南部戦線
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「グリフィス・ラザフォード」の記事における「南部戦線」の解説
詳細は「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」を参照 イギリス軍の戦略家は南部植民地、特に人口の少ないジョージアを最も脆弱なものと見ていた。南部ではチャールストンなどの開拓地で独立戦争初期に愛国者軍が勝利していたが、1778年に始められたイギリス軍の攻勢の目標にされた。ノースカロライナのリチャード・キャズウェル知事はこの脅威を認知し、即座に民兵隊の集結を命令した。ラザフォードは1776年にソールズベリーに戻って以来ロイヤリストを監視していたが、10月にこの命令を受け取った。キャズウェル知事とラザフォードは11月25日にキンストンで会見し、ラザフォードの任務について詳細を検討した。確かにニューヨーク市からイギリス艦隊が向かってきており、海岸部の重要都市は大変な危険に曝されていた。ラザフォードは部隊を編成できたので、12月初旬にはサウスカロライナとの境に進んだ。翌月、ジョージアのサバンナに近いサウスカロライナのパリーズバーグに作戦本部を設立した。 2月までにサバンナとオーガスタがイギリス軍に占領され、ラザフォード隊の位置づけが著しく弱められた。ラザフォードは部隊をオーガスタ近くに移動させ、3月3日のブライアクリークの戦いではジョン・アッシュ将軍の部隊を支援した。兵士達の徴兵期限が間もなく切れることになっていた。ラザフォード隊の大半は4月10日までにノースカロライナに戻った。 1780年にチャールストンが失われたことは愛国者側にとって大きな打撃となり、隣接するノースカロライナにも著しい脅威になってきた。徴兵期限が切れたために適切な防御を行えない状態だった。ラザフォードはこの危機に直面してサウスカロライナに残っていた兵士を呼び戻し、ソールズベリーからの兵士全てにシャーロット近くでの集合を命じた。6月初旬には900名の兵士が集められた。
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南部戦線
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モーガンはヒルスボロでゲイツに合い、10月2日、軽歩兵軍団の指揮を任された。遂に10月13日、モーガンは准将(旅団長)に昇進した。 12月3日、モーガンは新しい南部方面軍指揮官ナサニエル・グリーンにシャーロットで会った。グリーンはモーガンの任務を変えず、彼に新しい命令を与えた。グリーンは彼の軍隊を分割し、劣勢の大陸軍を再構築する時間を稼ぐために、敵のイギリス軍をゲリラ戦術で悩ませることに決めていた。グリーンは、モーガンの任務として、約700名の部隊を率い、直接の戦闘は避け、サウスカロライナの田園地帯で食料の確保と敵への嫌がらせを行うよう指示した。 この戦略が明らかになると、イギリス軍の指揮官チャールズ・コーンウォリス将軍は、バナスター・タールトン大佐の部隊を送ってモーガンを捉えるよう命じた。モーガンはタールトンと戦ったことのある多くの民兵の話を聞き、グリーンの命令に反して直接タールトンと対決することに決めた。
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南部戦線
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「ポーランド・ロシア戦争 (1792年)」の記事における「南部戦線」の解説
1792年5月18日の夜、ロシア軍が国境を越えてウクライナに侵攻した。ロシア軍は、ポーランドの最高司令官であるポニャトフスキとコシチュシコが率いるポーランド軍から想定外の抵抗を受けた。コシチュシュコ軍は、5月29日にヤヌフ付近でポニャトフスキ軍と合流した。しかしロシアの四軍を押しとどめるにはあまりにも非力だったポーランド軍は、南ブーフ川の西岸へ、ルバルからポウォンネへと撤退していった。この時、コシチュシュコが殿としてロシア軍と戦いながら退却した。圧倒的な兵力差を前に、ポニャトフスキはスタニスワフ2世アウグストの援軍を求めるとともに、ウクライナを放棄してヴォルィーニに撤退した。ここのポウォンネはポーランド軍の一大防衛拠点だった。ここでルボミルスキが兵力補給を任された。 6月14日、ヴィエルホルスキ率いるポーランド軍がボルシュコフツェの戦いで敗れた。17日、ポニャトフスキは待ち望んだミハウ・ルボミルスキ率いる2000人の援軍を手に入れた。翌18日、ポニャトフスキ率いるポーランド軍は、イラクルィ・モルコフ率いるロシア軍をジェレンツェの戦いで破った。スタニスワフ2世はこの勝利を「ヤン3世以来のもの」と賞して軍功勲章をコシチュシュコらに授与した。 しかしロシア軍の侵攻は止まらなかった。殲滅されるのを避けるために、ポニャトフスキらは撤退に撤退を重ねるほかなかった。7月上旬、ドゥブノ付近で、スタニスワフ2世から再度の補給を任されていたミハウ・ルボミルスキがロシア側に寝返った。彼はポーランド軍の物資を、あからさまにロシア軍に流した。しかし強大なマグナートだったルボミルスキは、公式には翌年5月下旬までポーランド軍の地位を剥奪されなかった。ロシア軍の侵攻から1か月ほどで、ポーランド軍はウクライナのほぼ全土から撤退した。7月7日、コシチュシュコはロシア軍を足止めするためヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーで敵と戦った(ヴウォジミェシュの戦い)。7月18日、ポニャトフスキの本軍がブク川を渡る際のを援護するため、コシチュシュコ軍はドゥビエンカの戦いを戦った。この戦いでコシチュシュコは、5300人のポーランド軍でミハイル・カホフスキー率いるロシア軍2万5000人の攻撃を防ぎ切った。 しかしロシア軍がオーストリア国境を越えて側面攻撃を試みたので、コシチュシュコ軍はドゥビエンカを放棄した。ブク川線からも撤退して後退し続けたポーランド軍だが、未だ戦闘による決定的な敗北は喫しておらず、ワルシャワ付近まで撤退して良地を選び、決戦を挑むことを企図していた。
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南部戦線
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詳細は「トルコ・フランス戦争(英語版)」を参照 南部ではキリキアに駐留してその領有をねらうフランス軍との戦闘になった。1920年5月から1921年10月まで続いた戦争はトルコも勝利を収めることができなかったが、21年10月にアンカラ条約を結び、翌1922年からフランス軍はトルコの南に確保していたフランス委任統治領シリアへ撤退を始めた。
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南部戦線
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一方南部では、5日にエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥率いる南方軍集団の第4装甲軍の第48装甲軍団とSS第2装甲軍団が攻撃を開始。最初の攻撃は撃退されたものの、午後からはティーガーI戦車を装備した装甲部隊を主戦力とする戦法「パンツァーカイル」を導入して攻撃正面の赤軍防御線の外周部分を突破し、10km前進(損耗6,000名)した。7日未明には、攻撃の主軸をオボヤンとプロホロフカ方面に指向したため、ソ連軍は、その方面の前線を受け持つ第6親衛軍と第1戦車軍に、待機させていた方面軍予備兵力の投入を開始した。8日には、この方面で激しい攻撃を開始、第1防御線を突破して第2防衛線まで突破する勢いだったため、ソ連軍は、その突破口に方面軍予備兵力の第2・第5親衛戦車軍団、歩兵数個師団、砲兵部隊を急遽送り込み対処した。 10日からは、プロホロフカ方面に戦力を結集させて再び攻撃を開始、第48装甲軍団と第2SS装甲軍団の攻撃により、第6親衛軍と第1戦車軍は大きな損害を受けてしまい、第6親衛軍の陣地は2箇所で大きな突破口を開けられてしまった。一方、これより南東方面の前線では、ケンプ軍支隊が、ソ連軍第7親衛軍の陣地を攻撃して突破したものの、陣地の防御はより強固だったため、前進が遅れてしまい、ソ連軍の東方からの増援を阻止する任務を十分に果たすことができずにいた。それとは対称的に、プロホロフカ方面の第48装甲軍団の進撃は、高い犠牲を払いつつも比較的順調であり、10日午後には攻撃開始線から25km北にあるプセール川南岸の高地まで前進した。この川は、クルスクへの最後の天然の要害と考えられていたため、突破されればドイツ軍にクルスクへの進撃を許してしまうのと同時にヴォロネーシ方面軍の防御にも穴が開いてしまう危機に直面した。 ソ連大本営は、これに対処するため、後方の予備兵力であるステップ方面軍の第5親衛軍と第5親衛戦車軍を救援部隊としてヴォロネーシ方面軍に向かわせた。一方ドイツ軍の第4装甲軍司令官ヘルマン・ホト上級大将は、ソ連軍の第1戦車軍と数個の戦車軍団がクルスクに向かう攻撃を阻止するため、部隊の進撃方向の正面に展開しており、また第5親衛戦車軍がステップ方面軍に所属していることを事前に承知しており、ソ連軍の東方からの増援を阻止するケンプ軍支隊の前進も遅れていたため、もし第5親衛戦車軍が進出する場合には、クルスク南部の小都市プロホロフカを通過すると考えたため、プロホロフカ奪取を第2SS装甲軍団に下命し、第48装甲軍団は東に進路を変えて、第2SS装甲軍団を援助することになった。7月11日には、プロホロフカを守備していた、ヴォロネーシ方面軍の第1戦車軍と第6親衛軍が、第2SS装甲軍団の攻撃で撃退されたため、9日の夕方にプロホロフカに到着していた第5親衛戦車軍が反撃することになり、翌12日にはプロホロフカ周辺で「史上最大の戦車戦」とされるプロホロフカ戦車戦が起きた。
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南部戦線
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「チャールズ・コーンウォリス」の記事における「南部戦線」の解説
コーンウォリスは1779年7月にアメリカに戻り、南部戦線でイギリス軍の中心的役割を担うことになった。この年の暮れ、クリントンとコーンウォリスはイギリス軍の大軍をアメリカ南部に送り、1780年春の第二次チャールストン包囲戦を始めた。これはベンジャミン・リンカーンが指揮する大陸軍の降伏に繋がった。この包囲戦に続いてワックスホーでエイブラハム・ビュフォードのバージニア連隊を潰した後、クリントンがニューヨークに戻ったので、コーンウォリスは南部の指揮官となった。 コーンウォリスは敵に対する徹底的な勝利を求める任務に直面しており、それはハウ将軍が北部で何度か勝利を上げながらも到達できなかったことだった。これを成すために与えられた軍隊は、ニューヨークでクリントン配下の大部隊がワシントン軍をつけねらい続ける必要性のために限られたものになった。上官のクリントンからはアメリカ南部の植民地には数多くいると考えられたロイヤリストの支援を有効に使うように告げられた。コーンウォリス自身はクリントンやハウがやったよりも大胆で攻撃的な作戦を採ることを好んだ。またロイヤリスト側を圧倒的に支持する黒人奴隷を、斥候、労働者および兵隊として徴募するという既に認められていたイギリスの政策を拡げてもみた。 1780年8月、コーンウォリス軍はホレイショ・ゲイツの指揮する敵の大部隊ではあるが実戦経験の無い軍と遭遇し、キャムデンの戦いで大きな損失を負わせた。このことでサウスカロライナから敵軍を事実上一掃してしまい、敵の士気を大きく挫くことになった。この勝利はコーンウォリスの評判を高めたが、アメリカ反逆者軍の潰走はコーンウォリスの技術によるというよりもゲイツの失敗に多く拠っているものだった。コーンウォリスは抵抗勢力が無くなったと考え、北のノースカロライナへの進軍を始めた。ロイヤリストの支援を糾合しようと試みていたが、コーンウォリスとその軍隊から1日の行軍距離しか離れていない所で、ロイヤリストの大部隊がキングスマウンテンの戦いで敗北を喫し、また別の大きな分遣隊がカウペンスの戦いで大敗を喫したことで、重大な打撃を受けることになった。続いてナサニエル・グリーン将軍の下に再建された大陸軍とギルフォード郡庁舎の戦いで衝突した。コーンウォリスの軍隊はここで数的に勝る敵軍に銃剣突撃を掛けたことで、犠牲が多くて引き合わない勝利を得た。 コーンウォリスは補給のために海岸のウィルミントンにその軍隊を動かした。コーンウォリス自身、戦闘では概ね実績を挙げていたが、連続する移動と損失のために軍隊の勢力が弱まりまた疲れさせてもいた。グリーン軍はギルフォード郡庁舎の戦いで損失を受けた後も健在であり、ウィルミントンに向かうコーンウォリス軍を付け狙っていたが、その後サウスカロライナに入り、数ヶ月の間にその大半の支配を取り戻した。 コーンウォリスはウィルミントンで伝言を受け取り、ウィリアム・フィリップスとベネディクト・アーノルド各将軍の指揮で別のイギリス軍がバージニアに派遣されることを知ったので、この軍隊と合流しバージニアの大陸軍補給基地を攻撃する決断をした。
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南部戦線(1941年6月~1942年7月)
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最初の南部戦線は、1941年6月25日、南西方面において、第18軍、第9軍、第9独立狙撃軍団から編成された。戦線の指揮機関は、モスクワ軍管区本部の要員から編成された。事後、第6軍、第12軍、第24軍、第37軍、第51軍、第56軍、第57軍、沿海軍、第4航空軍が配属された。 独ソ戦初期、南部戦線は、ドイツ南方軍集団の攻撃を引き受けた。戦線は、7月末までにドニエストル対岸に、8月末までに沿海軍をオデッサ防衛に残置しつつドニエプル対岸に退却した。9月末~11月初め、南西戦線左翼の協力の下、ドンバス作戦を行い、ロストフ・ナ・ドヌに突破したドイツ軍部隊をミウス川対岸に撃退した。 1942年1月、南西戦線部隊と協同で、バルヴェンコヴォ・ロゾフ作戦を行い、西方に100km前進した。5月、南部戦線右翼は、ハリコフの戦いに参加し、7月、ドンバス作戦を行った。同年夏、優勢な敵の攻撃により、ドンバス、ロストフを放棄し、南方のドン対岸まで退却した。 1942年7月28日、同日付最高司令部スタフカの命令に基づき、南部戦線は解散され、その部隊は、北カフカース戦線に編入された。
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南部戦線(1943年1月~10月)
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「南部戦線 (ソ連軍)」の記事における「南部戦線(1943年1月~10月)」の解説
2度目の南部戦線は、1943年1月1日、廃止されたスターリングラード戦線に基づき創設された。戦線には、第2親衛軍、第28軍、第51軍、第8航空軍、事後、第3親衛軍、第44軍が配属された。また、アゾフ小艦隊が作戦統制下に入った。 1943年の冬季攻勢中、戦線部隊は、ロストフ作戦を行い、300~500km前進して、ロストフを占領、ミウス川に進出した。南西戦線と協同で、ドンバス戦略作戦に参加。その後、メリトポリ作戦を行い、ドンバスを解放し、モロチナヤ川で敵の東部防衛線を突破し、ドニエプル河口とクリミア地峡に進出し、シワシャ南岸に橋頭堡を確保して、クリミアの敵軍を地上封鎖した。 1943年10月20日、10月16日付最高司令部スタフカの命令に基づき、南部戦線は、第4ウクライナ戦線に改称された。
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