上横手雅敬とは? わかりやすく解説

上横手雅敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/01 03:50 UTC 版)

上横手 雅敬(うわよこて まさたか、1931年昭和6年〉3月7日 - )は、日本歴史学者。専門は、日本中世政治史・日本中世社会史。学位は、文学博士[1]京都大学名誉教授。和歌山県出身。

業績

若き日に中世史において画期的で洞察に満ちた見解を数多く示した。

後鳥羽は当初武家の臣従を前提とする公武融和路線を取り、建保六年(1218年)の政子上洛時に、幕府と後鳥羽との間に後鳥羽の皇子を実朝の養子として東下させ、後継将軍とする密約が成立していたと説いた。(「北条泰時」1958年、「承久の乱」1962年) また、承久の乱に際し、大江広元以外の武士たちが唱えた迎撃によれば鎌倉方は敗れていたであろうとし、広元の功績を特筆した。

「鎌倉幕府と公家政権」(1975)において、鎌倉時代政治史の骨格を以下のように鮮やかに描き出した。

鎌倉殿独裁(頼朝頼家・政子)⇔院政(後白河・後鳥羽)→ 承久の乱・政子没(1225)・頼経将軍→ 執権政治(泰時経時)⇔権臣政治(公経道家)→ 宮騒動・道家失脚(1246)・宝治合戦得宗専制(時頼以降)⇔幕府による朝廷支配

略歴

その他の活動

  • 1953年(昭和28年)11月 史学研究会委員(1956年3月まで)
  • 1970年(昭和45年)4月 史学研究会評議員(1974年11月まで)
  • 1971年(昭和46年)
  • 1973年(昭和48年)4月 和歌山県史編さん委員会専門委員(1994年3月まで)
  • 1974年(昭和49年)11月 史学研究会理事(1989年6月まで)
  • 1975年(昭和50年)7月 島根県文化財専門委員(現:島根県文化財保護審議会委員)。現在に至る。
  • 1984年(昭和59年)4月 京都府相楽郡加茂町史編纂委員会委員
  • 1985年(昭和60年)4月 「安徳天皇の御事績について」を昭和天皇に進講
  • 1989年(平成元年)6月 史学研究会監事(1992年6月まで)
  • 1991年(平成3年)
    • 3月 島根県知事より「神々のふるさと島根遣島使」を委嘱(現在に至る)
    • 6月 (和歌山県伊都郡高野口町(現在の和歌山県橋本市)文化財研究会顧問
  • 1992年(平成4年)6月 史学研究会理事(1994年6月まで)
  • 1995年(平成7年)4月 国立歴史民俗博物館共同研究員(1997年3月まで)
  • 2003年(平成15年)4月 国際日本文化研究センター共同研究員(2005年3月まで)
  • 2004年(平成16年)7月 和歌山県橋本市史編纂委員会委員(現在に至る)

門下生

受章・受賞等

  • 1994年11月、和歌山県文化賞受賞
  • 1998年10月、京都市長より感謝状を受ける(優れた文化創造に尽力したとして)
  • 2010年秋、瑞宝中綬章受章

著書

※再版・増訂等は省略

単著

  • 北条泰時吉川弘文館〈人物叢書〉、1958年
  • 『源平の盛衰』講談社〈日本歴史全集第6〉、1969年
  • 『日本中世政治史研究』塙書房、1970年
  • 『平家物語の虚構と真実』講談社、1973年
  • 『基礎演習日本史問題集』旺文社、1974年
  • 『よくわかる日本史』旺文社、1974年
  • 源義経 - 源平内乱と英雄の実像』平凡社〈日本を創った人びと7〉、1978年
  • 鎌倉時代政治史研究』吉川弘文館、1991年
  • 『鎌倉時代-その光と影』吉川弘文館、1994年
  • 『日本中世国家史論考』塙書房、1994年
  • 『ふりぬる跡』私家版、1995年
  • 『日本史の快楽 - 中世に遊び現代を眺める』講談社、1996年
  • 『源平争乱と平家物語』角川書店角川選書〉、2001年
  • 『文のアルバム』私家版、2001年
  • 壇之浦合戦と女人たち』赤間神宮源平シンポジウム委員会、2002年
  • 『戦中・戦後三高小史』三高記念室編集、三高自昭会〈神陵文庫〉、2008年
  • 『権力と仏教の中世史 文化と政治的状況』法蔵館、2009年

