南部弾薬庫とは? わかりやすく解説

南部弾薬庫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/26 17:19 UTC 版)

南部弾薬庫
South ammunition storage area
南部弾薬庫
沖縄南部の米軍基地 (1970年時点)
種類FAC6075
面積糸満市、八重瀬町
施設情報
管理者アメリカ軍
歴史
使用期間1958-1977
返還前の米軍「南部弾薬庫」「与座岳陸軍補助施設 サイトB」「与座岳サイト」 1970年9月27日の空中写真ではミサイルサイトと弾薬庫の一部が黒塗りされている。

南部弾薬庫 (なんぶだんやくこ 英語: Sedake Training Area, South ammunition storage area) は、沖縄県糸満市八重瀬町にあった米軍の弾薬庫沖縄県立平和祈念資料館のある摩文仁のすぐ西側、ギーザバンタ (慶座絶壁) に位置し、1,287,000㎡の面積を有した。接収当初はナイキ・ハーキュリーズのミサイル基地として使用されたが、その後1977年に返還されるまで弾薬庫として利用された。南部弾薬庫から与座岳陸軍補助施設まで軍道でつながっていた。現在はゴルフ場になっている。

具志頭村ギーザバンタ (慶座絶壁)

概要

米陸軍がナイキ・ハーキュリーズのミサイル基地として使用。ミサイル撤去後は弾薬庫として使用された。また与座岳陸軍補助施設のミサイルサイト (サイトB) とは軍道で直接つながっていた。

  • 旧称: South Ammunition Storage Annex
  • 改称: 南部弾薬庫 (South ammunition storage area)
  • 場所: 糸満市、具志頭村
  • 面積: 1,287千㎡[1]
  • 施設: 覆土式弾薬庫(7カ所)、一般弾薬庫(2カ所)、倉庫(3カ所)、警備所(4カ所)、浄水場、ポンプ場、貯水タンク(1個)
  • 工作物:街燈、配電線、保安柵、アスファルト舗装道路、下水道、駐車場、等[2]

歴史

  • 1958年2月: 米陸軍のナイキ基地として強制接収され、使用開始される。
  • 1970年頃: ナイキの撤去に伴い、陸軍弾薬庫として使用される。
  • 1972年5月15日: 沖縄施政権移行で日本政府により「南部弾薬庫」として提供開始。
  • 1973年12月頃: アメリカ海軍の弾薬庫として使用。
  • 1976年8月31日: 南部弾薬庫及び那覇空軍・海軍補助施設瀬長島海軍弾薬庫施設の嘉手納弾薬庫への移設が完了する[3]
  • 1977年3月31日: 南部弾薬庫の返還

沖縄の核兵器

1950年代、アメリカとソ連の核開発が激化するなかで、沖縄の米軍基地への核兵器配備が急速に進められた[4]。ナイキ・ハーキュリーズのミサイル拠点は、県内に8か所建設された。特に南部の与座岳陸軍補助施設与座岳サイトを補給するのがこの南部弾薬庫であった[1]。特に与座岳陸軍補助施設のミサイルランチャーがあるサイトBとは軍道で連結していた。

1972年の沖縄の施政権移行 (沖縄返還) にともなう核兵器の撤去に関しては、1971年の知花弾薬庫の毒ガス・化学兵器の撤去のためのホワイト・ビーチ地区までの移送 (レッドハット作戦) と同様に、南部弾薬庫から人口密集地を経て那覇軍港への移送が想定されることも問題となった[5]

南部弾薬庫の移設

1976年8月31日、南部弾薬庫と那覇空軍・海軍補助施設の瀬長島弾薬庫の返還に伴う代替施設として、米空軍嘉手納弾薬庫に新たに日本の予算で2,700㎡の弾薬庫を建設し、米軍への提供 (移設) を完了した。広大な面積を占有する南部弾薬庫は、実際には沖縄返還に伴う核兵器撤去に伴い過半が遊休化しているといわれるなか、代替施設として嘉手納弾薬庫に新施設を建設し提供する必要があるのか、瀬長島弾薬庫問題と共に議論となった。

南部弾薬庫というのはもともと陸軍の弾薬庫だったのですよ。しかし、日にちは私もちょっと忘れましたが、途中で空軍の弾薬庫というふうにいわゆる使用変更をやった、そして実際には使っていないのだが、その分を嘉手納に新しくつくってあげる。まあ日米合意の上でやっているのか知らぬけれども、アメリカがずるいのか、そういうインチキみたいなことは幾らでも指摘できるのですよ。瀬長島にそんなにたくさん弾薬庫がありますか。ぼくはここに図面を持ってきていますが、弾薬庫はわずかに七つぐらいしかない。大半は南部弾薬庫の従来使ってもいない弾薬庫ですが、新しく嘉手納の空軍弾薬庫の近くに二千七百平米のりっぱなものをつくってあげている。なぜそこまで——こういうことは常識として通らないと思うのだな。 — 上原康助衆議院議員 (第76回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第3号 昭和50年12月18日)

返還

慶座地下ダムの位置 (沖縄総合事務局)。下方がサザンリンクスリゾートゴルフクラブ (南部弾薬庫跡地)

1977年3月31日、南部弾薬庫が全返還される。具志頭村(現八重瀬町)側の1,240,000㎡はゴルフ場 (サザンリンクスゴルフクラブとサザンリンクスリゾートホテル)となる。糸満市側の39,000㎡は採石場となる[6]が、1992年に沖縄総合事務局主導の国営かんがい排水事業「沖縄本島南部土地改良区」が始動し、跡地に慶座地下ダムが建設された。水源が確保されて土地改良がすすみ、跡地も農地として活用されている[2]

参照項目

脚注

  1. ^ a b 沖縄県「沖縄の米軍基地」(平成15年12月)197頁
  2. ^ a b 沖縄県「米軍基地環境カルテ - 南部弾薬庫」(平成29年3月)
  3. ^ 沖縄県「沖縄の米軍基地」(平成15年12月)294頁
  4. ^ 写真展「USCARの時代」第7回 – 沖縄県公文書館”. 2022年10月6日閲覧。
  5. ^ 第67回国会 参議院本会議第5号 昭和46年10月22日
  6. ^ 沖縄県「沖縄の米軍基地」(平成15年12月)574頁

南部弾薬庫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 18:13 UTC 版)

与座岳・八重瀬岳の米軍基地」の記事における「南部弾薬庫」の解説

米陸軍核兵器含め南部基地弾薬庫として設立。 場所: 糸満市具志頭村 面積: 1,263千㎡ 施設: 覆土弾薬庫(7カ所)、一般弾薬庫(2カ所)、倉庫(3カ所)、警備所(4カ所)、浄水場ポンプ場貯水タンク(1個) 工作物街燈配電線保安柵、アスファルト舗装道路下水道駐車場、等 1958年2月: 米陸軍において使用開始される1970年頃: ナイキ撤去に伴い陸軍及び海軍通常弾庫として使用される1972年5月15日: 「南部弾薬庫」として提供開始使用主目的弾薬庫)。 1973年12月頃: 陸軍引き揚げ海軍弾薬庫として使用1977年3月31日: 土地の返還

※この「南部弾薬庫」の解説は、「与座岳・八重瀬岳の米軍基地」の解説の一部です。
「南部弾薬庫」を含む「与座岳・八重瀬岳の米軍基地」の記事については、「与座岳・八重瀬岳の米軍基地」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「南部弾薬庫」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「南部弾薬庫」の関連用語




南部弾薬庫のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



南部弾薬庫のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの南部弾薬庫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの与座岳・八重瀬岳の米軍基地 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS