「消費者と日本経済の歴史」

その時代区分は、目次でわかるとおりだが、本文に書かれていることを転載しておこう。
①消費者という言葉が社会的に定着していく一九六〇年代から七〇年代初頭まで。高度経済成長期に重なる時代。
②消費者に代わって生活者という言葉が使われるようになった一九七〇年代半ばから一九八〇年代半ばまで。石油ショック後の安定成長期に重なる時代。
③市場開放と規制緩和のなかで消費者利益に注目が集まる一方で、企業レベルではお客様という捉え方が広がっていく一九八〇年代後半から二〇〇〇年代まで。平成バブルからその後の長期経済停滞の時期に重なる時代。
全体の構成はこの時期区分に対応し、①を第1章、②を第2章、③を第3章とする。そのうえで、終章では、二〇一〇年代から現在に至る新しい消費動向の歴史的意味を考えたい。
まえがき | |
序 章 利益、権利、責任、そしてジェンダー | |
画期としての一九六〇年代/本書の観点 | |
第1章 消費者主権の実現に向けて | |
――一九六〇年代~七〇年代初頭 | |
1 高度経済成長と消費革命 | |
経済成長のメカニズム/戦後日本社会の編成原理/消費革命という用語/変化にともなう不安と問題 | |
2 消費者主権という理念 | |
経済同友会の修正資本主義論/生産性向上運動とは何か/東西冷戦下の消費者主権/「消費者は王様である」/家政学者の実感を超えて | |
3 日本消費者協会とかしこい消費者 | |
消費者団体の発足/日本消費者協会の商品テストと花森安治の眼差し/日本の消費者団体の特徴/かしこい消費者の育成/買物上手を教育で生み出す?/かしこい消費者の限界/権利なき主体化のゆくえ | |
4 ダイエー・松下戦争の構図 | |
価格決定権をめぐって?/中内功の安売り哲学/松下幸之助の水道哲学/バリュー主義の行く末 | |
第2章 オルタナティブの模索と生活者 | |
――一九七〇年代半ば~八〇年代半ば | |
1 石油危機後の日本経済と生活の質 | |
石油ショックから安定成長へ/消費水準の向上と中流意識の定着/社会的緊張に対する深い危機意識/高畠通敏の整理/食品公害のインパクト/消費者から生活者へ | |
2 生活クラブの消費材 | |
創始者・岩根邦雄/起点としての牛乳/消費材とは何か/班別予約共同購入という方法/生き方を変える/フェミニズムからの批判 | |
3 大地を守る会と有機農業運動 | |
学生運動経験者たちによる設立/大地を守るという共同性/有機農業運動の価値体系/産消提携の思想/互恵的贈与関係の隘路/日本有機農業研究会からの批判/株式会社という選択と事業内容/運動とビジネスのあいだ | |
4 堤清二のマージナル産業論 | |
セゾングループを築いた男/資本の論理と人間の論理/イメージ戦略と記号的消費/無印良品の歴史的前提/コンシューマリズムへの理解 | |
第3章 お客様の満足を求めて | |
――一九八〇年代後半~二〇〇〇年代 | |
1 長期経済停滞への転換と消費者利益 | |
平成バブルから長期経済停滞へ/格差社会の不安と生きづらさ/規制緩和と消費者利益/求められる自己責任/消費者団体の戸惑い/消費者基本法が意味すること | |
2 顧客満足の追求とそのジレンマ | |
CS元年以降─ヤマト運輸からユニクロまで/サービス経済化の難題/お客様と消費者の違い | |
3 セブン-イレブンにとってのお客様 | |
鈴木敏文の直感/日本型コンビニの革新性/POSシステムのデータ/お客様の立場の先鋭化 | |
4 お客様相談室の誕生 | |
ACAPの設立/消費者対応部門の設置とその課題/ACAPの組織と活動/消費者からお客様へ | |
終 章 顧客満足と日本経済 | |
――二〇一〇年代~ | |
1 現代史から見えたもの | |
消費者の時代/生活者の時代/お客様の時代 | |
2 新たな潮流―エシカル消費、応援消費、推し活 | |
カスハラなどの新たな問題/エシカル消費とSDGs/応援消費と推し活の隘路/顧客満足の社会的責任 | |
あとがき |
生まれてからしばらくして高度成長期に入り、学生時代にオイル・ショックがあり、就職後しばらくして安定成長期となった。
先輩からは年末の給与差額支給が月給並みの時代があったなどと聞かされただが、私はそういう経験はなく過ごして「安定」していた。
というわけで、本書が描く消費者像は自分にも重なるところが多く感じられた。
たとえば家にテレビや冷蔵庫が置かれて、工業製品の大量生産に、便利になったなぁと単純に喜んだこと。
そして続いて公害問題や食品添加物問題など、企業を糾弾する雰囲気が広がったこと。
私も学生時代には、いたるところで食品添加物追放とか、公害を追及するビラを見ていたし、それらが学生運動とも大きく関係していたことを知っている。
食品添加物には、企業が利潤を求めてというだけで使っていたわけではないとも思えるのだが、今から思えば反対運動家には企業=悪といった原理主義的なところがあって、企業vs消費者(労働者)の対立を設定することで運動を盛り上げようとしたのかもしれない。
ところで大手メーカーの食パンにカビが生えないことをもって、保存料などを使っているからと言う人がいるが、実際はそうではなく徹底した衛生管理のもとでカビの胞子などが混入しないようにしているからで、保存料は使われていない。街のパン屋のほうがはるかに衛生的には劣悪だろう。もっとも人工的な環境ではなく、そういう環境でつくるほうが良いのだという意見もあるだろう。
さて、本書によると、消費者には、利益、責任、権利という3つの面があるという。その部分も転載しておこう。
加えて、広い意味での生産者を事業者と総称しておけば、消費者の立場を強調する議論は、事業者との関係を念頭に置きながら、以下の観点で読み解くと明瞭に理解できる。 ①消費者の利益、②消費者の権利、③消費者の責任、という三つの観点である。
まず、①消費者の利益は、事業者の利益と対立する面を持つがゆえに問題となる。たとえば、消費者にとっては価格が安いほうが望ましいが、それは事業者の利益に反するかもしれない、といった状況を念頭に置けば理解しやすいだろう。ただし、人はみな誰もが消費者としての側面を持つから、事業者の利益を抑制することが、めぐりめぐって消費者の利益を損なうような事態も起こりえる。
次に、②消費者の権利は、事業者との関係で、消費者が構造的な弱者であるという現実への認識を出発点とする。その権利に関する思想は、一九六二年の米国のケネディ大統領の特別教書で具体化され、安全への権利、情報を与えられる権利、選択をする権利、意見を聴かれる権利という四つの権利が説かれた。ただし、消費者の権利は新しい思想ゆえに、その定着や理解の広がりに多くの困難を抱えてきた(正田二〇一〇)。したがって、権利をめぐる議論は、往々にして後景に退きがちである点を踏まえておくことも重要である。
最後に、③消費者の責任は、究極的には消費者が経済活動全体を左右する力を持つとの理念に根ざす。 市場経済では、消費者の自由で合理的な選択が生産と資源の最適な配分を決定することになり、よりよい経済社会の実現のためには消費者の自覚と責任が必要であるとされる。一般に、こうした考え方を消費者主権と呼ぶこともある。あるいは、環境問題に関連して、環境破壊の究極的な加害責任を消費者に求める議論もある。いずれにせよ、責任を強調する文脈では、消費者が大きな力をもつことが前提とされるが、それは②の権利をめぐる議論とは問題の位相を異にする点に注意しなければならない。
以上の通り、消費者の立場を強調する議論は、利益、権利、責任という三つの観点から読み解くと理解しやすい。 生活者やお客様という言葉が選び取られていく動きも、そのことを踏まえて見ていく必要がある。
ここに書かれているように、消費者の権利は米国生まれの概念で、やはり日本国ではなかなかこの権利を表立って主張する消費者運動は「お客様」と呼ばれるような時代になるまではあまりなかったのではないかと思う。今でこそ、商品情報の公開を求めることが普通になってはいるけれど。
ただPL法とか、消費者の権利擁護のための法律ができているけれど、それによって何が起きたかと言えば、取扱説明書に判で押したような表現が山ほどならんで、「ちゃんと警告しているから、メーカーには責任はないでしょ」という態度を感じるのだけど。
以上、本書の構成を見て来たが、おもしろい話がたくさんちりばめられている。それについては次稿で。