南部戦線とは? わかりやすく解説

南部戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/21 03:55 UTC 版)

グリフィス・ラザフォード」の記事における「南部戦線」の解説

詳細は「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」を参照 イギリス軍の戦略家は南部植民地、特に人口少なジョージアを最も脆弱なものと見ていた。南部ではチャールストンなどの開拓地で独立戦争初期愛国者軍が勝利していたが、1778年始められイギリス軍の攻勢目標にされた。ノースカロライナリチャード・キャズウェル知事はこの脅威認知し即座に民兵隊の集結命令したラザフォード1776年ソールズベリー戻って以来ロイヤリスト監視していたが、10月にこの命令受け取った。キャズウェル知事ラザフォード11月25日にキンストンで会見しラザフォード任務について詳細検討した確かにニューヨーク市からイギリス艦隊向かってきており、海岸部重要都市大変な危険に曝されていた。ラザフォード部隊編成できたので、12月初旬にはサウスカロライナとの境に進んだ翌月ジョージアサバンナに近いサウスカロライナのパリーズバーグに作戦本部設立した2月までにサバンナオーガスタイギリス軍占領されラザフォード隊の位置づけ著しく弱められた。ラザフォード部隊オーガスタ近く移動させ、3月3日ブライアクリークの戦いではジョン・アッシュ将軍部隊支援した兵士達徴兵期限間もなく切れることになっていた。ラザフォード隊の大半4月10日までにノースカロライナ戻った1780年チャールストン失われたことは愛国者側にとって大きな打撃となり、隣接するノースカロライナにも著し脅威になってきた。徴兵期限切れたために適切な防御行えない状態だった。ラザフォードはこの危機直面してサウスカロライナ残っていた兵士呼び戻しソールズベリーからの兵士全てシャーロット近くでの集合命じた6月初旬には900名の兵士集められた。

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南部戦線

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ダニエル・モーガン」の記事における「南部戦線」の解説

モーガンはヒルスボロでゲイツ合い10月2日軽歩兵軍団指揮任された。遂に10月13日モーガン准将旅団長)に昇進した12月3日モーガン新し南部方面軍指揮官ナサニエル・グリーンシャーロット会ったグリーンモーガン任務変えず彼に新しい命令を与えたグリーン彼の軍隊分割し劣勢大陸軍再構築する時間を稼ぐために、敵のイギリス軍ゲリラ戦術悩ませることに決めていた。グリーンは、モーガン任務として、約700名の部隊率い直接戦闘避けサウスカロライナ田園地帯食料確保と敵への嫌がらせを行うよう指示した。 この戦略明らかになると、イギリス軍の指揮チャールズ・コーンウォリス将軍は、バナスター・タールトン大佐部隊送ってモーガン捉えるよう命じたモーガンはタールトンと戦ったことのある多く民兵の話を聞きグリーン命令反して直接タールトンと対決することに決めた

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南部戦線

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ポーランド・ロシア戦争 (1792年)」の記事における「南部戦線」の解説

1792年5月18日の夜、ロシア軍国境越えてウクライナ侵攻したロシア軍は、ポーランド最高司令官であるポニャトフスキとコシチュシコが率いポーランド軍から想定外抵抗受けたコシチュシュコ軍は、5月29日にヤヌフ付近ポニャトフスキ軍と合流した。しかしロシア四軍押しとどめるにはあまりにも非力だったポーランド軍は、南ブーフ川西岸へ、ルバルからポウォンネへと撤退していった。この時、コシチュシュコが殿としてロシア軍戦いながら退却した圧倒的な兵力差を前にポニャトフスキスタニスワフ2世アウグスト援軍求めとともにウクライナ放棄してヴォルィーニ撤退した。ここのポウォンネはポーランド軍一大防衛拠点だった。ここでルボミルスキ兵力補給任された。 6月14日、ヴィエルホルスキ率いポーランド軍がボルシュコフツェの戦いで敗れた17日ポニャトフスキ待ち望んだミハウ・ルボミルスキ率い2000人の援軍手に入れた。翌18日ポニャトフスキ率いポーランド軍は、イラクルィ・モルコフ率いロシア軍をジェレンツェの戦いで破ったスタニスワフ2世はこの勝利をヤン3世以来のもの」と賞して軍功勲章コシチュシュコらに授与した。 しかしロシア軍の侵攻は止まらなかった。殲滅されるの避けるために、ポニャトフスキらは撤退撤退重ねるほかなかった。7月上旬ドゥブノ付近で、スタニスワフ2世から再度補給任されていたミハウ・ルボミルスキがロシア側に寝返った。彼はポーランド軍物資を、あからさまにロシア軍流した。しかし強大なマグナートだったルボミルスキは、公式には翌年5月下旬までポーランド軍地位剥奪されなかった。ロシア軍の侵攻から1か月ほどで、ポーランド軍ウクライナのほぼ全土から撤退した7月7日コシチュシュコロシア軍足止めするためヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーで敵と戦ったヴウォジミェシュ戦い)。7月18日ポニャトフスキ本軍ブク川を渡る際のを援護するため、コシチュシュコ軍はドゥビエンカの戦い戦った。この戦いでコシチュシュコは、5300人のポーランド軍でミハイル・カホフスキー率いロシア軍2万5000人の攻撃防ぎ切った。 しかしロシア軍オーストリア国境越えて側面攻撃試みたので、コシチュシュコ軍はドゥビエンカを放棄したブク川線からも撤退して後退し続けたポーランド軍だが、未だ戦闘による決定的な敗北喫しておらず、ワルシャワ付近まで撤退して良地を選び決戦挑むことを企図していた。

