機甲戦
(戦車戦 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 20:38 UTC 版)
機甲(きこう)とは、現代戦において、機械化歩兵を含む「機械化された装甲部隊」(機甲部隊)を指し、それらが装備する戦車をはじめとした装甲戦闘車両を投入した戦闘を機甲戦(きこうせん)と呼ぶ。これは、非対称戦争が主流となる以前の現代戦では重要な部分であり、特に戦車どうしの戦闘は戦史でも戦車戦(せんしゃせん)と呼ばれることが多い。機甲戦の基本原理は、防衛線に対して機甲部隊の機動力を使用して突破する能力にある。
- ^ p.27, Design and development of fighting vehicles, R.M. Ogorkiewicz, Macdonald, London, 1968
- ^ An Experimental Mechanised Force For the 21st Century? Boyd, S.F. 1999 British Army Review, 121. 1999(Apr), pp17-22
- ^ p.32, Design and development of fighting vehicles, R.M. Ogorkiewicz, Macdonald, London, 1968
- ^ Race to the swift, Richard Simpkin, Brassey's, London 1985, p.37
- ^ p.38, Race to the swift: Thoughts on the Twenty-first century warfare, Brig. Richard E. Simpkin, Brassey's, London, 1985
- ^ From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations - December 1942--August 1943, 1984 Art of War symposium, a transcript of proceedings, Col. David Glantz ed., Centre for land warfare, US Army war college, March 1984
- ^ Zaloga (Armored Thunderbolt) p. 1-4
- ^ a b Zaloga (Armored Thunderbolt) p. 13
- ^ Zaloga (Armored Thunderbolt) p. 46
- ^ a b Zaloga
- ^ 佐山『機甲入門』490、491頁
- ^ 佐山『機甲入門』484頁
- ^ 佐山『機甲入門』490、491頁
- ^ 佐山『機甲入門』491、492頁。
- ^ 佐山『機甲入門』491、492頁。
- ^ 佐山『機甲入門』484頁
- ^ 佐山『機甲入門』492、493頁。
- ^ 佐山『機甲入門』494頁。
- ^ 佐山『機甲入門』494、495頁。
- ^ 『陸軍機甲部隊』98頁。
- ^ 佐山『機甲入門』50頁
- ^ 佐山『機甲入門』51頁
- ^ 佐山『機甲入門』64頁
- ^ 佐山『機甲入門』64頁
- ^ 佐山『機甲入門』70頁
- ^ 佐山『機甲入門』67頁
- ^ 佐山『機甲入門』69頁
- ^ 佐山『機甲入門』74、75頁
- ^ 佐山『機甲入門』76頁
- ^ 佐山『機甲入門』81頁
- ^ 佐山『機甲入門』82頁
- ^ 『日本陸軍の戦車』85頁。
- ^ 『日本陸軍の戦車』86頁。
- ^ 佐山『機甲入門』82頁
- ^ 佐山『機甲入門』85頁
- ^ 佐山『機甲入門』94、95頁
- ^ 『太平洋戦争 日本帝国陸軍』42頁。
- ^ 佐山『機甲入門』83頁。
- ^ Zaloga (Armored Thunderbolt) p. 15
- ^ Zaloga (M3/M5 Stuart) p. 13, 14, 33
- ^ 佐山『機甲入門』83、84頁
- ^ http://www.upi.com/Business_News/Security-Industry/2010/04/06/Israel-unveils-defense-shield-for-Merkavas/UPI-97231270579381/
- ^ http://defense-update.com/products/t/trophy.htm
- ^ http://www.jpost.com/Defense/Article.aspx?id=210366
- ^ Hunnicutt/1984/p. 6, 149, 408
- ^ p.37 Race to the swift, Thoughts on Twenty-first century warfare, Brig. Richard E. Simpkin
- ^ Stockwell, p. 10
- ^ Starry, p. 73
- ^ Starry, p. 24/Zumbro, p. 470
- ^ Starry
戦車戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
ノモンハン事件で戦った日ソ両軍の主要戦車九五式軽戦車(日本)八九式中戦車(日本)九七式中戦車(日本)T-26(ソ連)BT-5(ソ連)BT-7(ソ連)重量(t)6.5 12.0 15.0 8.0 11.0 13.9 戦車砲37mm砲 57mm砲 57mm砲 45mm砲 45mm砲 45mm砲 主要部装甲 (mm)12 17 25 13 15 20 エンジン馬力120 120 170 80 400 450 最高速度 (km)40 25 38 35 55 52 全高 (m)2.25 2.56 2.23 2.2 2.16 2.29 全長 (m)4.3 5.74 5.55 4.56 5.35 5.66 超越壕幅2.0 2.65 2.5 1.8 2.0 2.0 ソ連軍が7月以降約500輌の戦車・装甲車を投入し続けたのに対して、日本軍は戦車第3連隊(八九式中戦車26輌、九七式中戦車4輌、九四式軽装甲車11輌、九七式軽装甲車4輌)と戦車第4連隊(八九式中戦車8輌、九五式軽戦車35輌、九四式軽装甲車4輌)と戦車合計で73輌、装甲車を加えても合計92輌を投入したに過ぎず、また戦車部隊が戦闘に参加した期間は、実質的には7月2日夜から6日までに過ぎなかった。 ソ連軍の戦車砲は、既にスペイン内戦において独・伊製の軽戦車を相手に大威力を証明していた長砲身45mm砲(20-K 45mm戦車砲)は砲口初速が高く(約760 m/s)、中・遠距離でも貫通力が高かった。また弾道が低進するため、中・遠距離の動目標に対して有利であった。それに対して日本軍の戦車砲は1920年代末 - 1930年代前半に開発されたものか、その小改良型で、中・遠距離での対戦車戦闘をそれほど考慮していない八九式中戦車と九七式中戦車の短砲身57mm戦車砲(九〇式五糎七戦車砲・九七式五糎七戦車砲)は砲口初速が低く(約350 m/s)山なり弾道となり、中・遠距離の動目標に対して不利であった。九五式軽戦車の37mm戦車砲(九四式三十七粍戦車砲)は短砲身57mm戦車砲より砲口初速は高い(約575 m/s)ものの、ソ連の長砲身45mm砲よりは低かった。これらの砲口初速の差は貫通力の差の要因にもなった。 総合的に日本軍の戦車砲・対戦車砲は、ソ連軍の戦車砲・対戦車砲の長砲身45mm砲と比べて、砲口初速、徹甲弾の強度や貫通力(日本側は希少金属の制約により弾頭の金質が劣っていたことや、徹甲弾 (AP) でなく弾頭内に炸薬を充填した徹甲榴弾 (AP-HE) を主用したことも一因であった)の点では劣っていた。そのため中・遠距離では命中角が悪いと命中しても貫通せず跳弾することが多かった。のちに陸軍少年戦車兵学校の校長となった玉田美郎は、ノモンハンの戦いでは戦車第4連隊長を指揮していたが、部下の砲手が「隊長殿、私の撃つ砲弾は、たしかに命中するのですが、敵戦車は跳ね返します」と嘆くのを聞いて、この戦闘の行く末を心中密かに心配している。 日本軍における戦車の位置付けは歩兵直協で敵の機関銃制圧が主任務であり、『戦車兵操典』が出来る前の日本軍戦車兵の教典であった『教練規定』には「戦車はみだりに対戦車戦闘すべきものに非ず」と定められていたほどで、八九式中戦車に搭載された短砲身57mmはその運用思想にかなうものであり、九七式中戦車開発に際しても主砲の威力増強も検討されながら、結局は「短砲身57mmで十分」と判断されてしまった。日本軍戦車開発の中心的人物であった原乙未生はのちに「57mm砲で十分と認められたので変更することができず、火砲問題が将来に残されたのは遺憾なことであった」と回想している。 戦車第3連隊長の吉丸は『教練規定』を無視してソ連軍戦車に果敢に突撃したが、ソ連軍のBT戦車やT-26戦車の装甲は比較的薄く、貫通力が劣る日本の戦車砲でも、500 m前後の中距離なら十分に貫通できた。