編著

  • 『日本と世界の歴史』10・13世紀、学習研究社、1969年
  • 鎌倉幕府』研秀出版〈日本の歴史6〉、1973年
  • 『鎌倉』小学館〈図説日本文化の歴史5〉、1979年
  • 『風翔ける鎌倉武士-鎌倉時代-』集英社〈日本史の舞台3〉、1982年
  • 『鎌倉幕府と承久の乱』朝日新聞社〈週刊朝日百科日本の歴史4〉、1986年
  • 人車記』1、思文閣出版〈陽明叢書13〉、1986年
  • 『人車記』2、思文閣出版〈陽明叢書14〉、1986年
  • 『人車記』3、思文閣出版〈陽明叢書15〉、1987年
  • 『人車記』4、思文閣出版〈陽明叢書16〉、1987年
  • 兵範記』1(編集・解説)、思文閣出版〈京都大学史料叢書1〉、1988年
  • 『兵範記』2(編集・解説)、思文閣出版〈京都大学史料叢書2〉、1989年
  • 『兵範記』3(編集・解説)、思文閣出版〈京都大学史料叢書3〉、1990年
  • 『中世の寺社と信仰』吉川弘文館、2001年
  • 『中世公武権力の構造と展開』吉川弘文館、2001年
  • 『源義経流浪の勇者 京都・鎌倉・平泉』文英堂、2004年
  • 『鎌倉時代の権力と制度』思文閣出版、2008年

共著

共編著

  • 『和歌山県史 中世史料1』和歌山県史編さん委員会、1975年
  • 『図説日本の古典』9 平家物語、集英社、1979年
  • 『図説日本の歴史』11 太平記、集英社、1980年
  • 『和歌山県史 中世史料2』和歌山県史編さん委員会、1983年
  • 『加茂町史第1巻 古代・中世編』加茂町、1988年
  • 『和歌山県史 古代史料2』和歌山県史編さん委員会、1989年
  • 『和歌山県史 原始・古代』和歌山県史編さん委員会、1994年
  • 『史料神陵史-舎密局から三高まで-』神陵史資料研究会、1994年
  • 『加茂町史第4巻 資料編1』加茂町、1997年
  • 『加茂町史第5巻 資料編2』加茂町、1999年

監修

  • 『暴れ獅子、織田信長』旺文社〈旺文社劇画歴史シリーズ〉、1975年
  • 『甲斐の若虎、武田信玄』旺文社〈旺文社劇画歴史シリーズ〉、1975年
  • 『乱雲戦国の風、豊臣秀吉』旺文社〈旺文社劇画歴史シリーズ〉、1975年
  • 『風雲児葵の若武者、徳川家康』旺文社〈旺文社劇画歴史シリーズ〉、1975年
  • 『熱血維新の星、西郷隆盛』旺文社〈旺文社劇画歴史シリーズ〉、1975年
  • 『越後の飛龍、上杉謙信』旺文社〈旺文社劇画歴史シリーズ〉、1976年
  • 『波乱の英雄、源義経』旺文社〈旺文社劇画歴史シリーズ〉、1976年
  • 『土佐の快男児、坂本竜馬』旺文社〈旺文社劇画歴史シリーズ〉、1976年
  • 『栄華の名将、平清盛』旺文社〈旺文社劇画歴史シリーズ〉、1976年
  • 『みちのくの荒武者、伊達政宗』旺文社〈旺文社劇画歴史シリーズ〉、1976年
  • 『最高学習中学社会、歴史』文研出版、1978年
  • 『古代・中世の政治と文化』思文閣出版、1994年
  • 図解雑学 源義経』ナツメ社、2004年
  • 『橋本市史 民俗・文化財編』橋本市史編さん委員会、2005年
  • 『日本史 1000人』(共同監修)、世界文化社、2007年

