「女系図でみる驚きの日本史」(その3)
大塚ひかり「女系図でみる驚きの日本史」の3回目。
今日、紹介するのは、本当ならもっとドラマや映画に採用されても良さそうな話である。
本書では、当時の人たちは秀吉は「種無し」と思っていて、秀頼が秀吉の子だとは考えていなかったとさらっと書いているのだけれど、そうなら秀頼に執着する秀吉の態度はよくわからない。自分の子でないことがわかっていて、それでも豊臣家の存続を考えるのであれば、一族から養子を迎えてそうだ。もっともそうすると、秀頼が自分の子ではないことを認めることになるからそれもできなかったのか。
逆説的だが、秀頼が生まれなかったら、秀吉の血筋はともかく、豊臣家は存続したかもしれない。
最後に、本書でも最終章になっている「徳川将軍家はなぜ女系図が作れないのか」である。
乱暴にいえば、側室は子供を産む道具、古い言い方では畑にすぎず、現代のように子供の遺伝子の半分が母親に由来するという感覚ではなかったのだろう。
それを別の面からみるとつぎのようになる。
最初の引用中に「テレビで気になるのは、側室が皆ひどく威張っていること。いくら跡取りをお生みしても側室は局で、格は老女の方が家では上位ですよ」という話があるが、子供を産んでも偉そうにはできなかったという。
ただ、綱吉生母の桂昌院などは、綱吉から随分大事にされて、江戸城内でかなり羽振りがよい上、従一位の官位まで与えられている。さらに実家の一族は大名にとりたてられている。
時代によって違うのかもしれないが、いくら関係者の証言でもその通りには受け取りにくいとも思う。
ドラマでは、江戸城大奥では妻妾の間でおぞましい争いがあって、流産や子殺しなどの陰謀が渦巻いたように描かれることがあるが、それはともかく、類した話が禁中にあったという。
おそろしや。
今日、紹介するのは、本当ならもっとドラマや映画に採用されても良さそうな話である。
補講その五 茶々と家康の縁談
『大坂城と大坂の陣』 (北川央)を読んで知ったのだが、秀吉の死の翌年の慶長四(一五九九)年、大坂城で茶々 (淀殿)と徳川家康が結婚することになっていたと言う。室町末期から江戸初期にかけて興福寺の僧らによって代々書き継がれた『多聞院日記』を確認すると、
〝大坂ニテ去十日秀頼之母家康卜祝言在之候、太閤之書置在由候〟(慶長四年九月十七日条)とある。
つまり秀吉は、妻の茶々を、政敵の家康に譲るべく遺言した。そのことは当時、伏見に抑留されていた朝鮮の官人も『看羊録』に書き記していて、秀吉は、家康を秀頼の母と結婚させることで、秀頼の後見をさせ、秀頼成人の後は政権を秀頼に返させようとした。ところが乳母子でもあった大野治長と密通していた茶々はこれを拒絶した、と言う(北川氏前掲書)。
ということは家康には結婚の意思があったということで、茶々が承諾していたらその後の歴史はどうなっていたのか。茶々は家康の子を生んで、その子が徳川将軍になっていたのだろうか? 茶々の同母妹の江が家康の子の二代将軍秀忠の妻となり、千姫(豊臣秀頼妻)や三代将軍となる家光を生んだことを思うと、あり得ぬ話ではない(家光は茶々の甥、お市の方の孫に当たる。織田家はまさに女系図で栄華の血を残したわけだ)。
茶々と家康の縁談で思い出すのは、奥州藤原秀衡が、外腹の長男に、自分の正妻を譲遺言をしていた話で、これは夫死後、家長として絶大な力と権威をもっていた中世武士の「後家」の力ゆえ、生まれた発想であることはすでに触れた(⇒第九講)。
人望のある外腹の長男に、自分の正妻を与えることで、今一つ頼りない正妻腹の嫡男を守る意図もあっただろう。それによって、外腹の長男が、正妻腹の嫡男に離反するととを防ぎ、一族の存続をはかったのだ。
