ポルティコとは? わかりやすく解説

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ポルティコ【Portico】

読み方:ぽるてぃこ

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ポルチコ

(ポルティコ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/17 23:08 UTC 版)

ローマパンテオンのポルチコ
神殿の平面図、ハッチングがプロナオス

ポルチコイタリア語:Portico、またはポーチコポルティコ)は、建物の玄関に導く、あるいは柱列として拡がるポーチであり、柱で支えられるか壁で囲まれた歩道上に屋根がある構造である。この概念は古代ギリシアでまず現れ、西洋文化の大半など多くの文化に影響を与えてきた。

ポルチコの特筆すべき例としては、アメリカ合衆国議会議事堂の東ポルチコ、ローマパンテオンを飾るポルチコ、およびユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのポルチコがある。

イタリアボローニャが歩道上に屋根を置く「ボローニャのポルチコ」で大変有名である。全体では45km 以上のアーケードになっており、市内中心部だけでも38km ある。世界で最長のポルチコは市の端からマドンナ・ディ・サン・ルカ教会までのもので約3.5km ある。イタリアトリノも歩道上の屋根のポルチコで有名で、総延長が18kmある。[1][2]

16世紀イタリアの建築家アンドレーア・パッラーディオが宗教建築の寺院正面に使ったことでは先駆者だった。イギリスではハンプシャー州のザ・バインに適用された寺院正面がイギリスのカントリー・ハウスに適用された最初のポルチコだった。

プロナオス(pronaos) はギリシアやローマの神殿のポルチコの内側であり、ポルチコの柱あるいは壁とセラ(cella) すなわち神殿の玄関との間の部分である。ローマの神殿では開放的プロナオスであり、通常柱だけで壁が無く、プロナオスはセラの延長であり得る。プロナオスという言葉はギリシア語で「寺院の前」とい意味である。ラテン語ではanticumあるいはprodomusと呼ばれる。

ポルチコの種類

ポルチコの種類は使われている柱の数で名付けられている。

4柱式

ローマのポルトゥヌス神殿、4本のイオニア式柱の4柱式ポルチコである。

4柱式は柱が4本ある。古代ギリシアやエトルリアで、公共建築物のような小さな建物に普通に使われ、ポルチコが前後両面にある。

古代ローマポルトゥヌス神殿のような疑似周柱式の寺院、ウェヌスとローマ神殿のようなポルチコが前後両面にある寺院、またマクセンティウスのバシリカのような大きな公共建築物の前柱式の玄関ポルチコに4柱のポルチコを好んだ。ローマ属州の州都の例えばヴォルビリスのカピトリーヌ寺院でも4柱式を採用した[3]

アメリカ合衆国ホワイトハウスの北ポルチコはおそらくアメリカでも最も著名な4柱式ポルチコである。

6柱式

6柱式は6本の柱があり、アルカイック時代紀元前600年ないし550年からペリクレスの時代紀元前450年ないし430年の間に、正統的ギリシア・ドーリア式建築で標準的ファサード(正面)だった。

ギリシアの6柱式

アグリジェントの6柱式コンコルド寺院、紀元前430年頃

古典的ドーリア6柱式ギリシア寺院のよく知られた例は以下の通りである。

6柱式はアテネのアクロポリスの丘にあるエレクテイオンでアテーナー祭壇の前柱式ポルチコのようなイオニア式神殿にも採用されている。

ローマの6柱式

ギリシャ人南イタリアに植民したことに伴い、エトルリア人によって6柱式が採用され、その後古代ローマに引き継がれた。ローマ人は高い柱のある疑似周柱式や前後ポルチコの建物を好み、かなりの高さによって与えられる仰々しさや尊大さを付け加えることで演壇を作り上げた。フランスニームにあるメゾン・カレは古代から残っている最も保存状態の良いローマ寺院である。

8柱式

アテネパルテノン神殿西側

8柱式は8本の柱がある。古代ギリシア建築の規範では6柱式よりもかなり少ない。古代から残っていて最も良く知られている8柱式建築物はアテネのパルテノン神殿であり、ペリクレス時代(紀元前450年-430年)に建てられた。またローマのパンテオン(西暦125年)もある。アウグストゥス崇拝の中心であるローマの破壊されたディウス・アウグストゥス神殿は2世紀のローマ貨幣に8柱式で建てられていたと描かれている。

10柱式

10柱式は10本の柱がある。ミレトスのアポローン・ディディマエウス神殿やユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのポルチコがある。

ボローニャのサント・ステファノ広場に近いポルチコ

脚注

関連項目

参考文献

  • Greek architecture ブリタニカ百科事典, 1968
  • Stierlin, Henri. Greece: From Mycenae to the Parthenon, Taschen, 2004, Editor-in-chief Angelika Taschen, Cologne, ISBN 3-8228-1225-0
  • Stierlin, Henri. The Roman Empire: From the Etruscans to the Decline of the Roman Empire, Taschen, 2002, Edited by Silvia Kinkle, Cologne, ISBN 3-8228-1778-3

ポルティコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 01:15 UTC 版)

サン・ピエトロ大聖堂」の記事における「ポルティコ」の解説

ポルティコ(玄関廊)から聖堂内に入る扉は5つあり、右から『聖なる扉(ポルタ・サンタ)』(ポッロミーニ設計)、『秘蹟の扉』(ヴェンルツィオ・クロチェッティ)、『中央の扉』(アントニオ・フィラレーテ、旧聖堂から移設)、『善と悪の扉』(ルチアーノ・ミングッツィ)、『死の扉』(ジャコモ・マンズー1964年)である。中央上部にはベルニーニら作の浮彫『私の羊を飼え』(1646年)がある。反対ファサード側にあるモザイク画小舟(ナヴィチェッラ)』(ジョット1298年)は、旧聖堂前庭にあったものだが、のちに修復受けた際に大きく改変された。 ポルティコの右側にはヴァチカン宮殿へ繋がる階段(スカラ・レージャ)の踊り場にはベルニーニ作の『コンスタンティヌス帝の騎馬像』(1669年)があり、反対左側には『カール大帝騎馬像』(コルナッキーニ、1730-1735年)がある。

※この「ポルティコ」の解説は、「サン・ピエトロ大聖堂」の解説の一部です。
「ポルティコ」を含む「サン・ピエトロ大聖堂」の記事については、「サン・ピエトロ大聖堂」の概要を参照ください。

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