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概念も感覚も記憶も閉ざせ――『カルメル山登攀』 十字架の聖ヨハネ

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うえしん
   カルメル山登攀 ちくま学芸文庫ヨ 22 1 十字架の聖ヨハネ

   カルメル山登攀 十字架の聖ヨハネ



 十字架の聖ヨハネ 著 ほか『カルメル山登攀』,ドン・ボスコ社,1953. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2971436 (参照 2025-01-16)


 ことしの1月にちくま学芸文庫から出たばかりである。キリスト教神秘主義の著作が出るなんて驚きであるが、永井均の評価のツイートと関係あるのだろうか。

 私はデジコレで読んだのだが、いまはその版は図書館限定になっており、ネットでは古い上記の版しか読めなくなっている。

 神は形やイメージで見えるものではないから、想像力や感覚的なもの、知性といったすべての地上的なものを捨て去らなければ、神との合一は果たせないとのべた本である。

 イメージ的な神秘主義とちがって、きわめて理知的に論理的に説かれた本であって、私はすこし中だるみをしそうになった。

 これは禅や瞑想とまったく同じである。すべての知覚や概念を捨て去って、ただひたすら無や空になれという禅とまったく同じものである。それをキリスト教的な語彙や文脈の中で語っており、それら他文化の違いをそぎ落とせば、禅となんら変わりはない。

 禅よりか、もっと理知的に説いており、論理的な納得がつけ加わるわけで、禅よりかもっと頼りになる本かもしれない。禅なんてなんで無にならなければならないのかよくわからなかったりするが、この神秘主義書物では、神は地上のものでは見ることは絶対にできることはないからだと説かれている。

 イエスは処刑されるとき、「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てたもうたのですか」と問うたが、この世で生きているものには神に会うことはできないからだと説得される。

 神はいう。「まだ生きていることのできるものは、わたしを見ることはできないであろう」。聖ヨハネも「だれも、かつて神を見たことはない」といった。だから感覚的なものであっても、想像的なものであっても、知性的なものであっても、それらを閉ざして感覚の「暗夜」を迎えないかぎり、神に会うことはできない。

 たとえば『スターウォーズ』のヨーダは「考えるな、感じろ」と説いたり、マインドフルネスもいまの感覚に集中しろというのだが、十字架の聖ヨハネは知性のみならず、感覚も断ち切れというのである。

 記憶だって捨て去れという。記憶を捨てれば、悩みや悲しみもなくなり、煩悩も憂いもなくなり、おちつきと平安の中にとどまることができる。記憶さえなければ、平安を乱すものも、欲望をうごかすものも、なにもないというのである。それは動物に落ちるようなものだ、記憶がなければなにもできないではないかという問いに、しばらくはそうだが、神との合致が助けてくれるようになるという。

 私はこの心の平安こそが神秘主義や禅の究極の目的だと見なしているのだが、十字架の聖ヨハネはその先にもまだ神との合一があるといっているようである。もう一段上の究極の意識状態というものがあるのだろうか。

 キリスト教では超自然的なイメージというものが噴出しているのだが、十字架の聖ヨハネはそのようなイメージや想像的なものにたいしてきわめて警戒的になっており、神はそのような想像力でも超自然的なイメージでも捉えられるものではないとなんどもいっている。想像力、イメージの脱却は、この書物での重要な課題であったことが感じられる。

 そういう超自然的なもの、幻想的なものに出会い、優越感や自己満足、軽蔑に陥る者たちへの批判をくりかえす。キリスト教は自尊心や自我の増長などの鼻をへし折ろうとする宗教だが、善行や徳のおこないについても自己満足や増長に陥るものへの批判と警戒が語られている。現代の人間はこのような名誉や自尊心のために生きることが到達点になっており、キリスト教のような上から抑えつけるものはなにもないといった状態になっている。

 この本でとくに役に立つと思う柱は、神は知性でも感覚でも捉えられないものであり、地上的な生きているものは出会うことはできないと宣言していることだろう。すべての感覚や知性をあきらめなければならない。それでこそ、心や感覚は外側から内側に向け変えられ、地上のもの、感覚的なものの慰めや欲望はいっさい根を断たれることになる。これこそがキリスト教や修行のめざすところではないだろうか。

 一般の人たちは神は概念やイメージで捉えるものと思っている。そんなイメージを崇拝や信仰なんてよくするものだと思うだろう。しかしこのような神秘主義著作においては、そのようなイメージの神は根底から否定されているのである。さらには概念や知性も否定されている。記憶すらも捨ててしまえといわれている。これがキリスト教のほんとうに教えたかったことなのである。

 ここで禅や仏教と通底することになり、感覚や知性を閉ざしたものはなにを見出すことになるのだろうか。無や空のほかになにがあるのだろうか。生きているものは見ることができないものをめざすわけである。なにも見いだせない状態にとどまるしかなくなるではないか。禅の無であるようなこと、それこそが隠された目的ではないだろうか。



 シレジウス瞑想詩集 上 岩波文庫 青 819 1

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2024年、ことし読んだベスト本は3冊

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うえしん

 2024年は2月ころから本を書きはじめて、読書のほうには気合いを入れることはほとんどできませんでした。

 『言葉の世界は実在しない』という書くことがむずかしい本だったので、書いては捨て、書いては書き直し、一章まるまる捨てたりして、1日1ページ書くのがやっという困難な執筆になりました。

 書くのがむずかしかったのは、実在しないこと、「ない」ことを浮き上がらせるためにこの本を書いたからです。ついつい「ある」ことばかりに言葉がすべりがちになります。過去はもう実在しないものですが、その実在しないことの底なし感を実感できるでしょうか。この過去の底なし感をもって、言葉や心象をもながめてみたら、それらも実在しないことがわかるでしょうか。

 過去を言葉で話せば、過去があたかも目の前にあるかのように感情をもよおすことができます。しかし過去は底なし沼に呑み込まれて、地上のどこにも存在しなくなったものです。私たちが話したり、怒ったり、悲しんだりする過去はどのように実在しているというのでしょうか。それは底なしの無ではないでしょうか。過去は実在しなくなったのに、怒ったり、悲しんだりできます。私たちの認識というのはこのように実在しないものを、あたかも実在していると思う過ちに満ちているのではないでしょうか。

 言葉であらわすものは、実在しないものをあたかも現実に実在するかのように思わせる錯誤に満ちたものではないでしょうか。これを浮き彫りにしようとしたのが本書です。言葉の世界の非実在性を悟ったとき、私たちは苦しみや悲しみの幻想から抜け出せるのではないでしょうか。

 仏教や神秘思想は、この言葉の仮想現実が実在しないことを悟らせようとした教えだと、私は考えています。

 本書は11月に書き上がりましたが、自分が書いたことを忘れて他人の文章のように感じられるようにと一か月ほど塩づけにしました。いまは校正や、電子書籍化やペーパーバック化の作業に入っています。もうしばらくすれば成果をお届けできると思います。




 ■2024年ことしのベスト本3冊

 本の執筆にとりかかっていたので、ことしはあまり本が読めていません。図書館で借りて期限までに読み終わることが、執筆の優先のためにできませんでした。それ以外の期間に良い本に出会えました。ことしのベスト本は3冊になります。


■ニック・チェイター『心はこうして創られる』

 心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学 講談社選書メチエ ニック・チェイター ebook

心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学 講談社選書メチエ ニック・チェイター ebook



 心にはフロイトのいうような深層などない、いま即興にでっちあげられた表面しかないのだと宣言した本です。それを認知的実験で証明してみせる本ですが、ちょっと私にはこの理解がむずかしかったかな。

 心には何かを隠しておける奥などない、脳がその場で創り出しているフィクションしかないとニック・チェイターは断ずるわけです。これは急に出てきた話ではなくて、考えてみたら認知療法やポジティブ心理学というのは表面の解釈だけを書き直せば感情が癒されるという方法ですね。フロイトみたいに深層をさぐって解放しなければならないという説とは相容れない理論は、ずっと表面に躍り出ていたわけですね。

 元は自己啓発がポジティブに考えればポジティブな結果がもたらされ、ネガティブに考えればネガティブな現実が引き寄せられるといってきましたね。そういう自己啓発の背景に、深層などないでっちあげの表面だけの心は相ふさわしいわけです。客観的な世界があるのではなく、ただ主観的な考えや思いだけがある――自己啓発はそういった唯心論的な世界をずっとのべてきたわけです。