『大坂城と大坂の陣』 (北川央)を読んで知ったのだが、秀吉の死の翌年の慶長四(一五九九)年、大坂城で茶々 (淀殿)と徳川家康が結婚することになっていたと言う。室町末期から江戸初期にかけて興福寺の僧らによって代々書き継がれた『多聞院日記』を確認すると、
〝大坂ニテ去十日秀頼之母家康卜祝言在之候、太閤之書置在由候〟(慶長四年九月十七日条)とある。
つまり秀吉は、妻の茶々を、政敵の家康に譲るべく遺言した。そのことは当時、伏見に抑留されていた朝鮮の官人も『看羊録』に書き記していて、秀吉は、家康を秀頼の母と結婚させることで、秀頼の後見をさせ、秀頼成人の後は政権を秀頼に返させようとした。ところが乳母子でもあった大野治長と密通していた茶々はこれを拒絶した、と言う(北川氏前掲書)。
ということは家康には結婚の意思があったということで、茶々が承諾していたらその後の歴史はどうなっていたのか。茶々は家康の子を生んで、その子が徳川将軍になっていたのだろうか? 茶々の同母妹の江が家康の子の二代将軍秀忠の妻となり、千姫(豊臣秀頼妻)や三代将軍となる家光を生んだことを思うと、あり得ぬ話ではない(家光は茶々の甥、お市の方の孫に当たる。織田家はまさに女系図で栄華の血を残したわけだ)。
茶々と家康の縁談で思い出すのは、奥州藤原秀衡が、外腹の長男に、自分の正妻を譲遺言をしていた話で、これは夫死後、家長として絶大な力と権威をもっていた中世武士の「後家」の力ゆえ、生まれた発想であることはすでに触れた(⇒第九講)。
人望のある外腹の長男に、自分の正妻を与えることで、今一つ頼りない正妻腹の嫡男を守る意図もあっただろう。それによって、外腹の長男が、正妻腹の嫡男に離反するととを防ぎ、一族の存続をはかったのだ。
本書では、当時の人たちは秀吉は「種無し」と思っていて、秀頼が秀吉の子だとは考えていなかったとさらっと書いているのだけれど、そうなら秀頼に執着する秀吉の態度はよくわからない。自分の子でないことがわかっていて、それでも豊臣家の存続を考えるのであれば、一族から養子を迎えてそうだ。もっともそうすると、秀頼が自分の子ではないことを認めることになるからそれもできなかったのか。
逆説的だが、秀頼が生まれなかったら、秀吉の血筋はともかく、豊臣家は存続したかもしれない。
最後に、本書でも最終章になっている「徳川将軍家はなぜ女系図が作れないのか」である。
一講 平家は本当に滅亡したのか | |
平家の生き残りだらけ/天皇に繋がる清盛の血/北条政子も平氏/〝腹〟が運命を左右する | |
二講 天皇にはなぜ姓がないのか | |
女帝と易姓革命/史上初の藤原氏腹天皇/女系天皇を許容する古代法/〝卑母〟を拝むな/女性皇太子の誕生 | |
三講 なぜ京都が都になったのか | |
「渡来人の里」だった京都/天皇の生母は百済王族の末裔/妻子のおかげで即位できたミカド/流動的だった天皇の地位/古代天皇・豪族を支えた母方の力/今も生き続ける「滅亡」の一族 | |
補講その一 聖徳太子は天皇だった? 謎の年号「法興」 | |
四講 紫式部の名前はなぜ分からないのか | |
娘によってのみ名を残す父/紫式部という呼び名が表す力/母の名だけ記される/乳母の力が一族に影響/繁栄する紫式部の子孫/清少納言と紫式部の意外な接点 | |
補講その二 乳母が側室になる時 今参局と日野富子 | |
五講 光源氏はなぜ天皇になれなかったのか | |
〝劣り腹〟という侮蔑語/「逆玉」で出世した道長/婿取り婚が基本/道長の「愛人」だった紫式部/〝数〟ならぬ身の夢 | |
六講 平安貴族はなぜ「兄弟」「姉妹」だらけなのか | |
出世の決め手は「母方」/藤原定頼というモテ男/女泣かせの「美声」/『小大君集』に描かれるレイプ事件 | |
補講その三 究極の男色系図 政治を動かす「男の性」 | |
七講 「高貴な処女」伊勢斎宮の密通は、なぜ事件化したのか | |
密通斎宮は紫式部の「はとこ」/『伊勢物語』が伝える「逢瀬」/政治利用された「密通」/父と娘の対立/「不義の子の末裔」の密通 | |
八講 貴族はなぜ近親姦だらけなのか | |
犯した養女を孫の妻に/息子の妻を奪う/異母妹と子をなす/出家後の女色/姪を欲しさに/〝腹〟が卑しいから | |
九講 頼朝はなぜ、義経を殺さねばならなかったのか | |
妻を息子に譲る/「後家の力」で分かる義経の地位の高さ/白拍子の愛人はステイタス/源平二人の後家 | |
補講その四 戦国時代の偽系図 学者と武将と「醜パワー」 | |
十講 徳川将軍家はなぜ女系図が作れないのか | |
子や孫に呼び捨てにされた側室/正妻と側室の極端な身分差/「性」と「政」を峻別/〝フグリ〟をつぶされた鎌倉将軍/強い外戚を作らない | |
補講その五 茶々と家康の縁談 久々の女帝誕生の真相 | |
あとがき | |
参考原典・主な参考文献 |
第十講 徳川将軍家はなぜ女系図が作れないのか
子や孫に呼び捨てにされた側室
大奥を舞台にした昔のドラマには、側室が男子を生むと急に大事にされ、子供にも「母上」などと呼ばれるシーンがあったものだが、江戸時代最後の将軍慶喜の孫娘の大河内冨士子夫人によれば、
「テレビで気になるのは、側室が皆ひどく威張っていること。いくら跡取りをお生みしても側室は局で、格は老女の方が家では上位ですよ」(遠藤幸威『女聞き書き 徳川慶喜残照』)
老女とは侍女の筆頭のことで、大奥では「御年寄」と呼ばれる。側室はその下に位置し、子や孫にも呼び捨てにされていた。
そのように徳川将軍家の側室の地位が低いことは本を読んで知ってはいた。
が、今回、将軍家の母方の系図を作ろうとして、はたと困った。
特定の強い外戚がない。
「女系図」が作れないのだ。
歴代将軍の母となった女にはそもそも高貴な人が少ない。百姓や八百屋、魚屋の娘などもいて、中には四代将軍家綱の母のように、禁猟区の鶴を捕って売り死罪となった者の娘もいる。
これは、平安時代の天皇家には藤原氏、鎌倉前期の源将軍には北条氏、室町時代の足利将軍には日野氏というふうに、強い外戚がつきものだったそれまでの権力者にはないことではないか。
と思い立って、平安・鎌倉・室町・江戸の各時代の最高権力者の母親の地位や出身階級を調べたところ、女系図的に非常に興味深いというか、驚くべき結果を得た。
表1を見てほしい。平安時代の摂政関白(すべて藤原氏)の母を調べたもので、摂関職にあった二十二人中、正妻腹(母親が正妻)なのは十七人。ただし平安中期くらいまでは、後世のように正妻側室の区別や格差がはっきりしていたわけではなく、たとえば藤原兼家は北の方"が三人いたので妻錐"とあだ名されていた(『源平盛衰記』巻第一)。ほぼ対等の妻が三人いたわけで、中でも時姫は、多くの有力な子供たちを生むことで揺るぎない地位を得た。が、やはり兼家の妻で、時姫と同レベルの出身階級の道綱母は、その著書『蜻蛉日記』を見ると、時姫と同等の身分意識があり、彼女が天皇家に入内できるような娘を生めば、あるいは時姫以上の地位になったかもしれない……というような流動的なところがあった。兼家の息子の道長にも源倫子と源明子という二人の〝北政所〟 (『大鏡』道長伝)がいたが、道長は倫子と同居しており、子らの昇進 も倫子腹のほうが上なので、今でいえば倫子が正妻といった具合だ。このように平安時代の妻たちには、江戸時代の正妻と側室の如き格差はないものの、摂政関白二十二人中十七人の母が今で言う正妻であることは間違いない。
:
こうして通時代的に権力者の正妻腹率を表にしたのはこれが初めてだと思うが、平安時代の摂関77%、鎌倉時代の将軍6%、執権58%、室町時代の将軍4%、江戸時代の将軍20%の順で、時代が下るにつれ見事に正妻腹率が低くなっているのが分かる。
なかでも江戸時代の徳川将軍の正妻腹率の低さは異常なほどで、予想していたとはいえ、正直、他の時代とここまで極端な差が出るとは思わなかった。
要するに徳川将軍はほとんど側室腹なのだ。
これはどういうことかというと、一つには、母方の重要性が低くなっている、女の影響力、地位の低下を示していよう。
性を売る遊女の地位が十四世紀を越えると「劇的といってもよいほど」変化し、十五、六世紀になると、遊女の統括者は女から男へ変わり、地位が低下することは網野善彦が指摘していて、「一般平民の中での女性の地位も」十五世紀以降「かなりの変化が起こりはじめている」(『職人歌合』)と言い、私も古典文学を読んでいるとその実感はあった。
そういう女の地位の変化が、権力者の正妻腹率の変化にも表れている。
その芽はすでに平安末期、天皇の母方が実権を握る外戚政治から、天皇の父方(院)が実権を握る院政に移り変わったころからあって、中流貴族の娘が大貴族の養女となって天皇家に入内するということが増えてきた。〝腹"より父の名が大事になってきたのだ。
極めつきが江戸時代の将軍家で、庶民の娘が武士の養女になって大奥にあがり、大奥の最高権力者たる「御年寄」などの推薦を得て、将軍のお手つきになったりする。
とくに江戸時代の前半など、将軍の子さえ生めば身分は何でもいいという感じで、いくら女の地位が低くなったとはいえ、ここまで極端なのは将軍家ならではの事情があったと考える。
子や孫に呼び捨てにされた側室
大奥を舞台にした昔のドラマには、側室が男子を生むと急に大事にされ、子供にも「母上」などと呼ばれるシーンがあったものだが、江戸時代最後の将軍慶喜の孫娘の大河内冨士子夫人によれば、
「テレビで気になるのは、側室が皆ひどく威張っていること。いくら跡取りをお生みしても側室は局で、格は老女の方が家では上位ですよ」(遠藤幸威『女聞き書き 徳川慶喜残照』)
老女とは侍女の筆頭のことで、大奥では「御年寄」と呼ばれる。側室はその下に位置し、子や孫にも呼び捨てにされていた。
そのように徳川将軍家の側室の地位が低いことは本を読んで知ってはいた。
が、今回、将軍家の母方の系図を作ろうとして、はたと困った。
特定の強い外戚がない。
「女系図」が作れないのだ。
歴代将軍の母となった女にはそもそも高貴な人が少ない。百姓や八百屋、魚屋の娘などもいて、中には四代将軍家綱の母のように、禁猟区の鶴を捕って売り死罪となった者の娘もいる。
これは、平安時代の天皇家には藤原氏、鎌倉前期の源将軍には北条氏、室町時代の足利将軍には日野氏というふうに、強い外戚がつきものだったそれまでの権力者にはないことではないか。
と思い立って、平安・鎌倉・室町・江戸の各時代の最高権力者の母親の地位や出身階級を調べたところ、女系図的に非常に興味深いというか、驚くべき結果を得た。
表1を見てほしい。平安時代の摂政関白(すべて藤原氏)の母を調べたもので、摂関職にあった二十二人中、正妻腹(母親が正妻)なのは十七人。ただし平安中期くらいまでは、後世のように正妻側室の区別や格差がはっきりしていたわけではなく、たとえば藤原兼家は北の方"が三人いたので妻錐"とあだ名されていた(『源平盛衰記』巻第一)。ほぼ対等の妻が三人いたわけで、中でも時姫は、多くの有力な子供たちを生むことで揺るぎない地位を得た。が、やはり兼家の妻で、時姫と同レベルの出身階級の道綱母は、その著書『蜻蛉日記』を見ると、時姫と同等の身分意識があり、彼女が天皇家に入内できるような娘を生めば、あるいは時姫以上の地位になったかもしれない……というような流動的なところがあった。兼家の息子の道長にも源倫子と源明子という二人の〝北政所〟 (『大鏡』道長伝)がいたが、道長は倫子と同居しており、子らの昇進 も倫子腹のほうが上なので、今でいえば倫子が正妻といった具合だ。このように平安時代の妻たちには、江戸時代の正妻と側室の如き格差はないものの、摂政関白二十二人中十七人の母が今で言う正妻であることは間違いない。
:
こうして通時代的に権力者の正妻腹率を表にしたのはこれが初めてだと思うが、平安時代の摂関77%、鎌倉時代の将軍6%、執権58%、室町時代の将軍4%、江戸時代の将軍20%の順で、時代が下るにつれ見事に正妻腹率が低くなっているのが分かる。
なかでも江戸時代の徳川将軍の正妻腹率の低さは異常なほどで、予想していたとはいえ、正直、他の時代とここまで極端な差が出るとは思わなかった。
要するに徳川将軍はほとんど側室腹なのだ。
これはどういうことかというと、一つには、母方の重要性が低くなっている、女の影響力、地位の低下を示していよう。
性を売る遊女の地位が十四世紀を越えると「劇的といってもよいほど」変化し、十五、六世紀になると、遊女の統括者は女から男へ変わり、地位が低下することは網野善彦が指摘していて、「一般平民の中での女性の地位も」十五世紀以降「かなりの変化が起こりはじめている」(『職人歌合』)と言い、私も古典文学を読んでいるとその実感はあった。
そういう女の地位の変化が、権力者の正妻腹率の変化にも表れている。
その芽はすでに平安末期、天皇の母方が実権を握る外戚政治から、天皇の父方(院)が実権を握る院政に移り変わったころからあって、中流貴族の娘が大貴族の養女となって天皇家に入内するということが増えてきた。〝腹"より父の名が大事になってきたのだ。
極めつきが江戸時代の将軍家で、庶民の娘が武士の養女になって大奥にあがり、大奥の最高権力者たる「御年寄」などの推薦を得て、将軍のお手つきになったりする。
とくに江戸時代の前半など、将軍の子さえ生めば身分は何でもいいという感じで、いくら女の地位が低くなったとはいえ、ここまで極端なのは将軍家ならではの事情があったと考える。
乱暴にいえば、側室は子供を産む道具、古い言い方では畑にすぎず、現代のように子供の遺伝子の半分が母親に由来するという感覚ではなかったのだろう。
それを別の面からみるとつぎのようになる。
正妻と側室の極端な身分差
徳川将軍家の妻妾を見て驚くのは、正妻(御台所)と側室の極端な身分差だ。
御台所は、三代家光将軍以降は、皇族や最高位の公卿から迎えられた。十五代中二代ほど外様大名の島津家出身の御台所がいるが、いずれも近衛家の養女になってから興入れしている。
幕府がこうした方針をとった理由は、「天下を統一し、征夷大将軍となった以上、例え大々名であろうともすべて臣下であり、最早武家の社会には対等に交際できる家柄は一つもなくなった」というのと、「徳川幕府にとって朝廷、公卿はやはり面倒な存在であったから、常にこれを懐柔して置く必要があった」(高柳金芳 『江戸城大奥の生活』)と説明される。
初代将軍家康は朝廷を非常に意識しており、一六二〇年、二代秀忠の五女和子が天皇家に入内したのは亡き家康の方針によるものだった(村井康彦編『洛朝廷と幕府』)。
が、ふつうに考えれば、側室の一人くらい大名家から迎えてもいいだろうに、幕府はそうしない。側室は基本的に旗本の娘で、先にも触れたように武家以外の者もいた。これは側室が、大奥に仕える女中から選ばれるためで、御台所が「将軍家と対等」という位置づけなのに対し、側室は「将軍家の臣下」という位置づけだ。平安貴族でいえば、女房として仕えつつ主人の性の相手もするいわゆる「召人」に近いかもしれない。
つまりは召使である。
徳川将軍家の妻妾を見て驚くのは、正妻(御台所)と側室の極端な身分差だ。
御台所は、三代家光将軍以降は、皇族や最高位の公卿から迎えられた。十五代中二代ほど外様大名の島津家出身の御台所がいるが、いずれも近衛家の養女になってから興入れしている。