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南部戦線

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トルコ革命」の記事における「南部戦線」の解説

詳細は「トルコ・フランス戦争英語版)」を参照 南部ではキリキア駐留してその領有をねらうフランス軍との戦闘になった1920年5月から1921年10月まで続いた戦争トルコ勝利を収めることができなかったが、21年10月アンカラ条約を結び、翌1922年からフランス軍トルコの南に確保していたフランス委任統治領シリア撤退始めた

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南部戦線

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クルスクの戦い」の記事における「南部戦線」の解説

一方南部では、5日エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥率い南方軍集団第4装甲軍第48装甲軍団SS第2装甲軍団が攻撃開始最初の攻撃撃退されたものの、午後からはティーガーI戦車装備した装甲部隊主戦力とする戦法パンツァーカイル」を導入して攻撃正面赤軍防御線の外周部分突破し10km前進損耗6,000名)した。7日未明には、攻撃主軸をオボヤンとプロホロフカ方面指向したため、ソ連軍は、その方面の前線を受け持つ第6親衛軍と第1戦車軍に、待機させていた方面軍予備兵力の投入開始した8日には、この方面で激し攻撃開始、第1防御線を突破して第2防衛線まで突破する勢いだったため、ソ連軍は、その突破口方面軍予備兵力の第2・第5親衛戦車軍団歩兵数個師団砲兵部隊急遽送り込み対処した10日からは、プロホロフカ方面戦力結集させて再び攻撃開始第48装甲軍団第2SS装甲軍団攻撃により、第6親衛軍と第1戦車軍は大きな損害受けてしまい、第6親衛軍の陣地は2箇所大きな突破口開けられてしまった。一方、これより南東方面前線では、ケンプ支隊が、ソ連軍第7親衛軍の陣地攻撃して突破したものの、陣地防御はより強固だったため、前進遅れてしまい、ソ連軍東方からの増援阻止する任務十分に果たすことができずにいた。それとは対称的にプロホロフカ方面第48装甲軍団進撃は、高い犠牲払いつつも比較的順調であり、10日午後に攻撃開始線から25km北にあるプセール川南岸高地まで前進した。この川は、クルスクへの最後天然要害考えられていたため、突破されればドイツ軍クルスクへの進撃許してしまうのと同時にヴォロネーシ方面軍防御にも穴が開いてしまう危機直面したソ連大本営は、これに対処するため、後方予備兵力であるステップ方面軍の第5親衛軍と第5親衛戦車軍を救援部隊としてヴォロネーシ方面軍に向かわせた。一方ドイツ軍第4装甲軍司令官ヘルマン・ホト上級大将は、ソ連軍の第1戦車軍と数個戦車軍団クルスクに向かう攻撃阻止するため、部隊進撃方向正面展開しており、また第5親衛戦車軍がステップ方面軍所属していることを事前に承知しており、ソ連軍東方からの増援阻止するケンプ支隊前進遅れていたため、もし第5親衛戦車軍が進出する場合には、クルスク南部小都市プロホロフカ通過する考えたため、プロホロフカ奪取第2SS装甲軍団下命し、第48装甲軍団は東に進路変えて第2SS装甲軍団援助することになった7月11日には、プロホロフカ守備していた、ヴォロネーシ方面軍の第1戦車軍と第6親衛軍が、第2SS装甲軍団攻撃撃退されたため、9日夕方プロホロフカ到着していた第5親衛戦車軍が反撃することになり、翌12日にはプロホロフカ周辺で「史上最大戦車戦とされるプロホロフカ戦車戦起きた

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南部戦線

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チャールズ・コーンウォリス」の記事における「南部戦線」の解説