脚注

  1. ^ 上横手雅敬『日本中世政治史研究』 京都大学〈文学博士 乙第1788号〉、1971年。hdl:2433/213635NAID 500000396514https://hdl.handle.net/2433/213635 
  2. ^ 上横手雅敬 編『中世公武権力の構造と展開』吉川弘文館、2001年、298頁。ASIN 4642028056ISBN 978-4642028059NCID BA52834774OCLC 754580022全国書誌番号:20196985 
  3. ^ 元木泰雄『院政期政治史研究』思文閣出版〈思文閣史学叢書〉、1996年、381頁。ASIN 4784209018ISBN 978-4784209019NCID BN14178094OCLC 36838138全国書誌番号:96056972 
  4. ^ 美川圭『院政の研究』臨川書店、1996年、284頁。ASIN 465303284XISBN 978-4653032847NCID BN15677056OCLC 675335834全国書誌番号:97049497 
  5. ^ 上島享『日本中世社会の形成と王権』名古屋大学出版会、2010年、949頁。ASIN 4815806357ISBN 978-4815806354NCID BB03041388OCLC 743310077全国書誌番号:21813053 
  6. ^ 『花筐』2000年、149頁。 [要文献特定詳細情報]

外部リンク


上横手雅敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:05 UTC 版)

源義経」の記事における「上横手雅敬」の解説

上横手雅敬は鎌倉幕府編纂である『吾妻鏡』疑問呈し義経無断任官問題老獪な後白河法皇義経利用して頼朝との離反計り義経がそれに乗せられ結果であるとする通説批判している 。 任官問題 頼朝義経平氏追討派遣しなかったのは、無断任官対す制裁などではなく京都治安維持義経が必要であり公家側の強い要望あったからである。後白河院義経治安維持活動期待して検非違使左衛門尉任じた。しかしその結果義経後白河院側近編成されたことになり、幕府への奉仕不可能になったため、それが頼朝怒り招いたのである。さらに壇ノ浦合戦後、義経鎌倉拘束せず京都帰したのは、院御厩司に補され院の側近となった義経利用して後白河院挑発するためであった頼朝後白河院頼朝追討宣旨を出さざるを得ないように追い込んだ結果多く政治的要求突きつけることに成功したのである判官贔屓と吾妻鏡 また伝説義経像には陰影があり感傷的であるが、実像に近いと思われる『平家物語』義経像は明るく闊達な勇者であり、何の陰りもない。ところが幕府編纂『吾妻鏡』は、反逆者であるはずの義経に対して非常に同情的であり、義経心情立ち入っている記述多く見られ、「判官贔屓」の度合いが強い。頼朝については弟達への冷酷さ隠そうとはせず、静御前の舞の場面では、凛然たる静と政子対し狭量頑迷な頼朝という描写悪意的なものがある。また、義経讒言した梶原景時悪人として断じている。景時は北条氏によって幕府から追放され人物である。『吾妻鏡』は「判官贔屓」の構図作り源氏から政権奪った北条氏立場正当化していると見られる

※この「上横手雅敬」の解説は、「源義経」の解説の一部です。
「上横手雅敬」を含む「源義経」の記事については、「源義経」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「上横手雅敬」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「上横手雅敬」の関連用語


2
58% |||||


4
56% |||||

5
38% |||||

6
36% |||||

7
36% |||||

8
36% |||||


10
32% |||||

上横手雅敬のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上横手雅敬のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの上横手雅敬 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの源義経 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS