「女たちの壬申の乱」

816pjFZ3X5L_SL1500_.jpg 水谷千秋「女たちの壬申の乱」について。

女たちの壬申の乱といっても、いつぞやの戦争での「銃後の守り」というような話ではない。
たしかに壬申の乱での女性の活躍といえば、まっさきに鸕野讚良(持統天皇)のことが思い浮かぶが、里中満智子「天上の虹」の影響かもしれない。

「天上の虹」では、鸕野讚良は大海人皇子を支え、勇気づける活躍が描かれるが、蓋然性は高いと思うけれど、本書ではこの点については史料からわかる範囲にとどめている。
本書が扱う時代は「天上の虹」全23巻のうち、第6巻全体(第16章 壬申の乱①,②,③)と第7巻の1/3(第17章 近江京炎上)にあたる。


ではあるが、十市皇女や額田王などの動きについては推測も交えて、まるで推理小説のような運びに思った。
十市が壬申の乱のときに大友皇子のもとを離れることや、額田王は乱後に近江を離れることなど、その心情を推測しながら描いている。

推理小説のような運びと書いたが、だから本書は興味の惹かれるままに読んでいけるものになっている。当時の本当のところはわからないことが多いだろうけど、著者の推測には説得力があると思う。

はじめに
 
第一章 乱の経緯
動乱の近江遷都/天智天皇の崩御/大海人皇子の決断/徹夜の逃避行/不破到達/近江朝廷の狼狽/大海人と大伴氏の密約か/父と子の会話/大伴連吹負の飛鳥制圧/大和での苦戦/大伴吹負の敗戦と挽回/大和での戦いの意義/主力軍の進発/近江方の内紛/瀬田橋での最後の決戦/大友皇子の最期/大友皇子終焉の地「山前」とは/近江方重臣の処罰
 
第二章 三人の天皇―天智・天武・持統
天智天皇と信長/天武天皇と秀吉/持統天皇と家康/古代と戦国、三英傑の比較/皇極 (斉明)天皇/天智・天武兄弟の生まれた年/皇極天皇の即位/中大兄の許されない愛?/兄妹恋愛説は信じられるか/斉明天皇陵の謎/孝徳天皇と間人皇后/斉明の重祚/中大兄と仏教/鎌足の死/大友皇子の太政大臣就任/『懐風藻』の大友皇子伝/兄弟の確執/大海人と鎌足の関係/鎌足の憂慮
 
第三章 天智と大海人皇子の最後の会話
『日本書紀』の二つの記述/なぜ記述が重複するのか/「虎に翼を着けて放す」/『日本書紀』の記述への疑問/二人の会話は史実なのか?/実際の会話の内幕
 
第四章 大海人皇子をめぐる女たち
聖地・吉野への隠遁/大海人皇子の御製/時無くそ 雪は落りける/失意の大海人皇子/吉野到着/大海人皇子の妃と子女たち/吉野に随行した妃と子ども/天武に愛された忍壁皇子/持統に疎まれた忍壁皇子/なぜ持統に嫌われたのか/天智の皇后倭姫/天智の九人の后妃たちと皇子女/蘇我倉山田石川麻呂の娘、蘇我造媛/造媛は持統の母ではない
 
第五章 天智を悼む女たちの挽歌
    ―倭姫皇后と額田王
万葉歌人・額田王/あかねさす紫草野行き/額田王と中大兄・大海人の関係/宴席の座興説/人妻故に我恋ひめやも/大海人の挑発か/額田王の人物像/壬申の乱の国際的背景/大友皇子と五人の重臣/皇后倭姫の祈り/天智を悼む宮廷女性の挽歌/衣ならば 脱ぐ時もなく/人はよし 思ひやむとも/天智天皇の埋葬/額田王の天智陵を歌った歌/天智天皇陵はいつ造られたか/大津宮を逃れた女性たち/額田王の大津宮との決別/額田王の担った使命
 
第六章 大津宮の滅亡と消えた后妃たち
大海人皇子が最初に与えた作戦/矛盾する『日本書紀』の記述/計画性論争/十市皇女の内通伝承/近江方の内通・寝返り/大津宮の焼亡/大津宮は焼けなかった?/倭姫皇后の最期は/蘇我遠智娘と姪娘の消えた足どり/十市皇女の謎の急死/『日本書紀』における后妃の死亡記事/『延喜式』にみえる皇后の陵墓/『延喜式』にみえる天皇生母の陵墓/倭姫皇后・遠智娘・姪娘の最期は/夫に殉じる女性たち/大友皇子のほんとうの最期/崇福寺と近江大津宮
 
第七章 女たちの「戦後」―和解と祈りの歌
新政権の誕生/「新たに天下を平らげ、初めて即位す」/遺された女性たち/天智系皇族の行く末/吉野盟約とは/天智系皇族との和解・宥和/持統の非情/春の湖畔を旅する/柿本人麻呂の近江荒都歌/『万葉集』と持統天皇/巻第二の成立/『万葉集』と『日本書紀』/『万葉集』と壬申の乱の記憶/なぜ史実を隠したか/穂積皇子の「志賀山寺」派遣/額田王最後の歌/持統の最期
 
おわりに
おもしろいのは、「天上の虹」では遠智娘は壬申の乱の前に亡くなっているけれど、本書では、鸕野讚良らを産んだ遠智娘を、その妹の姪娘や倭姫(いずれも天智妃)とともに、壬申の乱の中で亡くなったと推定し、この三人の天智妃についてその最後について深く考察している。
 そうなると、遠智娘と姪娘の墓の所在が『延喜式』に記されていないのだけが浮かび上がる。それは先に挙げた倭姫にも当てはまる。
 この三人の天智の妃たちは、なぜ『日本書紀』や『続日本紀』にその死を伝える記載がなく、その墓の所在も『延喜式』や『日本書紀』などの史料に一切残されていないのだろうか。

 倭姫皇后・遠智娘・姪娘の最期は
 この問題を解くうえで参考になるのではないかと思われる、もうひとり墓の記載のない人物に、大友皇子がいる。第一章で述べたように大友皇子は、七月二十二日の瀬田橋の決戦で自軍が壊滅したあと、「僅かに身を免れ、逃」げた。翌日、膳所か大津宮付近の山に隠れて脱出を図っていたのだろうが、「走げて入らん所無く」、「還りて山前に隠れ」、そこで自ら縊死した。このとき付き従っていたのは「物部連麻呂」と「一、二の舎人」だけだった。大友皇子の遺体は、将軍村国連男依の手に渡り、三日後の二十六日、彼の首級が美濃の不破の本陣にいた大海人皇子のもとに届けられた。
 大海人皇子はその目で、それが甥の亡骸であるのを確認したのである。右の経緯からし大友皇子は明らかに罪人扱いであり、彼の墓が伝わっていないのもそれ故であろう。
 この点、古人大兄皇子や大津皇子、有間皇子といった反逆者の汚名を着せられた他の皇子たちも同様である。皇子であっても、罪人である彼らには墓はない。あったとしても『延喜式』諸陵寮条には記載されないのである。
 参考になるよく似た例では、謀反の罪で処刑された大津皇子の墓がある。のちにも触れるように大津皇子は父天武天皇が朱鳥元年九月九日に崩御した直後、十月二日に謀反の罪で逮捕され、翌日処刑された。年は二十四であった。彼の遺体がどう扱われたのか 『日本書紀』は一切語らぬが、『万葉集』巻第二の百六十五番の姉大伯皇女の歌の詞書にこうある。

大津皇子の屍を葛城二上山に移し葬る時、大伯皇女の哀傷して作る歌二首

うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を弟と我が見む

 皇子の亡骸は二上山の上に葬られたのだという。しかしその墓は『延喜式』諸陵寮条には掲載されず、公的な祭祀の対象ともならなかった。 あくまで反逆者として処刑されたからである。
 ここまで読んでこられた読者には、倭姫皇后と遠智娘と姪娘に墓の伝承がないのも、これと同様の事情からではないかと察しがつかれるであろう。この三人の后妃の墓の記載が『延喜式』にないのは、彼女たちが壬申の乱で最後まで近江朝廷方に属したからではないだろうか。死亡記事が『日本書紀』にないのも、彼女たちの非業の死を示唆していよう。壬申の乱直前までは彼女たちが生存していたことは、『万葉集』の天智挽歌をみれば明らかである。その後、杏として消息が途絶えるのは、やはり戦乱に巻き込まれて命を終えたことを示すものと思える。
 倭姫皇后に関しては、既に国文学者の井村哲夫氏が、

「一代の覇者天智天皇の皇后でありながら、いつ薨じたのかさえ正史に記録されていない皇后、その御陵の有無すら定かでない。空想すれば、壬申の兵火のさなか、燃え移る大津宮の梁の下に薄倖の生涯を閉じて、葬るべき一髪をもあとに留めなかったのであろうか」

