「ブッダという男」

清水俊史「ブッダという男―初期仏典を読みとく」について。

61GIhdDLmGLSL1200_.jpg 仏教というのは不思議なものだと思う。キリスト教、イスラム教とならんで、世界宗教だといわれるけれど、絶対的な神様というのはないらしい。
もちろんいろんな神様が仏典にも出てくるが、それらは創始された頃のインドの神様であって、仏教独自のものでもなければ、それらを信仰せよというわけでもないようだ。

本書にはブッダが仏教を興した当時、仏教同様にバラモン教から見れば外道である各宗についての解説がある。仏教の理屈では、仏教はそれらに比べて優れているということになるが、それらが現在にはほとんど残っていないだけかもしれない。

このブログでは、今までに仏教に関する解説書をいくつかとりあげている。なかには「ブッダは実在しない」という本もある。

本書は多くの解説書とは随分違っている。多くの解説書は、仏教は現代の倫理・道徳を先取りしているような書きぶりなのだが、本書は全くそうではなく、当時のインド社会という限界の中では、現代の倫理とは相容れないことがそのまま教えとなっているという。
つまり、ブッダは平和主義者とは言えないし、男女平等論者とも言えない、階級差別を否定したとも言えないとする。

はじめに
 
第一部 ブッダを知る方法
第1章 ブッダとは何者だったのか
「歴史のブッダ」を問い直す/「神話のブッダ」を問い直す/これからの「ブッダ」を問い直す
 
第2章 初期仏典をどう読むか
初期仏典とは何か/批判的に読むということ/先入観なく読むということ/傲慢なブッダ、謙遜するブッダ/韻文優先説と人間ブッダ
 
第二部 ブッダを疑う
第3章 ブッダは平和主義者だったのか
「善なる殺人」は肯定されるのか/暴力や戦争はどのように否定されるのか/征服を助言するブッダ/ブッダの生命観/殺人鬼アングリマーラ/父殺しの王アジャータサットゥ/解釈としての平和主義
 
第4章 ブッダは業と輪廻を否定したのか
神話を事実である「かのやうに」捉える/無我と縁起/無記と輪廻/中道と輪廻/ブッダの輪廻観
 
第5章 ブッダは階級差別を否定したのか
ブッダの近代性・合理性/平等を説く資料と、差別を容認する資料/沙門宗教という文脈/聖と俗の平等/理想と現実/アンベードカルの社会改革
 
第6章 ブッダは男女平等を主張したのか
仏教と女性差別/女性を蔑視するブッダ/女性の〝本性〟/平等の限界と現実/ブッダの男女観
 
第7章 ブッダという男をどう見るか
現代人ブッダ論/イエス研究との奇妙な類似点/「歴史のブッダ」と「神話のブッダ」
 
第三部 ブッダの先駆性
第8章 仏教誕生の思想背景
生天と解脱/バラモン教と沙門宗教/沙門宗教としての仏教
 
第9章 六師外道とブッダ
道徳否定論/唯物論/要素論/決定論/宿作因論と苦行論/懐疑論/沙門ブッダの特徴
 
第10章 ブッダの宇宙
梵天と解脱/生天と祭祀/瞑想と悟り/現象世界と解脱
 
第11章 無我の発見
個体存在の分析/バラモン教や唯物論者との違い/ブッダは「真の自己」を認めたのか/経験的自己と超越的自己/なぜブッダは自己原理の有無に沈黙したのか/ブッダの無我説
 
第12章 縁起の発見
縁起の順観と逆観/煩悩・業・苦/ジャイナ教の縁起説/ブッダの緣起説
 
終章 ブッダという男
 
参考文献 より深く学ぶために
 
あとがき
ブッダの説いた初期仏教はそうだとしても、それでもって仏教は現代では否定されるべきものという結論にはならない。
本書のあとがきに次のようにある。
 ここ一年半ほど、上田鉄也氏(元大蔵出版編集長)と、定期的に紀伊國屋書店新宿本店三階にある仏教書コーナーで待ち合わせ昼食をともにしている。本書の構想は、そのときに交わされた仏教談義が基になっている。上田氏が昨今のブッダ研究や初期仏教研究の動向について口にした、「人々から信じられてきたブッダの姿こそが、人類に大きな影響を与えてきたという点で、史的ブッダよりも重要ではないでしょうか」という言葉は、本書を貫く通奏低音になっている。いつも深い洞察を与えてくださる上田氏に格別の感謝を申し上げたい。