コーンウォリス1779年7月アメリカ戻り、南部戦線でイギリス軍中心的役割を担うことになったこの年暮れクリントンコーンウォリスイギリス軍大軍アメリカ南部送り1780年春の第二次チャールストン包囲戦始めた。これはベンジャミン・リンカーン指揮する大陸軍降伏繋がった。この包囲戦続いてワックスホーでエイブラハム・ビュフォードバージニア連隊潰した後、クリントンニューヨーク戻ったので、コーンウォリス南部指揮官となったコーンウォリスは敵に対す徹底的な勝利を求め任務直面しており、それはハウ将軍北部何度勝利を上げながらも到達できなかったことだった。これを成すために与えられ軍隊は、ニューヨークでクリントン配下大部隊がワシントン軍をつけねらい続ける必要性のために限られたものになった上官クリントンからはアメリカ南部植民地には数多くいると考えられロイヤリスト支援有効に使うように告げられた。コーンウォリス自身クリントンハウがやったよりも大胆攻撃的な作戦を採ることを好んだ。またロイヤリスト側を圧倒的に支持する黒人奴隷を、斥候労働者および兵隊として徴募するという既に認められていたイギリス政策を拡げてもみた。 1780年8月コーンウォリス軍はホレイショ・ゲイツ指揮する敵の大部隊ではあるが実戦経験の無い軍と遭遇しキャムデンの戦い大きな損失を負わせた。このことでサウスカロライナから敵軍事実上一掃してしまい、敵の士気大きく挫くことになった。この勝利コーンウォリス評判高めたが、アメリカ反逆者軍の潰走コーンウォリス技術によるというよりもゲイツ失敗多く拠っているものだったコーンウォリス抵抗勢力無くなった考え、北のノースカロライナへの進軍始めたロイヤリスト支援糾合しようと試みていたが、コーンウォリスとその軍隊から1日行軍離し離れていない所で、ロイヤリスト大部隊がキングスマウンテンの戦い敗北喫し、また別の大きな分遣隊カウペンスの戦い大敗喫したことで、重大な打撃を受けることになった続いてナサニエル・グリーン将軍の下に再建され大陸軍ギルフォード郡庁舎の戦い衝突したコーンウォリス軍隊はここで数的に勝る敵軍銃剣突撃掛けたことで、犠牲多くて引き合わない勝利を得たコーンウォリス補給のために海岸ウィルミントンにその軍隊動かしたコーンウォリス自身戦闘では概ね実績挙げていたが、連続する移動損失のために軍隊勢力弱まりまた疲れさせてもいた。グリーン軍はギルフォード郡庁舎の戦い損失受けた後も健在であり、ウィルミントンに向かうコーンウォリス軍を付け狙っていたが、その後サウスカロライナ入り数ヶ月の間にその大半支配取り戻したコーンウォリスウィルミントン伝言受け取りウィリアム・フィリップスベネディクト・アーノルド将軍指揮別のイギリス軍バージニア派遣されることを知ったので、この軍隊合流しバージニア大陸軍補給基地攻撃する決断をした。

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南部戦線(1941年6月~1942年7月)

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南部戦線 (ソ連軍)」の記事における「南部戦線(1941年6月1942年7月)」の解説

最初の南部戦線は、1941年6月25日南西方面において、第18軍第9軍、第9独立狙撃軍団から編成された。戦線指揮機関は、モスクワ軍管区本部要員から編成された。事後第6軍第12軍第24軍、第37軍、第51軍、第56軍、第57軍、沿海軍、第4航空軍配属された。 独ソ戦初期、南部戦線は、ドイツ南方軍集団攻撃引き受けた戦線は、7月末までにドニエストル対岸に、8月末までに沿海軍をオデッサ防衛残置しつつドニエプル対岸退却した9月末~11月初め南西戦線左翼協力の下、ドンバス作戦行いロストフ・ナ・ドヌ突破したドイツ軍部隊ミウス川対岸撃退した1942年1月南西戦線部隊協同で、バルヴェンコヴォ・ロゾフ作戦行い西方に100km前進した5月、南部戦線右翼は、ハリコフの戦い参加し7月ドンバス作戦行った同年夏、優勢な敵の攻撃により、ドンバスロストフ放棄し南方ドン対岸まで退却した1942年7月28日同日付最高司令部スタフカ命令に基づき、南部戦線は解散され、その部隊は、北カフカース戦線編入された。

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南部戦線(1943年1月~10月)

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南部戦線 (ソ連軍)」の記事における「南部戦線(1943年1月10月)」の解説

2度目の南部戦線は、1943年1月1日廃止されスターリングラード戦線に基づき創設された。戦線には、第2親衛軍、第28軍、第51軍、第8航空軍事後第3親衛軍、第44軍が配属された。また、アゾフ小艦隊作戦統制下に入った1943年冬季攻勢中、戦線部隊は、ロストフ作戦行い300~500km前進してロストフ占領ミウス川進出した南西戦線協同で、ドンバス戦略作戦参加その後メリトポリ作戦行いドンバス解放し、モロチナヤ川で敵の東部防衛線を突破しドニエプル河口クリミア地峡進出し、シワシャ南岸橋頭堡確保してクリミア敵軍地上封鎖した1943年10月20日10月16日付最高司令部スタフカ命令に基づき、南部戦線は、第4ウクライナ戦線改称された。

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