 と述べている。本章の主旨はこれと近い。併せて持統・元明の母親もまたこの戦乱で命を落とした可能性のあることを指摘したいのである。

 夫に殉じる女性たち
 夫や主人を亡くした女性が自経して殉ずる例は幾多ある。先にも引用したが吉野に退居したのち、謀反の罪で襲撃された古人大兄皇子のときも、「或本」に曰くとして、
  古人大兄と子を斬る。その妃妾、自ら経死す。
 とある。古人大兄皇子とその子は罪人として斬られた。妃たちは罪を問われたわけではないが、夫のあとを追って自ら亡くなったのだった。
 蘇我入鹿らに斑鳩の邸宅を襲われた山背大兄王の時も同様だ。
  終ひに、子弟妃妾とともにひと時に自ら経して俱に死す也。
 とある。子弟、妃たちも皆、山背大兄王と共に亡くなったのだった。
 蘇我倉山田石川麻呂がやはり謀反の罪で討たれた時も、本人は、
  自経して死す。
 妻子は、
  妻子殉死する者八。
 とある。また、
  三男、一女と倶に自ら経て死せぬ。
 ともある。
 まだある。のちのことではあるが、天武の皇子の大津皇子が謀反の罪で死罪とされた時、妻の山辺皇女は後を追ってすぐ亡くなった。
  妃皇女山辺、髪を被して徒跣にして、奔り赴きて殉ず。見る者皆歎欷く。

(妃皇女山辺は、髪を振り乱し、素足のまま、駆けつけて殉死した。見た人は皆すすり泣いた)

 女性たちは捕らえられても死罪となることはないが、自ら死を選び、夫や主人に殉じているのである。これらの例からも、天智の后妃たちの多くが、近江宮の滅亡とともに、そのあとを追って自死を遂げた可能性の高いことが推測されよう。そのなかに持統の母と元明の母がいたのではないか、と考えられるのだ。これまで倭姫皇后の死については、先に触れたように一部に推定されてきたけれども、持統の母、元明の母までも、壬申の乱で命を失ったのではないかという見解が議論されたことはおそらくなかったように思う。しかしここまで見てきた根拠からすると、大海人皇子方に殺されたのではなく、自ら命を絶った蓋然性が高いように思うのである。
 彼女たちは宮に留まっていれば、やがてここを占拠した大海人軍の者に捕らわれ、命は助けられたはずだ。第一章で見たように朝廷の大臣や大納言のような高官でも流罪とはなりながらも、命を助けられているのである。敵方に殺されたのではなく、大津宮が戦火に滅んだのでもないならば、この都の滅亡に殉じて彼女たちは自ら死を選んだ可能性が最も高いのではないだろうか。

(第六章 大津宮の滅亡と消えた后妃たち)


随分長々と引用したのは、天智の三妃の最後を考えるにあたって、推論のもっともらしさを与える他の事例が興味深いからである。
大津皇子の陵墓について、謀反人として処刑された皇子には正式の埋葬はされなかったことが、『延喜式』諸陵寮条への掲載がないことから推定されている。上に引用中にも大伯皇女の有名な「うつそみの」の歌があまりにも印象的だから、私などは二上山の陵墓についてまったく疑いなど持っていなかった。

また「夫に殉じる女性たち」というのもショッキングな話である。
夫が反逆者となったとしても、その妃が罪に問われ殺されることはなかったというのに、夫のあとを追うとは。後の時代になるが、源義朝の側室であった常盤御前は平清盛の妾となり、子までなしたとされる。つまり義経の同腹の妹は平家ということになる。
後の世では「二夫にまみえず」という言葉があるが、壬申の乱頃にはそんな貞淑観念はなかったと思う。額田王がはじめ大海人皇子に、ついで中大兄皇子の妾となっても非難されたわけではないようだ。皇極天皇など高向王の妃となり、後に舒明天皇の皇后となる。皇后という最高の地位に就き、それゆえに天皇にまでなったわけだが、ここに「二夫にまみえず」というような倫理観があったとは到底思えない。