 このでっちあげの心だけあるのなら、私たちの悲しみも苦しみもただのでっちあげのフィクションということになりますね。ここから即興でつくられた表面的な考えや解釈はどうせウソっぱちなのだから、消してしまえ、なくしてまえば苦しむこともないという仏教的な教えにつながっていきますね。仏教はこのフィクションの思考を捨てさせようとしたものです。

 ポジティブ心理学や認知療法が考えを書き替えさせようとしたのに対し、仏教は思考をまるごと捨てさせようとします。思考がなければ苦悩もなしということです。そういった思考はそもそも実在しないものだと仏教はいいます。マインドフルネスの流行はこういう考え方の延長にあるものではないでしょうか。


■茂牧人『ハイデガーと神学』

 ハイデガーと神学 茂 牧人

ハイデガーと神学 茂 牧人



 ハイデガーをエックハルトやベーメ、ルターの神秘主義の流れにおいた研究書で、ハイデガーは神秘主義者だったのかと著作に探りたくなる本ですが、ハイデガーの難解な言い回しに煙に巻かれそうで、私には検証の壁を感じます。

 ハイデガーはルターの「隠れたる神」を救い出そうとして、ギリシャ以後の固定化した世界観を壊そうとしたということをいっています。「隠れたる神」というのは、目で見ることも言葉にすることもできないものがほんとうの神だということです。ギリシャ以降の西欧は言語化によって神を証明しようとします。そもそもその見えない神に合一しようとしたのが神秘主義や原初のキリスト教にあったものだと思われます。言葉の放擲こそが東洋や禅に求められたものですが、西欧は言葉でどこまでもつかまえようとする困難な道に、ハイデガーも抗しないように思うのですが。

 禅はひたらす言葉を捨てて無になろうとします。しかし一般的な宗教となると神という偶像を崇拝し、言葉で神をつかみとろうとします。西欧は言葉の絶対性を手放そうとしません。キリスト教の神秘主義では「神は無である」といった言語での把握が不可能であることを告げるのですが、西欧の主流はどこまでいっても言語で捕まえることをあきらめません。ハイデガーも「隠れたる神」を救い出そうとするのですが、瞑想や祈りに没頭するということもないわけです。


■バーガー・ルックマン『現実の社会的構成』

 現実の社会的構成―知識社会学論考 ピーター・L バーガー

現実の社会的構成―知識社会学論考 ピーター・L バーガー



 この本が社会の共同幻想を真正面からこんなに語った本だとは知りませんでした。共同幻想というのは、社会の常識や世界観は幻想や恣意的なものでできているというメタな視点を与えるものですね。

 私たちは学者や偉い人がいう世界観を信じて、それが世界の枠組みを支えるものですが、共同幻想論というのはそういうものは人々の創作的で、人為的なものにすぎないと蹴飛ばします。国家とか科学、宇宙観も幻想にすぎないというわけですね。

 バーガー・ルックマンはそういう人為的な世界観が人々に「世界そのもの」「超常的なもの」と信じられてしまうことを「物象化」とよびましたが、人間の限界を知らない一般人たちは、人々が言い合った世界観を「絶対的なもの」「世界そのもの」と信じてしまいます。人が神や仏について想像でしか語ったものでしかなくても、神や仏は実在すると信じるようなものですね。

 このようなジャンルを「知識社会学」とよびますが、私たち一般人は世界観をどれだけメタ的に見れているのでしょうね。宗教の世界観というのは、メタ的な視点がもてない最たるものではないでしょうか。でも現代の私たちであっても科学的な世界観の絶対性や「世界そのもの」と思うようなカン違いは、見過ごされているのではないでしょうか。私たちはいつも時代の産物や絶対性からは逃れられなく、自分の背中が見えないような過ちをかならず背負うのでしょうね。


 以上がことしのベスト本3冊になります。近々、私のKindle本を出すことになりますので、読んでいただければありがたいです。


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京都一周トレイルの歩き方

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うえしん

 京都一周トレイルを歩いてきました。全長84㎞におよぶロングトレイルです。
 2、3年前にバイクを手放してから、休みの日はいぜん登っていた山登りをするようになりました。
 YouTubeでサイレント・ハイキングの動画にハマって、どうやら歩いているのはロング・トレイルというピークに登らないハイキングらしく、日本にもあるロング・トレイルである京都一周トレイルを歩くことになりました。

