17世紀後半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 00:26 UTC 版)
17世紀後半には新しく編成されたロシア正規軍に比べて時代遅れとなっていった。また17世紀から18世紀にかけて、農奴や民衆による暴動が相次いだ。このとき、過酷な軍役、度重なる俸給の遅延、地方官吏などによる権力の濫用に不満を抱いていたストレレッツ(特に貧しい者たち)も暴動に加わることとなった。一方モスクワの上位階級のストレレッツは、政府の権力争いに積極的に関与するようになり、17世紀末には政治に対してかなりの影響力を及ぼすようになっていた。 1682年、皇帝フョードル3世が死去した後、その姉ソフィア・アレクセーエヴナらの扇動により一部のストレレッツが暴動を起こした(ストレリツィの蜂起 (1682年)(ロシア語版、英語版))。この政変により、病弱なイヴァン5世とまだ幼いピョートル1世が共同で皇帝となり、彼らの代わりにソフィアが摂政として実権を握ることとなった。この体制は1689年にピョートル1世がクーデターを起こし、ソフィアを失脚させるまで続くこととなる。 その後ピョートル1世は近代化政策を進めるとともにストレレッツの軍事的・政治的活動に対して徐々に制限をかけていった。これに反発するストレレッツにより、1698年7月にモスクワで大規模なストレリツィの蜂起 (1698年)(英語版)が起きたが、ピョートル大帝により鎮圧され、モスクワのストレリツィの解散命令が出されることとなった。しかしながら、1700年のナルヴァの戦いでの敗北を受け、政府はストレリツィの解散をいったん中止し、大北方戦争の重要な局面、特に1711年のプルート川の戦いなどにストレリツィの精鋭軍を投入した。その後、ストレリツィはロシア正規軍に吸収されていった。1711年にはモスクワのストレリツィが廃止され、また1716年までに地方都市のストレリツィも徐々に解散・再編成されていき、その歴史に幕を下ろした。
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