さて、本書は史料の少ないこの時代の人たち―とりわけ女性たちの心情を推量しておもしろくできているわけだが、それらの材料として、直接的歴史記録ではないが、万葉集を多く参照している。
 『万葉集』と『日本書紀』
 ひとつは『日本書紀』と異なり、『万葉集』の特に巻第一と第二には、政治を諷刺するような歌は一つも掲載されていないことである。『日本書紀』は、最後の「天武紀」と「持統紀」にこそ政治を諷する歌は無いが、「天智紀」末尾の三は、ともに天智天皇崩後の争いを諷する歌であった。その前に見える「天智紀」十年正月条の歌も、天智天皇に登用された亡命百済人を諷するような内容であり、その前の同九年五月条の歌もやはり壬申の乱の予兆のような不気味さを印象づける歌であった、これらの歌は『万葉集』にはひとつも採録されておらず、そもそも政治を諷刺するような歌は『万葉集』巻第一と第二には採用されていない、『万葉集』はそうした類の歌を明らかに避けているのである。
 ふたつめは、『万葉集』には、政治的に失脚した人、謀反の罪で殺された人々の歌が収められている点である。『日本書紀』に彼らの歌が収められていないのと対照的である。ここでは世俗の罪などは捨象され、ただ歌の質が尊重されているのだ。有間皇子や大津皇子の歌が収められているのも、おそらくこれと同じ採録方針からであろう。
有間皇子の歌も大津皇子の歌も、いわゆる「元明万葉」とされる巻第二に収録されたものであるが、「持統万葉」とされる巻第一でも、天武四年に「罪有り」として因幡に流された麻績王に関する歌が二十三番、二十四番に収められている。これらからも、「持統万葉」、「元明万葉」とも、罪人かどうかといった政治的な要素はなるべく捨象される傾向のあることが察せられる。 こうした編纂方針は、当然持統が立てたものだろう。助手的立場にあった人麻呂や額田王の勧めがあったのかもしれない。それは正史たる『日本書紀』の編纂方針とは異なるものであった。
 持統の行った事績をふりかえると、その多くは、夫天武が着手しながらも彼一代では完成できなかったことを引き継いだものが多い。飛鳥浄御原令の編纂、藤原京の造営、薬師寺の造営もそうで、いずれも天武―持統の二代にわたって完成させた。彼女は夫の果たそうとして、出来なかったことを積極的に引き継ぎ、これを見事に完成させた。
 そのなかで、例外といえるのが史書の編纂であったといわれる。天武は、「帝紀及び上古の諸事」の記定」を川島皇子を始めとする十二人に命じた(「天武紀」十年三月条)。またこれとは別に稗田阿礼に「勅語」して「帝皇日継及先代旧辞」を「誦習」させた(『古事記』序文)。前者が『日本書紀』、後者が『古事記』編纂の始まりである。しかしながらこの事業は「運移り、世異りて、未だ其事行はず」とあるように、おそらく天武の崩御によって中断した。
 これを引き継ぎ、完成させるよう取り計らったのは持統ではなく、天武崩御から二十五年ものちの和銅四年の元明天皇であった。元明の詔で太安万侶が久しぶりに事業を再開し、『古事記』を完成させたのであったが、 持統朝、文武朝にはこの事業は中断したままであった。川島皇子らに命じた「帝紀及び上古の諸事」の「記定」事業も、それが『日本書紀』として結実するのはその四十年もあとのことである。 持統朝から持統が在世中の文武朝前半ころまでは、史書編纂事業は長い停滞期に入っていたようにみえる。畢竟、持統という人は史書編纂には強い熱意を持っていなかったのではないかという見方すらある。

(第七章 女たちの「戦後」)


うかつなことに『万葉集』にそうした性格があることは今まで意識してこなかった。考えてみれば反逆者とされた有間皇子の歌や、大津皇子を偲ぶ歌が採録されていることは、公権力が編んだ歌集として実に不思議なことだ。そのことは万葉集一番歌「籠もよ み籠持ち」の作者を雄略天皇としたことの政治性を思い合わせれば一層不思議さが強くなる。

上の引用中、こうした編纂方針は持統が立てたものだろうと特に根拠の説明はなく推測しているが、持統という政治性・権力性が強い帝王の方針というのはどう考えれば良いのだろう。それに史書編纂には強い熱意はなかったとするのもそれとかさなる感じである。
本書でも、持統は、わが子草壁の、そしてその子軽皇子の即位にこだわりぬいたとされているのだが、その草壁のライバルであり持統が排除した大津皇子を偲ぶ歌を採録したのは、どういう心境なのだろう。

著者の推測の当否については判断できないけれど、歴史の読み方としておもしろいと思う。
そしてあらためて『万葉集』というのが不思議なものに思えてきた。

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