幕府がこうした方針をとった理由は、「天下を統一し、征夷大将軍となった以上、例え大々名であろうともすべて臣下であり、最早武家の社会には対等に交際できる家柄は一つもなくなった」というのと、「徳川幕府にとって朝廷、公卿はやはり面倒な存在であったから、常にこれを懐柔して置く必要があった」(高柳金芳 『江戸城大奥の生活』)と説明される。
初代将軍家康は朝廷を非常に意識しており、一六二〇年、二代秀忠の五女和子が天皇家に入内したのは亡き家康の方針によるものだった(村井康彦編『洛朝廷と幕府』)。
が、ふつうに考えれば、側室の一人くらい大名家から迎えてもいいだろうに、幕府はそうしない。側室は基本的に旗本の娘で、先にも触れたように武家以外の者もいた。これは側室が、大奥に仕える女中から選ばれるためで、御台所が「将軍家と対等」という位置づけなのに対し、側室は「将軍家の臣下」という位置づけだ。平安貴族でいえば、女房として仕えつつ主人の性の相手もするいわゆる「召人」に近いかもしれない。
つまりは召使である。
最初の引用中に「テレビで気になるのは、側室が皆ひどく威張っていること。いくら跡取りをお生みしても側室は局で、格は老女の方が家では上位ですよ」という話があるが、子供を産んでも偉そうにはできなかったという。
ただ、綱吉生母の桂昌院などは、綱吉から随分大事にされて、江戸城内でかなり羽振りがよい上、従一位の官位まで与えられている。さらに実家の一族は大名にとりたてられている。
時代によって違うのかもしれないが、いくら関係者の証言でもその通りには受け取りにくいとも思う。
ドラマでは、江戸城大奥では妻妾の間でおぞましい争いがあって、流産や子殺しなどの陰謀が渦巻いたように描かれることがあるが、それはともかく、類した話が禁中にあったという。
久々の女帝誕生の真相
ついでに言うと、家康は徳川氏の血を天皇家にも注ごうと考えており、一六二〇年、二代将軍秀忠の五女和子が後水尾天皇に入内したのは亡き家康の方針によるものだったことはすでに触れた(⇒第十講)。ところが徳川氏は、和子以外の女の生んだ皇子の即位を避けたいあまり、側室腹の皇子をことごとく圧殺していた。『細川家記』によれば、〝御局衆のはらに、宮様いか程も出来申候をおしころし、又は流し申候事、事の外むこく無念に被思召〟
つまり室にできた子は殺したり流したりしていた。そのことを天皇は無念に感じていたと。幕府のさまざまな干渉に嫌気の差した天皇は退位、和子とのあいだにできた皇女を即位させる。これが明正天皇で、「奈良時代以来、絶えて久しい女帝の誕生」(村井康彦編『洛 朝廷と幕府』)となった。
幕府が望んでいたのはあくまで徳川家の血を引く男帝の即位で、それによって徳川氏の血を延々と天皇家に注ぐつもりだったのだが、その目論見は外れてしまったわけだ。
ついでに言うと、家康は徳川氏の血を天皇家にも注ごうと考えており、一六二〇年、二代将軍秀忠の五女和子が後水尾天皇に入内したのは亡き家康の方針によるものだったことはすでに触れた(⇒第十講)。ところが徳川氏は、和子以外の女の生んだ皇子の即位を避けたいあまり、側室腹の皇子をことごとく圧殺していた。『細川家記』によれば、〝御局衆のはらに、宮様いか程も出来申候をおしころし、又は流し申候事、事の外むこく無念に被思召〟
つまり室にできた子は殺したり流したりしていた。そのことを天皇は無念に感じていたと。幕府のさまざまな干渉に嫌気の差した天皇は退位、和子とのあいだにできた皇女を即位させる。これが明正天皇で、「奈良時代以来、絶えて久しい女帝の誕生」(村井康彦編『洛 朝廷と幕府』)となった。
幕府が望んでいたのはあくまで徳川家の血を引く男帝の即位で、それによって徳川氏の血を延々と天皇家に注ぐつもりだったのだが、その目論見は外れてしまったわけだ。
おそろしや。