 ">kyototrail1.jpg ◀「そうだ 京都、行こう。」サイト

  京都一周トレイルとは

 京都一周トレイルとは、京都市街地のまわりをとり囲む山々を歩くロングトレイルです。
 四区間に分けられています。
 反時計回りに伏見稲荷駅からスタートして、ケーブル比叡駅までの東山コース。
 大原に下って二ノ瀬駅までの北山東部コース。
 清滝までの北山西部コース。
 嵐山を通って、上桂駅までの西山コースに分けられています。

 それぞれ20㎞前後の長い距離なので、自分の好みに合わせてセクション・ハイクを楽しむことができます。
 なにも決まり通りに歩く必要はなく、寄り道したり、自分の都合に合わせたコースを選ぶこともできます。
 途中で中断したり、エスケープするために、交通機関の有無やバスの時間を確かめることが大事になります。

  コースの選び方

 ほぼ山登りなので、観光地のような平坦な道を歩きたい人は、北山西部コースの清滝川の渓谷がすばらしいです。
 東山コースは伏見稲荷大社や清水寺などの神社仏閣のそばを通るので、こちらに寄ることもできます。
 ただ大文字山や比叡山はガチの山登りになるので、ハイキングをふだんからする人でないとちょっとしんどいかもしれません。ケーブルやロープウェイで比叡山に登ることもできます。
 北山東部の西側コースはのどかな山里をはさんだハイキングをしたい人向けかもしれません。
 こんかい記事を書いてみるまで、コース名の把握がぜんぜんいい加減で、気にせずに歩いていたことに気づきました。
 山道を歩くことが多いのですが、山道を歩くということは観光地みたいな目立った名所から外れるということです。

  私の逆回りの歩き方

 東山コースはいぜん歩いたことがあったので、次に魅力的な清滝川の北山西部コースから歩くことにしました。だから逆回りコースになりました。
 だいたいふだんの登山の経験から、10km超えの距離が自分の限界という区切りで計画しました。
 四日間連続で歩くつもりでしたが、さいごの予定日の雨予報を避けて、大原と比叡山のコースを歩くことにしました。
 二日目に二ノ瀬駅~大原まで歩いて、きのうの足の疲れが残っていたので、いったん退散しました。
 一週間後に大原から水井山や比叡山を登る北山東部コースに挑戦しました。
 つぎの日はケーブル比叡山駅から下り、哲学の道を通って、へとへとになりながら大文字山に登りました。

 季節は11月の半ばの紅葉がはじまったころで、大原までのバスはすし詰めで、私は避けたかった時期かもしれません。
 大阪の自宅には日帰りで帰れましたが、連続で歩く日にはGoogleマップを頼りにネットカフェに泊まりました。
 北山西部コースの一部はまだ歩いていませんが、紅葉の時期を避けたかったので、いつかリベンジするかもしれません。

  日数はどのくらい?

 私は全コースを歩いたわけではないですが、5日分歩きました。あと2日ほどで全コース歩けそうなので、全7日間かかることになります。
 私のふだんの登山の経験では、4時間で8㎞くらい、5時間で10km超えくらいかかります。
 10㎞を超えるあたりから、かなりしんどくなってきます。1日に20㎞を歩くなんて私には想像もできません。
 2日ほど15㎞くらい歩くことになりましたが、しんどさが楽しさを上回るとただの苦行になってしまいます。
 風景や自然を楽しむために山に登るのであって、自然に見向きもできない歩行になれば修行ですね。


 私の歩いたコースは紹介します。

  1日目 西山・北山西部コース逆回り

 嵐山駅から混雑した観光地を抜けて、清滝川の渓谷沿いを歩く清涼な道です。文句なしにすばらしい山間の清流を見ることができます。さいしょ100mほどの道を登って、清流沿いの自然の道を歩きます。このコースとちょっと山登りになる寺社のそばを通る東山コースが私のおすすめです。【4時間、10㎞】

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 人でいっぱいの嵐山を抜けて山道を登り切ると、これから歩くことになる清滝川の清流が見えます。

 
 山間部の清流の快さは、本能にくみこまれているのではないかと思うくらいです。

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 清流のそばを歩いていると、心が活き活きしてきます。

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 少し紅葉がはじまった清滝川の風景はボーナスでした。


  2日目 北山東部コース逆回り

 叡山電鉄二ノ瀬駅から鞍馬寺まで電車と並行して歩き、大原のバス停まで歩くちょっと平凡な道かもしれません。峠が二つほどあって、あとはのどかな山里を通るくらいです。ハイキングというのはこういう観光目玉がない山間部を歩くもので、なにもない風景に美しさを見出す営みかもしれません。2日目の足の疲れで、これ以上の山を登るのはムリだと敗退しました。【4時間ちょっと、9㎞】

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 北山東部の峠をこえた静原という集落で、のんびりベンチに座ります。私は川を中心にした風景が好きですね。

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 大原の里から左手にこれから登る比叡山系の山々が見えます。もう明日登るのはムリだとあきらめました。


  3日目 北山東部コース逆回り 

 大原から標高差500メートルを一気に登るガチの登山だと覚悟してましたが、一週間ほどの休養をへて復活しました。水井山が793mのトレイル中のいちばん高い標高で、琵琶湖がのぞめました。延暦寺をかすりますが、ケーブル比叡駅まで下りる山中に京都北部の並々とした山並みや、ケーブル駅からは京都市街の大パノラマが見下ろせます。【5時間半、11㎞】

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 トレイル中でいちばん高い水井山から琵琶湖がのぞめます。曇っていてわかりにくいですが、ひと山登ったところに琵琶湖が見えるのは感激ですね。

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 京都の市街にヤコブズ・ラダーがふりそそぎます。天使のはしごですね。

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 ずっと山道を歩いていて、延暦寺の建物があらわれるのは異物感がありますね。

 
 京都北部に連なる山並みの中に大原の里がのぞいています。山々に囲まれた里の郷愁感。

 
 比叡ケーブル駅からは京都市街の大展望がひろがります。ひと山登り切った後のたまものの景色。


  4日目 東山コース逆回り

 前日は比叡山まで登ったので、この日はケーブル比叡駅から下るだけのラクな道でしたが、3時間かかりました。その間、連休中だったこともあり、たくさんの登山者と会いました。一度市街地におりて哲学の道を歩いたりするのですが、大文字山に登るときはもう私の疲労度はかなり上がっていて、へろへろになりながら登りました。コースではないのですが、山頂からの京都の大展望がごほうびになりました。【8時間、15㎞】

 
 2023年の夏にトレイル上で女性がクマに襲われる被害がありました。もしかしてここが現場? 百均の鈴を鳴らして防備。

 
 哲学の道を歩きますが、もうここはどこの外国というくらい海外の観光客ばかりですね。

 
 4時間歩いた後の大文字山登りは、私の体力を超えていました。へろへろになりながら登った大文字山の大展望のごほうび。コース外です。

 
 レールのある蹴上インクラインってよく知らずに歩いたのですが、船を運んだレールだったんですね。


  0日目 東山コース

 ロングトレイルを意識する前のことしのはじめに、寺社も楽しめるハイキングとしてこのコースを歩いていました。私には山深さを感じられない物足りないコースに思えましたが、伏見稲荷大社の千本鳥居を通ることもできますし、泉湧寺や清水寺にも寄ることができる歴史を感じられるコースですね。コース外ですが。慣れない人には千本鳥居も十分にしんどい登山かもしれません。【4時間、11㎞】

 
 千本鳥居はけっこうしんどい坂登りになります。外国人の観光客に埋めつくされています。

 
 ちょっと低い山から京都市街をながめることができます。もっと山深さを味わいたいか、これでもじゅうぶんに人里離れたと思うかはそれぞれです。



 自然の景色が好きな方は歩いてみてはいかがでしょうか。京都の市街地とは違った面が見つかるかもしれません。



▼参考サイト
 京都観光Navi 京都一周トレイル
 そうだ 京都、行こう。 「京都一周トレイル®︎」とは
 京都一周トレイル 京都トレイルガイド協会

 京都一周トレイル マップ ガイドー全5コース・14ルートを楽しむ 京都一周トレイル会公認ガイドブック 京都トレイルガイド協会

 京都一周トレイル マップ ガイド 京都トレイルガイド協会




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