さらに中国大陸での運用を踏まえた経験の蓄積により、射撃の腕では躍進射撃などの訓練を積んだ日本側の方が圧倒的に優れていた。また、榴弾による射撃でBTやT-26の機関部付近を狙撃し、ガソリンタンクに引火させ撃破する戦法も多く用いられた。さらに、相互に連携しあって戦闘を行う日本軍戦車に対し、ノモンハン戦初期のソ連軍戦車は数は多いが行動はバラバラで連携が取れておらず、日本軍戦車の集中射撃に各個撃破されていた。一部には戦車や装甲車を乗り捨てて逃げるソ連兵もいたほどであった。7月3日の戦車第3連隊のソ連軍陣地への突撃が、ノモンハンにおける最大規模の戦車戦となったが、日本軍はソ連軍戦車32輌、装甲車35輌撃破の戦果を報告しながら、ピアノ線使用の蛇腹式鉄条網に多数の戦車が走行不能となったところを対戦車砲に狙い撃たれ、連隊長車の九七式中戦車を含めて戦車13輌、装甲車5輌を撃破されて攻撃は撃退されている。 かつては「戦車の戦闘性能はソ連軍のそれに比べ劣っていた。日本軍の八九式中戦車の装甲板17 mmはソ連軍の戦車砲で簡単に破壊されたが、八九式中戦車の短砲身57mm砲はソ連戦車の装甲を破壊できなかった」や「ノモンハンでの日本戦車の射撃は実に正確だったそうだが、実際は相手に命中しても炭団を投げつけたように貫通せず、タマは敵戦車に当たってはコロコロと転がった。ところがBT戦車を操縦するモンゴル人の大砲は、命中することにブリキのような八九式戦車を串刺しにして、殆ど全滅させた」などどの著名歴史作家などの著作の記述により、一方的に日本軍戦車隊が殲滅されたとの認識が一般的に広まったが、それは事実誤認であった。主砲については前述の通り、ソ連軍戦車装甲を貫通していたし、装甲厚にしても、ノモンハンの戦場で最も厚い装甲を持っていたのは、日本軍の4輌の九七式中戦車(最大装甲厚25 mm)であった。また軽装甲しか持たないソ連の装輪装甲車は脆弱で、しかもタイプによっては操縦手の膝上や後上部にガソリンタンクがあるという構造的欠陥もあり、7.7mm重機関銃の徹甲弾の集中射撃や九二式車載十三粍機関砲の13.2mm弾でも撃破可能であった。 日ソの戦車戦が戦われたのは7月2日から6日までのハルハ河付近の戦いであった。ここで日本軍が投入した戦車・装甲車は戦車第3連隊と戦車第4連隊の2個連隊92輌に対してソ連・モンゴル軍は452輌と5倍の数であった。戦車第3連隊と第4連隊の戦車は、数を増すソ連軍戦車と7日まで激戦を繰り返し、多数の戦車・装甲車を撃破した。しかし、損害も大きく、7月3日、4日の戦闘に日本側は73輌の戦車(九七式中戦車4輌、八九式中戦車34輌、九五式軽戦車35輌)を投入したが、41輌が撃破もしくは損傷した。しかしながら日本軍の中戦車は炎上しにくいディーゼルエンジンを搭載しており、撃破されても容易に炎上しなかったため、多くが回収され修理された。結局、7月3日、4日で撃破された日本軍戦車41輌のうち完全損失となったのは13輌のみであり、残りは前線ないし後方基地で修理され実戦復帰している。壊滅した戦車第3連隊も一週間後には撃破された戦車のうち75%が修理を受け部隊復帰している。この点は、速射砲弾の貫通や火炎瓶により容易く炎上し全損となるソ連軍戦車に対する日本軍戦車の優位点となった。それでも、連日の激戦で修理も補充も間に合わず、1939年7月7日時点で九七式中戦車1、八九式中戦車乙14、八九式中戦車甲4、九五式軽戦車11の合計30輌の戦車と7輌の装甲車を失った。損害の大きさに驚いた関東軍司令部は7日をもって、両連隊のこれ以上の消耗を恐れ引き揚げ命令を下し、日本軍はこの後、戦車なしで戦うこととなった。しかし、両戦車連隊の多くの将兵にとっては「戦い半ばにして命令によりやむなく後退」という気持ちが強かったという。 日本軍戦車隊が戦場で決定的な成果を上げることができなかったのは、ソ連軍戦車との性能と数の差もあったが、戦車と他兵科との連携が十分でなく、十分な支援が得られなかった上に戦果が拡大できなかったことが原因の一つであった。ハルハ河渡河戦を戦った安岡正臣中将率いる独立混成第1旅団(安岡支隊)の編成に問題があり、歩兵には十分な自動車がなく、戦車隊の進撃についていくことができなかった。その編成を戦車第4連隊の玉田美郎連隊長は「戦車と神代生まれながらの二本脚で敵弾に裸の歩兵と中世的な輓馬砲兵を組み合わせた三人四脚の戦場速成の行き当りばったりの兵団」と揶揄(やゆ)している。
※この「戦車戦」の解説は、「ノモンハン事件」の解説の一部です。
「戦車戦」を含む「ノモンハン事件」の記事については、「ノモンハン事件」の概要を参照ください。
- 戦車戦のページへのリンク