バロック期
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「サン・ピエトロ大聖堂」の記事における「バロック期」の解説
16世紀末から17世紀初頭、大聖堂の改築において大聖堂の正面に残っていた旧聖堂の東側部分をどうするかという問題が起こっていた。反宗教改革の流れから保守的な意見が強まったことに加え、初期キリスト教時代のカタコンペが数多く発掘されたことなど考古学的関心が高まる中、由緒ある旧聖堂を残すべきという主張が影響力を持っていた。教皇クレメンス8世は聖堂の内装工事などに積極的だったが、この問題に結論を下せなかった。 しかし旧パジリカの老朽化はひどく、1605年ついにパウルス5世によって旧聖堂の取壊しが決断された。1606年には大聖堂の最終的な建築計画が8人の建築家によるコンペティションで競われたが、その過程でミケランジェロが理想と考えた集中式プランに対する欠点の指摘が相次ぎ、ミサを遂行したり儀式を補佐する空間が用意されていない点が問題視された。これらの検討の結果、カルロ・マデルノに旧聖堂の解体とミケランジェロのプランを変更する命が下った。 マデルノは、ミケランジェロのプランに基づき既に出来上がっていた聖堂本体部分に、違和感を生じさせないよう延長させ身廊を設けた。ここには礼拝堂や聖具室など実用的な空間も付け加えた。さらに、列柱だけのファザードも変更し、通廊式のポルティコ(玄関廊)とした。この2階部分からは教皇が祝福を与える場(ロッジア)として想定された。1607年にプランを具体化した木製モデルが承認されると、1608年から工事が始まり、1612年に完成した。 身廊ヴォールト架構は1614 年末に完成、翌年には新旧聖堂を分けていた壁が取り払われ、4月12日に新しい聖堂へ立ち入ることができるようになった。しかし、最終的な献堂式はウルバヌス8世によって1626年に行われている。マデルノによる計画は、初期キリスト教建築に遡る伝統的なバシリカではなく、レオン・バッティスタ・アルベルティが設計したマントヴァのサンタンドレーア聖堂と同じ、両側に小礼拝室を備えた単廊式教会堂に近いものである。予定では、正面ファサードの両側には塔が建設されるはずであったが、現在では下部構造(ファサードの一部と化している)のみに止まっている。 内陣の青銅製大天蓋(バルダッキーノ)は、ウルバヌス8世の命を受けたジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計・制作した。これは1624年に着手され、1633年に完成した。バルダッキーノのねじれ柱は、旧サン・ピエトロ大聖堂のパーゴラに使われていた初期キリスト教時代の円柱を再現したもので、巨大な大聖堂の中心部に視線を集中させる効果を持つ。またベルニーニは、聖堂中心の4つの柱に、4つの聖遺物(ロンギヌスの槍の穂、聖女ヘレナの聖十字架の断片、聖ヴェロニカの布、聖アンデレの頭部)を安置する祭壇を設け、その下に縁の人物像を配した。 ベルニーニに与えられた次の仕事はマテルノが設計したファサードの鐘塔だった。既に基礎のベイは造られていたが、実は地盤の弱さが指摘され中止されていたものだった。ベルニーニは円柱を多用した設計案を元に1638年から工事を開始し、1641年には左側の塔2層目までを完成させた。ところが、塔とファサードに亀裂が発見され、すぐさま撤去された。ライバルのフランチェスコ・ボッロミーニから激しい非難を受けたベルニーニは修正案も否決された。。 ファサードの最終的なプロポーション、すなわち列柱廊を持つ楕円形広場もベルニーニの手によるものである。鐘塔の失敗とウルバヌス8世の死後は干されてしまっていたベルニーニであったが、取り組んだ数少ない仕事のひとつウルバヌス8世墓碑の出来栄えを時の教皇インノケンティウス10世が認め、次代のアレクサンデル7世はベルニーニ起用を決めた。最初の計画案は1656年の夏に作成された。ベルニーニが考案した計画は、現在のルスティクッチ広場に向けて収束するような台形の広場であったが、これはすぐに却下されたため、彼は円形の広場を構築する方向で計画を練り直した。最終的にレッタ(台形)とオブリクァ(楕円形)の広場を建設する案が決定され、1657年3月17日、法王にその計画が提出された。ベルニーニ自身が、この広場を「信者を迎えるために、あたかも母が両腕を差し出しているかのように見せるコロネード(柱廊)を備えていなくてはならない」と評しているように、サン・ピエトロの広場は、広場としての境界は明瞭であるが、コロネードによって外部に対しても開かれている格好になっており、信者をゆるやかに抱擁するものになっている。また、マデルノによるファサードは、両側に鐘楼が建設されることを意図して、高さに対し幅の広い、やや鈍重な形状になっていたが、ベルニーニは、オブリクァ広場に接続するレッタ広場の開口部をファサードよりも狭くし、大聖堂側に向けてコロネードを低くすることによって、大聖堂の高さを強調するような視覚効果を与えた。4列のドリス式円柱と140体の聖人像で飾られたコロネードは、1667年に完成したが、ベルニーニの考えでは、玄関にあたる部分に第三のコロネードと、大聖堂のファサードから離れた位置の両側に鐘楼を建設する予定であった。しかし、これはアレクサンデル7世が1667年に他界したため頓挫し、計画のみに終わっている。 広場と並行して、ベルニーニは聖堂内に司教座の後陣(アプス)を備える装飾にも取り組んだ。彼は、旧聖堂に伝わる聖ペテロが使ったという木製の椅子(カテドラ・ペトリ、後の科学分析で否定された)を後陣に据え、これを4人の教会博士が支える構図の彫刻を中心に装飾する計画を立て、教皇がペテロの正当な後継者だと権威づけようと考えた。これは10年の期間を要して1666年に完成した。ベルニーニは1680年に亡くなった。この時には、サン・ピエトロ大聖堂は現在見せる形にほぼ仕上がっていた。建物建築に120年、周辺整備や装飾にさらに50年が費やされた。 フォンターナとデッラ・ポルタは、鉄製のテンション・リングを埋め込んでドームを補強していたが、18世紀になると、このドームに亀裂が発見され、倒壊するのではないかとの噂がたった。この亀裂は専門家によって危険がないと判断されたが、1734年から1744年にかけて、ルイジ・ヴァンヴィテッリによってさらに5本の鉄製テンション・リングが埋め込まれている。
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バロック期
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バロック期にもリュートは独奏楽器としてよくもちいられた。17世紀のフランスでは、スティル・ブリゼとよばれる独特の分散和音を用いた作品が作られた。フランスのバロック音楽ではそれまで以上に不協和音が複雑化し、2度の音程を多用するようになったため、コース数を増やし、コースの間の音程を狭くする調弦(バロック調弦、下記参照)が用いられるようになる。初期には11コース、その後13コースの楽器が用いられ、これらを今日ではバロックリュートと呼んでいる(但し、13コースに拡張された後も11コースの楽器はすぐに廃れず、ラウフェンシュタイナーやヴァイヒェンベルガー、ケルナーなどの多くのリュート奏者により18世紀の半ばくらいまで使用された)。これらの楽器はしばしば比較的大型のルネサンスリュートを改造してつくられた。17世紀後半から18世紀前半ドイツではテオルボ型の拡張弦をもつバロックリュートがつくられ、しばしば「ジャーマンテオルボ」と呼ばれるが、調弦の上ではバロックリュートの一種である。
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