たしかに仏教に限らず多くの宗教は時代々々に応じて解釈しなおされてきたように思う。

それに仏教には「嘘も方便」という便利な言葉があって、相手や状況にあわせて教えをわかりやすくする、つまり本当は嘘かもしれないが、教えを納得させることがあるともいう。

本書でも、そうした「解釈のしなおし」はキリスト教にも共通することだと指摘している。
それに加えて、上の引用にあるように、人々から信じられてきたブッダの姿こそが、人類に大きな影響を与えてきたという立場で、仏教の歴史を見直している。

「真の仏教」の姿はまだまだわからないと思うのだけれど、それを求める論証には無理な点が散見されるということは再三指摘されていて、中には著名な仏教学者として知られる中村元氏の説も批判の対象となっている。そして著者のような立場を是としないという人も多いようだ。その立場の違いからくると考えられる著者への圧力があったことが「あとがき」に書かれている。
 さて、奇妙な縁から本書の出版は叶った。当事者から経緯を説明しておきたい。
 拙著『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版、二〇二一)は、馬場紀寿氏(東京大学教授)を批判する内容を含んでいたため、刊行準備中、馬場氏より版元に出版妨害がなされるなど盤外戦術が繰り広げられた。これと前後し、私も、馬場氏の恩師にあたる森祖道氏(当時、日本印度学仏教学会理事)から学会中に一対一で話がしたいと呼び出され、大学教職に就きたければ出版を諦めろと警告された。この席の途中、腹を合わせたように馬場氏が現れ、森氏と二人で私にさまざまな圧力をかけてきた。
 このような背景から、刊行に際し版元は声明文を出さざるを得ず、結果、大きな反響があった。馬場氏の指導教官だった下田正弘氏(当時、東京大学教授)から版元に電話があり、私をめぐる馬場氏の過剰行動をよくご存知であったという。
 また、ある全国紙から取材があった。当時の私は憔悴しており回復するまで待ってほしい旨、そこでまず相手側に取材していただくよう記者の方にお願いしたが、馬場氏からも森氏からもこの取材依頼に対する返答はなかったという。本件をよくご存知で中立であるはずの下田氏からも、取材依頼に対しての返答はなかったという。その頃の私は任期付きの研究職にすぎず、立場の弱い者は見殺しにされる現実に打ちひしがれ、筆を折った。
 この事情を経て、私が再び研究の活力を得るには、有縁無縁の後押しがあった。大竹晋氏(宗教評論家)により拙著への書評が発表されたことや(『週刊仏教タイムス』二〇二一年一二月九日付)、佐々木閑氏(花園大学特別教授)により馬場氏との論争が取り上げられたことは(『禅学研究』一〇〇号)、大きな刺激となった。この騒動に端を発し、私の第一作である『阿毘達磨仏教における業論の研究』(大蔵出版、二〇一七)にまで関心を持つ読者が現れたことも、大きな希望となった。私が再び筆を執ろうとしたとき、単著三冊目となる『初期仏典の解釈学――パーリ三蔵と上座部註釈家たち』の刊行を大蔵出版に快諾していただけたことは、研究者として喜びに堪えない。本書の出版もそのような縁から実現した。私を探し出して声をかけてくださった筑摩書房の田所健太郎氏には、衷心より感謝を申し上げたい。本書がそのご恩に報いていることを切に願う。

こうした圧力は、ブッダを現代の倫理・規範に合うように再解釈することを批判した結果ではないかと思うのだけれど、再解釈の歴史も含めて、本当のブッダが追究されることを望みたい。

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