礼賛』1900年。 ナビ派の画家モーリス・ドニは、1900年、画商ヴォラールの画廊を舞台として、セザンヌの静物画の周囲に、ドニ自身を含むナビ派の仲間、ヴォラール、批評家アンドレ・メレリオ(英語版)が、巨匠オディロン・ルドンと向い合って立っている作品『セザンヌ礼賛』を制作し、これを1901年の国民美術協会サロンに出品した。セザンヌは、一般社会からはまだ顧みられていなかったが、若い画家たちからは強い敬愛を受けていたことを示している。このセザンヌの静物画は、ゴーギャンが愛蔵し、その肖像画の中に画中画として描き入れた絵でもあった。 ジャス・ド・ブッファンが売られた後は、ブールゴン通りのアパートを借りていたが、一時、「シャトー・ノワール(黒い館)」と呼ばれる建物を借りた。これは、石炭商が建てて黒く塗った建物だったが、セザンヌが住んだ頃には黒色が落ちて黄金色になっていた。1902年、エクス郊外に向かうローヴ街道沿いにアトリエを新築し、多くの静物画、風景画、肖像画を描いた。特に、大水浴図の制作に力を入れた。 晩年には、セザンヌを慕うエミール・ベルナールやシャルル・カモワン(英語版)といった若い芸術家たちと親交を持った。ベルナールは、1904年にエクスのセザンヌのもとに1か月ほど滞在し、後に『回想のセザンヌ』という著書でセザンヌの言葉を紹介している。ベルナールによれば、セザンヌは、朝6時から10時半まで郊外のアトリエで制作し、いったんエクスの自宅に戻って昼食をとり、すぐに風景写生に出かけ、夕方5時に帰ってくるという日課を繰り返していたという。また、日曜日には教会のミサに熱心に参加していたという。セザンヌは、同年4月15日付けのベルナール宛の書簡で、次のような芸術論を語っている。 ここであなたにお話したことをもう一度繰り返させてください。つまり自然を円筒、球、円錐によって扱い、全てを遠近法の中に入れ、物やプラン(平面)の各側面が一つの中心点に向かって集中するようにすることです。水平線に平行な線は広がり、すなわち自然の一断面を与えます。もしお望みならば、全知全能にして永遠の父なる神が私たちの眼前に繰り広げる光景の一断面といってもいいでしょう。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところで私たち人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。そのために、赤と黄で示される光の振動の中に、空気を感じさせるのに十分なだけの青系統の色彩を入れねばなりません。 1906年9月21日のベルナール宛書簡では、「私は年をとった上に衰弱している。絵を描きながら死にたいと願っている。」と書いている。その年の10月15日、野外で制作中に大雨に打たれて体調を悪化させ、肺充血を併発し、23日朝7時頃、自宅で死去した。翌日、エクスのサン・ソヴール大聖堂で葬儀が行われた。墓石には、死亡日が10月22日と刻まれているが、市役所の死亡届には23日と記録されている。 『大水浴図』1898 - 1905年。フィラデルフィア美術館。 『サント・ヴィクトワール山』1904年。フィラデルフィア美術館。
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